狂犬と、冷たい契約
老夫婦を埋葬し、血に染まった村を後にした俺は、鬼の勢力域と接する境界都市『黒金』へと向かった。
人間が家畜として飼育されるこの暗黒時代にあって、その街は異様だった。
鬼の気まぐれな支配下で、生き地獄のモルモットとして集められた人間たちが、明日殺される恐怖に怯えながら蠢いている。
俺の目的はひとつ。
この過酷な戦場で、俺の『K.I.B.I.プロトコル』を叩き込むに相応しい第一のピース──絶対的な突破力を持つ前衛の確保だ。
「死ねッ! 鬼の犬どもがぁぁぁッ!!」
街の路地裏から、肉が裂ける不快な音と狂気的な叫びが響く。
雨の降る薄暗い路地。
そこに転がっていたのは、数体の大型妖怪『餓狼』の首なし死体だった。
そしてその中心に立つ、ひとりの女。
返り血で全身を朱に染め、肩で荒い息をつくその姿。
鬼殺しの名門一族の生き残り──犬塚 狗牙。
片目を黒い眼帯で覆い、手にした二振りの太刀からは、ポタリ、ポタリと黒い血が滴り落ちている。
「ハァ……ハァ……! まだだ……まだ足りねぇ……! 鬼を……一匹残らず……噛み殺すまでは……!」
彼女の瞳にあったのは、正気ではない。
家族を眼前で惨殺され、誇りも未来も奪われた末に辿り着いた、絶対的な【復讐への執着】。
敵の血を浴びなければ己の存在を維持できない、壊れた『狂犬』そのものだった。
「ターゲット捕捉。識別コード:I.N.U.(Impulse Neural-Unleashed)──犬塚 狗牙」
俺は足音を殺し、雨の中にたたずむ彼女の視界へゆっくりと姿を現した。
「──誰だ」
瞬時に狗牙の二刀が交叉し、死角のない殺気が俺の喉元へ向けられる。
野生の直感。圧倒的な反応速度。
やはり、俺の計算に狂いはない。
「通りすがりだ。お前が探している『鬼王』の首の取り方を教えに来た」
「……あぁ?」
狗牙は眼帯の奥の片目をギラつかせ、冷ややかな蔑みの笑みを浮かべた。
「ハッ、狂ったか小僧。鬼王だと? 奴の領域に近づく前に、雑魚鬼の群れに食い散らかされるのがオチだ。命が惜しけりゃ、消えな。今のあたしは、目につく人間でも斬り捨てかねん」
「貴様の刃では、鬼王の鱗一枚すら傷つけられない」
俺は淡々と事実を告げた。前世の戦術分析に基づいた、冷徹な評価だ。
「貴様の発動する剣技、間合いの詰め方、筋肉の収縮速度。人間としては一流だが、上位の鬼が持つ【概念防御】と再生能力の前には、単なる無駄死にだ。復讐を遂げる前に、貴様は犬死にする」
「……てめぇ、死にたいようだな」
ブワッと、彼女の全身から殺気が膨れ上がる。
一瞬。
踏み込みの予備動作すら見せず、狗牙の身体が雨を切り裂いて肉薄した。
左の太刀が俺の首を狩り、右の太刀が退路を断つ二段連続斬り。
──速い。だが。
網膜の緋色UIが、彼女の軌道をリアルタイムで演算する。
前世のCQC(近接格闘術)。
俺は最小限の体さばきで首筋の太刀をかわし、踏み込んできた彼女の右手首を鋭く打ち払った。
支柱を失った太刀が宙を舞う。
「なっ……!?」
驚愕で目を見開く狗牙。
俺はその隙を見逃さず、彼女の懐へ踏み込み、左手に握った『生体量子セル』──銀色に蠢く高濃度のナノマシン薬を、彼女の喉元へ突きつけた。
「ガッ……!?」
指先で顎を押し上げ、半ば強引にそれを口内へ押し込む。
飲み込まざるを得ない嚥下反射。
「ゲホッ……! な、なにを飲ませやがった……毒か!?」
後退し、喉を押さえて血走った目で俺を睨みつける狗牙。
「毒ではない。お前が望む『鬼王の首』を叩き斬るための、死の契約だ」
俺は自分の手の平を小太刀で切り裂き、血を垂らした。
【K.I.B.I. Protocol: Phase 1 Link Test.】
【Target: I.N.U. (Kuga Inuzuka). Neural Sync Rate: 12%... 45%... 80%...】
「くッ……!? なんだ……頭の中に、何かが……!?」
狗牙が頭を抱えて膝をつく。
彼女の脳内に、俺の『視界』と『意識』、そして前世の冷徹な戦術データが一瞬だけ直接流れ込んだ。
声を出さずとも伝わる、俺の思考。
相手の急所、筋肉の弛緩、数秒先の未来の予測──。
「これが……お前の、目……? なんだこの、頭がおかしくなりそうな完璧な視界は……!」
「【K.I.B.I.プロトコル(吉備連魂の儀)】。古代テクノロジーによる生体データリンクだ」
俺は膝をつく狗牙を見下ろし、冷たく言い放った。
「このセルを完全に起動させれば、お前の運動能力と反射神経は極限まで跳ね上がる。俺の戦術演算と同期し、鬼の急所を確実に一撃で粉砕できる力を得る」
狗牙は息を呑み、己の震える両手を見つめた。
先ほどまでとは比べものにならない、全身に充ち満ちる圧倒的な力と、脳内に展開されるクリアな戦術感覚。
だが、俺は甘い言葉などかけない。
「ただし──代償がある」
雨の中、俺の声だけが静かに響く。
「このプロトコルは、人間の細胞と魂を不可逆的にオーバークロックする。ミッション完了……鬼王を倒した瞬間、ナノマシンが自己崩壊を起こし、お前の身体も、魂も、量子レベルで跡形もなく消滅する」
「……消滅、だと?」
「そうだ。帰らぬ旅だ。生き残るハッピーエンドなどハナから存在しない。お前が手に入れるのは『確実な復讐』と『絶対の死』だけだ」
狗牙は沈黙した。
雨が二人の間を叩きつける。
普通のアニマなら、狂気だと叫んで逃げ出す条件。
だが──俺は知っている。この女の眼帯の奥に燃える炎の性質を。
やがて、狗牙の唇が歪んだ。
それは、絶望を通り越した、狂暴で晴れやかな笑みだった。
「……ハハッ、最高じゃねぇか」
彼女は落ちていた太刀を拾い上げ、豪快に血を払い、鞘に納めた。
「生き残る気なんて、最初から一微塵もねぇんだよ。あのクソ鬼どもを道連れに地獄へ堕ちれるなら……魂が弾け飛ぼうが、知ったこっちゃねぇ!」
狗牙は真っ直ぐに俺の目を見据えた。
そこにあったのは、従属の屈服ではない。
死を前提とした『契約』だ。
「いいぜ、小僧……いや、隊長。あんたのその冷たい頭脳にあたしの命ごと投資してやる。……あたしを、鬼王の喉元へ連れていけ」
【Target I.N.U. (Kuga Inuzuka): Sync Agreement Completed.】
【Party Member 1/3: Secured.】
「契約完了。行くぞ、狗牙」
俺は静かに頷いた。
「次は『仲間を売った忍び』……識別コード:S.A.R.U.、猿渡 申ノ介を拾いに行く」
雨の『黒金』を、二つの影が駆け抜けていく。




