第100話 父王の背中
儀式場の扉が開いた。
夢の中なのに、音が重かった。
金属の軋み。古い木材の低い響き。扉の向こうから流れ込んでくる香の匂いと、磨かれた石床の冷たい空気。祝祭の日に整えられたはずの空間は、どこか息を詰めていた。
同盟儀式場。
高い天井には、両国の旗が並んでいた。
片方はイリアスの王国の紋章。深い赤と黒を基調にした旗で、王家の金紋が中心に刺繍されている。もう片方はセラフィードの王国の紋章。白と青を基調にし、聖剣と月輪を組み合わせた紋が掲げられていた。
天井近くの窓から朝の光が差し込み、旗の布を透かして揺らしている。
床には巨大な魔法陣が描かれていた。
白と黒。
二つの魔力を均衡させるための、同盟儀式用の陣。
白い線は聖魔法の媒介銀で描かれ、黒い線は古い黒魔法の墨で引かれている。二つは交わりすぎず、離れすぎず、円の中心へ向かって複雑に絡んでいた。儀式としては美しい。整っている。だが、今のノア・クロウには、その整い方が逆に気味悪かった。
両国の使節が、左右に並んでいる。
白い礼装。
黒い礼装。
金の肩章。
銀の杖。
祈祷師、文官、護衛、魔導師、貴族たち。
兵士たちは壁際に控えていた。緊張が、鎧の隙間から滲んでいる。槍を持つ手は動かないが、指先だけがわずかに強張っていた。
祝福の場のはずだった。
戦争を終わらせるための儀式だった。
未来を結ぶための朝だった。
それなのに、空気は薄い刃のように張り詰めている。
ノアは、現世の姿のまま、その儀式場へ入った。
隣にはレオ・アステルレインがいる。
二人は記憶の中の人々には見えていない。足音も響かない。若いイリアスと若いセラフィードの後ろを歩いているのに、誰も振り返らない。
それでも、ノアの身体は重かった。
胸の奥が、少しずつ圧迫される。
夢の中の空気が、肺に入りにくい。喉の奥に何かが引っかかる。伴侶首輪は、まだ熱を持っていない。だが、黒い亀裂の底で、何かが待っているような気配があった。
レオの赤い糸が、すぐそばで震えている。
強くは触れない。
けれど、離れない。
若いイリアスは、前を向いていた。
儀式用の正装をまとい、背筋を伸ばしている。朝の部屋で見せた照れも軽さも、今は消えていた。王族として、父王の子として、この場に立つ顔になっている。
その隣を、若いセラフィードが歩いていた。
白い礼装。
静かな横顔。
こちらもまた、王子としての表情をしている。
だが、二人の距離は近かった。
袖が触れるほどではない。
けれど、互いの存在がそこにあると分かる距離。
それが、痛かった。
ノアは、唇を噛みそうになってやめた。
この記憶は、まだ壊れていない。
まだ誰も死んでいない。
まだ憎んでいない。
まだ黒魔導書へ手を伸ばしていない。
だからこそ、足元が崩れそうだった。
儀式場の奥に、一人の男が立っていた。
背を向けている。
深い赤の礼装。
肩にかかる重い外套。
銀糸で縁取られた王冠の影。
広い背中。
イリアスの父王だった。
ノアは、その背中を見た瞬間、動けなくなった。
世界から音が消えた。
使節のざわめきも、兵士の鎧のかすかな音も、香炉から立つ煙の揺らぎも、遠くなった。
背中。
ただ、その背中だけが見える。
完全な善人ではなかった。
ノアは、それを知っている。
いや、イリアスが知っていた。
王だった。
正しい判断だけをしてきた人ではない。戦争を止められなかった人でもある。多くの犠牲を出しながら、それでも玉座に座り続けた人だった。優しさだけで国を動かせるわけがない。父王もまた、いくつもの選択を間違え、遅らせ、飲み込んできた。
それでも、父だった。
幼いイリアスの頭に手を置いた人。
土まみれで戻った子どもを、叱る前に抱き寄せた人。
王子としてではなく、息子として名を呼んだ人。
戦場の報告を聞いた夜、誰にも見えない場所で疲れた息を吐いていた人。
完全ではなかった。
それでも、父だった。
その死が、イリアスを壊した。
ノアの喉が震えた。
止める前に、声が漏れた。
「……父上」
その瞬間、伴侶首輪が焼けるように熱を持った。
黒い亀裂が首輪の内側で一気に疼く。
照合率の数字が、二からわずかに歪んだ。二の輪郭が黒く滲み、次の数字へ形を変えかける。手の甲の照合番号が冷たく光り、白花派の印がぴりりと痛んだ。
魂糸が前世へ引かれる。
父上。
前世の呼称。
イリアスの声。
ノアの声でありながら、ノア・クロウの現在を押し流しかける言葉。
レオが即座に呼んだ。
「ノア」
赤い糸が、強く現在へ引いた。
ノアの瞳孔が開きかけていた。
胸が詰まる。
喉の奥から、短い呻きが漏れる。
「っ……」
「ノア・クロウ」
もう一度、レオが呼ぶ。
その声で、照合率の揺れが止まった。
数字は、二のまま沈む。
伴侶首輪の熱は残ったが、進行は止まった。
ノアは、はっと息を吸った。
呼吸が浅い。
背中に冷たい汗が滲む。
自分が何を口にしたのか、遅れて理解した。
ノアは、掠れた声で言った。
「……悪い。引っ張られた」
レオの顔色は悪かった。
夢の中なのに、はっきり分かるほどに。
父王の背中に、ノアが引かれた。
前世の呼び方をした。
それだけで照合率が進みかけた。
レオは、その事実に強く動揺していた。
父王の記憶にすら、ノアを奪われる。
死んだ父への呼称にすら、現世のノアが引き戻されかける。
そんな恐怖が、赤い糸から滲んでくる。
ノアは横目で見た。
「レオ。糸が怖い」
レオは息を止める。
赤い糸が、少しだけ緩んだ。
「ごめん」
「謝罪より現世名」
レオは、すぐに言った。
「レオ・アステルレイン」
「俺は?」
「ノア・クロウ」
「よし」
ノアは、自分でも小さく続けた。
「俺はノア・クロウ」
首輪の熱が、ほんの少しだけ下がる。
だが、父王の背中はまだそこにある。
遠ざからない。
記憶の中の若いイリアスは、父王へ近づいていく。
若いセラフィードも隣にいる。
父王は、二人が近づいた気配に気づいたのか、ゆっくり振り返りかけた。
ノアの身体が、また硬直する。
レオが即座に低く言った。
「見なくていい」
ノアは唇を引き結ぶ。
「見る」
「無理をしている」
「してる」
嘘はつけなかった。
声は掠れている。
「でも、ここを見ないと、また誰かに勝手に使われる」
レオは何も言わなかった。
止めたい。
戻したい。
父王の記憶からノアを引き剥がしたい。
それでも、レオは閉じない。
赤い糸で支えるだけだった。
父王が振り返る。
顔はまだ、完全には見えない。
記憶が、そこだけわずかに滲んでいる。意図的な改竄ではない。ノア自身が、まだ直視できないのだと分かった。
若いイリアスが、軽く頭を下げる。
「父上」
その声を聞いた瞬間、ノアの喉が再び詰まる。
だが、今度は言わなかった。
歯を食いしばり、飲み込んだ。
伴侶首輪は熱を持つ。
けれど、照合率は進まない。
レオの赤い糸が、ノアの足元で現世名を支えている。
若いセラフィードも礼を取る。
「陛下」
父王の声が聞こえた。
「よく来た」
低く、深い声だった。
ノアの胸が痛む。
その声を、覚えている。
忘れていたわけではない。
棺の奥に置いていただけだ。
記憶の蓋が開いた途端、声がそのまま戻ってきた。
優しいだけではない。
王の声だ。
命令も下す声。
国を動かす声。
それでも、イリアスには父の声だった。
父王は、若いイリアスを見て何か言った。
けれど、そこだけ音が曖昧になる。
記憶が完全には再生しない。
ノアは眉を寄せた。
「聞こえない」
レオが周囲を見る。
「記憶が欠けている?」
「分からない。俺が聞きたくないだけかもしれない」
「ノア」
「呼ぶな。いや、呼べ。ややこしいな」
レオは少しだけ間を置いて、静かに言った。
「ノア・クロウ」
「……助かる」
ノアは、珍しく素直に返した。
父王の背中を見ただけで、ここまで引かれる。
前世の呼称を口にしただけで、照合率が動く。
敵がこの記憶を使う理由が分かった。
名だけではない。
声。
呼び方。
親しい者への言葉。
父を呼ぶ声。
そういうものまで、照合率へ加算される。
最悪だった。
人の記憶を認証コードみたいに使うな。倫理が書類棚の裏に落ちている。拾ってこい。
ノアは、低く言った。
「敵はこれを狙ってるんだな」
レオが見る。
「前世の言葉を、君に言わせる」
「父上、セラフィード、陛下、俺の王家での呼び方。そういうの全部、照合の材料になる」
ノアは苦く笑った。
笑えなかったが、口だけは動いた。
「呼び間違えただけで魂が揺れるの、面倒すぎ」
レオの声は静かだった。
「僕が呼び戻す」
「毎回?」
「毎回」
「重い」
「うん」
「でも、今は助かる」
レオの赤い糸が、痛いほど温かく震えた。
ノアは目を逸らす。
「今のも記録するな」
「した」
「最悪」
少しだけ、息ができた。
だが記憶は進む。
父王が儀式場の中央へ向かう。
若いイリアスと若いセラフィードも、その後に続く。
白と黒の魔法陣の中心。
同盟の誓約が行われる場所。
使節たちは整列し、兵士たちは姿勢を正す。祈祷師が祝詞の準備を始め、文官が記録用の巻物を広げた。まだ何も起きていない。誰も叫んでいない。血も流れていない。
けれど、ノアの胸の圧は増していく。
この後に何が起きるのか、魂が知っている。
記憶が知っている。
知らないふりはできない。
儀式場の魔法陣が、ゆっくり輝き始めた。
白い線が先に光る。
続いて、黒い線が応えるように淡く灯る。
両国の魔力を結ぶための儀式陣。
祝福の光。
それが、床に広がっていく。
その時、現世のノアだけが気づいた。
父王の足元。
白と黒の魔法陣の下。
誰にも見えない場所に、黒い術式が這っていた。
細く、薄く、影のように。
正規の魔法陣の線ではない。
祝福の紋でもない。
黒い虫の脚のように、父王の立つ位置へ向かって伸びている。
ノアの呼吸が止まった。
レオが、その異変に気づいてノアを見る。
ノアは、父王の足元から目を離せなかった。




