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わたくしはランプをさらに近づけ、二つの綴りの該当の頁を並べて、指先で紙の表面をそっと撫でた。
(この違和感……)
王家の記録には、若い水牛の革から作られた羊皮紙が用いられる。厚みは均一で、表面にわずかな艶がある。指先で撫でれば、繊維の方向が一定に揃っているのが分かる。
けれど二つの記録の一箇所だけ、繊維が微妙に毛羽立っている。
(これ、削った痕よね?)
わたくしはランプをさらに寄せて目を凝らした。両方の記録の、生まれた赤子の性別の記述。その箇所の羊皮紙の表面が極めて薄く削られ、その上に新しいインクで書き直されている。
通常の書き損じなら、朱で消し線を引き、続けて、あるいは余白に正しい内容を書き込む。見た目は悪いが、あえて訂正したことを記録に残し、改竄と区別するためだ。けれどこの記録は、羊皮紙そのものの表面を刃で薄く剥いでいる。痕跡を極限まで隠そうとした、非常に丁寧な細工だ。
(……ずいぶんと手の込んだお仕事だこと)
修正部分だけ、インクの色もわずかに違う。そこだけ他の記述とは別の時、おそらくずっと後に書かれている。時間の経過で紙へのインクの沈み方は変わる。周囲の文字は均一に馴染んでいるが、修正部の文字は、沈み方がほんの少し浅い。
時刻欄にも、同じ痕跡があった。
王妃アマーリエ陛下の御出産時刻:亥の刻。しかしその「亥」の下には、よく見ると数本の毛羽立ちがある。もとは、別の刻限が書かれていたはずだ。
ゾンマーフェルト男爵夫人の御出産時刻:戌の刻。こちらにも、同じ修正痕がある。
(時刻も動かしたのね。周到なこと)
どちらが先に生まれたか。それが記録に残っていれば、後から証言を突き合わせたときに、瞳の色や顔立ちの記憶で矛盾が出るかもしれない。だから時刻をずらして、少しでも突き合わせを難しくした。
特に問題なのは、性別欄のほうだ。
修正の下に隠された、元の一文字を読み解いてみせる。
わたくしは羊皮紙をランプの光にかざし、紙に触れずに目だけをぎりぎりまで近づけた。表面のわずかな凹凸に、逆光が細い影を作った。
王妃アマーリエ陛下の記録――「女児」と一度書かれた上に、「男児」と重ねられている。
ゾンマーフェルト男爵夫人の記録――「男児」と一度書かれた上に、「女児」と重ねられている。
わたくしは、羊皮紙からゆっくりと目を離した。
目を離したあと、ずいぶん長い時間、瞬きを忘れていたと思う。
わたくしが我に返っても、ミア嬢は記録を覗き込んだまま動かなかった。
彼女の頬から、血の気がどんどん失われていくのがわかった。息をする音さえ、聞こえない。
「ミア様」
わたくしはできるだけ静かに、彼女の名を呼んだ。
「あなたのお誕生日は、いつでしたかしら」
「……十月」
ミア嬢の声は、掠れていた。
「――十月十一日、です」
わたくしは頷いた。頷いた自分の首の動きが、妙にゆっくりに感じられた。
◇
資料庫を出て地下から地上へ戻る石段を上る間、ミア嬢は一言も口を利かなかった。わたくしも、口を開く隙を与えなかった。この石段には、ところどころに衛兵が立っているから。
馬車の中でも、わたくしたちは沈黙を守った。
侯爵邸に戻り、書斎の扉を閉めてようやく、ミア嬢が椅子に崩れるように腰を下ろした。
「エレナ様……」
「まだ、確定ではありませんわ」
「でも」
「まだ、と申し上げましたの」
わたくしは自分の声が普段より硬いことに気づいたが、取り繕うことはしなかった。
(考えなければならないことが、一気に増えたわ)
わたくしは指先でショールの端を擦った。頭の中の帳面に、いくつもの情報が書き込まれていく。十八年前の出産に立ち会った侍医の名前、男爵家の借財、脅迫状の紋章印、そして――「あの方」。
その時、書斎の扉が叩かれた。
「お嬢様」
入って来たのは、父付きの侍従だった。銀盆に、細く畳まれた書状を一通載せている。
「たった今、王宮より届いたものでございます。お嬢様にも、お目通しをと」
わたくしは書状を受け取り、開いた。差出人は、王宮の人事担当官となっている。
『資料庫担当官ヘルマン・ラウフ、明日付にて南方州立文書庫へ異動を命じる。後任は、監察院より出向とする』
署名の日付は、今日。
わたくしがミア嬢と共に記録を検めた、その同じ日である。
(……ああ)
わたくしは書状を元のように折り畳んで、銀盆に返した。
「お嬢様?」
「大丈夫よ。確かに拝見しました、とお父様にはお伝えして」
侍従は一礼して、退がっていった。
わたくしはランプの灯りから離れるように、椅子の背に身体を預けた。ミア嬢が、こちらを窺うようにわたくしの顔を見ている。
「……あの、何があったのですか?」
「今日お会いした資料庫の老人の首が、挿げ替えられましたわ」
わたくしは短く言った。ミア嬢が、ひゅっと息を呑んだのが分かった。
「わたくしたちがあの記録を見たことを、探られてしまったようですわね」
「では、あの記録は、もう」
「同じものは、もう見られませんわね。記録を修正した痕は、きっと今夜のうちに後任の者が『きれいに』してしまうでしょう」
何も起きていないし、何も告げられていない。ただ盤面だけが、わたくしのものではない誰かの手によって、静かに動いていく。
(……敵の格ばかりが分かる夜ですこと)
◇
窓の外は、既に薄墨色に暮れかけている。
わたくしはミア嬢の隣に、そっと座った。彼女は先ほどから小刻みに震えている。恐怖ではなく、あまりに膨大で重い情報を一度に受け取ってしまった、頭と身体の悲鳴だろう。それはわたくしにも覚えのある震え方だった。
(わたくしも嘘だと叫びたい気分よ。だって、それでは――)
浮かびかけた言葉を、わたくしは思考の隅へ押しやった。
王家の血脈。王太子殿下の出自。
そんな国家の根幹を、あの資料庫の羊皮紙の小さな毛羽立ちが、ひっくり返そうとしている。
わたくしは指先でショールを擦り、頭の中の帳面に頁を一枚だけ加えた。まだ書き込むのは早い。名前も、数字も、伏せておく。ただ、頁だけを用意しておく。
「ミア様」
「……はい」
「明日もう一度、あの資料庫へまいりましょう」
ミア嬢の琥珀色の瞳が、驚いてこちらを見上げた。
「ですから今日見たものは」
わたくしは彼女の目をまっすぐに見返した。
「――全部、忘れなさい」
ミア嬢は長く息を吸い、それからゆっくり吐いた。
「……忘れられるわけ、ないじゃないですか」
その通りだった。
反論も、慰めも、何もできなかった。
書斎のランプの炎が、少しだけ揺れた。




