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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第五章 【記憶の棺と幼い亡霊】

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第92話 俺を殺したやつ


 夢の戦場跡に、赤い糸が落ちていた。


 黒く湿った土の上に、一本だけ鮮やかな赤が走っている。


 灰をかぶった草が風に揺れ、折れた剣が斜めに地面へ刺さっていた。浅く掘られた墓穴の縁は崩れかけ、土の匂いと焦げた草の匂いが重く沈んでいる。遠くでは、まだ消えきらない火が赤く揺れていた。


 その場所に、レオ・アステルレインは立っていた。


 現世の姿のままだった。


 金の髪。青い瞳。学院の制服。白金の魔力。夢の中にいるのに、足元の黒い土の冷たさだけは妙に生々しい。踏みしめるたび、靴底から魂の奥へ湿った感触が染み込んでくるようだった。


 ノア・クロウは、すぐ隣にいる。


 だが、近いはずなのに遠い。


 夢の中では、距離というものが信用できなかった。手を伸ばせば届きそうなのに、指先は重く、胸の奥には土を詰められたような圧迫感がある。


 そして、墓穴の前に、幼いイリアスがいた。


 土まみれの手。


 黒い髪。


 痩せた肩。


 泣いていない目。


 幼いイリアス・ノクスヴェルトは、ゆっくりと片手を上げた。泥で汚れた指先が、現世のレオをまっすぐ指す。


 その声は、驚くほど静かだった。


「お前も、俺を殺したやつだ」


 責める声ではなかった。


 叫びでも、憎悪でも、泣き言でもない。


 ただ、事実を確認する声だった。


 それが、レオに深く刺さった。


 赤い糸が、夢の中で強く震える。


 レオは動けなかった。


 白金の魔力も、言葉も、呼吸も、一瞬すべて止まった。幼いイリアスの指先が、まるで刃のように見える。けれど、その子どもの手にあるのは刃ではない。ただの土だ。墓穴を掘った手。死者を埋めた手。ひとりで世界の重さを抱え込んだ手。


 ノアが間に入ろうとした。


「レオ」


 けれど、夢の中の身体が重い。


 足が土に沈むようだった。胸が重く、喉が詰まる。現実の寝台で眠る身体も、苦しげに息を詰めた。伴侶首輪《メイト・カラー》が冷たい熱を持ち、黒い亀裂が小さく疼く。


 幼いイリアスは、レオを見上げたまま続ける。


「違うのか?」


 静かな問いだった。


 逃げ場がなかった。


 レオの喉が動く。


 長い沈黙のあと、彼は答えた。


「そうだよ」


 赤い糸が、痛むように震えた。


 ノアが息を呑む。


「レオ」


 レオは幼いイリアスから目を逸らさなかった。


「否定しない」


 声は震えていなかった。


 けれど、震えていないことが、かえって痛々しかった。


「僕は、君を殺した」


 夢の空気が重くなる。


 墓穴の土が、わずかに沈む。


 遠くの火が揺れ、灰の風が黒い草を撫でた。


 ノアは胸の奥を掴まれたような感覚に、少し顔を歪めた。


 その言葉は、ノアにも刺さる。


 イリアスは死んだ。


 セラフィードが殺した。


 世界を救うために。


 約束のために。


 願いのために。


 それは、前世の終わりにあった事実だった。


 けれど、それをレオの口から聞くと、別の重さを持つ。


 英雄の物語ではない。


 救国の伝説でもない。


 幼いイリアスの問いに対する、ただの答えだった。


 幼いイリアスは首を傾げた。


「じゃあ、また殺すのか?」


 ノアの喉が詰まる。


 レオの青い瞳が、暗く沈む。


 けれど、彼はすぐに言った。


「でも、今度は殺さない」


 赤い糸が、今度は強く張った。


「世界が命じても、儀礼が望んでも、記録が君を災厄と呼んでも、僕は従わない」


 幼いイリアスは、じっと見ている。


 レオは続けた。


「前世で僕が君を殺したことは否定しない。否定したら、君の死も、僕の選択も、君が託したものも嘘になる」


 ノアは、思わず目を伏せかけた。


 頼んだぞ。


 ざまぁみろ。


 あの最期の声が、胸の奥でかすかに揺れる。


 レオの声は低くなる。


「でも、今の君を、ノア・クロウを、もう一度殺す世界には従わない」


 その言葉に、夢の戦場跡が一瞬だけ静まった。


 幼いイリアスは、土まみれの手を下ろす。


 そして、別の問いを口にした。


「じゃあ、助けてって言えば助けるのか?」


 レオが息を呑んだ。


 ノアの胸が、鈍く痛んだ。


 その問いは、レオではなく、ノアの方にも向いていた。


 助けて。


 その言葉。


 前世でも、現世でも、うまく言えなかった言葉。


 言えば、誰かが半分を持つ。


 言えば、レオは持つ。


 持ちすぎる。


 壊れるほどに。


 ノアは低く言った。


「それを聞くな」


 幼いイリアスが、ノアを見る。


 ノアは唇を引き結んだ。


 声が低かった。


「それを聞くな。こいつは、言ったら本当に助ける。助けすぎる。半分どころか全部持とうとする」


 レオはノアを見た。


「ノア」


「事実だろ」


 ノアは、レオを見ないまま言った。


「お前はそういうやつだ。持つなって言っても持つ。来るなって言っても来る。閉じ込めるなって言っても、たぶん一回は閉じ込める方法を考える」


「……考える」


「正直でよろしい。最悪だけど」


 軽口にしようとした。


 けれど、声は軽くならなかった。


 幼いイリアスは静かに言う。


「助けてって言わないから、殺されたのか?」


 ノアの呼吸が止まった。


 レオの赤い糸が、鋭く震える。


 その問いは、刃より深かった。


 幼いイリアスは責めていない。


 ただ、分からないから聞いている。


 それが余計に苦しい。


 ノアは、しばらく答えられなかった。


 前世の最後に、助けてと言ったのか。


 言わなかった。


 頼んだとは言った。


 殺してくれに近いものを、笑って渡した。


 助けてとは言わなかった。


 助けてほしい自分を、殺してしまったのかもしれない。


 レオは幼いイリアスを見る。


「助けられなかった」


 その声は、ひどく静かだった。


「助ける方法が、殺すことしか残っていないと思った。僕はそう選んだ」


 幼いイリアスは尋ねる。


「後悔してるのか?」


 レオは、一拍置いた。


「している」


 ノアが目を上げる。


 レオは続けた。


「でも、あの時の君が僕に託したものも、否定しない。否定したら、君が最後に守ろうとしたものまで壊す」


 幼いイリアスの瞳が、わずかに揺れた。


 レオは息を吸う。


「だから今度は、殺す以外の方法を選ぶ」


 赤い糸が、ノアの足元で静かに光った。


「君が助けてと言えなくても、言う前に全部奪うんじゃなくて、言えるまで待つ。言わなくても、勝手に閉じない。勝手に背負わない」


 ノアは、レオを見た。


 その言葉は、ノアが出した条件そのものだった。


 夢の中で勝手に記憶を閉じない。


 声を奪わない。


 前世の自分を勝手に抱え込まない。


 レオは、それを守ろうとしている。


 守ろうとしているだけで、彼の中の衝動が消えたわけではない。今もたぶん、幼いイリアスを抱え込みたいと思っている。ノアの罪も痛みも、全部自分の胸に押し込んで、二度と外へ出さないようにしたいと思っている。


 だが、していない。


 それが今は、大きかった。


 幼いイリアスは、少しだけ首を傾ける。


「助けてって言えば、助けるのか?」


 レオは今度は迷わなかった。


「助ける」


 ノアの喉が詰まる。


 幼いイリアスはノアを見る。


「言うのか?」


 ノアは答えられなかった。


 胸が重い。


 伴侶首輪が冷たい熱を持つ。


 現実の身体が、寝台の上でわずかに震える。喉が詰まり、呼吸が浅くなる。重度反応ではない。けれど、魂糸が強く痛んでいる。


 レオの赤い糸が、そっと支えるように近づいた。


 ノアは、それを拒まなかった。


 拒めなかった。


 幼いイリアスが、墓穴の方へ視線を向ける。


「じゃあ、どうしてあの時は言わなかったんだ」


 誰もすぐには答えられなかった。


 灰の風が吹く。


 墓穴の縁が少し崩れる。


 その奥から、黒い霧が立ち上った。


 灰の匂い。


 黒いインクの匂い。


 魂帳局の印が、一瞬だけ土に浮かぶ。


 ノアは顔を上げた。


「また記録係か」


 声が低い。


 黒い霧は答えない。


 幼いイリアスは敵ではない。


 だが、この問いを通して、敵はレオの罪悪感にも触れようとしている。


 英雄ではなく、殺したやつとして。


 救った者ではなく、奪った者として。


 レオを折るために。


 ノアは、黒い霧を睨んだ。


「こいつに殺したって言わせたいわけか。英雄の皮を剥いで、罪悪感で潰す。趣味が悪いな」


 レオは静かに言った。


「潰れない」


 ノアがレオを見る。


 レオの顔色は悪い。


 青白いと言っていいほどだった。


 それでも、立っている。


「僕が君を殺したことは、僕の罪だ。でも、それを使って今の君を奪わせる理由にはしない」


 幼いイリアスは、レオを見上げた。


「罪なら、返せるのか?」


「返せない」


「じゃあ、どうする」


 レオはノアを見た。


 その目は、ひどく重い。


 けれど、今は縛る目ではなかった。


「今の君を殺さない」


 ノアは息を詰めた。


「君がノア・クロウとして生きるのを、支える。殺した事実を消せなくても、今度の選択は変える」


 幼いイリアスは、黙った。


 夢の戦場跡が、わずかに揺れる。


 黒い霧が薄くなる。


 だが、消えない。


 墓穴の奥で、何かが鳴った。


 木が軋むような音。


 土の下で、古い箱が動くような音。


 ノアは、そちらを見た。


 墓穴のさらに奥。


 灰と土に半分埋まった場所に、黒い棺が見えていた。


 大きくはない。


 けれど、異様に重く見えた。


 黒い木肌には、古い魔法文字が刻まれている。ところどころ、白い花の紋と灰色の魂帳局印が上から重なり、さらにその隙間を黒い糸のような構文が這っていた。


 記憶の棺。


 ノアは、直感でそう分かった。


 伴侶首輪が熱を持つ。


 手の甲の照合番号が、夢の中でも冷たく光る。


 レオの赤い糸が、ノアの横で強く震えた。


 幼いイリアスは、黒い棺の方へ歩いた。


 土まみれの手を、棺の蓋に置く。


 小さな手だった。


 それなのに、その手が触れた瞬間、棺の周囲の空気が沈む。


 幼いイリアスは、ノアとレオを振り返った。


「開けるなら、全部見ることになる」


 ノアは息を止めた。


 レオも動かなかった。


 黒い棺は、夢の奥で静かに沈黙していた。



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