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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第五章 【記憶の棺と幼い亡霊】

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第95話 封印庫の影



 封印庫の空気は、冷えていた。


 夢の中のはずなのに、肌が覚えている。


 石の床。


 古い血の匂い。


 紙と革と、焼けた魔力の残り香。


 地下深くへ降りた先にある、王城の封印庫。前世の記憶の奥に沈められていた場所。光は少なく、壁に並ぶ封印棚の一つ一つに、禁じられた魔導具や書物が眠っている。どれも息を潜めているようで、どれも死んではいない。


 黒い棺の蓋の隙間から漏れた匂いは、ここへ繋がっていた。


 ノア・クロウは、封印庫の入口に立っていた。


 現世の身体のまま。


 学院の制服。首元の伴侶首輪《メイト・カラー》。右手の甲に残る照合番号と白花派の印。夢の戦場跡からここへ落ちたはずなのに、足元の感触は急に石へ変わっていた。


 隣に、レオ・アステルレインがいる。


 赤い糸が、二人の間で細く震えていた。


 その震えは不安定だった。夢を渡る通路であり、現在へ戻る命綱であり、同時に何か別のものが触れようとしている侵入口でもある。便利なものはだいたい危険だ。人類、なぜ毎回一本の紐に役割を詰め込みすぎるのか。


 ノアは、封印庫の奥を見た。


 そこに、若いイリアスがいた。


 今のノアより少し年上に見える。


 黒い髪は乱れ、頬は削げ、赤い瞳には眠りの気配がない。怒りと疲労と喪失が、まだ少年とも青年とも呼びきれない身体の内側を焼いていた。


 その手が、黒魔導書へ伸びている。


 棚の奥、幾重もの封印布と銀鎖に縛られた一冊。


 黒魔導書。


 表紙は黒く、革のようでありながら皮膚のようでもある。閉じられているはずなのに、頁の隙間から黒い魔力が息のように漏れていた。


 若いイリアスは、その前に立っている。


 手を伸ばしている。


 けれど、まだ触れていない。


 時間が、そこで凍っているようだった。


 ノアの喉が詰まる。


 伴侶首輪が熱を持った。


 痛みというより、警告に近い熱だった。けれど、その奥に冷たさも混じっている。首輪の内側で、照合率二パーセントの黒い数字が不安定に揺れた。進んではいない。だが、棺の中の記憶が動くたび、数字の輪郭が黒く滲む。


 レオが低く言った。


「ノア」


「呼びすぎ禁止」


「確認」


「……今のは許す」


 レオの声で、少しだけ現在へ戻る。


 ノア・クロウ。


 この封印庫に立っているのは、イリアスではない。


 少なくとも、今の自分は。


 そう思った瞬間、黒魔導書の頁が、わずかに震えた。


 若いイリアスの指先が、封印布へ近づく。


 ノアは息を止めた。


 その時だった。


 若いイリアスの背後に、影が映った。


 ほんの一瞬。


 封印庫の壁に、灯りでは作れない形の影が落ちる。


 黒いローブ。


 胸元に、白い花のような紋。


 袖口には、灰色の帳簿の印。


 顔は見えない。


 見えないのに、そこに誰かがいると分かる。


 ノアの瞳孔が開いた。


 視界の中心が、その影だけを捉える。


「今の、誰だ」


 声は低く出た。


 軽口にならなかった。


 レオも、その影を見ていた。


 青い瞳が鋭くなる。


「僕は、知らない」


「前世で?」


「見ていない」


 レオの声は、硬かった。


「セラフィードは、封印庫にその影を見ていない」


 ノアの胸が冷える。


 つまり、当時の記憶では認識できなかった何者かがいた。


 若いイリアスのすぐ背後に。


 黒魔導書へ手を伸ばす、その直前に。


 影は、封印庫の明かりの揺らぎに紛れるように立っていた。


 そこにいるのに、いないものとして扱われている。


 見えているのに、認識から外されている。


 ノアは奥歯を噛んだ。


「透明人間気取りかよ。趣味悪いな」


 声を軽くしようとした。


 失敗した。


 喉が詰まっている。


 胸の奥が圧迫され、黒魔導書の匂いが肺に入り込むようだった。伴侶首輪に、一瞬、白い花の紋が浮かぶ。続いて、灰色の帳簿印が淡く重なった。


 レオの赤い糸が、ノアを現在へ引こうと震える。


 ノアはその糸を感じながら、封印庫の記憶を見続けた。


 若いイリアスは影に気づいていない。


 いや、気づいていないように見える。


 もしかしたら、声だけは届いていたのかもしれない。


 影が、若いイリアスの耳元へわずかに顔を寄せた。


 顔はまだ見えない。


 ただ、黒いローブのフードの下から、声だけが落ちる。


「奪われたなら、奪い返せ」


 ノアの喉が塞がった。


 息が入らない。


 胸が詰まる。


 その言葉は、あまりにも合いすぎていた。


 若いイリアスの怒りに。


 父王を奪われた痛みに。


 国を、家族を、未来を、尊厳を奪われた記憶に。


 世界への憎しみに。


 黒魔導書へ手を伸ばす直前の、最も危うい魂の形に。


 ぴたりとはまりすぎていた。


 だからこそ危険だった。


「っ……」


 ノアの喉から、短い呻きが漏れた。


 瞳孔が開いたまま戻らない。首輪の熱が強まり、手の甲の照合番号が冷たく光る。夢の中なのに、指先が震えた。


 レオが即座に近づく。


 触れようとして、止まる。


 夢の中で勝手に閉じない。


 声を奪わない。


 前世のノアを勝手に抱え込まない。


 約束が、レオの手を止めた。


 それでも赤い糸だけは、ノアの足元を支えるように強く光った。


「ノア・クロウ」


 レオの声が、現世名を刻む。


 ノアは低く息を吐いた。


「……聞こえてる」


 封印庫の映像が揺れる。


 若いイリアスの指先が、黒魔導書の封印布へ触れた。


 白い封印紐が、黒く焼ける。


 その焼け跡から、黒い魔力が滲む。


 影は、ほんの少し後ろへ下がった。


 何もしない。


 ただ、言葉を置く。


 奪われたなら、奪い返せ。


 それだけで十分だったのだ。


 若いイリアスの中には、すでに怒りがあった。


 復讐も、憎しみも、喪失もあった。


 影は、それを作ったわけではない。


 ただ、最も深い場所へ、最も危険な言葉を差し込んだ。


 ノアは、苦い声で言った。


「……合いすぎなんだよ」


 レオがノアを見る。


 ノアは若いイリアスから目を離さなかった。


「あの時のイリアスに、その言葉は効く。効かないわけがない。奪われた。全部、奪われたと思ってた。だから、奪い返せって言われたら、手を伸ばす」


 声は低い。


 自分を言い訳する声ではなかった。


 責める声でもない。


 ただ、認める声だった。


「あの怒りは、俺の中にも残ってる」


 レオは息を詰めた。


 ノアは、レオを見なかった。


 見たら、たぶん言えなかった。


「単なる操り人形だったって話にしたいわけじゃない。イリアスは怒ってた。憎んでた。黒魔導書へ手を伸ばしたのは、あいつ自身だ」


 封印庫の奥で、黒魔導書の頁がめくれる音がした。


「でも、そこに誰かがいた」


 ノアの声が、さらに低くなる。


「背中を押したやつがいた」


 レオの顔色が悪くなる。


 青い瞳の奥で、前世の記憶が揺れているのが分かった。


 セラフィードは知らなかった。


 封印庫に、第三者がいたことを。


 若いイリアスの背後で、誰かが囁いていたことを。


 もし知っていたら。


 もし、その影に気づけていたら。


 もし、黒魔導書へ手を伸ばす前に止められていたら。


 もし。


 その言葉は、魂を腐らせる。


 けれど、人はどうしても考えてしまう。過去を変えられないくせに、もしだけは無限に生える。雑草か。抜いても抜いても増える。最悪だ。


 レオは、かすれた声で言った。


「救えたかもしれない」


「レオ」


「僕が、あの影を見ていたら」


「それは違う」


「違わない」


 レオの赤い糸が、強く震えた。


 ノアへ向かって伸びようとして、また止まる。


 離したくない。


 前世で救えなかったイリアス。


 現世で目の前にいるノア。


 その両方を、もう絶対に離したくない。


 そういう危うい決意が、糸の震えに滲んでいた。


 ノアはレオを見ずに言った。


「今の記憶で、お前が勝手に全部背負うな。条件に入ってる」


 レオは黙った。


「俺が黒魔導書へ手を伸ばしたことまで、お前の罪にするな」


「でも」


「でもじゃない」


 ノアの声が少しだけ強くなる。


 その瞬間、首輪が熱を増した。


 瞳孔がまた開き、胸の奥が詰まる。黒い魔力が喉元までせり上がる感覚があり、ノアは短く呻いた。


「……っ、ぐ」


 レオが一歩近づく。


「ノア」


「来すぎるな」


「でも」


「呼べ」


 ノアは、低く言った。


「俺の名前、呼べ」


 レオは息を吸った。


「ノア・クロウ」


 赤い糸が、現在へ引く。


 首輪の熱が少しだけ下がる。


 白い花と灰色の帳簿印は、伴侶首輪の表面から薄れていった。だが、完全には消えない。まるで一度触れたことを記録するように、残像だけが内側に沈む。


 その頃、現実の研究室では、セドリック・バロウズが眠る二人を監視していた。


 ノアとレオは、並んで仮眠台に横たわっている。


 二人の間には、赤い糸が見えない形で結ばれていた。セドリックの前には水晶が置かれ、夢の中の魔力波形が映し出されている。隣には照合率測定陣、魂糸の安定値、伴侶首輪の熱反応、赤い糸の負荷を示す細かな記録紙。


 人の夢にここまで計器をつける日が来るとは、教師業も末期である。少なくともセドリックは、心底そういう顔をしていた。


 水晶が一瞬、黒く曇った。


 その奥に、封印庫が映る。


 若いイリアス。


 黒魔導書。


 そして、黒いローブの影。


 セドリックの目が鋭くなった。


「……映ったか」


 水晶の中で、影の胸元に白い花の紋が浮かぶ。


 その下、袖口の灰色の帳簿印。


 さらに、その二つを繋ぐように、黒い構文の細い線。


 セドリックは即座に記録紙へ書きつけた。


 オルドレイス代理の印に類似。


 白花派紋と魂帳局印の複合。


 封印庫記憶内に第三者影。


 彼の表情は険しかった。


「当時の記憶に、後から混入したものではない。映像の魔力層が古い」


 水晶の中で、影が若いイリアスへ囁く。


 声は水晶越しには完全に拾えない。


 だが、ノアの魂糸が反応した。


 セドリックは、ノアの身体を見た。


 眠っているノアの喉が詰まり、指先が痙攣しかける。首輪が熱を持ち、一瞬だけ白い花と灰色の帳簿印が浮かんだ。


 セドリックは舌打ちした。


「深すぎる」


 だが、まだ戻さない。


 重度反応には入っていない。


 レオの赤い糸が、かろうじてノアを現在へ繋ぎ止めている。


 夢の中で、影は封印庫の奥へゆっくり下がっていった。


 若いイリアスは黒魔導書へ手を伸ばしている。


 封印布が焼け、銀鎖が軋む。


 黒魔導書の表紙が、わずかに開く。


 その隙間から、あの声が滲んだ。


「お前だけが、世界を正せる」


 ノアの胸が、また重く沈む。


 黒魔導書の囁きと、影の言葉が繋がっている。


 奪われたなら、奪い返せ。


 お前だけが、世界を正せる。


 怒りと正義を結びつける言葉。


 復讐と救済を同じ形に見せる言葉。


 若いイリアスには、あまりにも甘い毒だった。


 ノアは苦い声で呟いた。


「……あいつ、あの時、本気で世界を正せると思ったのかもな」


 レオはノアを見る。


 ノアは、まだレオを見ない。


「壊すつもりだけじゃなかった。奪われたものを戻したかった。間違った世界を、間違う前に戻したかった。だから黒魔導書に手を伸ばした」


 自分で言って、吐き気に似たものが胸へ上がった。


 きれいな理由にしたいわけではない。


 許されたいわけでもない。


 ただ、記憶がそう告げている。


 イリアスは、ただ憎んだだけではなかった。


 失ったものを取り戻したかった。


 壊れた世界を正したかった。


 その願いが、黒魔導書と影によって、最悪の形に曲げられた。


 レオの声が低く落ちる。


「それでも、君だけに背負わせない」


 ノアは目を細めた。


「また持つ話?」


「違う」


「本当か」


「今は、見ている」


 レオは、黒いローブの影を見据えた。


「背負うんじゃなくて、見る。君が見ているものを、僕も見る」


 ノアは黙った。


 今は、それでいい。


 勝手に閉じない。


 勝手に抱え込まない。


 ただ隣で見る。


 それだけでも、かなり重いが。


 封印庫の影が、ゆっくりと動いた。


 黒いローブの裾が、床を擦る。


 若いイリアスが黒魔導書の表紙へ触れた瞬間、影は立ち止まった。


 そして、振り返りかけた。


 ノアの全身が硬直した。


 レオの赤い糸が強く張る。


 顔が見えそうになる。


 フードの奥。


 白い花の紋。


 灰色の帳簿印。


 黒い構文。


 その奥にあるはずの顔。


 見える。


 見えそうになる。


 その瞬間、記憶が黒く燃えた。


 封印庫の壁が燃える。


 棚が燃える。


 黒魔導書の頁が燃える。


 けれど炎は赤くない。


 黒い。


 紙が焼ける匂いと、血が焦げる匂いと、魂が削れるような冷たさが一気に押し寄せた。


 ノアの喉が潰れたように詰まる。


 胸の奥が裂けるほど重くなる。


 瞳孔が開き、赤い瞳が大きく揺れる。


 喉の奥から、重い絶叫がせり上がってきた。


「……ぁ、ぐ……っ」


 声になりきる前に、夢の黒炎が視界を塗り潰した。




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