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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第五章 【記憶の棺と幼い亡霊】

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第94話 黒魔導書の最初の声


 棺の蓋が、ほんの少し開いた。


 黒い隙間から、冷えた空気が漏れる。


 血の匂い。


 古い紙の匂い。


 黒い魔力の匂い。


 ノア・クロウは、その匂いを知っていた。


 夢の戦場跡も、浅い墓穴も、幼いイリアスの泥だらけの手も、すべてが遠ざかる。代わりに、石の床が足元へ現れた。湿った土ではない。固く、冷たく、長い時間をかけて魔力を吸い込んだ地下の石床だった。


 そこは、前世の封印庫だった。


 王城の地下深く。


 光の届かない場所。


 禁じられた魔導具や呪具、古い戦争で押収された魔導書、王家が存在ごと隠してきた記録が眠る場所。


 壁には魔法文字が幾重にも刻まれ、天井からは封印用の銀鎖が垂れている。棚の一つ一つに札が下がり、触れてはいけないものばかりが息を潜めて並んでいた。


 父王の血の匂いが、まだ遠くに残っている。


 直接ここに流れた血ではない。


 だが、若いイリアスの記憶の中では、血の匂いがどこまでも追ってきていた。広間。倒れた王。床に広がる赤。叫び。混乱。裏切り。手遅れになった呼吸。


 封印庫の冷たさの奥に、その血の匂いがこびりついている。


 ノアの喉が詰まった。


 伴侶首輪《メイト・カラー》が熱を持つ。黒い亀裂が、首輪の内側で小さく疼いた。右手の甲の照合番号が冷たく光り、白花派の印が薄く震える。


 照合率は二パーセントのまま。


 進んではいない。


 だが、魂糸が強く揺れていた。


 レオ・アステルレインの赤い糸が、隣でノアを現在へ固定するように震える。


「ノア」


「……聞こえてる」


 ノアは封印庫の奥を見た。


 そこに、黒魔導書があった。


 銀鎖に繋がれている。


 何重もの封印布に包まれ、棚の奥に押し込められている。表紙は閉じている。頁も開いていない。それなのに、黒い魔力だけが、呼吸のように布の隙間から漏れていた。


 黒魔導書は眠っていない。


 閉じているだけだ。


 封じられているだけだ。


 そして、声が聞こえた。


「お前だけが、世界を正せる」


 低く、甘く、乾いた声だった。


 耳に届くというより、魂の奥に直接書き込まれるような声だった。古い紙が擦れる音に似ていて、同時に、ひどく人間らしい温度を持っている。


 ノアの指先に、黒い痺れが走った。


 夢の中の身体なのに、現実の指先まで冷えた気がした。爪の下へ黒い魔力が入り込み、神経を細く噛むような感覚がある。


 ノアは息を詰める。


「……最初から、そういう声だったのか」


 レオが隣で息を呑む。


 黒魔導書の前に、若いイリアスが立っていた。


 現世のノアより少し年上。


 頬は削げ、目の下には濃い影が落ちている。黒い髪は乱れ、赤い瞳は乾ききっていた。泣いた後ではない。泣けなくなった後の目だった。


 怒り。


 絶望。


 憎しみ。


 喪失。


 それらが、若いイリアスの内側で燃えている。


 だが、それだけではなかった。


 ノアは、その胸の奥にあるものも見てしまった。


 戦争を終わらせたいという願い。


 奪われる子どもを、これ以上増やしたくないという願い。


 腐った王家も、繰り返される裏切りも、誰かの正義の名で続く殺し合いも、全部終わらせたいという願い。


 歪んでいる。


 危険だ。


 すでに、黒い魔力へ手を伸ばす形に歪みかけている。


 それでも、ただ壊したかっただけではない。


 ノアの唇が震えた。


「俺は、ただ壊したかったわけじゃない」


 声は低く、苦しかった。


 言い訳ではない。


 許しを求める声でもない。


 ただ、見えてしまったものを、言葉にしただけだった。


 レオがノアを見る。


 青い瞳が揺れている。


 前世のイリアスは、災厄だった。


 世界を滅ぼしかけた黒い災厄。


 セラフィードが討たなければならなかった相手。


 そう語られてきた。


 けれど、目の前にいる若いイリアスは、ただ破壊を喜ぶ怪物ではなかった。怒りに焼かれ、喪失に沈み、正しさへ手を伸ばそうとして、その正しさを最悪の形に捻じ曲げられようとしている人間だった。


 レオの顔色が悪くなる。


 前世で殺した重みが、また一つ違う形で彼にのしかかる。


 ノアはそれに気づいたが、レオを見なかった。


 見れば、言葉が止まる。


 黒魔導書の声が、再び封印庫に響いた。


「腐敗した王家は、同じ罪を繰り返す」


 壁に映像が浮かぶ。


 豪奢な広間。


 笑う貴族たち。


 戦場へ送られる兵士。


 泣く子ども。


 燃える村。


 飢えた民。


 同じ旗の下で、何度も命が削られていく。


「正しさを語る者ほど、他者の血で玉座を洗う」


 映像が変わる。


 会議室。


 密談。


 裏切り。


 父王の背後へ忍び寄る影。


 すべてが断片的だった。真実かどうか、完全には分からない。だが、若いイリアスには十分だった。


 父を奪われた直後の魂へ、疑惑と怒りと正義を同時に流し込むには。


「犠牲になるのは、いつも声の小さい者たちだ」


 また、子どもたちの映像。


 泥に膝をつく少年。


 母を探して泣く少女。


 戦場跡で土を掘る幼いイリアス。


 ノアの胸が詰まる。


 その映像は、嘘ではなかった。


 少なくとも、完全な嘘ではない。


 だから危険だった。


 黒魔導書は、虚偽だけで誘惑しているのではない。本当の怒りと、正しそうな言葉を使っている。誰かが目を逸らしてきた腐敗を見せ、誰かが踏み潰してきた犠牲を見せ、そこから最悪の結論へ導こうとしている。


 人を騙すものは、いつも嘘だけを使うわけではない。


 むしろ本当のことを混ぜる。


 人類の悪意、調味料の使い方だけは上手い。悲しい才能だ。


 黒魔導書が囁く。


「お前だけが、奪われた痛みを知っている」


 若いイリアスの指先が、わずかに動く。


「お前だけが、失われた正しさを取り戻せる」


 封印布の下で、黒魔導書が脈打つ。


「お前だけが、世界を正せる」


 ノアの喉が強く詰まった。


 黒い痺れが指先から手首へ広がる。夢の中の感覚なのに、現実の身体まで侵食されるようだった。伴侶首輪の黒い亀裂が疼き、魂糸が黒魔導書へ引かれる。


 レオの赤い糸が、即座にノアを現在へ引く。


「ノア・クロウ」


 その名で、少しだけ呼吸が戻る。


 ノアは奥歯を噛んだ。


「……声が、似てる」


 レオが問う。


「何に?」


「オルドレイスの構文に」


 封印庫の中で、黒魔導書の囁きが続く。


 その言い回し。


 魂へ直接書き込むような響き。


 怒りを正義へ接続し、正義を唯一性へ変え、唯一性を服従に似た選択へ落とし込む構造。


 どこかで見た。


 儀礼の欄外。


 魂帳局の照合式。


 白花派の文書に混ざった黒い構文。


 オルドレイス代理の名義。


 ノアは、息を詰めた。


「黒魔導書そのものにも、手が入ってるのかもしれない」


 レオの赤い糸が鋭く震えた。


「最初から?」


「分からない。でも、完全に別物じゃない。この声、あの構文と似すぎてる」


 若いイリアスは、まだ黒魔導書に触れていない。


 けれど、手は少しずつ伸びている。


 その背中が、ひどく危うい。


 怒りの背中だった。


 同時に、救いを求める背中でもあった。


 ノアは、苦い声で言った。


「嫌だな」


「何が」


「あいつが間違ったのは事実なのに、間違うように作られてたかもしれないって分かるの」


 レオは何も言えなかった。


 ノアは続ける。


「都合よく被害者面したいわけじゃない。イリアスが選んだのは本当だ。手を伸ばしたのは、あいつだ。でも」


 黒魔導書の声が、若いイリアスの怒りを撫でる。


 父王の血の匂いが遠くから濃くなる。


 封印庫の冷えた空気が、ノアの肺を凍らせる。


「でも、この声は、あいつが一番弱ってる場所を知ってる」


 レオの青い瞳が暗く沈む。


 ノアはそれを見ずに、低く言った。


「最初から、そこを狙ってた」


 黒魔導書が、また囁く。


「奪われたものを取り戻せ」


 その言葉に、ノアはわずかに顔を上げた。


 今の声。


 黒魔導書のものなのに、違う。


 一瞬だけ、別の声が混ざった。


 古い紙の擦れる声の奥に、黒いローブの裾が床を擦るような気配があった。


 ノアの指先の痺れが強くなる。


「……レオ」


「聞こえた」


 レオの声も硬い。


 黒魔導書の囁きの中に、別の構文が混ざっている。


 お前だけが、世界を正せる。


 奪われたなら、奪い返せ。


 似ている。


 いや、繋がっている。


 若いイリアスの手が、ついに封印布へ触れた。


 布が黒く染まる。


 銀鎖が小さく鳴る。


 封印庫の空気が、深く沈む。


 ノアの喉が痛む。


 レオが支えるように赤い糸を強める。


「戻る?」


 レオの声には恐怖があった。


 ノアを救いたい気持ちと、前世の真実を知る恐怖。


 どちらも隠せていない。


 ノアは首を横に振った。


「まだ」


「ノア」


「ここで目を逸らしたら、また敵に開けられる」


 レオは唇を結んだ。


 止めたい。


 でも止めない。


 棺を閉じたい。


 でも閉じない。


 その葛藤が、赤い糸を震わせる。


 ノアは、ほんの少しだけ笑った。


「九点」


「今?」


「今」


「なぜ」


「止めたいのに止めてないから」


 レオは一瞬だけ目を伏せた。


「満点は?」


「夢の中で満点ほしがるな。状況見ろ」


「うん」


 それだけのやり取りで、少しだけ現在へ戻れた。


 ノア・クロウとして。


 前世の封印庫に立っていても、今の自分として。


 だが、記憶は止まらない。


 若いイリアスは、黒魔導書へ手を伸ばす。


 封印布がさらに黒く焼ける。


 黒魔導書の表紙が、閉じたまま震える。


 頁はまだ開かない。


 それなのに、声だけは深くなる。


「選べ」


 黒魔導書が囁く。


「奪われ続ける世界か」


 封印庫の壁に、泣く子どもたちの影が映る。


「奪い返す世界か」


 父王の血の匂いが濃くなる。


「お前が正せ」


 若いイリアスの目が、黒く沈む。


 その赤い瞳の奥に、何かが決定的に傾く瞬間が見えた。


 ノアの胸が痛んだ。


「……やめろ」


 誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 若いイリアスへか。


 黒魔導書へか。


 それとも、すでに起きた過去へか。


 言っても止まらない。


 記憶だから。


 過去だから。


 それでも、言わずにはいられなかった。


「やめろ。そこに手を伸ばすな」


 若いイリアスには届かない。


 黒魔導書の声だけが、彼の耳元へ届いている。


 ノアの指先に、黒い痺れがさらに広がった。


 レオが低く言う。


「ノア、指」


 見ると、現世のノアの指先にまで黒い影が滲んでいた。


 夢の中の身体なのに、赤い糸越しに現実へ影が伝わっている。過去が、現在の身体へ触れようとしている。


 ノアは顔をしかめた。


「指先まで過去に浸食されるの面倒」


「戻ったら癒す」


「予約制か」


「今でもいい」


「今は見る」


 レオは、何か言いたげに唇を動かした。


 けれど、止めなかった。


 若いイリアスの指先が、黒魔導書の表紙へ近づく。


 あと少し。


 その時だった。


 若いイリアスの背後に、誰かの影が一瞬だけ見えた。


 黒いローブ。


 白い花のような紋。


 灰色の帳簿の印。


 顔は見えない。


 ノアの瞳孔が開いた。


 喉の痛みも、指先の痺れも、一瞬忘れた。


 その影は、封印庫の灯りでは作れない角度で、若いイリアスの背後に立っていた。


 そこにいる。


 確かにいる。


 だが、若いイリアスは気づいていない。


 レオも、息を呑んだ。


 ノアは低く呟いた。


「今の、誰だ」




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