第91話 赤い糸の夢渡り
朝の寮部屋に、黒い土があった。
ひとつは、封印布の上。
昨夜、ノア・クロウの夢から現実へ落ちてきたものと同じ、湿った黒い土だった。灰と古い血と、燃えた草の根を含んだような匂いがする。学院の庭土ではない。寮の床に落ちていいものでもない。
もうひとつは、レオ・アステルレインの手のひらに付いていた。
白い指の腹に、黒い土が薄くこびりついている。
その手は、昨夜ノアの指先に触れていた手だった。夢に入らないと約束し、魂糸へ直接結ばず、ただ赤い糸を通してノアの名を呼び続けていた手。
それなのに、土がある。
ノアは寝台の上で、それを見つめた。
喉はまだ少し掠れている。夢から戻ったばかりの身体は重く、首元の伴侶首輪は警告のように薄い熱を持っていた。照合率は二パーセントのまま。進んではいない。だが、黒い亀裂はときおり小さく疼く。
レオの手のひらの土を見て、ノアは眉を寄せた。
「お前、夢に不法侵入してきた?」
レオは即座に答えた。
「していない」
「じゃあ土だけ密輸してきたのか」
「僕も分からない」
「分からないで夢の土つけて帰ってくるな。税関で止められろ」
レオは笑わなかった。
青い瞳は、ただ自分の手に付いた黒い土を見ている。
その表情は、怒りではなかった。
恐怖でもない。
もっと静かな理解に近い。
自分が、ノアの夢へ届き始めている。
その事実を、レオはもう分かっているのだろう。
ノアは、息を吐いた。
「……赤い糸か」
レオが顔を上げる。
「たぶん」
「便利すぎて不便な糸だな」
「君に届くなら、便利だよ」
「敵にも届くかもしれないんだぞ」
レオは黙った。
その沈黙が答えだった。
レオは、自分の手の土を封印布へ落とした。直接払うのではなく、白金の魔力でそっと包み、布の上へ移す。慎重だった。手放したくないものを、危険物として扱うような手つきだった。
ノアはそれを見て、軽く肩をすくめる。
「夢渡り前の健康診断、朝から濃すぎ」
「まだ夢渡りとは決まっていない」
「決まる前から嫌な名前をつけておくと、だいたい当たる」
「当たらなくていい」
「俺もそう思う」
レオは水杯を取った。
「飲んで」
「はいはい」
水はいつもの温度だった。
喉を通ると、夢の中で詰まっていた声の通り道が少し楽になる。レオは水杯を受け取ってから、ノアの首元を見た。
「喉、触れていい?」
ノアは少しだけ顎を引く。
「喉だけな。土の解析とか首輪の固定とか、ついでにやるなよ」
「しない」
「本当に?」
「努力する」
「信用しづらい返事だな」
「でも、しない」
「ならよし」
レオの白金の治癒魔法が、喉の外側を薄く包む。
熱を取る。
掠れをほどく。
首輪の黒い亀裂には触れない。照合番号にも、白花印にも手を出さない。ただ、ノアが声を出しやすいように整える。
レオの手は震えていなかった。
だが、赤い糸はひどく張っていた。
ノアの夢へ届いた。
夢の土がレオの手に残った。
それは、レオにとって危険より先に希望に見えているのかもしれない。
ノアが沈んだ時、引き戻せるかもしれない。
ノアが記憶の棺へ呑まれそうになった時、手を伸ばせるかもしれない。
ただし、その道は敵にも見える。
救命綱は、逆に侵入路にもなる。
便利な魔法ほど、すぐ裏口になる。世界の設計者、危機管理研修を受けろ。
朝食前に、二人はセドリックの研究室へ向かった。
黒い土は封印布と小箱に分けられ、レオの手に付いていた分も別に収められている。廊下には生徒たちの声があったが、ノアには妙に遠く聞こえた。
手の甲の照合番号が、時折冷える。
首輪は熱い。
赤い糸は、ノアとレオの間で静かに震えている。
研究室に入ると、セドリック・バロウズはすでに黒魔法陣を広げていた。
寝ていない顔だった。
机の上には、記憶の棺、魂帳局の照合番号、白花派の儀礼対象印、赤い糸に関する資料が並んでいる。よくもまあ毎回資料が増えるものだ。机がかわいそうだ。人間の業を全部背負わされている。
セドリックは、レオの手に付いていた土を確認すると、眉間に深い皺を刻んだ。
「アステルレイン。夢に入ったのか」
「入っていません」
「意図的な夢干渉は」
「していません」
「赤い糸は?」
「ノアの名を呼ぶために繋げていました。魂糸へは結んでいません」
セドリックはノアを見る。
ノアは軽く手を上げた。
「約束は守ってた。たぶん。少なくとも、夢の中でレオ本人は見てない」
「見たのは?」
ノアは一拍置いた。
「小さいレオ」
レオの赤い糸が、かすかに震える。
セドリックの目が細くなった。
「幼いセラフィードか」
「たぶん」
ノアは、そこで少しだけ喉を鳴らした。
半分持つ。
助けてと言わないまま、また行くの。
その声が、まだ胸に残っている。
レオが横から見た。
声の変化に気づいたのだろう。
ノアは先回りして言った。
「診断顔やめろ」
「声が落ちた」
「落ちもする」
「何を言われたの」
「あとで」
「……分かった」
そこで止まった。
偉い。
いや、偉いと言うべきなのか。人の心へ土足で踏み込まないだけで褒められる王子様、基準が低い。だが今はそれでいい。
セドリックはレオの手に付いていた土を解析陣に置いた。
黒魔法の線が土の表面をなぞる。
すぐに、二つの反応が浮かび上がった。
一つは、ノアの記憶の棺に由来する魔力残滓。
もう一つは、赤い糸の反応。
セドリックは低く言った。
「赤い糸が、ノアの夢へ届き始めている」
部屋が静かになった。
ノアは、わざと軽く言う。
「ほら、夢渡りじゃん」
「喜ぶな」
「喜んでない。嫌な命名が当たって嫌なだけ」
レオは土を見つめたまま言った。
「入れるということですか」
「可能性はある」
セドリックは慎重に答えた。
「赤い糸は、もともと魂同士の接続だ。伴侶契約によって、ノアの魂糸とお前の魂糸は通常より深く結ばれている。今までは現実側での感知や固定に留まっていたが、記憶の棺が開きかけたことで、夢の深層へ糸が届くようになっている」
ノアは、手の甲を見た。
「それって、まずい?」
「危険でもあり、救いでもある」
「出た。面倒な二択」
「アステルレインが夢に入れれば、ノアを記憶の棺から引き戻せるかもしれない」
レオの青い瞳が、わずかに光を帯びる。
ノアはその横顔を見て、嫌な予感がした。
セドリックは続ける。
「だが同時に、アステルレイン自身の前世記憶も開かれる危険がある」
赤い糸が、細く震えた。
レオの手がかすかに動く。
セドリックは容赦なく言う。
「幼いセラフィードが夢に現れた以上、記憶の棺はノアだけの層ではなくなりつつある。赤い糸経由で、お前の前世記憶にも接続が始まっている可能性がある。夢へ入れば、ノアを助けられるかもしれない。だが、お前自身も前世に引かれる」
ノアは即座に言った。
「じゃあ保留」
レオは同時に言った。
「入る」
ノアはレオを睨んだ。
「即答するな。危ないって言われただろ」
「君が一人で行く方が危ない」
「俺の夢だぞ」
「だから一人にしたくない」
その言葉で、ノアは反論しかけて止まった。
幼いイリアスの声が胸に戻る。
置いていくのか。
幼いセラフィードの声も。
助けてと言わないまま、また行くの。
ノアは唇を結んだ。
一人で行く。
いつものように。
軽口を盾にして、痛みを自分の中へ押し込んで、誰にも持たせないようにして。
それが正しいと思っていた。
少なくとも、楽だった。
だが、本当に楽だったのか。
幼いセラフィードは、半分持つと言った。
現世のレオは、一人にしたくないと言っている。
重い。
非常に重い。
だが、その重さに少しだけ救われている自分もいる。
腹立たしい。人間の感情、本当に面倒くさい。
ノアは深く息を吐いた。
「……条件がある」
レオは即座に顔を上げる。
「うん」
「早い」
「聞く」
ノアは、レオの目をまっすぐ見た。
声は軽くない。
低かった。
「夢の中で勝手に記憶を閉じない」
「分かった」
「俺の声を奪わない。叫んでも、泣いても、黙ってても、勝手に封じるな」
レオの喉が動いた。
「分かった」
「前世の俺を勝手に抱え込まない」
そこで、レオは黙った。
ノアは目を細める。
「そこ、一番大事だからな」
レオの赤い糸が震える。
幼いイリアス。
墓穴の土。
置いていかれる子ども。
レオは、それを見たら抱え込みたくなるだろう。ノアの痛みも、イリアスの痛みも、全部自分の手元に置きたくなる。半分どころか全部持とうとする。
だから、ノアは言った。
「前世の俺を見ても、勝手に救った気になるな。勝手に許した気になるな。勝手に背負うな」
レオは、静かに息を吸った。
「……分かった」
「本当に?」
「努力する、ではなく、分かった」
「よろしい」
セドリックが腕を組んだ。
「条件はまだある」
ノアとレオが同時に見る。
セドリックは黒魔法陣を指した。
「夢渡りの通路は、敵にも利用される危険がある。赤い糸がノアを救うための糸であると同時に、オルドレイス代理が記憶へ干渉するための扉にもなりうる」
レオの目が冷える。
「僕の糸を利用させない」
「意志だけで防げる相手ではない」
「なら、術式を」
「組む。だが完全ではない。夢へ入るなら、ノアとお前の双方が、自分の名を保つ必要がある」
ノアは嫌そうに笑った。
「夢渡り前の本人確認」
「そうだ」
「役所感が増すな」
「不本意だ」
セドリックは紙を二枚取り出した。
一枚にはノア・クロウ。
もう一枚にはレオ・アステルレイン。
それぞれの名を、現世名として魔法陣の中心へ置く。
「夢に入る前、互いの現世名を確認する。前世名で呼ばれても返事をしない。幼い残響が何を言っても、現在の名を失わない」
レオが頷く。
「分かりました」
ノアは少しだけ笑う。
「つまり、夢の中でも点呼か」
「お前には有効だ」
「反論できないのが嫌」
その日一日、準備は続いた。
黒い土の封印。
赤い糸の通路化を抑える術式。
夢へ入った際、現実側から引き戻すための帰還符。
ノアの喉と首輪の調整。
レオの魔力回路の安定化。
手の甲の照合番号と白花印の観察。
ノアは何度も水を飲まされ、喉を診られ、魔力回路を整えられた。
夕方頃には、さすがにうんざりした。
「夢渡り前の健康診断、長すぎない?」
レオは真面目に答えた。
「必要だよ」
「お前の必要、だいたい過剰」
「今日は過剰でいい」
「開き直った」
レオは、ノアの首輪の熱を確認しながら静かに言った。
「君を一人で行かせたくない」
ノアは何も返せなかった。
代わりに、視線を逸らした。
「……それ、何回も言うな」
「嫌?」
「嫌じゃないのが嫌」
レオの手が止まる。
赤い糸が、少しだけ温かく震えた。
ノアは即座に言う。
「今の記録するな」
「もうした」
「最悪」
夜。
寮部屋の明かりは落とされていた。
机の上には、セドリックが組んだ帰還符が置かれている。ノアの枕元には水杯。レオの手元には、赤い糸の暴走を抑えるための銀環。窓には夢干渉を検知する薄い結界が張られていた。
ノアは寝台に横になり、レオを見た。
「最終確認」
「うん」
「夢の中で勝手に閉じない」
「閉じない」
「声を奪わない」
「奪わない」
「前世の俺を勝手に抱え込まない」
「……抱え込まない」
「間が長い」
「努力ではなく、約束する」
ノアは、少しだけ目を細めた。
「なら、許可する」
レオの青い瞳が揺れた。
「入っていい?」
「赤い糸経由でな。土足で来るなよ」
「土はもうついた」
「うまくない」
「ごめん」
「謝るところでもない」
レオは、ノアの指先に触れた。
強く握らない。
縛らない。
ただ、赤い糸を通す。
ノアは目を閉じた。
眠りは、いつもより早く来た。
土の匂い。
灰。
折れた剣。
浅く掘られた墓穴。
黒い戦場跡が、再び夢の底に広がる。
ノアはそこに立っていた。
そして、今回はひとりではなかった。
赤い糸が、暗い空から細く降りている。
その糸を辿るように、レオ・アステルレインが夢の中へ降り立った。
現世の姿のまま。
金髪。
青い瞳。
白金の魔力。
足元の黒い土を見て、レオは一瞬だけ息を止めた。
ノアはすぐに言った。
「見るだけ。勝手に何かするな」
「分かっている」
その声は、夢の中でもレオだった。
けれど、夢の戦場跡が、ざわりと揺れた。
墓穴の前に、幼いイリアスが立っていた。
土まみれの手。
泣かない目。
その隣には、幼いセラフィードはいない。
幼いイリアスは、現世のレオをじっと見上げた。
そして、静かに言った。
「お前も、俺を殺したやつだ」
レオの赤い糸が、夢の中で強く震えた。




