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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第五章 【記憶の棺と幼い亡霊】

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第96話 黒く燃える記憶



 影が、振り返りかけた。


 封印庫の奥。


 若いイリアスの背後。


 黒いローブの裾が、石床を擦る。胸元には白い花のような紋。袖口には灰色の帳簿の印。その二つを繋ぐように、黒い構文が細く這っている。


 顔は、まだ見えない。


 フードの奥にあるはずの輪郭が、ほんの少しだけ動いた。


 ノア・クロウは、息を止めた。


 見える。


 今度こそ、見える。


 オルドレイス代理。


 白花派。


 魂帳局。


 若いイリアスが黒魔導書へ手を伸ばす、その背後にいた何者か。


 レオ・アステルレインの赤い糸が、夢の中で強く張った。


「ノア」


 呼ばれても、ノアは目を逸らさなかった。


 影の顔が見えそうになった、その瞬間。


 記憶が黒く燃えた。


 炎ではなかった。


 黒い文字だった。


 封印庫の壁に刻まれていた封印文字が、一斉に剥がれ、燃えながら舞い上がる。石壁は炎に包まれるのではなく、文字の灰になって崩れていった。棚に並んでいた封印具も、銀鎖も、黒魔導書を包んでいた布も、若いイリアスの輪郭さえ、黒い文字の灰へ変わっていく。


 記憶そのものが燃やされている。


 見られることを拒むように。


 正体へ触れられることを拒むように。


 オルドレイスの術式が、夢の奥で防衛反応を起こした。


 黒い棺の中に封じられていた記憶が、内側から焼け落ちる。


 ノアの喉へ、黒い文字の灰が入り込んだ。


 夢の中なのに、吸い込んだ感触があった。


 乾いた紙。


 焦げた血。


 黒い魔力。


 それが喉の内側へ貼りつき、声を削り、肺へ落ちる。


 ノアの瞳孔が開いた。


 赤い瞳が血走る。


 白目を剥きかけた視界の中で、封印庫の黒炎がぐにゃりと歪む。伴侶首輪《メイト・カラー》の黒い亀裂が広がり、首元へ冷たい熱が走った。


 魂糸が裂けかける。


 レオの赤い糸が、それを支えようと伸びる。


 だが、黒い文字の灰が、ノアの声を焼く。


「が、あ゛……っ、あ゛ああああああッ!! 燃やす、な……ッ!」


 叫びは、喉を裂いて出た。


 獣の咆哮のようだった。


 人の言葉に近い形をかろうじて残しているだけで、その奥はもう、理性の整った悲鳴ではない。焼けた記憶に喉を掻きむしられ、魂の奥から引きずり出された声だった。


 現実の研究室で、ノアの身体が寝台の上で大きく痙攣した。


 肩が跳ね、背筋が弓なりに反り、指先が硬直して敷布を掻く。瞳孔は開いたまま戻らず、赤い瞳の縁に血管が浮く。唇の端に泡混じりの息が滲み、黒い魔力が口元から霧のように漏れた。


 セドリック・バロウズが水晶の前で鋭く言う。


「限界反応、重度へ入る。照合率は進めるな、アステルレイン!」


 夢の中で、レオはノアへ駆け寄った。


 抱えようとする。


 崩れる身体を支えようとする。


 同時に、記憶の棺ごと閉じてしまいたい衝動が、彼の中で爆発しそうになった。


 黒く燃える封印庫。


 喉を焼かれるノア。


 血走った赤い瞳。


 泡混じりの息。


 痙攣する魂糸。


 こんなものを見せるくらいなら、棺ごと閉じたい。黒魔導書も、影も、封印庫も、全部白金の魔法で封じ、ノアの目から遠ざけたい。


 だが、ノアが叫んだ。


「ぐ、ぁああああああああッ!! 閉じ、るな……ッ!!」


 レオの手が止まる。


「ノア!」


「ぎゃあああああああああッ!! 閉じるな、レオ……ッ!!」


 喉が裂けるように声が崩れる。


 舌がうまく収まらず、言葉が濁る。黒い文字の灰が口元から霧と混ざって漏れ、泡混じりの息が唇を濡らした。


「ぐぅ、あ゛あ゛ああああああッ!!」


「がああああああああああッ!!」


「あ゛、あ゛ぐ、ぐぁあああああッ!!」


「ぎぃいいいいいいッ!!」


「燃やすな、燃やすなああああああッ!!」


 ノアの夢の身体が膝から崩れる。


 だが、倒れながらも手を伸ばした。燃えていく封印庫へ。黒い文字の灰へ。消されようとしている影の痕跡へ。


 レオはノアを抱える。


 だが、閉じない。


 封じない。


 記憶を消さない。


 ただ、燃える記憶の中で、ノアの現世名を呼ぶ。


「ノア・クロウ」


 赤い糸が、黒い灰の中で光る。


「君は今ここにいる」


 ノアの魂糸が、裂けかけながら震えた。


「燃やされても、君の声は消えない」


「ぐぼ、ぉおおおおおおおおッ!!」


 ノアが咆哮した。


 現実の身体も同時に大きく跳ねる。


 胸が大きく反り、喉が詰まり、吐き気で身体が折れる。胃の奥から込み上げたものが、泡混じりの息とともに口元へ滲み、治癒用の布を汚した。身体制御を失った魔法的限界反応として、筋肉が不規則に収縮し、膝が寝台を打ち、指が敷布を掴んでは離す。


 セドリックが記録陣を走らせる。


「魂糸裂傷寸前。赤い糸で現世名固定、継続!」


 夢の中で、ノアの叫びが続く。


「あがぁああああああああッ!!」


「ぐ、ぎ、ぎぃいいいいいいッ!!」


「お゛、おおおおおおおおおッ!!」


「あ゛あ゛あ゛ああああああああッ!!」


「燃える、な……ッ、消え、るな……ッ!!」


 黒い文字の灰が、ノアの喉へさらに入り込む。


 息を吸えば焼けた文字が入る。


 吐けば黒い霧が漏れる。


 声はどんどん崩れていく。


「ぐぇ、げほ、あ゛あああああッ!!」


「ごぼ、ぉおおおおおおッ!!」


「ぎゃああああああああああッ!!」


「あ゛ぎ、ぎ、ぎぃいいいいいいッ!!」


「う゛、あ゛、あ゛あ゛あ゛あああああッ!!」


 瞳孔は開いたまま。


 赤い瞳は血走り、焦点が合わない。白目を剥きかけるたび、レオが名を呼ぶ。


「ノア・クロウ」


「ぐぁあああああああッ!!」


「君は今ここにいる」


「お゛おおおおおおおおおッ!!」


「燃やされても、君の声は消えない」


「あ゛あ゛あああああああああッ!!」


 ノアはレオの腕の中で暴れる。


 暴れようとしているのではない。


 身体が勝手に跳ねる。


 大痙攣が連続し、背筋が弓なりに反り、腕が黒い灰を掴むように痙攣する。舌がうまく収まらず、言葉にならない音が口から溢れる。


「ぎぃ、あ゛、ごぼ、ぐあああああッ!!」


「おおおおおおおおおッ!!」


「あが、あがががががッ!!」


「ぐぅうううううううッ!!」


「い、や、だ……ッ、燃やす、な……ッ!!」


 ノアは、消えかける影の印を見ていた。


 黒いローブの影は、顔を見せる前に燃えている。


 白い花の紋は灰になった。


 黒い構文も燃える。


 だが、灰色の帳簿印だけが、ほんの一瞬、黒い文字の灰の中に残った。


 ノアの瞳が、それを捉える。


「ぐ、ぁ……ッ、あれ……ッ!」


 レオがノアの視線を追う。


 灰色の帳簿印。


 魂帳局の印に似たそれが、記憶の燃焼から逃れるように揺れている。


 ノアは手を伸ばした。


 届かない。


 身体が痙攣し、指先が別の方向へ跳ねる。


 それでも伸ばす。


「ぎゃああああああッ!!」


「ぐぼおおおおおおッ!!」


「あ゛、あ゛、あ゛ああああああッ!!」


「お゛え、げほ、ぐぅうううッ!!」


「取る……ッ、取る、から……ッ!!」


 レオはノアを支える腕に力を込めた。


 閉じない。


 封じない。


 ただ、ノアの身体が黒炎へ落ちないように支える。


「ノア・クロウ」


「ぐああああああああッ!!」


「君は今ここにいる」


「ぎぃいいいいいいいいッ!!」


「燃やされても、君の声は消えない」


「あ゛あ゛あ゛あああああああッ!!」


 ノアの手が灰へ突っ込まれた。


 夢の中なのに、焼ける感覚があった。


 黒い文字の灰が皮膚に貼りつき、指先から魂へ入り込もうとする。伴侶首輪の黒い亀裂がさらに広がる。照合率の二が不安定に揺れたが、進まない。赤い糸が必死に現世名を支えている。


 現実のノアの身体が、寝台でさらに大きく痙攣した。


 白目を剥きかけ、赤い瞳の奥で焦点が飛ぶ。泡混じりの息が唇に溜まり、黒い魔力が霧のように漏れる。吐き気で身体が横へ折れ、制御を失った震えが肩から足先まで走った。


 セドリックが短く叫ぶ。


「まだ戻すな。掴みかけている!」


 夢の中で、ノアは呻いた。


「ぐ、ぁ……ッ、そこ……ッ!」


「ノア!」


「うる、さい……ッ、呼べ……ッ!」


 レオは息を呑んだ。


 そして、すぐに呼ぶ。


「ノア・クロウ」


「があああああああああッ!!」


「ノア・クロウ」


「ぎゃあああああああッ!!」


「ノア・クロウ」


「あ゛あ゛あ゛ああああああッ!!」


「ノア・クロウ」


「ぐぼ、ぉおおおおおおおッ!!」


 ノアの指先が、灰色の帳簿印を掴んだ。


 それは物体ではなかった。


 印。


 記録。


 封緘。


 魂帳局の管理式の一部。


 それでも、夢の中では薄い金属片のような感触を持っていた。


 ノアは、それを握りしめる。


 黒い文字の灰が一気にノアの腕を這い上がる。


「ぎぃいいいいいいいいッ!!」


「お゛おおおおおおおおおッ!!」


「あがぁあああああああッ!!」


「ぐ、ぐぅ、ぐああああああッ!!」


「離す、か……ッ、ばか……ッ!」


 レオの赤い糸が、ノアの腕を現在へ繋ぎ止める。


「君は今ここにいる」


「ごぼ、ぉおおおおおッ!!」


「燃やされても、君の声は消えない」


「あ゛あ゛あ゛あ゛ああああああッ!!」


 ノアは、最後の力で灰色の帳簿印を引き抜いた。


 その瞬間、封印庫が完全に黒く崩れた。


 若いイリアスの姿も、黒魔導書も、影も、壁も、棚も、すべて黒い文字の灰になって渦を巻く。


 ノアの喉から、さらに深い咆哮が漏れた。


「があああああああああああッ!!」


「ぐぎぃいいいいいいいいッ!!」


「あ゛、あ゛、あ゛あああああああッ!!」


「おおおおおおおおおおッ!!」


「ごぼ、ぐ、げほ、あ゛ああああッ!!」


 レオがノアを抱えたまま赤い糸を引いた。


 今度は閉じるためではない。


 現実へ戻すために。


 ノアの手の中には、灰色の帳簿印がある。


 それだけを失わないように、赤い糸が強く巻きつく。


「戻るよ、ノア・クロウ」


「ぐ、ぁ……ッ、もど……ッ!」


「君は今ここにいる」


「ぎぃ、あ゛、あ゛ああああッ!!」


「燃やされても、君の声は消えない」


「……の、あ……ッ!」


 ノアは、崩れた声で自分の名を掴んだ。


 その瞬間、夢が裂けた。


 現実の研究室で、ノアの身体が大きく跳ねた。


 最後の大痙攣が背中から首筋へ走り、喉が詰まり、唇から泡混じりの息がこぼれる。セドリックの制御陣が光り、赤い糸が現実側へ戻る。


 レオも目を覚ました。


 顔色は悪い。


 けれど、すぐにノアへ手を伸ばす。


「ノア」


 ノアは返事ができなかった。


 喉が潰れている。


 呼吸は荒く、赤い瞳は血走り、瞳孔はまだ開いたままだった。身体は小刻みに痙攣し、指先だけが何かを握りしめている。


 セドリックが短く言う。


「吐かせるな。横向きに支えろ。喉を先に開ける」


 レオはノアの身体を支えた。


 強く抱き込まない。


 呼吸を邪魔しない。


 身体を冷やさないように布をかけ、首元の熱を確認する。伴侶首輪の黒い亀裂は広がっていたが、照合率は二のままだった。


 進んでいない。


 ノアは勝ったのではない。


 ただ、燃やされなかった。


 それだけだった。


 重度反応後のケアは、夜を越えた。


 水。


 喉の治癒。


 魔力回路の調整。


 髪を梳く。


 身体を冷やさないように布を替える。


 首輪の熱を鎮める。


 口元に残った泡混じりの息を拭い、黒い魔力の霧を浄化し、痙攣の残りが走るたびに赤い糸で現在へ戻す。


 レオは何度も名を呼んだ。


 ノア・クロウ。


 君は今ここにいる。


 燃やされても、君の声は消えない。


 ノアはほとんど返せなかった。


 それでも、指先だけは握ったままだった。


 翌朝。


 窓の外に薄い光が差した頃、ノアはようやく目を開けた。


 喉はひどく掠れていた。


 身体は鉛のように重い。


 首輪はまだ熱を持っている。


 レオは寝台のそばにいた。眠っていない顔だった。いつものことになりつつある。睡眠という概念に謝れ。


 ノアは、かすれた声で呟いた。


「……記憶の火事、消火不良」


 レオの青い瞳が揺れた。


「燃やされなかった」


「……言い方、重い」


「本当だから」


「水」


 レオはすぐに水を渡した。


 ノアは少しずつ飲んだ。


 喉が痛む。


 それでも、飲めた。


 セドリックが研究室の机から歩いてきた。


 徹夜の顔だった。人の夢の火事に付き合う教師、職務範囲が崩壊している。労基があったら泣く。


「手を開けるか」


 ノアは、そこでようやく自分の掌を見た。


 右手ではない。


 夢の中で灰色の印を掴んだ方の手。


 ゆっくり開く。


 掌に、灰色の帳簿印が残っていた。


 皮膚に描かれたものではない。


 焼きついたものでもない。


 魂の表面から浮かび、掌に透けて見えている印だった。


 セドリックの表情が変わった。


 彼は慎重にその印を見て、低く言った。


「魂帳局の封緘印だ」




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