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王宮の資料庫は、翌朝も昨日と何も変わっていないように見えた。
石造りの厚い壁も、書架に並ぶ革表紙の綴りも、ランプが作る影さえ、昨日と寸分違わない。
ただ一つ、書架の間をよろよろと歩いていた白髪の老人だけが、そこにはいなかった。
代わりに机の向こう側に座っているのは、細身の若い男。眼鏡を鼻の低い位置に押し下げ、綴りの目録に几帳面な文字を書き加えていたところらしい。わたくしたちが扉を開けると、男は顔を上げた。
「これはリンデンタール侯爵令嬢。……本日もお越しとは」
男は立ち上がり、丁寧に一礼した。所作の一つ一つに緩みがない。監察院でも選りすぐりの者が持つ、冷ややかな空気を纏っている。
「わたくし、後任のブルーメと申します。前任のヘルマンは、南方州へ栄転いたしました」
「まあ、急ですこと。ご高齢のヘルマン様には長旅はご負担ではないかしら……けれどご栄転、ですか」
白々しく驚きながら、ちくりと皮肉を添えておく。声の高さも、目線の位置も、昨日と一つも変えない。この若い監察官が観察しているのは、こちらの動揺の有無だ。だから何一つ反応してみせない。
「本日はいかなる御用でしょう?」
「王室侍医の名簿と、王都の土地登記録を拝見したいのですわ。王太子妃教育の残りに、王都の街区史がございますの。侍医の任期は、その復習のついでに」
わたくしは口の端を、柔らかく上げた。無垢な令嬢を装う時の微笑みを作る。
「かしこまりました。少々お時間を頂戴いたします」
「もちろん、待ちますわ」
ブルーメは奥の書架に消え、綴りを二冊抱えて戻ってきた。時間を頂戴すると前置きしておきながら、要した時間はたった四分。この男は、就任後からわずか数時間で既に王宮資料庫の目録を頭に入れているらしい。
(ずいぶんと優秀な駒を、あの方は配してこられましたこと)
わたくしは頭の中の帳面に、また一行の記録を書き加えた。
◇
侍医の名簿は、簡潔な体裁だった。名前、任期、所属、退任理由。数十年分の侍医の名が、几帳面な文字で並んでいる。
目当ての名前は、すぐに見つかった。
――ヴィルヘルム・ラウター。王室内侍医。任期、五〇二年から五一五年。退任理由、病没。
わたくしは指先で綴りの縁を軽くなぞり、そのまま淡々と頁を戻した。ミア嬢は口を挟まなかった。ただ、わたくしと綴りを交互に見比べている。
次に、土地の登記録を引き寄せた。王都の街区ごとに、土地の所有者と売買の履歴が細かく記録されている。
目当ての街区は、西大路の三番区。王宮の門から徒歩十分、王都の中でも五本の指に入る高級住宅区だ。
わたくしは指先を頁の上に走らせた。五一三年の項に、求めていた一行があった。
――西大路三番区北五号。売買。売主、ホーフマン退役騎士。買主、ヴィルヘルム・ラウター。仲介、ヴェルナー商会。
わたくしはその一行を、二度読んだ。
(十数年分の侍医の俸給だけでは絶対に、あの街区の家は買えないわ)
しかも仲介したのはヴェルナー商会。ミア嬢の実家の借金の証文を握り、侯爵家の侍女ハンナの忠誠をも買った、あの商会だ。
わたくしは綴りを閉じ、ブルーメに丁重に返した。
「ご協力に感謝いたしますわ。よい復習になりました」
「恐れ入ります」
閲覧者名簿の三行目に、わたくしとミア嬢の名が既に書き加えられているのを、目の端に留めながら。
◇
昼近くになって、わたくしたちは侯爵邸に戻った。ミア嬢は疲れた顔を隠せなくなっており、そのまま自室での休憩を勧めた。一人になったわたくしは、書斎の机に資料庫で調べた内容の書き写しを広げた。頭の中で情報を整理していると、扉が控えめに叩かれた。
「エレナ、少し良いかしら?」
入ってきたのは母シャルロッテだった。若草色の瞳がわたくしの顔をしばし見て、それから机の上に広げられた紙に目を落とした。
「昨夜は、あまりよく休めなかったようね」
「そんなことは……」
「顔色が、よろしくないわ」
母は音もなく机の脇に椅子を寄せ、腰を下ろした。机の上にはいつの間にか、湯気の立つ二つのカップの乗った盆が置かれていた。
「ブルーメとかいう若い監察官は、どうだったかしら?」
「目端の利く有能な官吏、と言われて思い描く人物そのままでしたわ。資料庫には似つかわしくありませんでしたけれど」
「二十七歳、独身。監察院のライマー監察官の直属の部下。昨夜のうちに届いた経歴はこれだけだったわ」
母はカップを一つ、わたくしの前に置いた。ハーブティーの香りが、湯気と一緒に昇ってきた。
「その顔色は、あまり進捗は捗々しくないのかしら?」
「いいえ。ただ、想定よりもずっと、重くて……」
「話してごらんなさいな」
わたくしはしばらく、机の上で指を組んで沈黙していた。母は急かすことなく、ただ隣に座ってそれを見ていた。そしてとうとう、わたくしは口を開いた。
「侍医のことを、少しだけ調べました」
「ヴィルヘルム・ラウターのことかしら?」
「お母様、ご存じでしたの?」
「あなたが資料庫で何を見たのかは、わたくしは知りませんよ」
母は、ゆっくりと微笑んだ。
「ただ、この盤面の指し手が『あの方』なら、御侍医というのを追ってみるのも良いかと思いましたの」
わたくしは母の顔を見た。母はカップを両手で包むようにして、湯気の向こうに視線を落としている。
(お母様は、お父様と同じ場所にいらっしゃるのね)
既にずいぶん深いところまで辿り着いていて、けれど口には出さない。「侍医」という一言をわたくし自身の口から出させるために、何気なくハーブティーのカップを置いたのだ。
「あなたがどこまで辿ったか、教えてもらえるかしら?」
「五一三年、西大路三番区に屋敷を購入。仲介は、ヴェルナー商会」
「まあ」
「五一五年、病没。娘さんがいらっしゃるようですけれど、資料庫ではそれ以上のことは」
「では、そこは母が引き受けましょう」
母は音もなく立ち上がった。
「調査を少し急がせるわ。……数日、頂戴ね」
「お願いいたします」
母は扉に手を掛けたところで、後ろ手にわたくしへ向けて、手のひらをひらひらと振って見せた。「今日はもう休みなさい」の合図だった。わたくしは深く息をつき、机の上に広げられた書類を揃えた。
◇
その日から数日、わたくしは書斎に籠って、頭の中の帳面を整理していた。手元にある情報は多いのに、盤面の中心だけが、まだ欠けている。
その間、ミア嬢は侯爵邸の庭をぼんやりと歩き回ったり、四阿で刺繍をしたりして過ごしていた。書斎に来て隣に座り、わたくしが差し出す紙束を黙々と分類してくれる日もあれば、一日中、顔を見せない日もあった。責める気にはならなかった。彼女はまだ、資料庫で見たものと折り合いをつけている最中だ。
一度だけ、庭の四阿にお茶を運ばせて、ミア嬢と二人でただ座って過ごした午後があった。
話すべきことは何もなかった。ミア嬢は卓の下で守り袋をずっと握っていて、わたくしは指先でショールの端を擦っていた。木の枝が揺れる音と、遠くで庭師が鋏を使う音だけが、そこにあった。
「エレナ様」
「何かしら」
「わたし、お母様に手紙を書きたいんです。ただ、元気です、って。それだけでいいんです」
「お書きなさいな」
「……でも、今は書けないかもしれなくて」
「ミア様が書けるときに、書けばいいの」
ミア嬢は小さく頷いて、また守り袋に目を落とした。
わたくしは茶器に目を落とした。ミア嬢が「お母様」と呼ぶ人を、彼女自身が今どんな顔で思い浮かべているのか、わたくしには分からない。
けれど、ミア嬢にとっての「お母様」は今もこれからも、男爵夫人マルタ様以外にいない。それだけは、この半刻の間に確かになった。




