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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第五章 【記憶の棺と幼い亡霊】

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第93話 黒い棺



 黒い棺は、墓穴の奥にあった。


 夢の戦場跡は、いつもより深く沈んでいた。


 空は煙に覆われ、星はない。遠くの火も、もう赤く瞬くばかりで、燃えているのか消えかけているのか分からない。灰をかぶった草は風に揺れ、折れた剣の刃は泥の中で鈍く光っている。浅く掘られた墓穴の縁には、子どもの手で掘ったような不揃いな跡が残っていた。


 湿った黒い土。


 古い血の匂い。


 焼けた草の根。


 それらの奥に、棺は沈んでいた。


 墓ではない。


 死者を葬るための棺ではない。


 もっと嫌なものだった。


 ノア・クロウは、それを見た瞬間に分かった。


 記憶を封じる棺。


 魂の奥に置かれた、前世の記憶の箱。


 黒い棺の表面は、木ではなかった。木に似ているが、質感が違う。ぬらりと黒く、乾いているのに湿って見える。まるで黒魔導書の頁を何枚も重ね、圧縮して、棺の形に押し固めたようだった。


 近づくほど、紙の匂いがする。


 古い紙。


 血を吸った紙。


 黒い魔力を長く閉じ込めた紙。


 棺の表面には、白い花の蔓が巻きついていた。


 細く、白く、異様に美しい蔓だった。花弁は小さく、先端だけが黒く染まっている。白花派の印に似ている。けれど、ただの飾りではない。棺の蓋を縛り、同時に蓋の隙間へ根を差し込もうとしている。


 その蔓の下に、文字が刻まれかけていた。


 ノア・クロウ。


 イリアス・ノクスヴェルト。


 二つの名が、重なっていた。


 現世名と前世名が、同じ場所に、同じ深さで刻まれようとしている。


 文字はまだ完全ではない。ノア・クロウの線は黒い棺の表面に浅く残り、イリアス・ノクスヴェルトの線はその下から浮かび上がるように濃い。どちらかを上書きするのではなく、混ぜてしまおうとしている。


 ノアの喉が詰まった。


 伴侶首輪《メイト・カラー》が熱を持つ。


 照合率は二パーセントのまま進まない。だが、黒い数字は不安定に揺れた。二の輪郭が黒く滲み、白い花印が手の甲でかすかに疼く。魂糸が、棺の方へ引かれる。


 レオ・アステルレインの赤い糸が、すぐに反応した。


 夢の中でも、糸は鮮やかだった。


 ノアの足元からレオの手元へ伸びている。その赤が、棺の表面に刻まれた二つの名を見た瞬間、痛むように震えた。


 レオもまた、棺を見ていた。


 青い瞳が暗く沈んでいる。


 守りたい。


 閉じたい。


 開けさせたくない。


 その衝動が、赤い糸から露骨に伝わってきた。


 ノアは視線を棺から外さずに言った。


「レオ。勝手に蓋を縛るなよ」


「まだしていない」


「“まだ”がつく時点で信用しづらい」


「開けさせたくない」


「正直でよろしい。最悪だけど」


 幼いイリアスは、棺のそばに立っていた。


 泥だらけの手を、黒い蓋の上に置いている。小さな手だった。土を掘り、死者を埋め、ひとりで重いものを抱えてきた手。


 幼いイリアスは、ノアを見上げて言った。


「開けるなら、全部見ることになる」


 声は静かだった。


 責めてもいない。


 脅してもいない。


 ただ事実を言っている。


 それが、この夢では一番きつい。


 ノアは、口角を上げようとした。


「全部って、嫌な福袋だな」


 笑えたような気がした。


 だが、自分でも声が硬いと分かる。


 幼いイリアスは笑わなかった。


 当然だ。夢の中の幼い自分には、軽口が通じない。通じないどころか、軽口を言うたびに、こちらの逃げ場だけが減っていく。自分相手に皮肉が効かないのは、かなり理不尽だ。いや、効いたら効いたで腹が立つ。人間の自我、面倒くさい。


 レオが低く言った。


「開けなくていい」


 ノアは、少しだけ目を閉じた。


 予想通りの言葉だった。


 そして、予想通り、胸のどこかが少しだけ楽になりかけた。


 開けなくていい。


 見なくていい。


 つらいものを、痛いものを、あの棺の中へ封じたままにしていい。


 そう言われるのは、甘い。


 甘くて、危ない。


 ノアは目を開けた。


「閉じたままにしたら、敵が勝手に開けるだろ」


 レオの唇が止まる。


「それは」


「分かってるだろ。オルドレイス代理だか魂帳局だか白花派だか知らないが、あいつらはもう蓋に手をかけてる。俺が見ないって言ったところで、向こうは遠慮しない」


 黒い棺の表面で、白い花の蔓がゆっくり動いた。


 根のような先端が、蓋の隙間へ入り込もうとしている。


 棺の文字が、かすかに光る。


 ノア・クロウ。


 イリアス・ノクスヴェルト。


 二つの名が、重なりながら不穏に震えた。


 レオの赤い糸が鋭く張る。


「なら、僕が閉じる」


 ノアは即座にレオを睨んだ。


「それも駄目だって言った」


 レオは黙る。


 だが、視線は棺から離れない。


 閉じたい。


 縛りたい。


 ノアが見なくて済むように、記憶の棺ごと自分の白金の魔法で封じてしまいたい。


 それがレオの恐怖であり、愛情であり、危うさだった。


 ノアは、少しだけ息を吐く。


「俺が見る」


 レオが振り向く。


 青い瞳が、痛いほど揺れた。


「僕も見る」


「お前まで壊れる必要ない」


「君だけ壊れる方が嫌だ」


 ノアは返せなかった。


 言葉が詰まる。


 軽口も出ない。


 棺の前で、その言葉は重すぎた。


 レオは一歩近づいた。


 足元の黒い土が沈む。赤い糸が、ノアの魂糸へ強く触れようとして、直前で止まった。条件を覚えている。夢の中で勝手に記憶を閉じない。声を奪わない。前世のノアを勝手に抱え込まない。


 それでも、レオは言う。


「一緒に見る」


「レオ」


「君の記憶を奪わない。閉じない。僕が勝手に意味を決めたりしない。でも、君だけに見せるのは嫌だ」


 ノアは低く笑おうとした。


 失敗した。


 喉が詰まる。


 棺へ近づくほど、首輪が熱を増している。瞳孔が少しずつ開いていくのが自分でも分かった。視界の端が暗くなり、棺の黒だけが異様にはっきり見える。


 魂糸が、棺の中へ引かれる。


 前世記憶へ。


 黒魔導書へ。


 血と古い紙の匂いへ。


 ノアは、掠れた声で言った。


「お前、壊れる覚悟を美談みたいに出してくるなよ」


「美談じゃない」


「じゃあ何だ」


「僕のわがまま」


 即答だった。


 ノアは息を止めた。


 レオは続ける。


「君だけが壊れる場所を、外から見ているのは無理だ」


「それで一緒に壊れたら世話ないだろ」


「壊れない方法を探す」


「見つかってない」


「だから、一緒に探す」


 赤い糸が静かに震えた。


 重い。


 相変わらず重い。


 だが、この重さは、棺を閉じる重さではなかった。


 無理やり背負う重さでもない。


 隣に立つための重さだった。


 危険だ。


 それは分かっている。


 レオ自身の前世記憶まで開かれるかもしれない。幼いセラフィードの痛み、英雄になる前の少年の記憶、イリアスを殺した瞬間の罪悪感。全部がレオを壊すかもしれない。


 それでも、彼は引かない。


 引かせることもできない。


 ノアは舌打ちした。


「本当に、嫌なところで頑固だな」


「うん」


「褒めてない」


「知ってる」


 幼いイリアスが、棺の蓋に手を置いたまま言った。


「開けるのか」


 ノアは幼い自分を見た。


 土まみれの手。


 静かな目。


 置いていくのかと問い続ける子ども。


 ノアは、まだ答えを持っていない。


 置いていかないと言い切るには、まだ足りない。


 連れていくと言い切るにも、怖い。


 だが、棺を敵に開けさせるわけにはいかない。


 ノアは低く言った。


「俺が開ける」


 幼いイリアスの目が、少しだけ揺れた。


「全部見ることになる」


「分かってる」


「忘れたかったものも」


「分かってる」


「お前が、俺を嫌いになるかもしれない」


 ノアは黙った。


 その言葉は、幼いイリアス自身の声でもあり、ノアの中の恐怖でもあった。


 イリアスを嫌いになるかもしれない。


 自分の前世を。


 自分の魂の奥にいる子どもを。


 ノアは、ゆっくり息を吐いた。


「もうだいぶ面倒なやつだとは思ってる」


 幼いイリアスは瞬きした。


 ノアは続ける。


「でも、嫌いになるかどうかは、見てから決める。見てもないのに判断したら、それこそ役所と宗教と黒幕の仲間入りだろ。そんな就職先は嫌だ」


 レオが、ほんのわずかに息を吐いた。


 笑ったわけではない。


 けれど、緊張が少しだけ緩んだ。


 幼いイリアスは、棺の蓋から手を離した。


「じゃあ、開ければいい」


 ノアは棺へ一歩近づいた。


 その瞬間、首輪が強く熱を持つ。


 喉が締まり、胸の奥が重く沈む。瞳孔がさらに開き、棺の表面に刻まれた二つの名が視界の中心で揺れた。


 ノア・クロウ。


 イリアス・ノクスヴェルト。


 重なるな。


 混ざるな。


 どちらも自分に関わる名だとしても、勝手に一つに潰される気はない。


 ノアは、手の甲を見た。


 照合番号が冷たい光を放っている。


 白花印が小さく疼く。


 だが、照合率は二のまま。


 進んではいない。


 レオが隣に来る。


 触れない。


 けれど、赤い糸は足元でノアを支えている。


「ノア」


「呼びすぎ禁止」


「一回だけ」


「今のは許可」


「ノア・クロウ」


 その名で、魂糸が少しだけ現在へ戻る。


 ノアは、息を整えた。


「俺はノア・クロウ」


 自分でも言う。


 棺の表面で、ノア・クロウの文字が一瞬だけ深く刻まれた。


 イリアス・ノクスヴェルトの文字も消えない。


 ただ、重なり合おうとしていた線が、少しだけ離れる。


 幼いイリアスがそれを見ている。


 レオも見ている。


 夢の戦場跡の空気が、静かに沈む。


 棺の隙間から、声が漏れた。


 細い声だった。


 男とも女とも、老人とも子どもともつかない。


 古い紙が擦れるような、黒い魔力が囁くような声。


「お前だけが、世界を正せる」


 ノアの背筋が冷えた。


 黒魔導書の最初の囁き。


 まだ開いていない棺の奥から、それが漏れている。


 レオの赤い糸が鋭く震えた。


 ノアは低く言った。


「嫌な勧誘文句」


 幼いイリアスは、何も言わない。


 ただ、棺を見る。


 あの声を、知っている顔だった。


 ノアの胸が沈む。


 単なる復讐だけではない。


 イリアスが黒魔導書へ手を伸ばした理由。


 そこに、何かがある。


 ノアは棺の蓋に手をかけた。


 冷たい。


 黒魔導書の頁のような質感が、手のひらに吸いつく。紙なのに、皮膚のようでもあり、木なのに、濡れた影のようでもある。


 レオが隣で息を詰める。


「ノア」


「止めるな」


「止めない」


「本当に?」


「止めたいけど、止めない」


「正直でよろしい。最悪だけど」


 ノアは、小さく息を吸った。


 棺の蓋を、ほんの少しだけ引いた。


 ぎしり、と音がした。


 夢の戦場跡が揺れる。


 白い花の蔓が蓋の隙間で震え、黒い魔法文字が棺の表面を走った。手の甲の照合番号が冷たく光る。首輪の黒い二が不安定に揺れる。だが、進まない。


 蓋が、ほんの少し開いた。


 中から匂いが漏れた。


 血。


 古い紙。


 黒い魔力。


 そして、封印庫の冷えた空気。


 ノアの呼吸が止まる。


 その匂いを、知っていた。


 前世の、どこか深い場所で。


 ノアは、棺の隙間を見つめたまま呟いた。


「……ここか」


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