第92話 俺を殺したやつ
夢の戦場跡に、赤い糸が落ちていた。
黒く湿った土の上に、一本だけ鮮やかな赤が走っている。
灰をかぶった草が風に揺れ、折れた剣が斜めに地面へ刺さっていた。浅く掘られた墓穴の縁は崩れかけ、土の匂いと焦げた草の匂いが重く沈んでいる。遠くでは、まだ消えきらない火が赤く揺れていた。
その場所に、レオ・アステルレインは立っていた。
現世の姿のままだった。
金の髪。青い瞳。学院の制服。白金の魔力。夢の中にいるのに、足元の黒い土の冷たさだけは妙に生々しい。踏みしめるたび、靴底から魂の奥へ湿った感触が染み込んでくるようだった。
ノア・クロウは、すぐ隣にいる。
だが、近いはずなのに遠い。
夢の中では、距離というものが信用できなかった。手を伸ばせば届きそうなのに、指先は重く、胸の奥には土を詰められたような圧迫感がある。
そして、墓穴の前に、幼いイリアスがいた。
土まみれの手。
黒い髪。
痩せた肩。
泣いていない目。
幼いイリアス・ノクスヴェルトは、ゆっくりと片手を上げた。泥で汚れた指先が、現世のレオをまっすぐ指す。
その声は、驚くほど静かだった。
「お前も、俺を殺したやつだ」
責める声ではなかった。
叫びでも、憎悪でも、泣き言でもない。
ただ、事実を確認する声だった。
それが、レオに深く刺さった。
赤い糸が、夢の中で強く震える。
レオは動けなかった。
白金の魔力も、言葉も、呼吸も、一瞬すべて止まった。幼いイリアスの指先が、まるで刃のように見える。けれど、その子どもの手にあるのは刃ではない。ただの土だ。墓穴を掘った手。死者を埋めた手。ひとりで世界の重さを抱え込んだ手。
ノアが間に入ろうとした。
「レオ」
けれど、夢の中の身体が重い。
足が土に沈むようだった。胸が重く、喉が詰まる。現実の寝台で眠る身体も、苦しげに息を詰めた。伴侶首輪が冷たい熱を持ち、黒い亀裂が小さく疼く。
幼いイリアスは、レオを見上げたまま続ける。
「違うのか?」
静かな問いだった。
逃げ場がなかった。
レオの喉が動く。
長い沈黙のあと、彼は答えた。
「そうだよ」
赤い糸が、痛むように震えた。
ノアが息を呑む。
「レオ」
レオは幼いイリアスから目を逸らさなかった。
「否定しない」
声は震えていなかった。
けれど、震えていないことが、かえって痛々しかった。
「僕は、君を殺した」
夢の空気が重くなる。
墓穴の土が、わずかに沈む。
遠くの火が揺れ、灰の風が黒い草を撫でた。
ノアは胸の奥を掴まれたような感覚に、少し顔を歪めた。
その言葉は、ノアにも刺さる。
イリアスは死んだ。
セラフィードが殺した。
世界を救うために。
約束のために。
願いのために。
それは、前世の終わりにあった事実だった。
けれど、それをレオの口から聞くと、別の重さを持つ。
英雄の物語ではない。
救国の伝説でもない。
幼いイリアスの問いに対する、ただの答えだった。
幼いイリアスは首を傾げた。
「じゃあ、また殺すのか?」
ノアの喉が詰まる。
レオの青い瞳が、暗く沈む。
けれど、彼はすぐに言った。
「でも、今度は殺さない」
赤い糸が、今度は強く張った。
「世界が命じても、儀礼が望んでも、記録が君を災厄と呼んでも、僕は従わない」
幼いイリアスは、じっと見ている。
レオは続けた。
「前世で僕が君を殺したことは否定しない。否定したら、君の死も、僕の選択も、君が託したものも嘘になる」
ノアは、思わず目を伏せかけた。
頼んだぞ。
ざまぁみろ。
あの最期の声が、胸の奥でかすかに揺れる。
レオの声は低くなる。
「でも、今の君を、ノア・クロウを、もう一度殺す世界には従わない」
その言葉に、夢の戦場跡が一瞬だけ静まった。
幼いイリアスは、土まみれの手を下ろす。
そして、別の問いを口にした。
「じゃあ、助けてって言えば助けるのか?」
レオが息を呑んだ。
ノアの胸が、鈍く痛んだ。
その問いは、レオではなく、ノアの方にも向いていた。
助けて。
その言葉。
前世でも、現世でも、うまく言えなかった言葉。
言えば、誰かが半分を持つ。
言えば、レオは持つ。
持ちすぎる。
壊れるほどに。
ノアは低く言った。
「それを聞くな」
幼いイリアスが、ノアを見る。
ノアは唇を引き結んだ。
声が低かった。
「それを聞くな。こいつは、言ったら本当に助ける。助けすぎる。半分どころか全部持とうとする」
レオはノアを見た。
「ノア」
「事実だろ」
ノアは、レオを見ないまま言った。
「お前はそういうやつだ。持つなって言っても持つ。来るなって言っても来る。閉じ込めるなって言っても、たぶん一回は閉じ込める方法を考える」
「……考える」
「正直でよろしい。最悪だけど」
軽口にしようとした。
けれど、声は軽くならなかった。
幼いイリアスは静かに言う。
「助けてって言わないから、殺されたのか?」
ノアの呼吸が止まった。
レオの赤い糸が、鋭く震える。
その問いは、刃より深かった。
幼いイリアスは責めていない。
ただ、分からないから聞いている。
それが余計に苦しい。
ノアは、しばらく答えられなかった。
前世の最後に、助けてと言ったのか。
言わなかった。
頼んだとは言った。
殺してくれに近いものを、笑って渡した。
助けてとは言わなかった。
助けてほしい自分を、殺してしまったのかもしれない。
レオは幼いイリアスを見る。
「助けられなかった」
その声は、ひどく静かだった。
「助ける方法が、殺すことしか残っていないと思った。僕はそう選んだ」
幼いイリアスは尋ねる。
「後悔してるのか?」
レオは、一拍置いた。
「している」
ノアが目を上げる。
レオは続けた。
「でも、あの時の君が僕に託したものも、否定しない。否定したら、君が最後に守ろうとしたものまで壊す」
幼いイリアスの瞳が、わずかに揺れた。
レオは息を吸う。
「だから今度は、殺す以外の方法を選ぶ」
赤い糸が、ノアの足元で静かに光った。
「君が助けてと言えなくても、言う前に全部奪うんじゃなくて、言えるまで待つ。言わなくても、勝手に閉じない。勝手に背負わない」
ノアは、レオを見た。
その言葉は、ノアが出した条件そのものだった。
夢の中で勝手に記憶を閉じない。
声を奪わない。
前世の自分を勝手に抱え込まない。
レオは、それを守ろうとしている。
守ろうとしているだけで、彼の中の衝動が消えたわけではない。今もたぶん、幼いイリアスを抱え込みたいと思っている。ノアの罪も痛みも、全部自分の胸に押し込んで、二度と外へ出さないようにしたいと思っている。
だが、していない。
それが今は、大きかった。
幼いイリアスは、少しだけ首を傾ける。
「助けてって言えば、助けるのか?」
レオは今度は迷わなかった。
「助ける」
ノアの喉が詰まる。
幼いイリアスはノアを見る。
「言うのか?」
ノアは答えられなかった。
胸が重い。
伴侶首輪が冷たい熱を持つ。
現実の身体が、寝台の上でわずかに震える。喉が詰まり、呼吸が浅くなる。重度反応ではない。けれど、魂糸が強く痛んでいる。
レオの赤い糸が、そっと支えるように近づいた。
ノアは、それを拒まなかった。
拒めなかった。
幼いイリアスが、墓穴の方へ視線を向ける。
「じゃあ、どうしてあの時は言わなかったんだ」
誰もすぐには答えられなかった。
灰の風が吹く。
墓穴の縁が少し崩れる。
その奥から、黒い霧が立ち上った。
灰の匂い。
黒いインクの匂い。
魂帳局の印が、一瞬だけ土に浮かぶ。
ノアは顔を上げた。
「また記録係か」
声が低い。
黒い霧は答えない。
幼いイリアスは敵ではない。
だが、この問いを通して、敵はレオの罪悪感にも触れようとしている。
英雄ではなく、殺したやつとして。
救った者ではなく、奪った者として。
レオを折るために。
ノアは、黒い霧を睨んだ。
「こいつに殺したって言わせたいわけか。英雄の皮を剥いで、罪悪感で潰す。趣味が悪いな」
レオは静かに言った。
「潰れない」
ノアがレオを見る。
レオの顔色は悪い。
青白いと言っていいほどだった。
それでも、立っている。
「僕が君を殺したことは、僕の罪だ。でも、それを使って今の君を奪わせる理由にはしない」
幼いイリアスは、レオを見上げた。
「罪なら、返せるのか?」
「返せない」
「じゃあ、どうする」
レオはノアを見た。
その目は、ひどく重い。
けれど、今は縛る目ではなかった。
「今の君を殺さない」
ノアは息を詰めた。
「君がノア・クロウとして生きるのを、支える。殺した事実を消せなくても、今度の選択は変える」
幼いイリアスは、黙った。
夢の戦場跡が、わずかに揺れる。
黒い霧が薄くなる。
だが、消えない。
墓穴の奥で、何かが鳴った。
木が軋むような音。
土の下で、古い箱が動くような音。
ノアは、そちらを見た。
墓穴のさらに奥。
灰と土に半分埋まった場所に、黒い棺が見えていた。
大きくはない。
けれど、異様に重く見えた。
黒い木肌には、古い魔法文字が刻まれている。ところどころ、白い花の紋と灰色の魂帳局印が上から重なり、さらにその隙間を黒い糸のような構文が這っていた。
記憶の棺。
ノアは、直感でそう分かった。
伴侶首輪が熱を持つ。
手の甲の照合番号が、夢の中でも冷たく光る。
レオの赤い糸が、ノアの横で強く震えた。
幼いイリアスは、黒い棺の方へ歩いた。
土まみれの手を、棺の蓋に置く。
小さな手だった。
それなのに、その手が触れた瞬間、棺の周囲の空気が沈む。
幼いイリアスは、ノアとレオを振り返った。
「開けるなら、全部見ることになる」
ノアは息を止めた。
レオも動かなかった。
黒い棺は、夢の奥で静かに沈黙していた。




