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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第五章 【記憶の棺と幼い亡霊】

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第101話 誰にも見えない術式



 父王の足元に、黒い術式が這っていた。


 儀式場は、祝福の光に満ちている。


 高い天井から垂れる両国の旗。磨かれた石床。白と黒の同盟魔法陣。整列する使節たち。緊張を押し殺した兵士。祈祷師の低い祝詞。文官が巻物を広げる衣擦れの音。


 すべてが、同盟のために整えられていた。


 白い線は聖魔法の銀で描かれている。


 黒い線は古い黒魔法の墨で引かれている。


 二つの魔法陣は、敵対ではなく均衡を示すために、ゆっくりと輝きを重ねようとしていた。白の光が黒の線を押し潰さず、黒の線が白の光を呑み込まず、円の中心で互いの形を保ちながら結ばれていく。


 美しい儀式だった。


 少なくとも、見える部分だけは。


 ノア・クロウだけが、別のものを見ていた。


 父王の足元。


 白と黒の魔法陣の下。


 祝福の光の影に紛れるように、細い黒い術式が這っている。


 それは、正規の儀式陣ではない。


 同盟の魔法陣の線に似せてあるが、流れが違う。白い光に反射するたび、聖魔法のように見える。だが、核が違う。線の中心にある構文が、ルミナリア王国の聖魔法式とは微妙にずれていた。


 それはひどく巧妙だった。


 白金の光の縁を借り、聖魔法の癖を真似て、祝福の術式の一部であるかのように潜んでいる。


 当時のイリアスには見えなかった。


 若いセラフィードにも見えなかった。


 この場にいる祈祷師にも、魔導師にも、兵士にも、使節にも見えていない。


 だが、今のノアには見える。


 黒魔導書を知り、オルドレイス代理の構文を見て、魂帳局の封緘印を掌に残された、現世のノアには。


 喉が詰まった。


 伴侶首輪《メイト・カラー》が熱を持つ。黒い亀裂が、首輪の内側でざわりと疼いた。掌の灰色の封緘印が痛む。右手の甲の照合番号が冷たく光り、魂糸が父王の足元の術式へ激しく反応した。


 ノアは、低く呟いた。


「違う……これ、ルミナリアの聖魔法じゃない」


 隣のレオ・アステルレインが、即座に視線を向ける。


「見えるの?」


 ノアは、父王の足元から目を離せなかった。


「今ならな」


 声が掠れる。


 胸の奥が圧迫されている。叫びたいのに、喉の入り口を見えない手で押さえられているようだった。


 レオも術式を見ようとする。


 青い瞳が儀式場の床を追う。


 だが、彼の視線は黒い術式を捉えきれない。現世のレオであっても、この記憶の中では、まだ完全には見えないのだろう。セラフィードの魂に刻まれた「あの時、見えなかった」という事実が、視界そのものに膜を張っている。


 ノアは歯を食いしばった。


「聖魔法に偽装してる。白金の光の反射を使って、ルミナリアの術式に見せてる。でも核が違う」


「黒魔導書?」


「違う。黒魔導書の気配じゃない」


 ノアの瞳孔が開く。


 床を這う黒い線の奥に、構文が見える。


 薄い。


 細い。


 祝福の魔法陣の下に隠されている。


 だが、確かにある。


「オルドレイスの構文に近い」


 レオの赤い糸が強く震えた。


 ノアは続けた。


「それだけじゃない。灰色の構文が混ざってる。魂帳局の封緘印と同じ系統だ」


 掌の灰色の帳簿印が、熱を増した。


 まるで、見つけられたことに反応しているようだった。


 父王は、その上に立っている。


 まだ何も知らない。


 若いイリアスも気づいていない。


 若いセラフィードも気づいていない。


 儀式場の誰一人として、この細い黒い術式を見ていない。


 ノアの息が荒くなった。


 胸が詰まる。


 首輪の熱が強まり、黒い亀裂がじくじくと疼く。魂糸が、父王の足元へ引かれた。前世の記憶が、現世の身体を引きずる。


 ノアは反射的に走り出そうとした。


「止まれ……っ、そこに立つな!」


 声は、儀式場へ届かなかった。


 父王は動かない。


 祈祷師は祝詞を続ける。


 使節たちは見守っている。


 若いイリアスも、若いセラフィードも、父王の足元の異物に気づかない。


 ノアはもう一度叫ぼうとした。


「父……っ」


 言いかけて、喉が詰まった。


 前世の呼称が出そうになった瞬間、首輪が焼けるように熱を持つ。照合率の数字が不安定に揺れた。レオの赤い糸がすぐに現世へ引き戻そうとする。


「ノア・クロウ」


 レオの声が鋭く入る。


 ノアは息を呑んだ。


 数字は進まない。


 だが、胸の圧は増す。


 彼は、もう一度父王へ向かって手を伸ばした。


「止まれ……っ、そこに立つな!」


 届かない。


 手も、声も、魔力も。


 夢の記憶の中で、現世のノアは透明な存在だった。儀式場の床を蹴ろうとしても、足は重い。前へ出ようとすると、空間そのものが抵抗する。記憶は、もう起きたことを変えさせない。


 若いイリアスの肩越しに、父王の背中が見える。


 ノアは、その背中へ向かって必死に手を伸ばした。


 届かない。


 届くはずがない。


 分かっている。


 分かっているから、余計に腹が立つ。


 レオがノアの腕を支えた。


 強く引き剥がすのではなく、崩れそうな身体を支える。


「これは記憶だ」


 ノアは振り向かずに叫んだ。


「分かってる! 分かってるから腹立つんだよ!」


 声が儀式場の高い天井へぶつかる。


 だが、それも記憶の人々には届かない。


 誰も振り返らない。


 誰も止まらない。


 誰も、父王の足元を見ない。


 ノアの喉がさらに詰まった。


 叫んでも届かない夢。


 趣味が悪すぎる。


 悪意のある劇場だ。


 観客席に縛りつけられ、結末を知っている悲劇を最前列で見せられている。人類はどうしてこういう精神攻撃だけ妙に精密に作るのか。いや、これは人類だけのせいではない。魔法と記憶と役所が結託した最悪の作品だ。


 レオの声が低くなる。


「ノア、戻る」


「嫌だ」


 即答だった。


 赤い糸が強く震える。


 レオは息を詰めた。


「このままだと君が引かれる」


「ここで戻ったら、これも燃やされるか封じられる」


「君が危ない」


「知ってる!」


 ノアは、父王の足元を睨み続けた。


 瞳孔が開いている。


 視界の端が暗い。


 首輪は熱く、掌の封緘印は灰色の光を放っている。魂糸が黒い術式へ反応しすぎて、胸の奥が軋んだ。重度反応にはまだ入っていない。だが、その手前まで来ているのが分かる。


 レオはノアの腕を支えたまま、歯を食いしばった。


 止めたい。


 記憶を止めたい。


 父王の足元の術式ごと、儀式場を白金の魔法で覆い、これ以上ノアに見せたくない。


 前世で自分は無実だったかもしれない。


 その可能性が、今ようやく形を持ち始めている。


 だが、その喜びなどない。


 無実だったとしても、イリアスを救えなかった事実は消えない。


 父王が倒れ、イリアスが壊れ、黒魔導書へ向かい、最後にセラフィードがイリアスを殺した。その道は変わらない。


 真犯人が別にいたとしても、失ったものは戻らない。


 だから、今レオの中にあるのは、怒りと後悔と、ノアをこれ以上失いたくない恐怖だけだった。


 赤い糸が、ノアを記憶から引き剥がそうと強く張る。


 ノアは、それに抵抗した。


「まだ駄目だ」


「ノア」


「見る。今度こそ見る」


「君が壊れる」


「壊れないために見てる!」


 レオの手が震えた。


 だが、記憶を閉じない。


 ノアの声を奪わない。


 ただ、支える。


 ひどく危険な我慢だった。


 儀式場では、祝詞が進んでいた。


 白と黒の同盟魔法陣が、さらに輝きを増す。


 白の線が、父王の足元を包む。


 黒の線が、若いイリアスの立つ位置へ静かに伸びる。


 若いセラフィードは、同盟相手の王子として、正面の位置へ立っている。


 すべてが儀式通り。


 すべてが正しい手順。


 その下で、黒い外部術式だけが、虫のように這っていた。


 父王の足元へ。


 心臓の位置を測るように。


 魔力核の流れを読むように。


 白金の光に紛れながら。


 ノアは、目を凝らす。


 術式の線が見える。


 聖魔法偽装。


 オルドレイス構文。


 魂帳局の灰色封緘式。


 それらが絡み合っている。


 黒魔導書の直接的な気配はない。


 つまり、黒い災厄の術式ではない。


 イリアスの術式でもない。


 セラフィードの聖魔法でもない。


 外部から差し込まれた何か。


 儀式そのものに寄生した術式。


 ノアは、低く言った。


「これ、最初から仕込まれてた」


 レオの顔が強張る。


「儀式場に?」


「たぶん。魔法陣が起動したら、白金の光に紛れて動くようにしてある。だから誰にも見えない。ルミナリアの聖魔法に見える」


「だから、僕のせいに」


「できる」


 ノアの声は苦かった。


「できすぎるくらいにな」


 父王が、魔法陣の中心へ足を進める。


 黒い術式が、それを待っていたように細く伸びた。


 ノアの身体が前へ出ようとする。


 だが、動かない。


 記憶が、透明な壁のように立ちはだかる。


 ノアは拳を握った。


「止まれ……!」


 声は届かない。


「そこに立つな!」


 届かない。


「気づけよ……っ!」


 誰も気づかない。


 若いイリアスは父王を見ている。


 若いセラフィードは儀式の進行を見ている。


 二人とも、これから何が起きるのか知らない。


 ノアは、喉の奥で短く呻いた。


「っ、ぐ……」


 首輪が熱い。


 魂糸が軋む。


 瞳孔が開いたまま戻らない。


 レオが、すぐに名を呼ぶ。


「ノア・クロウ」


 赤い糸が現在へ引く。


 ノアは息を吸い、吐いた。


 戻されそうになる。


 だが、足を踏みとどまる。


「まだ」


「ノア」


「まだだ、レオ」


 レオは、苦しげに息を詰めた。


「……分かった」


 分かったと言いながら、その声は血を吐くようだった。


 儀式場の魔法陣が、ついに強く輝き始めた。


 白い光が立ち上る。


 黒い線が応える。


 両国の使節が息を呑む。


 祝詞の声が高くなる。


 父王の足元で、誰にも見えない黒い術式が、するりと花弁を広げる準備を始めた。


 ノアの喉が詰まる。


 叫びたい。


 止めたい。


 けれど、声が喉の奥で潰れかける。


 次の瞬間。


 父王の胸元に、白金の光が突き刺さった。


 同時に、足元の黒い術式が花のように開く。


 ノアの叫びは、喉の奥で潰れた。



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