第96話 黒く燃える記憶
影が、振り返りかけた。
封印庫の奥。
若いイリアスの背後。
黒いローブの裾が、石床を擦る。胸元には白い花のような紋。袖口には灰色の帳簿の印。その二つを繋ぐように、黒い構文が細く這っている。
顔は、まだ見えない。
フードの奥にあるはずの輪郭が、ほんの少しだけ動いた。
ノア・クロウは、息を止めた。
見える。
今度こそ、見える。
オルドレイス代理。
白花派。
魂帳局。
若いイリアスが黒魔導書へ手を伸ばす、その背後にいた何者か。
レオ・アステルレインの赤い糸が、夢の中で強く張った。
「ノア」
呼ばれても、ノアは目を逸らさなかった。
影の顔が見えそうになった、その瞬間。
記憶が黒く燃えた。
炎ではなかった。
黒い文字だった。
封印庫の壁に刻まれていた封印文字が、一斉に剥がれ、燃えながら舞い上がる。石壁は炎に包まれるのではなく、文字の灰になって崩れていった。棚に並んでいた封印具も、銀鎖も、黒魔導書を包んでいた布も、若いイリアスの輪郭さえ、黒い文字の灰へ変わっていく。
記憶そのものが燃やされている。
見られることを拒むように。
正体へ触れられることを拒むように。
オルドレイスの術式が、夢の奥で防衛反応を起こした。
黒い棺の中に封じられていた記憶が、内側から焼け落ちる。
ノアの喉へ、黒い文字の灰が入り込んだ。
夢の中なのに、吸い込んだ感触があった。
乾いた紙。
焦げた血。
黒い魔力。
それが喉の内側へ貼りつき、声を削り、肺へ落ちる。
ノアの瞳孔が開いた。
赤い瞳が血走る。
白目を剥きかけた視界の中で、封印庫の黒炎がぐにゃりと歪む。伴侶首輪の黒い亀裂が広がり、首元へ冷たい熱が走った。
魂糸が裂けかける。
レオの赤い糸が、それを支えようと伸びる。
だが、黒い文字の灰が、ノアの声を焼く。
「が、あ゛……っ、あ゛ああああああッ!! 燃やす、な……ッ!」
叫びは、喉を裂いて出た。
獣の咆哮のようだった。
人の言葉に近い形をかろうじて残しているだけで、その奥はもう、理性の整った悲鳴ではない。焼けた記憶に喉を掻きむしられ、魂の奥から引きずり出された声だった。
現実の研究室で、ノアの身体が寝台の上で大きく痙攣した。
肩が跳ね、背筋が弓なりに反り、指先が硬直して敷布を掻く。瞳孔は開いたまま戻らず、赤い瞳の縁に血管が浮く。唇の端に泡混じりの息が滲み、黒い魔力が口元から霧のように漏れた。
セドリック・バロウズが水晶の前で鋭く言う。
「限界反応、重度へ入る。照合率は進めるな、アステルレイン!」
夢の中で、レオはノアへ駆け寄った。
抱えようとする。
崩れる身体を支えようとする。
同時に、記憶の棺ごと閉じてしまいたい衝動が、彼の中で爆発しそうになった。
黒く燃える封印庫。
喉を焼かれるノア。
血走った赤い瞳。
泡混じりの息。
痙攣する魂糸。
こんなものを見せるくらいなら、棺ごと閉じたい。黒魔導書も、影も、封印庫も、全部白金の魔法で封じ、ノアの目から遠ざけたい。
だが、ノアが叫んだ。
「ぐ、ぁああああああああッ!! 閉じ、るな……ッ!!」
レオの手が止まる。
「ノア!」
「ぎゃあああああああああッ!! 閉じるな、レオ……ッ!!」
喉が裂けるように声が崩れる。
舌がうまく収まらず、言葉が濁る。黒い文字の灰が口元から霧と混ざって漏れ、泡混じりの息が唇を濡らした。
「ぐぅ、あ゛あ゛ああああああッ!!」
「がああああああああああッ!!」
「あ゛、あ゛ぐ、ぐぁあああああッ!!」
「ぎぃいいいいいいッ!!」
「燃やすな、燃やすなああああああッ!!」
ノアの夢の身体が膝から崩れる。
だが、倒れながらも手を伸ばした。燃えていく封印庫へ。黒い文字の灰へ。消されようとしている影の痕跡へ。
レオはノアを抱える。
だが、閉じない。
封じない。
記憶を消さない。
ただ、燃える記憶の中で、ノアの現世名を呼ぶ。
「ノア・クロウ」
赤い糸が、黒い灰の中で光る。
「君は今ここにいる」
ノアの魂糸が、裂けかけながら震えた。
「燃やされても、君の声は消えない」
「ぐぼ、ぉおおおおおおおおッ!!」
ノアが咆哮した。
現実の身体も同時に大きく跳ねる。
胸が大きく反り、喉が詰まり、吐き気で身体が折れる。胃の奥から込み上げたものが、泡混じりの息とともに口元へ滲み、治癒用の布を汚した。身体制御を失った魔法的限界反応として、筋肉が不規則に収縮し、膝が寝台を打ち、指が敷布を掴んでは離す。
セドリックが記録陣を走らせる。
「魂糸裂傷寸前。赤い糸で現世名固定、継続!」
夢の中で、ノアの叫びが続く。
「あがぁああああああああッ!!」
「ぐ、ぎ、ぎぃいいいいいいッ!!」
「お゛、おおおおおおおおおッ!!」
「あ゛あ゛あ゛ああああああああッ!!」
「燃える、な……ッ、消え、るな……ッ!!」
黒い文字の灰が、ノアの喉へさらに入り込む。
息を吸えば焼けた文字が入る。
吐けば黒い霧が漏れる。
声はどんどん崩れていく。
「ぐぇ、げほ、あ゛あああああッ!!」
「ごぼ、ぉおおおおおおッ!!」
「ぎゃああああああああああッ!!」
「あ゛ぎ、ぎ、ぎぃいいいいいいッ!!」
「う゛、あ゛、あ゛あ゛あ゛あああああッ!!」
瞳孔は開いたまま。
赤い瞳は血走り、焦点が合わない。白目を剥きかけるたび、レオが名を呼ぶ。
「ノア・クロウ」
「ぐぁあああああああッ!!」
「君は今ここにいる」
「お゛おおおおおおおおおッ!!」
「燃やされても、君の声は消えない」
「あ゛あ゛あああああああああッ!!」
ノアはレオの腕の中で暴れる。
暴れようとしているのではない。
身体が勝手に跳ねる。
大痙攣が連続し、背筋が弓なりに反り、腕が黒い灰を掴むように痙攣する。舌がうまく収まらず、言葉にならない音が口から溢れる。
「ぎぃ、あ゛、ごぼ、ぐあああああッ!!」
「おおおおおおおおおッ!!」
「あが、あがががががッ!!」
「ぐぅうううううううッ!!」
「い、や、だ……ッ、燃やす、な……ッ!!」
ノアは、消えかける影の印を見ていた。
黒いローブの影は、顔を見せる前に燃えている。
白い花の紋は灰になった。
黒い構文も燃える。
だが、灰色の帳簿印だけが、ほんの一瞬、黒い文字の灰の中に残った。
ノアの瞳が、それを捉える。
「ぐ、ぁ……ッ、あれ……ッ!」
レオがノアの視線を追う。
灰色の帳簿印。
魂帳局の印に似たそれが、記憶の燃焼から逃れるように揺れている。
ノアは手を伸ばした。
届かない。
身体が痙攣し、指先が別の方向へ跳ねる。
それでも伸ばす。
「ぎゃああああああッ!!」
「ぐぼおおおおおおッ!!」
「あ゛、あ゛、あ゛ああああああッ!!」
「お゛え、げほ、ぐぅうううッ!!」
「取る……ッ、取る、から……ッ!!」
レオはノアを支える腕に力を込めた。
閉じない。
封じない。
ただ、ノアの身体が黒炎へ落ちないように支える。
「ノア・クロウ」
「ぐああああああああッ!!」
「君は今ここにいる」
「ぎぃいいいいいいいいッ!!」
「燃やされても、君の声は消えない」
「あ゛あ゛あ゛あああああああッ!!」
ノアの手が灰へ突っ込まれた。
夢の中なのに、焼ける感覚があった。
黒い文字の灰が皮膚に貼りつき、指先から魂へ入り込もうとする。伴侶首輪の黒い亀裂がさらに広がる。照合率の二が不安定に揺れたが、進まない。赤い糸が必死に現世名を支えている。
現実のノアの身体が、寝台でさらに大きく痙攣した。
白目を剥きかけ、赤い瞳の奥で焦点が飛ぶ。泡混じりの息が唇に溜まり、黒い魔力が霧のように漏れる。吐き気で身体が横へ折れ、制御を失った震えが肩から足先まで走った。
セドリックが短く叫ぶ。
「まだ戻すな。掴みかけている!」
夢の中で、ノアは呻いた。
「ぐ、ぁ……ッ、そこ……ッ!」
「ノア!」
「うる、さい……ッ、呼べ……ッ!」
レオは息を呑んだ。
そして、すぐに呼ぶ。
「ノア・クロウ」
「があああああああああッ!!」
「ノア・クロウ」
「ぎゃあああああああッ!!」
「ノア・クロウ」
「あ゛あ゛あ゛ああああああッ!!」
「ノア・クロウ」
「ぐぼ、ぉおおおおおおおッ!!」
ノアの指先が、灰色の帳簿印を掴んだ。
それは物体ではなかった。
印。
記録。
封緘。
魂帳局の管理式の一部。
それでも、夢の中では薄い金属片のような感触を持っていた。
ノアは、それを握りしめる。
黒い文字の灰が一気にノアの腕を這い上がる。
「ぎぃいいいいいいいいッ!!」
「お゛おおおおおおおおおッ!!」
「あがぁあああああああッ!!」
「ぐ、ぐぅ、ぐああああああッ!!」
「離す、か……ッ、ばか……ッ!」
レオの赤い糸が、ノアの腕を現在へ繋ぎ止める。
「君は今ここにいる」
「ごぼ、ぉおおおおおッ!!」
「燃やされても、君の声は消えない」
「あ゛あ゛あ゛あ゛ああああああッ!!」
ノアは、最後の力で灰色の帳簿印を引き抜いた。
その瞬間、封印庫が完全に黒く崩れた。
若いイリアスの姿も、黒魔導書も、影も、壁も、棚も、すべて黒い文字の灰になって渦を巻く。
ノアの喉から、さらに深い咆哮が漏れた。
「があああああああああああッ!!」
「ぐぎぃいいいいいいいいッ!!」
「あ゛、あ゛、あ゛あああああああッ!!」
「おおおおおおおおおおッ!!」
「ごぼ、ぐ、げほ、あ゛ああああッ!!」
レオがノアを抱えたまま赤い糸を引いた。
今度は閉じるためではない。
現実へ戻すために。
ノアの手の中には、灰色の帳簿印がある。
それだけを失わないように、赤い糸が強く巻きつく。
「戻るよ、ノア・クロウ」
「ぐ、ぁ……ッ、もど……ッ!」
「君は今ここにいる」
「ぎぃ、あ゛、あ゛ああああッ!!」
「燃やされても、君の声は消えない」
「……の、あ……ッ!」
ノアは、崩れた声で自分の名を掴んだ。
その瞬間、夢が裂けた。
現実の研究室で、ノアの身体が大きく跳ねた。
最後の大痙攣が背中から首筋へ走り、喉が詰まり、唇から泡混じりの息がこぼれる。セドリックの制御陣が光り、赤い糸が現実側へ戻る。
レオも目を覚ました。
顔色は悪い。
けれど、すぐにノアへ手を伸ばす。
「ノア」
ノアは返事ができなかった。
喉が潰れている。
呼吸は荒く、赤い瞳は血走り、瞳孔はまだ開いたままだった。身体は小刻みに痙攣し、指先だけが何かを握りしめている。
セドリックが短く言う。
「吐かせるな。横向きに支えろ。喉を先に開ける」
レオはノアの身体を支えた。
強く抱き込まない。
呼吸を邪魔しない。
身体を冷やさないように布をかけ、首元の熱を確認する。伴侶首輪の黒い亀裂は広がっていたが、照合率は二のままだった。
進んでいない。
ノアは勝ったのではない。
ただ、燃やされなかった。
それだけだった。
重度反応後のケアは、夜を越えた。
水。
喉の治癒。
魔力回路の調整。
髪を梳く。
身体を冷やさないように布を替える。
首輪の熱を鎮める。
口元に残った泡混じりの息を拭い、黒い魔力の霧を浄化し、痙攣の残りが走るたびに赤い糸で現在へ戻す。
レオは何度も名を呼んだ。
ノア・クロウ。
君は今ここにいる。
燃やされても、君の声は消えない。
ノアはほとんど返せなかった。
それでも、指先だけは握ったままだった。
翌朝。
窓の外に薄い光が差した頃、ノアはようやく目を開けた。
喉はひどく掠れていた。
身体は鉛のように重い。
首輪はまだ熱を持っている。
レオは寝台のそばにいた。眠っていない顔だった。いつものことになりつつある。睡眠という概念に謝れ。
ノアは、かすれた声で呟いた。
「……記憶の火事、消火不良」
レオの青い瞳が揺れた。
「燃やされなかった」
「……言い方、重い」
「本当だから」
「水」
レオはすぐに水を渡した。
ノアは少しずつ飲んだ。
喉が痛む。
それでも、飲めた。
セドリックが研究室の机から歩いてきた。
徹夜の顔だった。人の夢の火事に付き合う教師、職務範囲が崩壊している。労基があったら泣く。
「手を開けるか」
ノアは、そこでようやく自分の掌を見た。
右手ではない。
夢の中で灰色の印を掴んだ方の手。
ゆっくり開く。
掌に、灰色の帳簿印が残っていた。
皮膚に描かれたものではない。
焼きついたものでもない。
魂の表面から浮かび、掌に透けて見えている印だった。
セドリックの表情が変わった。
彼は慎重にその印を見て、低く言った。
「魂帳局の封緘印だ」




