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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第五章 【記憶の棺と幼い亡霊】

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第99話 同盟の日の朝


 朝の光が、白い布を透かしていた。


 夢の中の王城は、まだ壊れていなかった。


 高い窓から差し込む陽光はやわらかく、磨かれた床へ淡い金色の筋を落としている。壁にかけられた旗は、今日の同盟儀式のために新しいものへ替えられていた。王家の紋章と、同盟相手の紋章。二つの色が並び、まだ誰もそれを血で汚す未来を知らない。


 香が焚かれている。


 白檀に似た甘さと、祝祭用の花の匂い。


 遠くからは、式典準備の足音が聞こえた。侍従が廊下を急ぐ音。銀器を並べる小さな金属音。誰かが声を抑えて指示を出す声。すべてが整っていて、すべてが穏やかだった。


 だからこそ、残酷だった。


 ノア・クロウは、その部屋の隅に立っていた。


 現世の制服姿のまま。


 首元には伴侶首輪《メイト・カラー》。手の甲には照合番号と白花派の印。掌には、魂帳局の封緘印の熱がまだ残っている。前世の王城の朝に、現世の傷と証拠だけを持って立っている。


 隣にはレオ・アステルレインがいた。


 こちらも現世の姿のままだ。


 金髪。青い瞳。学院の制服。赤い糸が、二人の間で静かに震えている。


 そして、部屋の中央に、前世の二人がいた。


 若いイリアス・ノクスヴェルト。


 黒い髪は丁寧に整えられ、儀式用の正装を纏っている。黒を基調に、王家の赤と金が差し込まれた礼装だった。胸元には王家の紋章。袖には同盟の式典で使う銀の刺繍。首元はまだ開かれ、最後の留め具が整えられるのを待っている。


 まだ、黒魔導書の闇に沈んでいない。


 赤い瞳には疲労もあるが、あの封印庫で見たような焼け切った絶望はない。


 怒りも憎しみも、まだそこにはない。


 少なくとも、この朝には。


 その前に立っているのは、若いセラフィード・ルミナリアだった。


 白い礼装。


 金の髪。


 穏やかな青い瞳。


 彼は、イリアスの襟元に手を伸ばし、曲がっていた布をそっと整えている。


 親密な距離だった。


 式典前の緊張を和らげるように。


 これから二人で未来へ進むのだと、まだ信じていられた頃の距離。


 ノアの喉が詰まった。


 胸の奥に、重い圧が広がる。伴侶首輪がじわりと熱を持ち、赤い糸が前世の伴侶の朝へ反応して強く震えた。


 現世のレオが、ほんのわずかに息を止める。


 あまりにも、似ていた。


 レオが今のノアの髪を梳く手。


 喉を癒す前に止まる指。


 襟や袖を整えようとして、許可を待つ視線。


 それらの原型が、この朝にあるようだった。


 ノアは笑えなかった。


 口角だけを上げようとして、失敗する。


「ここは、趣味が悪すぎる」


 声は苦かった。


 軽口の形をしているのに、軽くならない。


 レオが隣で低く言った。


「見なくていい」


 その言葉は、やさしかった。


 閉じろと言わなかった。


 隠すとは言わなかった。


 ただ、見なくていいと言った。


 それだけで、レオがどれだけ耐えているか分かった。


 彼も見たくないのだ。


 この朝を。


 前世の自分が、まだ何も失っていない顔でイリアスの襟を整えている光景を。


 この後、すべてが壊れると知っていて見るには、あまりに穏やかすぎる。


 ノアは、喉の奥を押さえるように息を吐いた。


「見なきゃ進まないんだろ」


 レオは何も言えなかった。


 部屋の中央で、若いイリアスが少しだけ顎を上げる。


「そこ、曲がってるか?」


 若いセラフィードは、襟の端を指先で整えながら微笑んだ。


「少しだけ」


「朝から細かいな」


「大事な日だからね」


「お前がそういう顔で言うと、何でも大事に見える」


「実際、大事だよ」


 若いイリアスが、ほんの少しだけ目を逸らした。


 照れたようにも見えた。


 現世のノアは、思わず奥歯を噛んだ。


 その仕草を見たくなかった。


 前世の自分が、まだこんな顔をできたことを知りたくなかった。


 若いセラフィードは、イリアスの襟元を整え終えると、今度は肩にかかった黒髪をそっと後ろへ流した。


 それは、現世のレオが何度もノアの髪を梳いてきた動きと重なった。


 病み上がりの朝。


 重度反応のあと。


 名前を呼びすぎた夜のあと。


 レオはいつも、ノアの髪を丁寧に整えた。


 その手と、前世のセラフィードの手が、夢の中で重なる。


 赤い糸が強く震えた。


 ノアの首輪に熱が走る。


 魂糸が、過去と現在の仕草を重ねてしまう。


 ノアは低く呻きそうになり、飲み込んだ。


 重度反応ではない。


 けれど、胸が苦しい。


 幸せだった記憶が、傷になる。


 若いイリアスが、照れ隠しのように言った。


「似合ってるか?」


 若いセラフィードは、少しも迷わず答えた。


「綺麗だよ」


 ノアは顔を背けた。


 その瞬間、喉が強く詰まる。


 首輪が熱を増し、手の甲の照合番号が冷たく光った。赤い糸が現在へ引く。レオがすぐに名前を呼ぼうとして、しかし言葉を選んだ。


「ノア」


 ノアは、顔を背けたまま低く言った。


「やめろ。今それ見るのはきつい」


 若いセラフィードの声は穏やかだった。


 綺麗だよ。


 その一言には、嘘がなかった。


 だから、きつい。


 前世の二人は、まだ伴侶だった。


 互いの未来を疑っていなかった。


 この儀式が終われば、同盟は強くなり、戦争は少しずつ遠ざかり、父王も笑い、セラフィードも隣にいて、イリアスは黒魔導書など知らずに済む。


 そんな未来を、信じかけていた。


 信じていたのではない。


 信じかけていた。


 それが一番痛かった。


 完全に幸せだったなら、まだ過去として切り離せたかもしれない。


 けれど、この朝には不安も緊張もある。


 それでも、前へ進めるかもしれないという、かすかな願いがあった。


 それが、あと数刻で踏みにじられる。


 ノアは、声を押し殺した。


「……悪趣味すぎるだろ」


 現世のレオが、静かに隣へ立つ。


「戻る?」


「戻ったら、また敵に勝手に開けられる」


「君が壊れそうなら、戻す」


「閉じるなよ」


「閉じない。戻すだけ」


 ノアは、少しだけ息を吐いた。


「言い方が上手くなってきた」


「努力している」


「便利な努力」


「君に怒られたくない」


「怒られたくないのに毎回重いことするな」


「難しい」


「知ってる」


 若いイリアスと若いセラフィードの会話は続いていた。


 記憶は、こちらの都合など待たない。


 若いセラフィードが、イリアスの袖口の飾り紐を直している。


「ここも少し緩い」


「お前、侍従より細かいぞ」


「君が動くとすぐ乱れるから」


「俺のせいかよ」


「うん」


「即答するな」


 若いセラフィードが、柔らかく笑う。


 その笑みを見て、現世のレオが息を止めた。


 自分の顔なのに、遠い。


 自分の過去なのに、手が届かない。


 レオの青い瞳に、痛みが浮かぶ。


 失ったものの重さが、赤い糸を通してノアにも伝わりかけた。


 ノアはすぐに言った。


「レオ。戻りすぎるな」


 レオが、はっとする。


「……ごめん」


「謝る前に名前」


 レオは息を吸う。


「レオ・アステルレイン」


 現世名を自分で言う。


 赤い糸の震えが、少しだけ現在へ戻る。


 ノアはうなずいた。


「よし」


「君は?」


「俺はノア・クロウ」


 そう言った瞬間、首輪の熱が少し下がった。


 照合率は進まない。


 だが、胸の圧は消えない。


 若いイリアスが、鏡の前で軽く肩を回す。


「儀式って、いつも服が重い」


 若いセラフィードが、背後からその姿を見ている。


「今日は特別だから」


「同盟のため?」


「それもある」


「他にもあるみたいな言い方だな」


 若いセラフィードは、少しだけ迷った。


 その迷いさえ、甘かった。


 ひどく、残酷なほどに。


「君と並んで立つ日だから」


 若いイリアスが一瞬黙った。


 それから、わずかに耳を赤くした。


「……式典前にそういうこと言うな」


「本当のことだから」


「余計に悪い」


 現世のノアは、もう見ていられなくなった。


 視線を床へ落とす。


 磨かれた床に、前世の二人の影が映っている。


 重なるように近い影。


 これから引き裂かれる影。


 ノアは低く言った。


「やめろって」


 今度は、誰に向けた言葉なのか自分でも分からなかった。


 記憶へか。


 前世の自分へか。


 若いセラフィードへか。


 それとも、これを見せてくる誰かへか。


 現世のレオが、手を伸ばしかけた。


 ノアの髪に触れようとして、止まる。


 許可を待つように。


 その止まった手が、今は余計に痛かった。


 若いセラフィードが前世のイリアスの髪を整えたのと、同じ動きだったから。


 ノアは気づいていた。


 気づいて、しばらく黙った。


 レオの手は空中で止まっている。


 触れたい。


 支えたい。


 この記憶を見ているノアを、現在へ戻したい。


 だが、勝手に触れない。


 ノアは、目を閉じた。


「今日はいい」


 レオの指先が、ほんの少し震えた。


「触れていい?」


「髪だけ」


「うん」


 レオの手が、ノアの髪に触れた。


 いつもより慎重だった。


 甘さはあった。


 けれど、その甘さより痛みの方が強かった。


 前世の朝と、現世の今が重なる。


 若いセラフィードの手。


 現世のレオの手。


 若いイリアスの照れた顔。


 現世のノアの笑えない顔。


 同じ魂の続きなのに、もう同じではない。


 ノアは目を閉じたまま言った。


「お前、前世でもこういうことしてたんだな」


 レオの声は低い。


「覚えていなかった」


「今は?」


「見ている」


「きついだろ」


「うん」


「俺も」


 それ以上は言わなかった。


 言えば、どちらかが戻れなくなりそうだった。


 記憶の中で、若いイリアスは儀式用の外套を羽織った。


 若いセラフィードが、その肩に手を添える。


「行こう」


 若いイリアスは、小さく息を吸った。


「父上、もう広間に?」


「たぶん」


「遅れると怒られるな」


「怒られるのは君だけじゃないよ。僕も一緒だ」


「お前は怒られても涼しい顔してるだろ」


「君ほどではない」


「言うようになったな」


 若い二人は、穏やかに笑った。


 その笑い声が、ノアの胸を締めつける。


 この朝は、まだ改竄されていない。


 ノアには、それが分かった。


 白い花の紋も、灰色の帳簿印も、黒い構文も見えない。記憶の端に不自然な焼け跡もない。あまりにも鮮明で、あまりにも普通で、あまりにも優しい。


 だからこそ、これから歪められるのだと分かる。


 この先で、何かが混ざる。


 真実の朝から、封鎖された儀式へ。


 記憶は、ゆっくり進み始めた。


 部屋の扉が開く。


 廊下へ出る。


 王城の朝の光が、長い廊下を照らしている。式典へ向かう人々の足音が、少しずつ増えていく。香の匂いが濃くなり、遠くから儀式用の鐘が聞こえた。


 ノアの喉が詰まる。


 胸の圧が強くなる。


 首輪が熱を持つ。


 若いイリアスと若いセラフィードの背中を追うように、現世のノアとレオも歩くしかなかった。


 レオは、ノアの髪から手を離した。


 その代わり、赤い糸だけをそっと近づける。


 触れすぎない。


 けれど、離れない。


 ノアは、それを拒まなかった。


 廊下の先に、儀式場の扉が見えた。


 大きな扉。


 白い布。


 金の紋章。


 その前に、人々の背中が並んでいる。


 記憶は、儀式場へ進む。


 扉が開いた。


 広間の奥に、父王の背中が見えた。


 ノアの呼吸が止まりかけた。


 首輪が熱を帯び、魂糸が前世へ強く引かれる。


 レオが、すぐに呼んだ。


「ノア」




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