第93話 黒い棺
黒い棺は、墓穴の奥にあった。
夢の戦場跡は、いつもより深く沈んでいた。
空は煙に覆われ、星はない。遠くの火も、もう赤く瞬くばかりで、燃えているのか消えかけているのか分からない。灰をかぶった草は風に揺れ、折れた剣の刃は泥の中で鈍く光っている。浅く掘られた墓穴の縁には、子どもの手で掘ったような不揃いな跡が残っていた。
湿った黒い土。
古い血の匂い。
焼けた草の根。
それらの奥に、棺は沈んでいた。
墓ではない。
死者を葬るための棺ではない。
もっと嫌なものだった。
ノア・クロウは、それを見た瞬間に分かった。
記憶を封じる棺。
魂の奥に置かれた、前世の記憶の箱。
黒い棺の表面は、木ではなかった。木に似ているが、質感が違う。ぬらりと黒く、乾いているのに湿って見える。まるで黒魔導書の頁を何枚も重ね、圧縮して、棺の形に押し固めたようだった。
近づくほど、紙の匂いがする。
古い紙。
血を吸った紙。
黒い魔力を長く閉じ込めた紙。
棺の表面には、白い花の蔓が巻きついていた。
細く、白く、異様に美しい蔓だった。花弁は小さく、先端だけが黒く染まっている。白花派の印に似ている。けれど、ただの飾りではない。棺の蓋を縛り、同時に蓋の隙間へ根を差し込もうとしている。
その蔓の下に、文字が刻まれかけていた。
ノア・クロウ。
イリアス・ノクスヴェルト。
二つの名が、重なっていた。
現世名と前世名が、同じ場所に、同じ深さで刻まれようとしている。
文字はまだ完全ではない。ノア・クロウの線は黒い棺の表面に浅く残り、イリアス・ノクスヴェルトの線はその下から浮かび上がるように濃い。どちらかを上書きするのではなく、混ぜてしまおうとしている。
ノアの喉が詰まった。
伴侶首輪が熱を持つ。
照合率は二パーセントのまま進まない。だが、黒い数字は不安定に揺れた。二の輪郭が黒く滲み、白い花印が手の甲でかすかに疼く。魂糸が、棺の方へ引かれる。
レオ・アステルレインの赤い糸が、すぐに反応した。
夢の中でも、糸は鮮やかだった。
ノアの足元からレオの手元へ伸びている。その赤が、棺の表面に刻まれた二つの名を見た瞬間、痛むように震えた。
レオもまた、棺を見ていた。
青い瞳が暗く沈んでいる。
守りたい。
閉じたい。
開けさせたくない。
その衝動が、赤い糸から露骨に伝わってきた。
ノアは視線を棺から外さずに言った。
「レオ。勝手に蓋を縛るなよ」
「まだしていない」
「“まだ”がつく時点で信用しづらい」
「開けさせたくない」
「正直でよろしい。最悪だけど」
幼いイリアスは、棺のそばに立っていた。
泥だらけの手を、黒い蓋の上に置いている。小さな手だった。土を掘り、死者を埋め、ひとりで重いものを抱えてきた手。
幼いイリアスは、ノアを見上げて言った。
「開けるなら、全部見ることになる」
声は静かだった。
責めてもいない。
脅してもいない。
ただ事実を言っている。
それが、この夢では一番きつい。
ノアは、口角を上げようとした。
「全部って、嫌な福袋だな」
笑えたような気がした。
だが、自分でも声が硬いと分かる。
幼いイリアスは笑わなかった。
当然だ。夢の中の幼い自分には、軽口が通じない。通じないどころか、軽口を言うたびに、こちらの逃げ場だけが減っていく。自分相手に皮肉が効かないのは、かなり理不尽だ。いや、効いたら効いたで腹が立つ。人間の自我、面倒くさい。
レオが低く言った。
「開けなくていい」
ノアは、少しだけ目を閉じた。
予想通りの言葉だった。
そして、予想通り、胸のどこかが少しだけ楽になりかけた。
開けなくていい。
見なくていい。
つらいものを、痛いものを、あの棺の中へ封じたままにしていい。
そう言われるのは、甘い。
甘くて、危ない。
ノアは目を開けた。
「閉じたままにしたら、敵が勝手に開けるだろ」
レオの唇が止まる。
「それは」
「分かってるだろ。オルドレイス代理だか魂帳局だか白花派だか知らないが、あいつらはもう蓋に手をかけてる。俺が見ないって言ったところで、向こうは遠慮しない」
黒い棺の表面で、白い花の蔓がゆっくり動いた。
根のような先端が、蓋の隙間へ入り込もうとしている。
棺の文字が、かすかに光る。
ノア・クロウ。
イリアス・ノクスヴェルト。
二つの名が、重なりながら不穏に震えた。
レオの赤い糸が鋭く張る。
「なら、僕が閉じる」
ノアは即座にレオを睨んだ。
「それも駄目だって言った」
レオは黙る。
だが、視線は棺から離れない。
閉じたい。
縛りたい。
ノアが見なくて済むように、記憶の棺ごと自分の白金の魔法で封じてしまいたい。
それがレオの恐怖であり、愛情であり、危うさだった。
ノアは、少しだけ息を吐く。
「俺が見る」
レオが振り向く。
青い瞳が、痛いほど揺れた。
「僕も見る」
「お前まで壊れる必要ない」
「君だけ壊れる方が嫌だ」
ノアは返せなかった。
言葉が詰まる。
軽口も出ない。
棺の前で、その言葉は重すぎた。
レオは一歩近づいた。
足元の黒い土が沈む。赤い糸が、ノアの魂糸へ強く触れようとして、直前で止まった。条件を覚えている。夢の中で勝手に記憶を閉じない。声を奪わない。前世のノアを勝手に抱え込まない。
それでも、レオは言う。
「一緒に見る」
「レオ」
「君の記憶を奪わない。閉じない。僕が勝手に意味を決めたりしない。でも、君だけに見せるのは嫌だ」
ノアは低く笑おうとした。
失敗した。
喉が詰まる。
棺へ近づくほど、首輪が熱を増している。瞳孔が少しずつ開いていくのが自分でも分かった。視界の端が暗くなり、棺の黒だけが異様にはっきり見える。
魂糸が、棺の中へ引かれる。
前世記憶へ。
黒魔導書へ。
血と古い紙の匂いへ。
ノアは、掠れた声で言った。
「お前、壊れる覚悟を美談みたいに出してくるなよ」
「美談じゃない」
「じゃあ何だ」
「僕のわがまま」
即答だった。
ノアは息を止めた。
レオは続ける。
「君だけが壊れる場所を、外から見ているのは無理だ」
「それで一緒に壊れたら世話ないだろ」
「壊れない方法を探す」
「見つかってない」
「だから、一緒に探す」
赤い糸が静かに震えた。
重い。
相変わらず重い。
だが、この重さは、棺を閉じる重さではなかった。
無理やり背負う重さでもない。
隣に立つための重さだった。
危険だ。
それは分かっている。
レオ自身の前世記憶まで開かれるかもしれない。幼いセラフィードの痛み、英雄になる前の少年の記憶、イリアスを殺した瞬間の罪悪感。全部がレオを壊すかもしれない。
それでも、彼は引かない。
引かせることもできない。
ノアは舌打ちした。
「本当に、嫌なところで頑固だな」
「うん」
「褒めてない」
「知ってる」
幼いイリアスが、棺の蓋に手を置いたまま言った。
「開けるのか」
ノアは幼い自分を見た。
土まみれの手。
静かな目。
置いていくのかと問い続ける子ども。
ノアは、まだ答えを持っていない。
置いていかないと言い切るには、まだ足りない。
連れていくと言い切るにも、怖い。
だが、棺を敵に開けさせるわけにはいかない。
ノアは低く言った。
「俺が開ける」
幼いイリアスの目が、少しだけ揺れた。
「全部見ることになる」
「分かってる」
「忘れたかったものも」
「分かってる」
「お前が、俺を嫌いになるかもしれない」
ノアは黙った。
その言葉は、幼いイリアス自身の声でもあり、ノアの中の恐怖でもあった。
イリアスを嫌いになるかもしれない。
自分の前世を。
自分の魂の奥にいる子どもを。
ノアは、ゆっくり息を吐いた。
「もうだいぶ面倒なやつだとは思ってる」
幼いイリアスは瞬きした。
ノアは続ける。
「でも、嫌いになるかどうかは、見てから決める。見てもないのに判断したら、それこそ役所と宗教と黒幕の仲間入りだろ。そんな就職先は嫌だ」
レオが、ほんのわずかに息を吐いた。
笑ったわけではない。
けれど、緊張が少しだけ緩んだ。
幼いイリアスは、棺の蓋から手を離した。
「じゃあ、開ければいい」
ノアは棺へ一歩近づいた。
その瞬間、首輪が強く熱を持つ。
喉が締まり、胸の奥が重く沈む。瞳孔がさらに開き、棺の表面に刻まれた二つの名が視界の中心で揺れた。
ノア・クロウ。
イリアス・ノクスヴェルト。
重なるな。
混ざるな。
どちらも自分に関わる名だとしても、勝手に一つに潰される気はない。
ノアは、手の甲を見た。
照合番号が冷たい光を放っている。
白花印が小さく疼く。
だが、照合率は二のまま。
進んではいない。
レオが隣に来る。
触れない。
けれど、赤い糸は足元でノアを支えている。
「ノア」
「呼びすぎ禁止」
「一回だけ」
「今のは許可」
「ノア・クロウ」
その名で、魂糸が少しだけ現在へ戻る。
ノアは、息を整えた。
「俺はノア・クロウ」
自分でも言う。
棺の表面で、ノア・クロウの文字が一瞬だけ深く刻まれた。
イリアス・ノクスヴェルトの文字も消えない。
ただ、重なり合おうとしていた線が、少しだけ離れる。
幼いイリアスがそれを見ている。
レオも見ている。
夢の戦場跡の空気が、静かに沈む。
棺の隙間から、声が漏れた。
細い声だった。
男とも女とも、老人とも子どもともつかない。
古い紙が擦れるような、黒い魔力が囁くような声。
「お前だけが、世界を正せる」
ノアの背筋が冷えた。
黒魔導書の最初の囁き。
まだ開いていない棺の奥から、それが漏れている。
レオの赤い糸が鋭く震えた。
ノアは低く言った。
「嫌な勧誘文句」
幼いイリアスは、何も言わない。
ただ、棺を見る。
あの声を、知っている顔だった。
ノアの胸が沈む。
単なる復讐だけではない。
イリアスが黒魔導書へ手を伸ばした理由。
そこに、何かがある。
ノアは棺の蓋に手をかけた。
冷たい。
黒魔導書の頁のような質感が、手のひらに吸いつく。紙なのに、皮膚のようでもあり、木なのに、濡れた影のようでもある。
レオが隣で息を詰める。
「ノア」
「止めるな」
「止めない」
「本当に?」
「止めたいけど、止めない」
「正直でよろしい。最悪だけど」
ノアは、小さく息を吸った。
棺の蓋を、ほんの少しだけ引いた。
ぎしり、と音がした。
夢の戦場跡が揺れる。
白い花の蔓が蓋の隙間で震え、黒い魔法文字が棺の表面を走った。手の甲の照合番号が冷たく光る。首輪の黒い二が不安定に揺れる。だが、進まない。
蓋が、ほんの少し開いた。
中から匂いが漏れた。
血。
古い紙。
黒い魔力。
そして、封印庫の冷えた空気。
ノアの呼吸が止まる。
その匂いを、知っていた。
前世の、どこか深い場所で。
ノアは、棺の隙間を見つめたまま呟いた。
「……ここか」




