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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第五章 【記憶の棺と幼い亡霊】

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第100話 父王の背中


 儀式場の扉が開いた。


 夢の中なのに、音が重かった。


 金属の軋み。古い木材の低い響き。扉の向こうから流れ込んでくる香の匂いと、磨かれた石床の冷たい空気。祝祭の日に整えられたはずの空間は、どこか息を詰めていた。


 同盟儀式場。


 高い天井には、両国の旗が並んでいた。


 片方はイリアスの王国の紋章。深い赤と黒を基調にした旗で、王家の金紋が中心に刺繍されている。もう片方はセラフィードの王国の紋章。白と青を基調にし、聖剣と月輪を組み合わせた紋が掲げられていた。


 天井近くの窓から朝の光が差し込み、旗の布を透かして揺らしている。


 床には巨大な魔法陣が描かれていた。


 白と黒。


 二つの魔力を均衡させるための、同盟儀式用の陣。


 白い線は聖魔法の媒介銀で描かれ、黒い線は古い黒魔法の墨で引かれている。二つは交わりすぎず、離れすぎず、円の中心へ向かって複雑に絡んでいた。儀式としては美しい。整っている。だが、今のノア・クロウには、その整い方が逆に気味悪かった。


 両国の使節が、左右に並んでいる。


 白い礼装。


 黒い礼装。


 金の肩章。


 銀の杖。


 祈祷師、文官、護衛、魔導師、貴族たち。


 兵士たちは壁際に控えていた。緊張が、鎧の隙間から滲んでいる。槍を持つ手は動かないが、指先だけがわずかに強張っていた。


 祝福の場のはずだった。


 戦争を終わらせるための儀式だった。


 未来を結ぶための朝だった。


 それなのに、空気は薄い刃のように張り詰めている。


 ノアは、現世の姿のまま、その儀式場へ入った。


 隣にはレオ・アステルレインがいる。


 二人は記憶の中の人々には見えていない。足音も響かない。若いイリアスと若いセラフィードの後ろを歩いているのに、誰も振り返らない。


 それでも、ノアの身体は重かった。


 胸の奥が、少しずつ圧迫される。


 夢の中の空気が、肺に入りにくい。喉の奥に何かが引っかかる。伴侶首輪《メイト・カラー》は、まだ熱を持っていない。だが、黒い亀裂の底で、何かが待っているような気配があった。


 レオの赤い糸が、すぐそばで震えている。


 強くは触れない。


 けれど、離れない。


 若いイリアスは、前を向いていた。


 儀式用の正装をまとい、背筋を伸ばしている。朝の部屋で見せた照れも軽さも、今は消えていた。王族として、父王の子として、この場に立つ顔になっている。


 その隣を、若いセラフィードが歩いていた。


 白い礼装。


 静かな横顔。


 こちらもまた、王子としての表情をしている。


 だが、二人の距離は近かった。


 袖が触れるほどではない。


 けれど、互いの存在がそこにあると分かる距離。


 それが、痛かった。


 ノアは、唇を噛みそうになってやめた。


 この記憶は、まだ壊れていない。


 まだ誰も死んでいない。


 まだ憎んでいない。


 まだ黒魔導書へ手を伸ばしていない。


 だからこそ、足元が崩れそうだった。


 儀式場の奥に、一人の男が立っていた。


 背を向けている。


 深い赤の礼装。


 肩にかかる重い外套。


 銀糸で縁取られた王冠の影。


 広い背中。


 イリアスの父王だった。


 ノアは、その背中を見た瞬間、動けなくなった。


 世界から音が消えた。


 使節のざわめきも、兵士の鎧のかすかな音も、香炉から立つ煙の揺らぎも、遠くなった。


 背中。


 ただ、その背中だけが見える。


 完全な善人ではなかった。


 ノアは、それを知っている。


 いや、イリアスが知っていた。


 王だった。


 正しい判断だけをしてきた人ではない。戦争を止められなかった人でもある。多くの犠牲を出しながら、それでも玉座に座り続けた人だった。優しさだけで国を動かせるわけがない。父王もまた、いくつもの選択を間違え、遅らせ、飲み込んできた。


 それでも、父だった。


 幼いイリアスの頭に手を置いた人。


 土まみれで戻った子どもを、叱る前に抱き寄せた人。


 王子としてではなく、息子として名を呼んだ人。


 戦場の報告を聞いた夜、誰にも見えない場所で疲れた息を吐いていた人。


 完全ではなかった。


 それでも、父だった。


 その死が、イリアスを壊した。


 ノアの喉が震えた。


 止める前に、声が漏れた。


「……父上」


 その瞬間、伴侶首輪が焼けるように熱を持った。


 黒い亀裂が首輪の内側で一気に疼く。


 照合率の数字が、二からわずかに歪んだ。二の輪郭が黒く滲み、次の数字へ形を変えかける。手の甲の照合番号が冷たく光り、白花派の印がぴりりと痛んだ。


 魂糸が前世へ引かれる。


 父上。


 前世の呼称。


 イリアスの声。


 ノアの声でありながら、ノア・クロウの現在を押し流しかける言葉。


 レオが即座に呼んだ。


「ノア」


 赤い糸が、強く現在へ引いた。


 ノアの瞳孔が開きかけていた。


 胸が詰まる。


 喉の奥から、短い呻きが漏れる。


「っ……」


「ノア・クロウ」


 もう一度、レオが呼ぶ。


 その声で、照合率の揺れが止まった。


 数字は、二のまま沈む。


 伴侶首輪の熱は残ったが、進行は止まった。


 ノアは、はっと息を吸った。


 呼吸が浅い。


 背中に冷たい汗が滲む。


 自分が何を口にしたのか、遅れて理解した。


 ノアは、掠れた声で言った。


「……悪い。引っ張られた」


 レオの顔色は悪かった。


 夢の中なのに、はっきり分かるほどに。


 父王の背中に、ノアが引かれた。


 前世の呼び方をした。


 それだけで照合率が進みかけた。


 レオは、その事実に強く動揺していた。


 父王の記憶にすら、ノアを奪われる。


 死んだ父への呼称にすら、現世のノアが引き戻されかける。


 そんな恐怖が、赤い糸から滲んでくる。


 ノアは横目で見た。


「レオ。糸が怖い」


 レオは息を止める。


 赤い糸が、少しだけ緩んだ。


「ごめん」


「謝罪より現世名」


 レオは、すぐに言った。


「レオ・アステルレイン」


「俺は?」


「ノア・クロウ」


「よし」


 ノアは、自分でも小さく続けた。


「俺はノア・クロウ」


 首輪の熱が、ほんの少しだけ下がる。


 だが、父王の背中はまだそこにある。


 遠ざからない。


 記憶の中の若いイリアスは、父王へ近づいていく。


 若いセラフィードも隣にいる。


 父王は、二人が近づいた気配に気づいたのか、ゆっくり振り返りかけた。


 ノアの身体が、また硬直する。


 レオが即座に低く言った。


「見なくていい」


 ノアは唇を引き結ぶ。


「見る」


「無理をしている」


「してる」


 嘘はつけなかった。


 声は掠れている。


「でも、ここを見ないと、また誰かに勝手に使われる」


 レオは何も言わなかった。


 止めたい。


 戻したい。


 父王の記憶からノアを引き剥がしたい。


 それでも、レオは閉じない。


 赤い糸で支えるだけだった。


 父王が振り返る。


 顔はまだ、完全には見えない。


 記憶が、そこだけわずかに滲んでいる。意図的な改竄ではない。ノア自身が、まだ直視できないのだと分かった。


 若いイリアスが、軽く頭を下げる。


「父上」


 その声を聞いた瞬間、ノアの喉が再び詰まる。


 だが、今度は言わなかった。


 歯を食いしばり、飲み込んだ。


 伴侶首輪は熱を持つ。


 けれど、照合率は進まない。


 レオの赤い糸が、ノアの足元で現世名を支えている。


 若いセラフィードも礼を取る。


「陛下」


 父王の声が聞こえた。


「よく来た」


 低く、深い声だった。


 ノアの胸が痛む。


 その声を、覚えている。


 忘れていたわけではない。


 棺の奥に置いていただけだ。


 記憶の蓋が開いた途端、声がそのまま戻ってきた。


 優しいだけではない。


 王の声だ。


 命令も下す声。


 国を動かす声。


 それでも、イリアスには父の声だった。


 父王は、若いイリアスを見て何か言った。


 けれど、そこだけ音が曖昧になる。


 記憶が完全には再生しない。


 ノアは眉を寄せた。


「聞こえない」


 レオが周囲を見る。


「記憶が欠けている?」


「分からない。俺が聞きたくないだけかもしれない」


「ノア」


「呼ぶな。いや、呼べ。ややこしいな」


 レオは少しだけ間を置いて、静かに言った。


「ノア・クロウ」


「……助かる」


 ノアは、珍しく素直に返した。


 父王の背中を見ただけで、ここまで引かれる。


 前世の呼称を口にしただけで、照合率が動く。


 敵がこの記憶を使う理由が分かった。


 名だけではない。


 声。


 呼び方。


 親しい者への言葉。


 父を呼ぶ声。


 そういうものまで、照合率へ加算される。


 最悪だった。


 人の記憶を認証コードみたいに使うな。倫理が書類棚の裏に落ちている。拾ってこい。


 ノアは、低く言った。


「敵はこれを狙ってるんだな」


 レオが見る。


「前世の言葉を、君に言わせる」


「父上、セラフィード、陛下、俺の王家での呼び方。そういうの全部、照合の材料になる」


 ノアは苦く笑った。


 笑えなかったが、口だけは動いた。


「呼び間違えただけで魂が揺れるの、面倒すぎ」


 レオの声は静かだった。


「僕が呼び戻す」


「毎回?」


「毎回」


「重い」


「うん」


「でも、今は助かる」


 レオの赤い糸が、痛いほど温かく震えた。


 ノアは目を逸らす。


「今のも記録するな」


「した」


「最悪」


 少しだけ、息ができた。


 だが記憶は進む。


 父王が儀式場の中央へ向かう。


 若いイリアスと若いセラフィードも、その後に続く。


 白と黒の魔法陣の中心。


 同盟の誓約が行われる場所。


 使節たちは整列し、兵士たちは姿勢を正す。祈祷師が祝詞の準備を始め、文官が記録用の巻物を広げた。まだ何も起きていない。誰も叫んでいない。血も流れていない。


 けれど、ノアの胸の圧は増していく。


 この後に何が起きるのか、魂が知っている。


 記憶が知っている。


 知らないふりはできない。


 儀式場の魔法陣が、ゆっくり輝き始めた。


 白い線が先に光る。


 続いて、黒い線が応えるように淡く灯る。


 両国の魔力を結ぶための儀式陣。


 祝福の光。


 それが、床に広がっていく。


 その時、現世のノアだけが気づいた。


 父王の足元。


 白と黒の魔法陣の下。


 誰にも見えない場所に、黒い術式が這っていた。


 細く、薄く、影のように。


 正規の魔法陣の線ではない。


 祝福の紋でもない。


 黒い虫の脚のように、父王の立つ位置へ向かって伸びている。


 ノアの呼吸が止まった。


 レオが、その異変に気づいてノアを見る。


 ノアは、父王の足元から目を離せなかった。




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