第98話 同盟儀式記録、封鎖
研究室の空気が、凍った。
セドリック・バロウズの机の上で、灰色の封緘印が薄く光っている。ノア・クロウの掌から写し取られた、魂帳局形式の封緘印。その内側に隠されていた短い記録文が、黒魔法の線に炙り出されるように浮かび上がっていた。
同盟儀式記録、封鎖。
たったそれだけの文字だった。
長い説明もない。
日付もない。
担当者名もない。
理由もない。
ただ、封鎖。
その二文字が、やけに重かった。
ノアは仮眠台に腰掛けたまま、しばらく動けなかった。掌には、まだ灰色の帳簿印が残っている。昨夜、黒く燃える封印庫の記憶の中から掴み取ったものだ。魂の表面に貼りついた証拠。燃やされかけた記憶の中で、どうにか持ち帰った灰色の欠片。
それが示した先が、同盟儀式だった。
前世で、すべてが壊れた日。
イリアス・ノクスヴェルトの父王が殺された日。
セラフィード・ルミナリアが「僕じゃない」と叫び続け、それでもイリアスに届かなかった日。
憎しみが黒魔導書へ向かう道を作った、最初の亀裂。
その記録が、封鎖されている。
ノアの喉が詰まった。
首元の伴侶首輪が、じわりと熱を持つ。黒い亀裂の奥で、照合率二パーセントの数字が不安定に揺れた。二の輪郭が一瞬だけ黒く滲み、別の形へ歪みかける。
魂糸が、前世へ引かれる。
遠い広間。
同盟の旗。
血の匂い。
叫び声。
白い礼装。
倒れた父王。
レオ・アステルレインの赤い糸が、すぐに震えた。
「ノア・クロウ」
その声で、歪みかけた数字が止まる。
二のまま沈む。
進まない。
ノアは、ゆっくり息を吐いた。
喉が痛い。
昨夜の重度反応の残りで、声はまだ掠れていた。黒い文字の灰が喉の奥に残っているような感覚も消えない。だが、それ以上に、胸の奥が重かった。
ノアは、紙の上の文字を見た。
「そこを封じるのかよ」
笑えなかった。
軽口にするつもりだった。
いつものように、嫌な書類だの、役所仕事だの、魂の管理が雑だのと茶化してやるつもりだった。
けれど、声は低く落ちただけだった。
レオが、すぐに名を呼ぶ。
「ノア」
ノアは、首を横に振った。
「分かってる。今、ちょっと笑えない」
レオは黙った。
黙るしかなかった。
セドリックも、すぐには言葉を重ねなかった。
研究室の水晶は、昨夜の黒い封印庫の余波をまだ薄く映している。黒く焼けた文字の残滓。灰色の帳簿印。白い花の紋。黒いローブの影。そこから引きずり出された封緘印の内部に、この一文があった。
同盟儀式記録、封鎖。
セドリックは、低く言った。
「魂帳局式の封緘印だ。内部記録も、古い魂帳局書式に一致している」
ノアは顔を上げる。
「魂帳局が封じた?」
「形式上はそう読める」
「形式上」
「前にも言った通り、魂帳局そのものが封じたのか、魂帳局形式を扱える何者かが封じたのかは、まだ確定できない。ただし、この封緘印は偽物にしては精度が高すぎる」
「つまり?」
「魂帳局の正規権限、またはそれに極めて近い権限が使われている」
ノアは、掌を見下ろした。
灰色の封緘印は、淡く熱を持っている。
それはまるで、見てはいけない書類に押された封蝋のようだった。魂の中に保存された記憶へ、誰かが勝手に「封鎖」と印を押した。本人の許可など、当然のように取っていない。
ノアは、掠れた声で笑った。
笑いにはならなかった。
「俺の人生、前世から書類にされすぎだろ」
「人生ではなく魂記録だ」
「もっと嫌な訂正ありがとうございます」
セドリックは、表情を緩めなかった。
「問題は、同盟儀式の記録が封鎖されていることだ。前世の父王殺害事件には、後世の英雄教会、魂帳局、あるいはその双方が隠したい何かがある可能性が高い」
レオの赤い糸が、鋭く震えた。
ノアの首輪が、それに呼応して熱を持つ。
ノアは、レオを見ずに言った。
「怒りを流すな」
レオの呼吸が止まる。
「ごめん」
「謝るなら座ってろ。立ったらどっか行きそう」
「行きたい」
「言うな」
「……分かった」
レオは椅子に座ったままだった。
だが、青い瞳は冷えている。
魂帳局への敵意。
同盟儀式の真実を掘り返したい衝動。
前世で証明できなかった無実への怒り。
それらが、綺麗な顔の奥でひどく静かに燃えていた。
ノアは、それを見たくなかった。
いや、見えてしまった。
レオの中にも、同盟儀式は刺さっている。
前世のセラフィードは、何度も言った。
僕じゃない。
僕は殺していない。
違う。
信じて。
だが、イリアスには届かなかった。
父王を殺された直後のイリアスに、届くはずもなかった。
その記憶が、封鎖されている。
もし、記録があったなら。
もし、証拠が残っていたなら。
もし、誰かが故意にそれを封じていなければ。
レオが、低く言った。
「あの時、証拠があれば」
「言うな」
ノアの声が鋭く落ちた。
レオが息を止める。
それでも、言いかける。
「でも」
「今それを言ったら、俺が戻れなくなる」
研究室が、静まり返った。
ノアの声は掠れていた。
だが、低く、ぎりぎりのところで踏みとどまっていた。
戻れなくなる。
前世へ。
あの日へ。
父王が倒れた広間へ。
セラフィードの「僕じゃない」という声を、憎しみで聞き捨てた瞬間へ。
もし証拠があれば。
もし真犯人が分かっていれば。
もし同盟儀式の記録が封鎖されていなければ。
その言葉は、ノアを救わない。
今は救わない。
ただ、イリアスの怒りを呼び起こす。
あの時、間違えなくて済んだかもしれない。
黒魔導書へ手を伸ばさなくて済んだかもしれない。
世界を壊さなくて済んだかもしれない。
セラフィードに殺されなくて済んだかもしれない。
そう思った瞬間、ノア・クロウの足元が崩れる。
レオは、言葉を飲み込んだ。
青い瞳が苦しげに揺れる。
怒りも後悔も、喉の奥へ押し込める。
赤い糸はまだ震えている。
だが、ノアへ流れ込まないように、レオは必死に抑えていた。
ノアは、かすかに息を吐いた。
「……悪い」
レオは首を振る。
「僕が悪い」
「そういうのも今いらない」
「分かった」
セドリックが、二人の間へ言葉を置いた。
「今の段階で、同盟儀式の真相へ直接踏み込むのは危険だ」
ノアは視線だけを向ける。
「今じゃなきゃ、いつですか」
「少なくとも、お前の魂糸と首輪が安定してからだ。昨夜、重度反応を起こしたばかりだぞ」
「それはまあ」
「同盟儀式は、記憶の棺の最深部へ近い。そこへ無理に触れれば、前世人格の現実感が一気に上がる。お前がノア・クロウとして現在へ戻る力が弱まる」
ノアは黙った。
反論できない。
さっき、ほんの短い文字を見ただけで、戻れなくなると自分で言った。
同盟儀式。
そこは、まだ危ない。
けれど、避けては通れない。
最悪だ。
前世の核心というやつは、だいたい鍵がかかっているうえに中身が爆発物である。誰がそんな保管方法を許した。魂帳局か。なら本当に腹が立つ。
セドリックは、封緘印の写しを封印紙で挟んだ。
「この記録文から分かるのは三つだ」
ノアは、掠れた声で言う。
「先生の三つ、だいたい嫌」
「一つ。同盟儀式の記録は、少なくとも魂帳局形式で封鎖されている。二つ。封鎖は黒魔導書取得の記憶と繋がっている。三つ。オルドレイス代理は、この封鎖形式へ干渉できる可能性がある」
レオの目が冷たくなる。
「父王殺害事件の真犯人、オルドレイス、魂帳局、白花派が繋がる」
「可能性だ」
セドリックは即座に訂正した。
「まだ線を引くな。現時点では、同じ記録層に複数の印があるだけだ。真犯人の断定も、組織的関与の断定もできない」
「でも、無関係ではない」
「その通りだ」
ノアは、掌を閉じかけて止めた。
印が熱い。
まるで、その文字を隠すなと言っているようだった。
「同盟儀式記録、封鎖」
ノアは、低く繰り返した。
声にした瞬間、魂糸が強く引かれた。
伴侶首輪の黒い数字が、一瞬だけ揺れる。
二。
その輪郭が、三へ進みかける。
レオがすぐに呼んだ。
「ノア・クロウ」
赤い糸が現在へ固定する。
数字は止まる。
二のまま。
ノアは息を吐いた。
「……危な」
レオの顔色がさらに悪くなる。
「もう言わないで」
「それは無理だろ。タイトルみたいに出てきたんだから」
「それでも」
「分かってる。連呼はしない」
セドリックは、険しい顔のまま記録紙を畳んだ。
「この封緘印はしばらくこちらで解析する。ただし、掌の本体はお前に残る。消そうとするな」
「消そうとする体力もないです」
「アステルレインにも言っている」
レオが黙った。
ノアは横目で見る。
「消そうとしたのか?」
「……したいと思った」
「素直。最悪」
「君の掌に残っているのが嫌だ」
「俺も嫌だよ。でも証拠だ」
「証拠より君の方が大事」
「分かるけど、証拠も大事。俺の記憶の所有権問題だから」
レオは苦しげに頷いた。
「分かった」
「今日はよく分かったって言えて偉い」
「偉くない」
「偉い寄り」
「寄り?」
「満点は遠い」
「難しい」
「簡単だったら困る」
セドリックが、疲れたようにこめかみを押さえた。
「お前たちは緊張感を維持しろ」
「維持しすぎると壊れるので」
「屁理屈はいい。今日は寮へ戻れ。夜まで眠るな。短時間の休息に留めろ。夢が開きやすくなっている」
ノアは露骨に嫌な顔をした。
「眠るなと言われると眠くなるんですけど」
「幼児か」
「重度反応明けの病人です」
「軽口だけは健康だな」
「そこだけでも元気でいたい」
レオが立ち上がる。
「支える」
「歩ける」
「ふらついている」
「診断が早い」
「支える」
「……肘だけ」
「分かった」
レオは、ノアの肘を軽く支えた。
強く抱えない。
引き寄せない。
それでも、赤い糸は近い。
怒りも後悔も、まだ消えていない。レオは魂帳局へ行きたいだろう。同盟儀式の記録を掘り返したいだろう。前世で証明できなかった無実を、今度こそ証明したいだろう。
だが今は、ノアの歩幅に合わせている。
それだけで十分だった。
その夜。
寮部屋は静かだった。
昼間、短い休息と食事と、セドリックから渡された記録安定符の確認だけで時間が過ぎた。ノアの喉はまだ痛み、掌の封緘印は時折熱を持った。首輪の黒い亀裂も完全には落ち着いていない。
レオは水を渡し、喉へ治癒魔法をかける前に、必ず確認した。
「触れていい?」
ノアは寝台の端に座ったまま、少しだけ目を伏せる。
「……喉だけ」
「うん」
白金の光が、喉を包む。
やさしく。
慎重に。
昨夜のように裂けかけた声を、無理に戻そうとはしない。ただ、痛みを少し和らげる。
ノアは、いつもなら何か言った。
授業料が高いとか、喉の保守点検だとか、過保護が標準装備だとか。
けれど、今日は言えなかった。
レオが、静かに聞く。
「痛い?」
「痛い」
「もっと弱くする」
「いや、違う」
ノアは、少しだけ息を吐いた。
「今日は茶化せない」
レオの手が止まりかけた。
だが、止まらずに治癒を続ける。
「茶化さなくていい」
その声が、静かすぎて胸に触れた。
ノアは目を閉じた。
同盟儀式。
その文字が、頭の中に残っている。
父王の血。
セラフィードの声。
僕じゃない。
届かなかった声。
封鎖された記録。
もし証拠があれば。
言うな。
今それを言ったら、俺が戻れなくなる。
自分で言った言葉が、まだ胸の奥で重く沈んでいた。
レオは、それ以上何も聞かなかった。
ただ、喉を癒し、掌の熱を冷まし、髪を梳いた。
静かなケアだった。
何かを直すというより、壊れないように隣で見ているだけの時間だった。
ノアは、髪を梳かれながら低く言った。
「レオ」
「何?」
「お前も、戻りすぎるなよ」
櫛の動きが止まる。
ノアは目を閉じたまま続けた。
「あの時、証拠があればとか、もっと早く気づいていればとか、そういうの。たぶん、お前も戻れなくなる」
レオは、しばらく黙っていた。
それから、静かに言う。
「君が呼んで」
「俺が?」
「僕が戻りすぎたら、レオ・アステルレインって呼んで」
ノアは薄く目を開けた。
「重い注文」
「君が言うなら戻れる」
「信用が重い」
「うん」
「……分かった。善処する」
「ありがとう」
「感謝するところか?」
「うん」
ノアは小さく息を吐いた。
眠るのが怖かった。
怖いと言えば、レオはたぶん手を握る。
握りすぎないように。
約束を守って。
それでも、ノアは言わなかった。
代わりに、横になった。
レオが灯りを落とす。
窓の外は暗い。
赤い糸が、薄く震えている。
眠りは、思ったより早く来た。
夢が開く。
白い役所ではない。
黒い封印庫でもない。
そこは、明るい朝だった。
前世の王城。
同盟儀式の日の朝。
高い窓から光が差し込み、白い布が風に揺れている。遠くで式典の準備をする足音が聞こえる。香の匂い。磨かれた床。金糸の刺繍が施された礼装。
前世のイリアスが、そこにいた。
まだ若い。
黒い髪を整え、儀式用の正装を着ている。胸元には王家の紋。赤い瞳は、まだ黒魔導書の闇に沈んでいない。
その背後に、セラフィードが立っていた。
金髪の王子。
白い礼装。
穏やかな手つきで、イリアスの襟を整えている。
その光景を見た瞬間、ノアの呼吸が止まった。
ここは、まだ壊れる前だ。
まだ、戻れない場所だ。
ノアは、掠れた声で呟いた。
「そこは、まだ見るな」




