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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第五章 【記憶の棺と幼い亡霊】

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第98話 同盟儀式記録、封鎖


 研究室の空気が、凍った。


 セドリック・バロウズの机の上で、灰色の封緘印が薄く光っている。ノア・クロウの掌から写し取られた、魂帳局形式の封緘印。その内側に隠されていた短い記録文が、黒魔法の線に炙り出されるように浮かび上がっていた。


 同盟儀式記録、封鎖。


 たったそれだけの文字だった。


 長い説明もない。


 日付もない。


 担当者名もない。


 理由もない。


 ただ、封鎖。


 その二文字が、やけに重かった。


 ノアは仮眠台に腰掛けたまま、しばらく動けなかった。掌には、まだ灰色の帳簿印が残っている。昨夜、黒く燃える封印庫の記憶の中から掴み取ったものだ。魂の表面に貼りついた証拠。燃やされかけた記憶の中で、どうにか持ち帰った灰色の欠片。


 それが示した先が、同盟儀式だった。


 前世で、すべてが壊れた日。


 イリアス・ノクスヴェルトの父王が殺された日。


 セラフィード・ルミナリアが「僕じゃない」と叫び続け、それでもイリアスに届かなかった日。


 憎しみが黒魔導書へ向かう道を作った、最初の亀裂。


 その記録が、封鎖されている。


 ノアの喉が詰まった。


 首元の伴侶首輪《メイト・カラー》が、じわりと熱を持つ。黒い亀裂の奥で、照合率二パーセントの数字が不安定に揺れた。二の輪郭が一瞬だけ黒く滲み、別の形へ歪みかける。


 魂糸が、前世へ引かれる。


 遠い広間。


 同盟の旗。


 血の匂い。


 叫び声。


 白い礼装。


 倒れた父王。


 レオ・アステルレインの赤い糸が、すぐに震えた。


「ノア・クロウ」


 その声で、歪みかけた数字が止まる。


 二のまま沈む。


 進まない。


 ノアは、ゆっくり息を吐いた。


 喉が痛い。


 昨夜の重度反応の残りで、声はまだ掠れていた。黒い文字の灰が喉の奥に残っているような感覚も消えない。だが、それ以上に、胸の奥が重かった。


 ノアは、紙の上の文字を見た。


「そこを封じるのかよ」


 笑えなかった。


 軽口にするつもりだった。


 いつものように、嫌な書類だの、役所仕事だの、魂の管理が雑だのと茶化してやるつもりだった。


 けれど、声は低く落ちただけだった。


 レオが、すぐに名を呼ぶ。


「ノア」


 ノアは、首を横に振った。


「分かってる。今、ちょっと笑えない」


 レオは黙った。


 黙るしかなかった。


 セドリックも、すぐには言葉を重ねなかった。


 研究室の水晶は、昨夜の黒い封印庫の余波をまだ薄く映している。黒く焼けた文字の残滓。灰色の帳簿印。白い花の紋。黒いローブの影。そこから引きずり出された封緘印の内部に、この一文があった。


 同盟儀式記録、封鎖。


 セドリックは、低く言った。


「魂帳局式の封緘印だ。内部記録も、古い魂帳局書式に一致している」


 ノアは顔を上げる。


「魂帳局が封じた?」


「形式上はそう読める」


「形式上」


「前にも言った通り、魂帳局そのものが封じたのか、魂帳局形式を扱える何者かが封じたのかは、まだ確定できない。ただし、この封緘印は偽物にしては精度が高すぎる」


「つまり?」


「魂帳局の正規権限、またはそれに極めて近い権限が使われている」


 ノアは、掌を見下ろした。


 灰色の封緘印は、淡く熱を持っている。


 それはまるで、見てはいけない書類に押された封蝋のようだった。魂の中に保存された記憶へ、誰かが勝手に「封鎖」と印を押した。本人の許可など、当然のように取っていない。


 ノアは、掠れた声で笑った。


 笑いにはならなかった。


「俺の人生、前世から書類にされすぎだろ」


「人生ではなく魂記録だ」


「もっと嫌な訂正ありがとうございます」


 セドリックは、表情を緩めなかった。


「問題は、同盟儀式の記録が封鎖されていることだ。前世の父王殺害事件には、後世の英雄教会、魂帳局、あるいはその双方が隠したい何かがある可能性が高い」


 レオの赤い糸が、鋭く震えた。


 ノアの首輪が、それに呼応して熱を持つ。


 ノアは、レオを見ずに言った。


「怒りを流すな」


 レオの呼吸が止まる。


「ごめん」


「謝るなら座ってろ。立ったらどっか行きそう」


「行きたい」


「言うな」


「……分かった」


 レオは椅子に座ったままだった。


 だが、青い瞳は冷えている。


 魂帳局への敵意。


 同盟儀式の真実を掘り返したい衝動。


 前世で証明できなかった無実への怒り。


 それらが、綺麗な顔の奥でひどく静かに燃えていた。


 ノアは、それを見たくなかった。


 いや、見えてしまった。


 レオの中にも、同盟儀式は刺さっている。


 前世のセラフィードは、何度も言った。


 僕じゃない。


 僕は殺していない。


 違う。


 信じて。


 だが、イリアスには届かなかった。


 父王を殺された直後のイリアスに、届くはずもなかった。


 その記憶が、封鎖されている。


 もし、記録があったなら。


 もし、証拠が残っていたなら。


 もし、誰かが故意にそれを封じていなければ。


 レオが、低く言った。


「あの時、証拠があれば」


「言うな」


 ノアの声が鋭く落ちた。


 レオが息を止める。


 それでも、言いかける。


「でも」


「今それを言ったら、俺が戻れなくなる」


 研究室が、静まり返った。


 ノアの声は掠れていた。


 だが、低く、ぎりぎりのところで踏みとどまっていた。


 戻れなくなる。


 前世へ。


 あの日へ。


 父王が倒れた広間へ。


 セラフィードの「僕じゃない」という声を、憎しみで聞き捨てた瞬間へ。


 もし証拠があれば。


 もし真犯人が分かっていれば。


 もし同盟儀式の記録が封鎖されていなければ。


 その言葉は、ノアを救わない。


 今は救わない。


 ただ、イリアスの怒りを呼び起こす。


 あの時、間違えなくて済んだかもしれない。


 黒魔導書へ手を伸ばさなくて済んだかもしれない。


 世界を壊さなくて済んだかもしれない。


 セラフィードに殺されなくて済んだかもしれない。


 そう思った瞬間、ノア・クロウの足元が崩れる。


 レオは、言葉を飲み込んだ。


 青い瞳が苦しげに揺れる。


 怒りも後悔も、喉の奥へ押し込める。


 赤い糸はまだ震えている。


 だが、ノアへ流れ込まないように、レオは必死に抑えていた。


 ノアは、かすかに息を吐いた。


「……悪い」


 レオは首を振る。


「僕が悪い」


「そういうのも今いらない」


「分かった」


 セドリックが、二人の間へ言葉を置いた。


「今の段階で、同盟儀式の真相へ直接踏み込むのは危険だ」


 ノアは視線だけを向ける。


「今じゃなきゃ、いつですか」


「少なくとも、お前の魂糸と首輪が安定してからだ。昨夜、重度反応を起こしたばかりだぞ」


「それはまあ」


「同盟儀式は、記憶の棺の最深部へ近い。そこへ無理に触れれば、前世人格の現実感が一気に上がる。お前がノア・クロウとして現在へ戻る力が弱まる」


 ノアは黙った。


 反論できない。


 さっき、ほんの短い文字を見ただけで、戻れなくなると自分で言った。


 同盟儀式。


 そこは、まだ危ない。


 けれど、避けては通れない。


 最悪だ。


 前世の核心というやつは、だいたい鍵がかかっているうえに中身が爆発物である。誰がそんな保管方法を許した。魂帳局か。なら本当に腹が立つ。


 セドリックは、封緘印の写しを封印紙で挟んだ。


「この記録文から分かるのは三つだ」


 ノアは、掠れた声で言う。


「先生の三つ、だいたい嫌」


「一つ。同盟儀式の記録は、少なくとも魂帳局形式で封鎖されている。二つ。封鎖は黒魔導書取得の記憶と繋がっている。三つ。オルドレイス代理は、この封鎖形式へ干渉できる可能性がある」


 レオの目が冷たくなる。


「父王殺害事件の真犯人、オルドレイス、魂帳局、白花派が繋がる」


「可能性だ」


 セドリックは即座に訂正した。


「まだ線を引くな。現時点では、同じ記録層に複数の印があるだけだ。真犯人の断定も、組織的関与の断定もできない」


「でも、無関係ではない」


「その通りだ」


 ノアは、掌を閉じかけて止めた。


 印が熱い。


 まるで、その文字を隠すなと言っているようだった。


「同盟儀式記録、封鎖」


 ノアは、低く繰り返した。


 声にした瞬間、魂糸が強く引かれた。


 伴侶首輪の黒い数字が、一瞬だけ揺れる。


 二。


 その輪郭が、三へ進みかける。


 レオがすぐに呼んだ。


「ノア・クロウ」


 赤い糸が現在へ固定する。


 数字は止まる。


 二のまま。


 ノアは息を吐いた。


「……危な」


 レオの顔色がさらに悪くなる。


「もう言わないで」


「それは無理だろ。タイトルみたいに出てきたんだから」


「それでも」


「分かってる。連呼はしない」


 セドリックは、険しい顔のまま記録紙を畳んだ。


「この封緘印はしばらくこちらで解析する。ただし、掌の本体はお前に残る。消そうとするな」


「消そうとする体力もないです」


「アステルレインにも言っている」


 レオが黙った。


 ノアは横目で見る。


「消そうとしたのか?」


「……したいと思った」


「素直。最悪」


「君の掌に残っているのが嫌だ」


「俺も嫌だよ。でも証拠だ」


「証拠より君の方が大事」


「分かるけど、証拠も大事。俺の記憶の所有権問題だから」


 レオは苦しげに頷いた。


「分かった」


「今日はよく分かったって言えて偉い」


「偉くない」


「偉い寄り」


「寄り?」


「満点は遠い」


「難しい」


「簡単だったら困る」


 セドリックが、疲れたようにこめかみを押さえた。


「お前たちは緊張感を維持しろ」


「維持しすぎると壊れるので」


「屁理屈はいい。今日は寮へ戻れ。夜まで眠るな。短時間の休息に留めろ。夢が開きやすくなっている」


 ノアは露骨に嫌な顔をした。


「眠るなと言われると眠くなるんですけど」


「幼児か」


「重度反応明けの病人です」


「軽口だけは健康だな」


「そこだけでも元気でいたい」


 レオが立ち上がる。


「支える」


「歩ける」


「ふらついている」


「診断が早い」


「支える」


「……肘だけ」


「分かった」


 レオは、ノアの肘を軽く支えた。


 強く抱えない。


 引き寄せない。


 それでも、赤い糸は近い。


 怒りも後悔も、まだ消えていない。レオは魂帳局へ行きたいだろう。同盟儀式の記録を掘り返したいだろう。前世で証明できなかった無実を、今度こそ証明したいだろう。


 だが今は、ノアの歩幅に合わせている。


 それだけで十分だった。


 その夜。


 寮部屋は静かだった。


 昼間、短い休息と食事と、セドリックから渡された記録安定符の確認だけで時間が過ぎた。ノアの喉はまだ痛み、掌の封緘印は時折熱を持った。首輪の黒い亀裂も完全には落ち着いていない。


 レオは水を渡し、喉へ治癒魔法をかける前に、必ず確認した。


「触れていい?」


 ノアは寝台の端に座ったまま、少しだけ目を伏せる。


「……喉だけ」


「うん」


 白金の光が、喉を包む。


 やさしく。


 慎重に。


 昨夜のように裂けかけた声を、無理に戻そうとはしない。ただ、痛みを少し和らげる。


 ノアは、いつもなら何か言った。


 授業料が高いとか、喉の保守点検だとか、過保護が標準装備だとか。


 けれど、今日は言えなかった。


 レオが、静かに聞く。


「痛い?」


「痛い」


「もっと弱くする」


「いや、違う」


 ノアは、少しだけ息を吐いた。


「今日は茶化せない」


 レオの手が止まりかけた。


 だが、止まらずに治癒を続ける。


「茶化さなくていい」


 その声が、静かすぎて胸に触れた。


 ノアは目を閉じた。


 同盟儀式。


 その文字が、頭の中に残っている。


 父王の血。


 セラフィードの声。


 僕じゃない。


 届かなかった声。


 封鎖された記録。


 もし証拠があれば。


 言うな。


 今それを言ったら、俺が戻れなくなる。


 自分で言った言葉が、まだ胸の奥で重く沈んでいた。


 レオは、それ以上何も聞かなかった。


 ただ、喉を癒し、掌の熱を冷まし、髪を梳いた。


 静かなケアだった。


 何かを直すというより、壊れないように隣で見ているだけの時間だった。


 ノアは、髪を梳かれながら低く言った。


「レオ」


「何?」


「お前も、戻りすぎるなよ」


 櫛の動きが止まる。


 ノアは目を閉じたまま続けた。


「あの時、証拠があればとか、もっと早く気づいていればとか、そういうの。たぶん、お前も戻れなくなる」


 レオは、しばらく黙っていた。


 それから、静かに言う。


「君が呼んで」


「俺が?」


「僕が戻りすぎたら、レオ・アステルレインって呼んで」


 ノアは薄く目を開けた。


「重い注文」


「君が言うなら戻れる」


「信用が重い」


「うん」


「……分かった。善処する」


「ありがとう」


「感謝するところか?」


「うん」


 ノアは小さく息を吐いた。


 眠るのが怖かった。


 怖いと言えば、レオはたぶん手を握る。


 握りすぎないように。


 約束を守って。


 それでも、ノアは言わなかった。


 代わりに、横になった。


 レオが灯りを落とす。


 窓の外は暗い。


 赤い糸が、薄く震えている。


 眠りは、思ったより早く来た。


 夢が開く。


 白い役所ではない。


 黒い封印庫でもない。


 そこは、明るい朝だった。


 前世の王城。


 同盟儀式の日の朝。


 高い窓から光が差し込み、白い布が風に揺れている。遠くで式典の準備をする足音が聞こえる。香の匂い。磨かれた床。金糸の刺繍が施された礼装。


 前世のイリアスが、そこにいた。


 まだ若い。


 黒い髪を整え、儀式用の正装を着ている。胸元には王家の紋。赤い瞳は、まだ黒魔導書の闇に沈んでいない。


 その背後に、セラフィードが立っていた。


 金髪の王子。


 白い礼装。


 穏やかな手つきで、イリアスの襟を整えている。


 その光景を見た瞬間、ノアの呼吸が止まった。


 ここは、まだ壊れる前だ。


 まだ、戻れない場所だ。


 ノアは、掠れた声で呟いた。


「そこは、まだ見るな」



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