↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第五章 【記憶の棺と幼い亡霊】

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

93/134

第91話 赤い糸の夢渡り



 朝の寮部屋に、黒い土があった。


 ひとつは、封印布の上。


 昨夜、ノア・クロウの夢から現実へ落ちてきたものと同じ、湿った黒い土だった。灰と古い血と、燃えた草の根を含んだような匂いがする。学院の庭土ではない。寮の床に落ちていいものでもない。


 もうひとつは、レオ・アステルレインの手のひらに付いていた。


 白い指の腹に、黒い土が薄くこびりついている。


 その手は、昨夜ノアの指先に触れていた手だった。夢に入らないと約束し、魂糸へ直接結ばず、ただ赤い糸を通してノアの名を呼び続けていた手。


 それなのに、土がある。


 ノアは寝台の上で、それを見つめた。


 喉はまだ少し掠れている。夢から戻ったばかりの身体は重く、首元の伴侶首輪《メイト・カラー》は警告のように薄い熱を持っていた。照合率は二パーセントのまま。進んではいない。だが、黒い亀裂はときおり小さく疼く。


 レオの手のひらの土を見て、ノアは眉を寄せた。


「お前、夢に不法侵入してきた?」


 レオは即座に答えた。


「していない」


「じゃあ土だけ密輸してきたのか」


「僕も分からない」


「分からないで夢の土つけて帰ってくるな。税関で止められろ」


 レオは笑わなかった。


 青い瞳は、ただ自分の手に付いた黒い土を見ている。


 その表情は、怒りではなかった。


 恐怖でもない。


 もっと静かな理解に近い。


 自分が、ノアの夢へ届き始めている。


 その事実を、レオはもう分かっているのだろう。


 ノアは、息を吐いた。


「……赤い糸か」


 レオが顔を上げる。


「たぶん」


「便利すぎて不便な糸だな」


「君に届くなら、便利だよ」


「敵にも届くかもしれないんだぞ」


 レオは黙った。


 その沈黙が答えだった。


 レオは、自分の手の土を封印布へ落とした。直接払うのではなく、白金の魔力でそっと包み、布の上へ移す。慎重だった。手放したくないものを、危険物として扱うような手つきだった。


 ノアはそれを見て、軽く肩をすくめる。


「夢渡り前の健康診断、朝から濃すぎ」


「まだ夢渡りとは決まっていない」


「決まる前から嫌な名前をつけておくと、だいたい当たる」


「当たらなくていい」


「俺もそう思う」


 レオは水杯を取った。


「飲んで」


「はいはい」


 水はいつもの温度だった。


 喉を通ると、夢の中で詰まっていた声の通り道が少し楽になる。レオは水杯を受け取ってから、ノアの首元を見た。


「喉、触れていい?」


 ノアは少しだけ顎を引く。


「喉だけな。土の解析とか首輪の固定とか、ついでにやるなよ」


「しない」


「本当に?」


「努力する」


「信用しづらい返事だな」


「でも、しない」


「ならよし」


 レオの白金の治癒魔法が、喉の外側を薄く包む。


 熱を取る。


 掠れをほどく。


 首輪の黒い亀裂には触れない。照合番号にも、白花印にも手を出さない。ただ、ノアが声を出しやすいように整える。


 レオの手は震えていなかった。


 だが、赤い糸はひどく張っていた。


 ノアの夢へ届いた。


 夢の土がレオの手に残った。


 それは、レオにとって危険より先に希望に見えているのかもしれない。


 ノアが沈んだ時、引き戻せるかもしれない。


 ノアが記憶の棺へ呑まれそうになった時、手を伸ばせるかもしれない。


 ただし、その道は敵にも見える。


 救命綱は、逆に侵入路にもなる。


 便利な魔法ほど、すぐ裏口になる。世界の設計者、危機管理研修を受けろ。


 朝食前に、二人はセドリックの研究室へ向かった。


 黒い土は封印布と小箱に分けられ、レオの手に付いていた分も別に収められている。廊下には生徒たちの声があったが、ノアには妙に遠く聞こえた。


 手の甲の照合番号が、時折冷える。


 首輪は熱い。


 赤い糸は、ノアとレオの間で静かに震えている。


 研究室に入ると、セドリック・バロウズはすでに黒魔法陣を広げていた。


 寝ていない顔だった。


 机の上には、記憶の棺、魂帳局の照合番号、白花派の儀礼対象印、赤い糸に関する資料が並んでいる。よくもまあ毎回資料が増えるものだ。机がかわいそうだ。人間の業を全部背負わされている。


 セドリックは、レオの手に付いていた土を確認すると、眉間に深い皺を刻んだ。


「アステルレイン。夢に入ったのか」


「入っていません」


「意図的な夢干渉は」


「していません」


「赤い糸は?」


「ノアの名を呼ぶために繋げていました。魂糸へは結んでいません」


 セドリックはノアを見る。


 ノアは軽く手を上げた。


「約束は守ってた。たぶん。少なくとも、夢の中でレオ本人は見てない」


「見たのは?」


 ノアは一拍置いた。


「小さいレオ」


 レオの赤い糸が、かすかに震える。


 セドリックの目が細くなった。


「幼いセラフィードか」


「たぶん」


 ノアは、そこで少しだけ喉を鳴らした。


 半分持つ。


 助けてと言わないまま、また行くの。


 その声が、まだ胸に残っている。


 レオが横から見た。


 声の変化に気づいたのだろう。


 ノアは先回りして言った。


「診断顔やめろ」


「声が落ちた」


「落ちもする」


「何を言われたの」


「あとで」


「……分かった」


 そこで止まった。


 偉い。


 いや、偉いと言うべきなのか。人の心へ土足で踏み込まないだけで褒められる王子様、基準が低い。だが今はそれでいい。


 セドリックはレオの手に付いていた土を解析陣に置いた。


 黒魔法の線が土の表面をなぞる。


 すぐに、二つの反応が浮かび上がった。


 一つは、ノアの記憶の棺に由来する魔力残滓。


 もう一つは、赤い糸の反応。


 セドリックは低く言った。


「赤い糸が、ノアの夢へ届き始めている」


 部屋が静かになった。


 ノアは、わざと軽く言う。


「ほら、夢渡りじゃん」


「喜ぶな」


「喜んでない。嫌な命名が当たって嫌なだけ」


 レオは土を見つめたまま言った。


「入れるということですか」


「可能性はある」


 セドリックは慎重に答えた。


「赤い糸は、もともと魂同士の接続だ。伴侶契約によって、ノアの魂糸とお前の魂糸は通常より深く結ばれている。今までは現実側での感知や固定に留まっていたが、記憶の棺が開きかけたことで、夢の深層へ糸が届くようになっている」


 ノアは、手の甲を見た。


「それって、まずい?」


「危険でもあり、救いでもある」


「出た。面倒な二択」


「アステルレインが夢に入れれば、ノアを記憶の棺から引き戻せるかもしれない」


 レオの青い瞳が、わずかに光を帯びる。


 ノアはその横顔を見て、嫌な予感がした。


 セドリックは続ける。


「だが同時に、アステルレイン自身の前世記憶も開かれる危険がある」


 赤い糸が、細く震えた。


 レオの手がかすかに動く。


 セドリックは容赦なく言う。


「幼いセラフィードが夢に現れた以上、記憶の棺はノアだけの層ではなくなりつつある。赤い糸経由で、お前の前世記憶にも接続が始まっている可能性がある。夢へ入れば、ノアを助けられるかもしれない。だが、お前自身も前世に引かれる」


 ノアは即座に言った。


「じゃあ保留」


 レオは同時に言った。


「入る」


 ノアはレオを睨んだ。


「即答するな。危ないって言われただろ」


「君が一人で行く方が危ない」


「俺の夢だぞ」


「だから一人にしたくない」


 その言葉で、ノアは反論しかけて止まった。


 幼いイリアスの声が胸に戻る。


 置いていくのか。


 幼いセラフィードの声も。


 助けてと言わないまま、また行くの。


 ノアは唇を結んだ。


 一人で行く。


 いつものように。


 軽口を盾にして、痛みを自分の中へ押し込んで、誰にも持たせないようにして。


 それが正しいと思っていた。


 少なくとも、楽だった。


 だが、本当に楽だったのか。


 幼いセラフィードは、半分持つと言った。


 現世のレオは、一人にしたくないと言っている。


 重い。


 非常に重い。


 だが、その重さに少しだけ救われている自分もいる。


 腹立たしい。人間の感情、本当に面倒くさい。


 ノアは深く息を吐いた。


「……条件がある」


 レオは即座に顔を上げる。


「うん」


「早い」


「聞く」


 ノアは、レオの目をまっすぐ見た。


 声は軽くない。


 低かった。


「夢の中で勝手に記憶を閉じない」


「分かった」


「俺の声を奪わない。叫んでも、泣いても、黙ってても、勝手に封じるな」


 レオの喉が動いた。


「分かった」


「前世の俺を勝手に抱え込まない」


 そこで、レオは黙った。


 ノアは目を細める。


「そこ、一番大事だからな」


 レオの赤い糸が震える。


 幼いイリアス。


 墓穴の土。


 置いていかれる子ども。


 レオは、それを見たら抱え込みたくなるだろう。ノアの痛みも、イリアスの痛みも、全部自分の手元に置きたくなる。半分どころか全部持とうとする。


 だから、ノアは言った。


「前世の俺を見ても、勝手に救った気になるな。勝手に許した気になるな。勝手に背負うな」


 レオは、静かに息を吸った。


「……分かった」


「本当に?」


「努力する、ではなく、分かった」


「よろしい」


 セドリックが腕を組んだ。


「条件はまだある」


 ノアとレオが同時に見る。


 セドリックは黒魔法陣を指した。


「夢渡りの通路は、敵にも利用される危険がある。赤い糸がノアを救うための糸であると同時に、オルドレイス代理が記憶へ干渉するための扉にもなりうる」


 レオの目が冷える。


「僕の糸を利用させない」


「意志だけで防げる相手ではない」


「なら、術式を」


「組む。だが完全ではない。夢へ入るなら、ノアとお前の双方が、自分の名を保つ必要がある」


 ノアは嫌そうに笑った。


「夢渡り前の本人確認」


「そうだ」


「役所感が増すな」


「不本意だ」


 セドリックは紙を二枚取り出した。


 一枚にはノア・クロウ。


 もう一枚にはレオ・アステルレイン。


 それぞれの名を、現世名として魔法陣の中心へ置く。


「夢に入る前、互いの現世名を確認する。前世名で呼ばれても返事をしない。幼い残響が何を言っても、現在の名を失わない」


 レオが頷く。


「分かりました」


 ノアは少しだけ笑う。


「つまり、夢の中でも点呼か」


「お前には有効だ」


「反論できないのが嫌」


 その日一日、準備は続いた。


 黒い土の封印。


 赤い糸の通路化を抑える術式。


 夢へ入った際、現実側から引き戻すための帰還符。


 ノアの喉と首輪の調整。


 レオの魔力回路の安定化。


 手の甲の照合番号と白花印の観察。


 ノアは何度も水を飲まされ、喉を診られ、魔力回路を整えられた。


 夕方頃には、さすがにうんざりした。


「夢渡り前の健康診断、長すぎない?」


 レオは真面目に答えた。


「必要だよ」


「お前の必要、だいたい過剰」


「今日は過剰でいい」


「開き直った」


 レオは、ノアの首輪の熱を確認しながら静かに言った。


「君を一人で行かせたくない」


 ノアは何も返せなかった。


 代わりに、視線を逸らした。


「……それ、何回も言うな」


「嫌?」


「嫌じゃないのが嫌」


 レオの手が止まる。


 赤い糸が、少しだけ温かく震えた。


 ノアは即座に言う。


「今の記録するな」


「もうした」


「最悪」


 夜。


 寮部屋の明かりは落とされていた。


 机の上には、セドリックが組んだ帰還符が置かれている。ノアの枕元には水杯。レオの手元には、赤い糸の暴走を抑えるための銀環。窓には夢干渉を検知する薄い結界が張られていた。


 ノアは寝台に横になり、レオを見た。


「最終確認」


「うん」


「夢の中で勝手に閉じない」


「閉じない」


「声を奪わない」


「奪わない」


「前世の俺を勝手に抱え込まない」


「……抱え込まない」


「間が長い」


「努力ではなく、約束する」


 ノアは、少しだけ目を細めた。


「なら、許可する」


 レオの青い瞳が揺れた。


「入っていい?」


「赤い糸経由でな。土足で来るなよ」


「土はもうついた」


「うまくない」


「ごめん」


「謝るところでもない」


 レオは、ノアの指先に触れた。


 強く握らない。


 縛らない。


 ただ、赤い糸を通す。


 ノアは目を閉じた。


 眠りは、いつもより早く来た。


 土の匂い。


 灰。


 折れた剣。


 浅く掘られた墓穴。


 黒い戦場跡が、再び夢の底に広がる。


 ノアはそこに立っていた。


 そして、今回はひとりではなかった。


 赤い糸が、暗い空から細く降りている。


 その糸を辿るように、レオ・アステルレインが夢の中へ降り立った。


 現世の姿のまま。


 金髪。


 青い瞳。


 白金の魔力。


 足元の黒い土を見て、レオは一瞬だけ息を止めた。


 ノアはすぐに言った。


「見るだけ。勝手に何かするな」


「分かっている」


 その声は、夢の中でもレオだった。


 けれど、夢の戦場跡が、ざわりと揺れた。


 墓穴の前に、幼いイリアスが立っていた。


 土まみれの手。


 泣かない目。


 その隣には、幼いセラフィードはいない。


 幼いイリアスは、現世のレオをじっと見上げた。


 そして、静かに言った。


「お前も、俺を殺したやつだ」


 レオの赤い糸が、夢の中で強く震えた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。