第101話 誰にも見えない術式
父王の足元に、黒い術式が這っていた。
儀式場は、祝福の光に満ちている。
高い天井から垂れる両国の旗。磨かれた石床。白と黒の同盟魔法陣。整列する使節たち。緊張を押し殺した兵士。祈祷師の低い祝詞。文官が巻物を広げる衣擦れの音。
すべてが、同盟のために整えられていた。
白い線は聖魔法の銀で描かれている。
黒い線は古い黒魔法の墨で引かれている。
二つの魔法陣は、敵対ではなく均衡を示すために、ゆっくりと輝きを重ねようとしていた。白の光が黒の線を押し潰さず、黒の線が白の光を呑み込まず、円の中心で互いの形を保ちながら結ばれていく。
美しい儀式だった。
少なくとも、見える部分だけは。
ノア・クロウだけが、別のものを見ていた。
父王の足元。
白と黒の魔法陣の下。
祝福の光の影に紛れるように、細い黒い術式が這っている。
それは、正規の儀式陣ではない。
同盟の魔法陣の線に似せてあるが、流れが違う。白い光に反射するたび、聖魔法のように見える。だが、核が違う。線の中心にある構文が、ルミナリア王国の聖魔法式とは微妙にずれていた。
それはひどく巧妙だった。
白金の光の縁を借り、聖魔法の癖を真似て、祝福の術式の一部であるかのように潜んでいる。
当時のイリアスには見えなかった。
若いセラフィードにも見えなかった。
この場にいる祈祷師にも、魔導師にも、兵士にも、使節にも見えていない。
だが、今のノアには見える。
黒魔導書を知り、オルドレイス代理の構文を見て、魂帳局の封緘印を掌に残された、現世のノアには。
喉が詰まった。
伴侶首輪が熱を持つ。黒い亀裂が、首輪の内側でざわりと疼いた。掌の灰色の封緘印が痛む。右手の甲の照合番号が冷たく光り、魂糸が父王の足元の術式へ激しく反応した。
ノアは、低く呟いた。
「違う……これ、ルミナリアの聖魔法じゃない」
隣のレオ・アステルレインが、即座に視線を向ける。
「見えるの?」
ノアは、父王の足元から目を離せなかった。
「今ならな」
声が掠れる。
胸の奥が圧迫されている。叫びたいのに、喉の入り口を見えない手で押さえられているようだった。
レオも術式を見ようとする。
青い瞳が儀式場の床を追う。
だが、彼の視線は黒い術式を捉えきれない。現世のレオであっても、この記憶の中では、まだ完全には見えないのだろう。セラフィードの魂に刻まれた「あの時、見えなかった」という事実が、視界そのものに膜を張っている。
ノアは歯を食いしばった。
「聖魔法に偽装してる。白金の光の反射を使って、ルミナリアの術式に見せてる。でも核が違う」
「黒魔導書?」
「違う。黒魔導書の気配じゃない」
ノアの瞳孔が開く。
床を這う黒い線の奥に、構文が見える。
薄い。
細い。
祝福の魔法陣の下に隠されている。
だが、確かにある。
「オルドレイスの構文に近い」
レオの赤い糸が強く震えた。
ノアは続けた。
「それだけじゃない。灰色の構文が混ざってる。魂帳局の封緘印と同じ系統だ」
掌の灰色の帳簿印が、熱を増した。
まるで、見つけられたことに反応しているようだった。
父王は、その上に立っている。
まだ何も知らない。
若いイリアスも気づいていない。
若いセラフィードも気づいていない。
儀式場の誰一人として、この細い黒い術式を見ていない。
ノアの息が荒くなった。
胸が詰まる。
首輪の熱が強まり、黒い亀裂がじくじくと疼く。魂糸が、父王の足元へ引かれた。前世の記憶が、現世の身体を引きずる。
ノアは反射的に走り出そうとした。
「止まれ……っ、そこに立つな!」
声は、儀式場へ届かなかった。
父王は動かない。
祈祷師は祝詞を続ける。
使節たちは見守っている。
若いイリアスも、若いセラフィードも、父王の足元の異物に気づかない。
ノアはもう一度叫ぼうとした。
「父……っ」
言いかけて、喉が詰まった。
前世の呼称が出そうになった瞬間、首輪が焼けるように熱を持つ。照合率の数字が不安定に揺れた。レオの赤い糸がすぐに現世へ引き戻そうとする。
「ノア・クロウ」
レオの声が鋭く入る。
ノアは息を呑んだ。
数字は進まない。
だが、胸の圧は増す。
彼は、もう一度父王へ向かって手を伸ばした。
「止まれ……っ、そこに立つな!」
届かない。
手も、声も、魔力も。
夢の記憶の中で、現世のノアは透明な存在だった。儀式場の床を蹴ろうとしても、足は重い。前へ出ようとすると、空間そのものが抵抗する。記憶は、もう起きたことを変えさせない。
若いイリアスの肩越しに、父王の背中が見える。
ノアは、その背中へ向かって必死に手を伸ばした。
届かない。
届くはずがない。
分かっている。
分かっているから、余計に腹が立つ。
レオがノアの腕を支えた。
強く引き剥がすのではなく、崩れそうな身体を支える。
「これは記憶だ」
ノアは振り向かずに叫んだ。
「分かってる! 分かってるから腹立つんだよ!」
声が儀式場の高い天井へぶつかる。
だが、それも記憶の人々には届かない。
誰も振り返らない。
誰も止まらない。
誰も、父王の足元を見ない。
ノアの喉がさらに詰まった。
叫んでも届かない夢。
趣味が悪すぎる。
悪意のある劇場だ。
観客席に縛りつけられ、結末を知っている悲劇を最前列で見せられている。人類はどうしてこういう精神攻撃だけ妙に精密に作るのか。いや、これは人類だけのせいではない。魔法と記憶と役所が結託した最悪の作品だ。
レオの声が低くなる。
「ノア、戻る」
「嫌だ」
即答だった。
赤い糸が強く震える。
レオは息を詰めた。
「このままだと君が引かれる」
「ここで戻ったら、これも燃やされるか封じられる」
「君が危ない」
「知ってる!」
ノアは、父王の足元を睨み続けた。
瞳孔が開いている。
視界の端が暗い。
首輪は熱く、掌の封緘印は灰色の光を放っている。魂糸が黒い術式へ反応しすぎて、胸の奥が軋んだ。重度反応にはまだ入っていない。だが、その手前まで来ているのが分かる。
レオはノアの腕を支えたまま、歯を食いしばった。
止めたい。
記憶を止めたい。
父王の足元の術式ごと、儀式場を白金の魔法で覆い、これ以上ノアに見せたくない。
前世で自分は無実だったかもしれない。
その可能性が、今ようやく形を持ち始めている。
だが、その喜びなどない。
無実だったとしても、イリアスを救えなかった事実は消えない。
父王が倒れ、イリアスが壊れ、黒魔導書へ向かい、最後にセラフィードがイリアスを殺した。その道は変わらない。
真犯人が別にいたとしても、失ったものは戻らない。
だから、今レオの中にあるのは、怒りと後悔と、ノアをこれ以上失いたくない恐怖だけだった。
赤い糸が、ノアを記憶から引き剥がそうと強く張る。
ノアは、それに抵抗した。
「まだ駄目だ」
「ノア」
「見る。今度こそ見る」
「君が壊れる」
「壊れないために見てる!」
レオの手が震えた。
だが、記憶を閉じない。
ノアの声を奪わない。
ただ、支える。
ひどく危険な我慢だった。
儀式場では、祝詞が進んでいた。
白と黒の同盟魔法陣が、さらに輝きを増す。
白の線が、父王の足元を包む。
黒の線が、若いイリアスの立つ位置へ静かに伸びる。
若いセラフィードは、同盟相手の王子として、正面の位置へ立っている。
すべてが儀式通り。
すべてが正しい手順。
その下で、黒い外部術式だけが、虫のように這っていた。
父王の足元へ。
心臓の位置を測るように。
魔力核の流れを読むように。
白金の光に紛れながら。
ノアは、目を凝らす。
術式の線が見える。
聖魔法偽装。
オルドレイス構文。
魂帳局の灰色封緘式。
それらが絡み合っている。
黒魔導書の直接的な気配はない。
つまり、黒い災厄の術式ではない。
イリアスの術式でもない。
セラフィードの聖魔法でもない。
外部から差し込まれた何か。
儀式そのものに寄生した術式。
ノアは、低く言った。
「これ、最初から仕込まれてた」
レオの顔が強張る。
「儀式場に?」
「たぶん。魔法陣が起動したら、白金の光に紛れて動くようにしてある。だから誰にも見えない。ルミナリアの聖魔法に見える」
「だから、僕のせいに」
「できる」
ノアの声は苦かった。
「できすぎるくらいにな」
父王が、魔法陣の中心へ足を進める。
黒い術式が、それを待っていたように細く伸びた。
ノアの身体が前へ出ようとする。
だが、動かない。
記憶が、透明な壁のように立ちはだかる。
ノアは拳を握った。
「止まれ……!」
声は届かない。
「そこに立つな!」
届かない。
「気づけよ……っ!」
誰も気づかない。
若いイリアスは父王を見ている。
若いセラフィードは儀式の進行を見ている。
二人とも、これから何が起きるのか知らない。
ノアは、喉の奥で短く呻いた。
「っ、ぐ……」
首輪が熱い。
魂糸が軋む。
瞳孔が開いたまま戻らない。
レオが、すぐに名を呼ぶ。
「ノア・クロウ」
赤い糸が現在へ引く。
ノアは息を吸い、吐いた。
戻されそうになる。
だが、足を踏みとどまる。
「まだ」
「ノア」
「まだだ、レオ」
レオは、苦しげに息を詰めた。
「……分かった」
分かったと言いながら、その声は血を吐くようだった。
儀式場の魔法陣が、ついに強く輝き始めた。
白い光が立ち上る。
黒い線が応える。
両国の使節が息を呑む。
祝詞の声が高くなる。
父王の足元で、誰にも見えない黒い術式が、するりと花弁を広げる準備を始めた。
ノアの喉が詰まる。
叫びたい。
止めたい。
けれど、声が喉の奥で潰れかける。
次の瞬間。
父王の胸元に、白金の光が突き刺さった。
同時に、足元の黒い術式が花のように開く。
ノアの叫びは、喉の奥で潰れた。




