第99話 同盟の日の朝
朝の光が、白い布を透かしていた。
夢の中の王城は、まだ壊れていなかった。
高い窓から差し込む陽光はやわらかく、磨かれた床へ淡い金色の筋を落としている。壁にかけられた旗は、今日の同盟儀式のために新しいものへ替えられていた。王家の紋章と、同盟相手の紋章。二つの色が並び、まだ誰もそれを血で汚す未来を知らない。
香が焚かれている。
白檀に似た甘さと、祝祭用の花の匂い。
遠くからは、式典準備の足音が聞こえた。侍従が廊下を急ぐ音。銀器を並べる小さな金属音。誰かが声を抑えて指示を出す声。すべてが整っていて、すべてが穏やかだった。
だからこそ、残酷だった。
ノア・クロウは、その部屋の隅に立っていた。
現世の制服姿のまま。
首元には伴侶首輪。手の甲には照合番号と白花派の印。掌には、魂帳局の封緘印の熱がまだ残っている。前世の王城の朝に、現世の傷と証拠だけを持って立っている。
隣にはレオ・アステルレインがいた。
こちらも現世の姿のままだ。
金髪。青い瞳。学院の制服。赤い糸が、二人の間で静かに震えている。
そして、部屋の中央に、前世の二人がいた。
若いイリアス・ノクスヴェルト。
黒い髪は丁寧に整えられ、儀式用の正装を纏っている。黒を基調に、王家の赤と金が差し込まれた礼装だった。胸元には王家の紋章。袖には同盟の式典で使う銀の刺繍。首元はまだ開かれ、最後の留め具が整えられるのを待っている。
まだ、黒魔導書の闇に沈んでいない。
赤い瞳には疲労もあるが、あの封印庫で見たような焼け切った絶望はない。
怒りも憎しみも、まだそこにはない。
少なくとも、この朝には。
その前に立っているのは、若いセラフィード・ルミナリアだった。
白い礼装。
金の髪。
穏やかな青い瞳。
彼は、イリアスの襟元に手を伸ばし、曲がっていた布をそっと整えている。
親密な距離だった。
式典前の緊張を和らげるように。
これから二人で未来へ進むのだと、まだ信じていられた頃の距離。
ノアの喉が詰まった。
胸の奥に、重い圧が広がる。伴侶首輪がじわりと熱を持ち、赤い糸が前世の伴侶の朝へ反応して強く震えた。
現世のレオが、ほんのわずかに息を止める。
あまりにも、似ていた。
レオが今のノアの髪を梳く手。
喉を癒す前に止まる指。
襟や袖を整えようとして、許可を待つ視線。
それらの原型が、この朝にあるようだった。
ノアは笑えなかった。
口角だけを上げようとして、失敗する。
「ここは、趣味が悪すぎる」
声は苦かった。
軽口の形をしているのに、軽くならない。
レオが隣で低く言った。
「見なくていい」
その言葉は、やさしかった。
閉じろと言わなかった。
隠すとは言わなかった。
ただ、見なくていいと言った。
それだけで、レオがどれだけ耐えているか分かった。
彼も見たくないのだ。
この朝を。
前世の自分が、まだ何も失っていない顔でイリアスの襟を整えている光景を。
この後、すべてが壊れると知っていて見るには、あまりに穏やかすぎる。
ノアは、喉の奥を押さえるように息を吐いた。
「見なきゃ進まないんだろ」
レオは何も言えなかった。
部屋の中央で、若いイリアスが少しだけ顎を上げる。
「そこ、曲がってるか?」
若いセラフィードは、襟の端を指先で整えながら微笑んだ。
「少しだけ」
「朝から細かいな」
「大事な日だからね」
「お前がそういう顔で言うと、何でも大事に見える」
「実際、大事だよ」
若いイリアスが、ほんの少しだけ目を逸らした。
照れたようにも見えた。
現世のノアは、思わず奥歯を噛んだ。
その仕草を見たくなかった。
前世の自分が、まだこんな顔をできたことを知りたくなかった。
若いセラフィードは、イリアスの襟元を整え終えると、今度は肩にかかった黒髪をそっと後ろへ流した。
それは、現世のレオが何度もノアの髪を梳いてきた動きと重なった。
病み上がりの朝。
重度反応のあと。
名前を呼びすぎた夜のあと。
レオはいつも、ノアの髪を丁寧に整えた。
その手と、前世のセラフィードの手が、夢の中で重なる。
赤い糸が強く震えた。
ノアの首輪に熱が走る。
魂糸が、過去と現在の仕草を重ねてしまう。
ノアは低く呻きそうになり、飲み込んだ。
重度反応ではない。
けれど、胸が苦しい。
幸せだった記憶が、傷になる。
若いイリアスが、照れ隠しのように言った。
「似合ってるか?」
若いセラフィードは、少しも迷わず答えた。
「綺麗だよ」
ノアは顔を背けた。
その瞬間、喉が強く詰まる。
首輪が熱を増し、手の甲の照合番号が冷たく光った。赤い糸が現在へ引く。レオがすぐに名前を呼ぼうとして、しかし言葉を選んだ。
「ノア」
ノアは、顔を背けたまま低く言った。
「やめろ。今それ見るのはきつい」
若いセラフィードの声は穏やかだった。
綺麗だよ。
その一言には、嘘がなかった。
だから、きつい。
前世の二人は、まだ伴侶だった。
互いの未来を疑っていなかった。
この儀式が終われば、同盟は強くなり、戦争は少しずつ遠ざかり、父王も笑い、セラフィードも隣にいて、イリアスは黒魔導書など知らずに済む。
そんな未来を、信じかけていた。
信じていたのではない。
信じかけていた。
それが一番痛かった。
完全に幸せだったなら、まだ過去として切り離せたかもしれない。
けれど、この朝には不安も緊張もある。
それでも、前へ進めるかもしれないという、かすかな願いがあった。
それが、あと数刻で踏みにじられる。
ノアは、声を押し殺した。
「……悪趣味すぎるだろ」
現世のレオが、静かに隣へ立つ。
「戻る?」
「戻ったら、また敵に勝手に開けられる」
「君が壊れそうなら、戻す」
「閉じるなよ」
「閉じない。戻すだけ」
ノアは、少しだけ息を吐いた。
「言い方が上手くなってきた」
「努力している」
「便利な努力」
「君に怒られたくない」
「怒られたくないのに毎回重いことするな」
「難しい」
「知ってる」
若いイリアスと若いセラフィードの会話は続いていた。
記憶は、こちらの都合など待たない。
若いセラフィードが、イリアスの袖口の飾り紐を直している。
「ここも少し緩い」
「お前、侍従より細かいぞ」
「君が動くとすぐ乱れるから」
「俺のせいかよ」
「うん」
「即答するな」
若いセラフィードが、柔らかく笑う。
その笑みを見て、現世のレオが息を止めた。
自分の顔なのに、遠い。
自分の過去なのに、手が届かない。
レオの青い瞳に、痛みが浮かぶ。
失ったものの重さが、赤い糸を通してノアにも伝わりかけた。
ノアはすぐに言った。
「レオ。戻りすぎるな」
レオが、はっとする。
「……ごめん」
「謝る前に名前」
レオは息を吸う。
「レオ・アステルレイン」
現世名を自分で言う。
赤い糸の震えが、少しだけ現在へ戻る。
ノアはうなずいた。
「よし」
「君は?」
「俺はノア・クロウ」
そう言った瞬間、首輪の熱が少し下がった。
照合率は進まない。
だが、胸の圧は消えない。
若いイリアスが、鏡の前で軽く肩を回す。
「儀式って、いつも服が重い」
若いセラフィードが、背後からその姿を見ている。
「今日は特別だから」
「同盟のため?」
「それもある」
「他にもあるみたいな言い方だな」
若いセラフィードは、少しだけ迷った。
その迷いさえ、甘かった。
ひどく、残酷なほどに。
「君と並んで立つ日だから」
若いイリアスが一瞬黙った。
それから、わずかに耳を赤くした。
「……式典前にそういうこと言うな」
「本当のことだから」
「余計に悪い」
現世のノアは、もう見ていられなくなった。
視線を床へ落とす。
磨かれた床に、前世の二人の影が映っている。
重なるように近い影。
これから引き裂かれる影。
ノアは低く言った。
「やめろって」
今度は、誰に向けた言葉なのか自分でも分からなかった。
記憶へか。
前世の自分へか。
若いセラフィードへか。
それとも、これを見せてくる誰かへか。
現世のレオが、手を伸ばしかけた。
ノアの髪に触れようとして、止まる。
許可を待つように。
その止まった手が、今は余計に痛かった。
若いセラフィードが前世のイリアスの髪を整えたのと、同じ動きだったから。
ノアは気づいていた。
気づいて、しばらく黙った。
レオの手は空中で止まっている。
触れたい。
支えたい。
この記憶を見ているノアを、現在へ戻したい。
だが、勝手に触れない。
ノアは、目を閉じた。
「今日はいい」
レオの指先が、ほんの少し震えた。
「触れていい?」
「髪だけ」
「うん」
レオの手が、ノアの髪に触れた。
いつもより慎重だった。
甘さはあった。
けれど、その甘さより痛みの方が強かった。
前世の朝と、現世の今が重なる。
若いセラフィードの手。
現世のレオの手。
若いイリアスの照れた顔。
現世のノアの笑えない顔。
同じ魂の続きなのに、もう同じではない。
ノアは目を閉じたまま言った。
「お前、前世でもこういうことしてたんだな」
レオの声は低い。
「覚えていなかった」
「今は?」
「見ている」
「きついだろ」
「うん」
「俺も」
それ以上は言わなかった。
言えば、どちらかが戻れなくなりそうだった。
記憶の中で、若いイリアスは儀式用の外套を羽織った。
若いセラフィードが、その肩に手を添える。
「行こう」
若いイリアスは、小さく息を吸った。
「父上、もう広間に?」
「たぶん」
「遅れると怒られるな」
「怒られるのは君だけじゃないよ。僕も一緒だ」
「お前は怒られても涼しい顔してるだろ」
「君ほどではない」
「言うようになったな」
若い二人は、穏やかに笑った。
その笑い声が、ノアの胸を締めつける。
この朝は、まだ改竄されていない。
ノアには、それが分かった。
白い花の紋も、灰色の帳簿印も、黒い構文も見えない。記憶の端に不自然な焼け跡もない。あまりにも鮮明で、あまりにも普通で、あまりにも優しい。
だからこそ、これから歪められるのだと分かる。
この先で、何かが混ざる。
真実の朝から、封鎖された儀式へ。
記憶は、ゆっくり進み始めた。
部屋の扉が開く。
廊下へ出る。
王城の朝の光が、長い廊下を照らしている。式典へ向かう人々の足音が、少しずつ増えていく。香の匂いが濃くなり、遠くから儀式用の鐘が聞こえた。
ノアの喉が詰まる。
胸の圧が強くなる。
首輪が熱を持つ。
若いイリアスと若いセラフィードの背中を追うように、現世のノアとレオも歩くしかなかった。
レオは、ノアの髪から手を離した。
その代わり、赤い糸だけをそっと近づける。
触れすぎない。
けれど、離れない。
ノアは、それを拒まなかった。
廊下の先に、儀式場の扉が見えた。
大きな扉。
白い布。
金の紋章。
その前に、人々の背中が並んでいる。
記憶は、儀式場へ進む。
扉が開いた。
広間の奥に、父王の背中が見えた。
ノアの呼吸が止まりかけた。
首輪が熱を帯び、魂糸が前世へ強く引かれる。
レオが、すぐに呼んだ。
「ノア」




