第97話 魂帳局の封緘印
朝の光は、セドリック・バロウズの研究室の窓辺で薄く滲んでいた。
夜の名残は、まだ部屋の中に残っている。
仮眠台のそばに置かれた水差し。喉の治癒に使った銀糸。魔力回路を整えるための黒い制御陣。焦げた紙の匂いを消す浄化符。床に走った赤い糸の残光。机の上には、封印庫の記憶を映した水晶と、昨夜の観測記録が積まれている。
ノア・クロウは、仮眠台の上で半身を起こしていた。
身体が重い。
指一本動かすにも、鉛をつけられているようだった。喉は焼けついたように痛み、声を出すたびに内側が裂ける気がする。伴侶首輪の熱は昨夜ほどではないが、黒い亀裂の奥にまだ残っていた。
重度反応の後の朝は、いつも身体が自分のものではない。
それでも、意識は戻っている。
名前も分かる。
ノア・クロウ。
その名を内側で確認すると、赤い糸が隣でかすかに震えた。
レオ・アステルレインは、仮眠台のそばに座っていた。
眠っていない顔だった。青い瞳の下に薄い影が落ちている。それでも姿勢は崩れず、片手には水杯を持ち、もう片方の手には喉を癒すための白金の光を薄く灯している。
過保護の権化である。
しかも今日は、怒りが混ざっている。
静かな怒り。
きれいに磨いた刃を布の下へ隠しているような怒りだった。
ノアは、かすれた声で言った。
「……朝から証拠品扱い」
レオが水杯を差し出す。
「飲んで」
「否定してくれてもいいんだけど」
「証拠も君も大事」
「並べるな。証拠と俺を同じ棚に置くな」
「同じ棚には置かない」
「置き場所の問題じゃない」
水はぬるかった。
喉を通ると痛みが走る。ノアは一瞬だけ顔をしかめたが、飲み込んだ。昨夜の黒い文字の灰が、まだ喉の奥に貼りついているような気がした。
燃える封印庫。
黒魔導書。
振り返りかけた影。
黒く燃えた記憶。
そして、焼け落ちる直前に掴んだ灰色の印。
ノアは左の掌を見た。
そこに、灰色の帳簿印が残っている。
皮膚の上に描かれているのではない。
火傷の痕でもない。
もっと奥だ。魂の表面から浮き上がり、掌の肉を透かして見えている。灰色の四角い枠。その中に、帳簿を模した細い線。さらに中央には、封をするような小さな印章。
掌は熱を持っていた。
痛みは鋭くない。
だが、ずっと内側から炙られているような不快な熱がある。握ると、魂糸が小さく軋んだ。
ノアは顔をしかめた。
「証拠品の保管状態、悪くない?」
セドリックが机の向こうから歩いてきた。
彼もまた、眠っていない顔をしている。昨夜、夢の中の封印庫が黒く燃えた直後から、ノアとレオの状態を監視し続けていた。教師という職業は、いつから生徒の魂の火災現場へ立ち会う仕事になったのか。職務規定が泣いている。
セドリックはノアの掌を見下ろした。
「動かすな」
「動かしてないです」
「軽口を叩く余裕があるなら、手を開けていろ」
「軽口と手の開閉に因果関係あります?」
「ある。お前は軽口を叩くと余計な動きをする」
「信用がない」
「昨夜、燃える記憶に手を突っ込んだ奴が言うな」
ノアは黙った。
反論できないのが悔しい。
セドリックは黒魔法の薄い膜を張り、ノアの掌に浮かぶ灰色の印へ近づけた。直接触れない。魔法の膜が印の周囲で細かく震える。
その瞬間、ノアの魂糸が反応した。
胸の奥がわずかに引かれる。
首輪が熱を持つ。
レオの赤い糸が、即座に攻撃的なほど鋭く震えた。
ノアは横目で睨む。
「レオ。糸」
「……抑えている」
「今のは抑えてる糸じゃない。殴る三秒前の糸」
「この印が君を痛がらせた」
「痛いのは事実だけど、糸で威嚇するな。研究室が狭くなる」
レオは唇を引き結んだ。
赤い糸の震えが少しだけ落ちる。
少しだけ。
完全には収まらない。
セドリックが短く言った。
「魂帳局の封緘印だ」
部屋の空気が、ひとつ重くなった。
ノアは掌を見た。
「封緘印」
「ああ。魂記録を封じる時に使う印だ。通常の書類封印ではない。魂名、転生記録、死者記録、前世記憶の一部を、閲覧不能または改変不能にするための管理印だ」
ノアは、少しだけ息を止めた。
喉が痛む。
けれど、聞かないわけにはいかない。
「俺の記憶、役所に封印されてたってこと?」
セドリックはすぐには答えなかった。
その沈黙が嫌だった。
「少なくとも、誰かがそう見せかけている」
ノアは目を細める。
「見せかけ?」
「この印は魂帳局形式だ。だが、正規の封緘印かどうかはまだ断定できない。魂帳局内部の印か、魂帳局形式を使える何者かが模倣したものか、その判断が必要だ」
「また偽造書類の可能性」
「魂に押された偽造印など、あまり考えたくはないがな」
「俺も考えたくないです」
レオが、低く言った。
「魂帳局に行く」
ノアは即座にレオを見た。
「即行動やめろ。殴り込みの顔してる」
レオの顔は、実際かなり殴り込みの顔だった。
いつもの穏やかな美貌が、静かに凍っている。怒鳴らない。取り乱さない。だからこそ怖い。正面玄関から礼儀正しく入り、受付で名乗った後に建物ごと浄化しそうな顔である。迷惑極まりない。役所側にも少し同情する。少しだけ。
レオは、ノアの掌を見た。
「君の記憶を封じた」
「まだ決まってない。あと、記憶の所有権で一番怒るのは俺だ」
レオの青い瞳が揺れる。
ノアは、かすれた声のまま続けた。
「俺の記憶だ。前世の記憶でも、黒魔導書の記憶でも、封印庫の記憶でも、俺の中に残ってるものだ。勝手に封じたやつがいるなら、まず怒るのは俺」
掌の封緘印が、わずかに熱を増した。
魂糸が反応する。
レオの赤い糸も、また鋭く震えた。
ノアはその震えを感じながら、レオを見る。
「お前が怒るなとは言わない。でも、俺の怒りまで横取りするな」
レオは黙った。
言葉が刺さった顔だった。
ノアは少しだけ息を吐く。
「それに、まだ分かってない。魂帳局そのものがやったのか、オルドレイス代理が魂帳局の形式を使ったのか、白花派とどう繋がってるのか。殴り込むには情報が足りない」
「情報が足りなくても、行ける」
「行けるじゃない。行くな」
「君の記憶に触れた組織を放置したくない」
「それは分かる。俺も放置したくない。でも、今ここで突っ込んだら、向こうの窓口で番号札引かされて終わりだぞ」
セドリックが低く補足する。
「実際、魂帳局は現在も正式な出入り口が不明だ。学院や教会のように建物へ行けば済む機関ではない。古い転生記録網、夢記録層、死者名簿、魂名保管庫にまたがる半実体組織だ。感情で向かえば、逆に記録される」
ノアは眉を上げた。
「先生、さらっと嫌なこと言いましたね」
「嫌なことしか分かっていない」
「もっと嫌」
レオは拳を握る。
白金の魔力が指の隙間で薄く光った。
ノアの首輪が、それに呼応するように熱を持つ。レオの怒りに、伴侶首輪が反応している。怒りそのものがノアの魂糸へ触れかけているのだ。
ノアは低く言った。
「レオ。怒りをこっちに流すな」
レオがはっとする。
白金の光が引いた。
「ごめん」
「謝るなら、座れ」
「座る?」
「立ってると突撃しそう」
レオは一瞬ためらった。
それから、ノアの仮眠台の横にある椅子へ座った。
素直だ。
素直なのに危ない。
たぶん立っていたら、本当に魂帳局へ行く方法を探しに動いていた。行動力がありすぎる人間は困る。特に怒っている美形は困る。世界が巻き添えになる。
セドリックは解析を続けながら言った。
「この封緘印が重要なのは、前世の封印庫の記憶に、魂帳局によって封じられた何かが存在する可能性を示す点だ」
ノアは掌を見る。
「何か」
「黒魔導書へ手を伸ばした瞬間の記録。封印庫にいた第三者の記録。あるいは、同盟儀式前後の真相。どれかはまだ分からない」
レオの赤い糸がまた震える。
「同盟儀式」
声が低かった。
ノアも黙った。
前世の同盟式典。
父王が殺された場所。
世界が決定的に壊れた日。
イリアスが黒魔導書へ近づくきっかけとなった日。
そして、セラフィードとイリアスの運命が戻れなくなった日。
ノアの掌の封緘印が、冷たく光る。
熱いのに冷たい。
矛盾した感覚だった。
セドリックは言う。
「オルドレイス代理が魂帳局形式を使える理由も、この辺りにあるだろう。魂帳局の正規権限を持っているのか、過去に封緘印を奪ったのか、記録網そのものに寄生しているのか。可能性は複数ある」
ノアは、かすれた声で笑った。
「嫌な可能性バイキング」
「選び放題だ」
「食欲なくす」
レオがノアの声を聞いて、すぐに顔を向ける。
「喉、痛む?」
「痛む」
「癒していい?」
「喉だけ」
「掌は?」
「冷やすだけなら許可。封緘印に直接触るな」
「分かった」
レオは、まずノアの喉へ手を近づけた。
白金の治癒魔法が薄く広がる。昨夜裂けかけた声の通り道を、慎重に整える。ノアの喉はまだ熱を持っていて、声を出すたびに傷が開きそうだった。
レオの手つきは丁寧だった。
丁寧すぎるほど丁寧だった。
怒りを抱えているのに、触れる手だけは震えないよう必死に抑えている。
ノアは、目を閉じた。
「……九点」
「下がっていない?」
「殴り込み顔したから減点しかけた」
「今は?」
「座ったから戻した」
「難しい」
「簡単にしたらお前すぐ暴走するだろ」
「するかもしれない」
「自覚があるなら止まれ」
「止まっている」
「よろしい」
喉の痛みが少しだけ和らぐ。
次に、レオはノアの掌へ冷却の魔法をかけた。封緘印そのものには触れない。掌の周囲の熱だけを取る。灰色の印が、一瞬だけ光り、また沈んだ。
ノアは眉をひそめる。
「変な感じ」
「痛い?」
「痛いっていうより、勝手に封筒に入れられてる感じ」
「封筒?」
「俺の記憶に封して、誰かが棚にしまったみたいな」
レオの目が冷える。
「許せない」
「俺もだよ」
ノアは低く言った。
軽口ではなかった。
「俺の記憶だ。前世の俺が何を見たのか、何を選んだのか、誰に背中を押されたのか。それを勝手に封じたやつがいるなら、俺が開ける」
レオは息を詰めた。
「一人で?」
「一人でとは言ってない」
レオの赤い糸が、かすかに震えた。
ノアは視線を逸らす。
「でも、お前が先に怒って突撃するのは違う。俺が怒る。俺が聞く。俺が開ける」
レオは、ゆっくり頷いた。
「隣にいる」
「それは許可」
「抱え込まない」
「それも許可」
「でも、君が倒れたら支える」
「それもまあ、許可」
「君が危なかったら止める」
「条件付きで許可」
「条件」
「俺の声を聞け。止める前に呼べ」
レオは、真剣に頷いた。
「ノア・クロウ」
「今呼べとは言ってない」
「確認」
「便利確認やめろ」
セドリックが、解析紙を机に広げた。
「二人で漫才をする余裕があるなら、次の話だ」
「漫才ではないです」
「似たようなものだ」
「先生まで雑」
セドリックは封緘印の写しを紙へ転写した。
灰色の帳簿印が、紙の上に薄く浮かぶ。通常のインクではない。ノアの掌にある印の表層だけを、黒魔法で写し取ったものだった。
印は、四層に分かれていた。
外枠。
帳簿線。
封印章。
そして、中心の小さな文字列。
セドリックは目を細める。
「内側に記録文がある」
ノアの背筋が、わずかに緊張した。
レオの赤い糸も、静かに張る。
「読めるんですか」
「古い魂帳局式だが、読める」
セドリックは、慎重に魔力を通した。
紙の上で、灰色の印が淡く光る。
中心に隠れていた文字列が、少しずつ浮かび上がった。
ノアは息を止めた。
レオも、動かなかった。
セドリックが低く読み上げる。
「同盟儀式記録、封鎖」
その言葉が、研究室の空気を凍らせた。
ノアとレオは、同時に息を止めた。




