第94話 黒魔導書の最初の声
棺の蓋が、ほんの少し開いた。
黒い隙間から、冷えた空気が漏れる。
血の匂い。
古い紙の匂い。
黒い魔力の匂い。
ノア・クロウは、その匂いを知っていた。
夢の戦場跡も、浅い墓穴も、幼いイリアスの泥だらけの手も、すべてが遠ざかる。代わりに、石の床が足元へ現れた。湿った土ではない。固く、冷たく、長い時間をかけて魔力を吸い込んだ地下の石床だった。
そこは、前世の封印庫だった。
王城の地下深く。
光の届かない場所。
禁じられた魔導具や呪具、古い戦争で押収された魔導書、王家が存在ごと隠してきた記録が眠る場所。
壁には魔法文字が幾重にも刻まれ、天井からは封印用の銀鎖が垂れている。棚の一つ一つに札が下がり、触れてはいけないものばかりが息を潜めて並んでいた。
父王の血の匂いが、まだ遠くに残っている。
直接ここに流れた血ではない。
だが、若いイリアスの記憶の中では、血の匂いがどこまでも追ってきていた。広間。倒れた王。床に広がる赤。叫び。混乱。裏切り。手遅れになった呼吸。
封印庫の冷たさの奥に、その血の匂いがこびりついている。
ノアの喉が詰まった。
伴侶首輪が熱を持つ。黒い亀裂が、首輪の内側で小さく疼いた。右手の甲の照合番号が冷たく光り、白花派の印が薄く震える。
照合率は二パーセントのまま。
進んではいない。
だが、魂糸が強く揺れていた。
レオ・アステルレインの赤い糸が、隣でノアを現在へ固定するように震える。
「ノア」
「……聞こえてる」
ノアは封印庫の奥を見た。
そこに、黒魔導書があった。
銀鎖に繋がれている。
何重もの封印布に包まれ、棚の奥に押し込められている。表紙は閉じている。頁も開いていない。それなのに、黒い魔力だけが、呼吸のように布の隙間から漏れていた。
黒魔導書は眠っていない。
閉じているだけだ。
封じられているだけだ。
そして、声が聞こえた。
「お前だけが、世界を正せる」
低く、甘く、乾いた声だった。
耳に届くというより、魂の奥に直接書き込まれるような声だった。古い紙が擦れる音に似ていて、同時に、ひどく人間らしい温度を持っている。
ノアの指先に、黒い痺れが走った。
夢の中の身体なのに、現実の指先まで冷えた気がした。爪の下へ黒い魔力が入り込み、神経を細く噛むような感覚がある。
ノアは息を詰める。
「……最初から、そういう声だったのか」
レオが隣で息を呑む。
黒魔導書の前に、若いイリアスが立っていた。
現世のノアより少し年上。
頬は削げ、目の下には濃い影が落ちている。黒い髪は乱れ、赤い瞳は乾ききっていた。泣いた後ではない。泣けなくなった後の目だった。
怒り。
絶望。
憎しみ。
喪失。
それらが、若いイリアスの内側で燃えている。
だが、それだけではなかった。
ノアは、その胸の奥にあるものも見てしまった。
戦争を終わらせたいという願い。
奪われる子どもを、これ以上増やしたくないという願い。
腐った王家も、繰り返される裏切りも、誰かの正義の名で続く殺し合いも、全部終わらせたいという願い。
歪んでいる。
危険だ。
すでに、黒い魔力へ手を伸ばす形に歪みかけている。
それでも、ただ壊したかっただけではない。
ノアの唇が震えた。
「俺は、ただ壊したかったわけじゃない」
声は低く、苦しかった。
言い訳ではない。
許しを求める声でもない。
ただ、見えてしまったものを、言葉にしただけだった。
レオがノアを見る。
青い瞳が揺れている。
前世のイリアスは、災厄だった。
世界を滅ぼしかけた黒い災厄。
セラフィードが討たなければならなかった相手。
そう語られてきた。
けれど、目の前にいる若いイリアスは、ただ破壊を喜ぶ怪物ではなかった。怒りに焼かれ、喪失に沈み、正しさへ手を伸ばそうとして、その正しさを最悪の形に捻じ曲げられようとしている人間だった。
レオの顔色が悪くなる。
前世で殺した重みが、また一つ違う形で彼にのしかかる。
ノアはそれに気づいたが、レオを見なかった。
見れば、言葉が止まる。
黒魔導書の声が、再び封印庫に響いた。
「腐敗した王家は、同じ罪を繰り返す」
壁に映像が浮かぶ。
豪奢な広間。
笑う貴族たち。
戦場へ送られる兵士。
泣く子ども。
燃える村。
飢えた民。
同じ旗の下で、何度も命が削られていく。
「正しさを語る者ほど、他者の血で玉座を洗う」
映像が変わる。
会議室。
密談。
裏切り。
父王の背後へ忍び寄る影。
すべてが断片的だった。真実かどうか、完全には分からない。だが、若いイリアスには十分だった。
父を奪われた直後の魂へ、疑惑と怒りと正義を同時に流し込むには。
「犠牲になるのは、いつも声の小さい者たちだ」
また、子どもたちの映像。
泥に膝をつく少年。
母を探して泣く少女。
戦場跡で土を掘る幼いイリアス。
ノアの胸が詰まる。
その映像は、嘘ではなかった。
少なくとも、完全な嘘ではない。
だから危険だった。
黒魔導書は、虚偽だけで誘惑しているのではない。本当の怒りと、正しそうな言葉を使っている。誰かが目を逸らしてきた腐敗を見せ、誰かが踏み潰してきた犠牲を見せ、そこから最悪の結論へ導こうとしている。
人を騙すものは、いつも嘘だけを使うわけではない。
むしろ本当のことを混ぜる。
人類の悪意、調味料の使い方だけは上手い。悲しい才能だ。
黒魔導書が囁く。
「お前だけが、奪われた痛みを知っている」
若いイリアスの指先が、わずかに動く。
「お前だけが、失われた正しさを取り戻せる」
封印布の下で、黒魔導書が脈打つ。
「お前だけが、世界を正せる」
ノアの喉が強く詰まった。
黒い痺れが指先から手首へ広がる。夢の中の感覚なのに、現実の身体まで侵食されるようだった。伴侶首輪の黒い亀裂が疼き、魂糸が黒魔導書へ引かれる。
レオの赤い糸が、即座にノアを現在へ引く。
「ノア・クロウ」
その名で、少しだけ呼吸が戻る。
ノアは奥歯を噛んだ。
「……声が、似てる」
レオが問う。
「何に?」
「オルドレイスの構文に」
封印庫の中で、黒魔導書の囁きが続く。
その言い回し。
魂へ直接書き込むような響き。
怒りを正義へ接続し、正義を唯一性へ変え、唯一性を服従に似た選択へ落とし込む構造。
どこかで見た。
儀礼の欄外。
魂帳局の照合式。
白花派の文書に混ざった黒い構文。
オルドレイス代理の名義。
ノアは、息を詰めた。
「黒魔導書そのものにも、手が入ってるのかもしれない」
レオの赤い糸が鋭く震えた。
「最初から?」
「分からない。でも、完全に別物じゃない。この声、あの構文と似すぎてる」
若いイリアスは、まだ黒魔導書に触れていない。
けれど、手は少しずつ伸びている。
その背中が、ひどく危うい。
怒りの背中だった。
同時に、救いを求める背中でもあった。
ノアは、苦い声で言った。
「嫌だな」
「何が」
「あいつが間違ったのは事実なのに、間違うように作られてたかもしれないって分かるの」
レオは何も言えなかった。
ノアは続ける。
「都合よく被害者面したいわけじゃない。イリアスが選んだのは本当だ。手を伸ばしたのは、あいつだ。でも」
黒魔導書の声が、若いイリアスの怒りを撫でる。
父王の血の匂いが遠くから濃くなる。
封印庫の冷えた空気が、ノアの肺を凍らせる。
「でも、この声は、あいつが一番弱ってる場所を知ってる」
レオの青い瞳が暗く沈む。
ノアはそれを見ずに、低く言った。
「最初から、そこを狙ってた」
黒魔導書が、また囁く。
「奪われたものを取り戻せ」
その言葉に、ノアはわずかに顔を上げた。
今の声。
黒魔導書のものなのに、違う。
一瞬だけ、別の声が混ざった。
古い紙の擦れる声の奥に、黒いローブの裾が床を擦るような気配があった。
ノアの指先の痺れが強くなる。
「……レオ」
「聞こえた」
レオの声も硬い。
黒魔導書の囁きの中に、別の構文が混ざっている。
お前だけが、世界を正せる。
奪われたなら、奪い返せ。
似ている。
いや、繋がっている。
若いイリアスの手が、ついに封印布へ触れた。
布が黒く染まる。
銀鎖が小さく鳴る。
封印庫の空気が、深く沈む。
ノアの喉が痛む。
レオが支えるように赤い糸を強める。
「戻る?」
レオの声には恐怖があった。
ノアを救いたい気持ちと、前世の真実を知る恐怖。
どちらも隠せていない。
ノアは首を横に振った。
「まだ」
「ノア」
「ここで目を逸らしたら、また敵に開けられる」
レオは唇を結んだ。
止めたい。
でも止めない。
棺を閉じたい。
でも閉じない。
その葛藤が、赤い糸を震わせる。
ノアは、ほんの少しだけ笑った。
「九点」
「今?」
「今」
「なぜ」
「止めたいのに止めてないから」
レオは一瞬だけ目を伏せた。
「満点は?」
「夢の中で満点ほしがるな。状況見ろ」
「うん」
それだけのやり取りで、少しだけ現在へ戻れた。
ノア・クロウとして。
前世の封印庫に立っていても、今の自分として。
だが、記憶は止まらない。
若いイリアスは、黒魔導書へ手を伸ばす。
封印布がさらに黒く焼ける。
黒魔導書の表紙が、閉じたまま震える。
頁はまだ開かない。
それなのに、声だけは深くなる。
「選べ」
黒魔導書が囁く。
「奪われ続ける世界か」
封印庫の壁に、泣く子どもたちの影が映る。
「奪い返す世界か」
父王の血の匂いが濃くなる。
「お前が正せ」
若いイリアスの目が、黒く沈む。
その赤い瞳の奥に、何かが決定的に傾く瞬間が見えた。
ノアの胸が痛んだ。
「……やめろ」
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
若いイリアスへか。
黒魔導書へか。
それとも、すでに起きた過去へか。
言っても止まらない。
記憶だから。
過去だから。
それでも、言わずにはいられなかった。
「やめろ。そこに手を伸ばすな」
若いイリアスには届かない。
黒魔導書の声だけが、彼の耳元へ届いている。
ノアの指先に、黒い痺れがさらに広がった。
レオが低く言う。
「ノア、指」
見ると、現世のノアの指先にまで黒い影が滲んでいた。
夢の中の身体なのに、赤い糸越しに現実へ影が伝わっている。過去が、現在の身体へ触れようとしている。
ノアは顔をしかめた。
「指先まで過去に浸食されるの面倒」
「戻ったら癒す」
「予約制か」
「今でもいい」
「今は見る」
レオは、何か言いたげに唇を動かした。
けれど、止めなかった。
若いイリアスの指先が、黒魔導書の表紙へ近づく。
あと少し。
その時だった。
若いイリアスの背後に、誰かの影が一瞬だけ見えた。
黒いローブ。
白い花のような紋。
灰色の帳簿の印。
顔は見えない。
ノアの瞳孔が開いた。
喉の痛みも、指先の痺れも、一瞬忘れた。
その影は、封印庫の灯りでは作れない角度で、若いイリアスの背後に立っていた。
そこにいる。
確かにいる。
だが、若いイリアスは気づいていない。
レオも、息を呑んだ。
ノアは低く呟いた。
「今の、誰だ」




