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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第五章 【記憶の棺と幼い亡霊】

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第90話 半分持つと言った子供



 黒い土は、子どもの手には重すぎるように見えた。


 夢の中の戦場跡は、前よりもはっきりしていた。


 空は低い。煙で星が潰れ、遠くの火だけが赤く瞬いている。灰をかぶった草は風に揺れ、焦げた匂いを立てる。折れた剣が斜めに地面へ刺さり、その刃に乾いた泥が固まっていた。


 浅く掘られた墓穴が、いくつも並んでいる。


 深く掘る時間などなかったのだろう。


 名を刻む余裕もなかったのだろう。


 布に包まれた誰かを横たえ、土をかける。泣く暇も、祈る暇もない。ただ、死んだ者をそのままにしておけないから、子どもの手で土を掘る。


 そんな場所だった。


 ノア・クロウは、その墓穴の前に立っていた。


 現世の制服姿のまま。


 首元には伴侶首輪《メイト・カラー》。


 手の甲には照合番号と白花派の印。


 ここにあるべきではないものばかりを身につけて、前世の墓地に立っている。


 実に不釣り合いだ。


 夢の中くらい服装を統一してほしい。世界観の整合性というものがあるだろう。いや、魂の夢にそんな配慮を求める方が間違っている。人間の内面なんて、だいたい散らかった物置みたいなものだ。


 幼いイリアス・ノクスヴェルトは、墓穴のそばにいた。


 黒い髪は泥と灰で汚れ、頬にも土がついている。泣いてはいない。相変わらず、泣くことを忘れた子どもの顔をしていた。両手には黒い土を抱えている。小さな手のひらには重すぎる量だった。


 その隣に、幼いセラフィード・ルミナリアが立っていた。


 金の髪に灰がかかり、白い頬にも煤がついている。まだ救国の英雄などではない。聖剣も持っていない。王国の希望と呼ばれるには幼すぎる、ただの子どもだった。


 その子どもが、幼いイリアスの手元を見た。


 黒く重い土。


 墓穴へかけるための土。


 死者を覆うための土。


 幼いセラフィードは、黙って手を伸ばした。


 幼いイリアスが少しだけ目を上げる。


 警戒するような、諦めているような、どちらにも見える目だった。


 幼いセラフィードは、黒い土を半分持ち上げた。


 小さな白い手が、すぐに泥で汚れる。


 それでも、彼は手を離さなかった。


「なら、僕が半分持つ」


 その言葉が落ちた瞬間、ノアの胸が強く締めつけられた。


 夢の景色が揺れる。


 灰をかぶった草も、浅い墓穴も、折れた剣も、一瞬だけ遠くなり、代わりに古い記憶が胸の奥からせり上がってくる。


 初めてだった。


 幼いイリアスが、誰かに半分持つと言われたのは。


 ひとりで土を掘り、ひとりで死者を埋め、ひとりで憎しみを飲み込もうとしていた子どもに、半分持つと手を伸ばした少年がいた。


 それが始まりだった。


 相棒。


 約束。


 救い。


 呪い。


 後に英雄と災厄と呼ばれる二人の、一番最初の形。


 ノアは息を呑んだ。


 伴侶首輪が熱を持つ。


 痛みではない。だが、魂糸の奥が過去へ引かれるように軋んだ。手の甲の照合番号が、夢の中でも薄く光る。白花派の印が、灰の風に煽られるように揺れた。


 幼いイリアスと幼いセラフィードが、同時に現世のノアを見た。


 幼いイリアスの目は、暗い。


 幼いセラフィードの目は、静かだ。


 どちらも、ノアの中にある記憶の残響だった。


 敵ではない。


 それが分かるから、余計に苦しい。


 幼いイリアスが問う。


「お前は、俺を置いていくのか?」


 同じ問いだった。


 けれど、今度は隣に幼いセラフィードがいる。


 半分持つと言った子どもがいる。


 逃げ道が、一段減った。


 ノアは唇を動かした。


 置いていかない。


 そう言いたかった。


 だが、前と同じように喉が詰まる。


 言えない。


 言い切れない。


 置いていかないなら、どう連れていくのか。


 イリアスの痛みも罪も、セラフィードの半分も、どこへ置くのか。


 ノア・クロウとして生きる自分が、それらをどう抱えるのか。


 答えはまだ、言葉になっていない。


 幼いセラフィードが、黒い土を半分持ったまま口を開いた。


「君は、僕が持つと言った半分を返すの?」


 ノアの喉が、さらに詰まった。


 現実の寮部屋で、眠るノアの身体が小さく震えた。


 額に冷や汗が滲む。


 指先が、寝具の上で土を掴むように曲がる。喉が苦しげに鳴り、伴侶首輪が熱を持つ。黒い亀裂が一瞬だけ疼いた。


 レオ・アステルレインは、寝台のそばで目を開いていた。


 眠ってなどいなかった。


 浅く意識を落として、赤い糸の反応を見張っていた。ノアの指先に、寝返りを妨げない程度に触れている。魂糸へは結んでいない。約束通りに。


 その赤い糸が、急に痛んだ。


 物理的な痛みではない。


 もっと深い。


 前世の何かに触れられたような、赤い糸そのものが幼い頃の記憶に引かれるような痛みだった。


 レオは息を詰めた。


「ノア」


 返事はない。


 ノアの唇がわずかに動く。


 声は出ていない。


 レオは名を呼ぶ。


「ノア・クロウ」


 赤い糸が夢へ伸びる。


 だが、遠い。


 前回よりも遠い。


 夢の奥にある墓地は、ノアだけの記憶ではなくなりつつある。赤い糸を通して、レオの前世にも触れ始めている。


 入りたい。


 レオは強く思った。


 夢の中へ入って、ノアを連れ戻したい。


 幼いイリアスでも、幼いセラフィードでも、オルドレイスの干渉でも、何でもいい。ノアを苦しめるものを見つけて、引き剥がしたい。夢の奥を白金の魔法で照らし、墓地ごと封じてしまいたい。


 だが、無断で入れば危険だ。


 それはノアの記憶の棺だ。


 レオが勝手に踏み込めば、守るどころか、棺の中身を乱すことになる。


 分かっている。


 分かっているのに、入りたい。


 レオの指先が震えた。


「ノア」


 呼ぶことしかできない。


 その事実が、ひどく苦しかった。


 夢の中で、レオの声は遠雷のように聞こえた。


 ノア。


 ノア・クロウ。


 聞こえている。


 かろうじて。


 だが、目の前の幼い二人の声の方が、ずっと近かった。


 幼いイリアスは、土まみれの手を胸の前に抱えたままノアを見上げている。


「お前は、俺を置いていくのか?」


 幼いセラフィードも問う。


「君は、僕が持つと言った半分を返すの?」


 ノアは答えられなかった。


 重い。


 土が重い。


 言葉が重い。


 胸の奥が沈む。まるで、あの墓穴に自分の肺まで埋められていくようだった。


 ノアは、ようやく絞り出した。


「……俺は、ノア・クロウだ」


 幼いイリアスが頷く。


「知ってる」


 幼いセラフィードも、静かに言う。


「知っているよ」


 ノアは奥歯を噛んだ。


 それが一番嫌だった。


 否定してくれた方がまだよかった。


 お前はイリアスだと言われれば、違うと返せる。


 ノア・クロウなんて仮の名だと言われれば、ふざけるなと怒れる。


 けれど、幼い二人は知っていると言った。


 ノアがノア・クロウを選んだことを。


 その上で、問いかけている。


 置いていくのか。


 返すのか。


 半分持つと言ったものを、なかったことにするのか。


 ノアは低く笑った。


 笑えていなかった。


「夢の中の子ども、遠慮がないな」


 幼いイリアスは言う。


「お前だから」


 幼いセラフィードも言う。


「僕でもあるから」


 ノアの喉が詰まる。


 首輪が熱を持つ。


 赤い糸が痛むように震えた。


 その震えが、夢の中の幼いセラフィードの声に重なる。


 幼いセラフィードが、現世のレオと同じ声で言った。


「助けてと言わないまま、また行くの?」


 ノアの胸が、そこで止まった。


 墓地の風が消える。


 遠くの火も、灰をかぶった草の音も、折れた剣の軋みも、全部が遠くなる。


 助けて。


 その言葉は、昔から苦手だった。


 前世でも。


 現世でも。


 ノアは軽口を叩く。


 怒る。


 皮肉を言う。


 自分で歩く。


 自分で傷を隠す。


 助けて、と言わない。


 言えば、誰かを巻き込む。


 言えば、半分持たせてしまう。


 言えば、持つと言った相手が、本当に持ってしまう。


 その相手が傷つく。


 セラフィードは持った。


 そして最後に、イリアスを殺した。


 レオは今も持とうとしている。


 そして、ノアはそれが怖い。


 ノアは、低く返した。


「俺に、それを言わせるな」


 声は震えていなかった。


 だが、低かった。


 拒絶だった。


 幼いセラフィードは、黒い土を半分持ったままノアを見る。


「どうして」


「言ったら、お前は持つだろ」


「うん」


「持ちすぎるだろ」


「たぶん」


「それで壊れるだろ」


 幼いセラフィードは少しだけ黙った。


 幼いイリアスが、土まみれの手を握りしめる。


「だから、ひとりで行くのか」


「違う」


 ノアは即座に言った。


 だが、その先が続かない。


 違う。


 違うはずだ。


 けれど、何が違うのかまだ分からない。


 幼いイリアスを置いていきたくない。


 幼いセラフィードへ半分を返したくもない。


 助けてと言えば、レオは持つ。


 持ちすぎる。


 それが怖い。


 どの道にも棘がある。


 魂の中まで進路設計が悪すぎる。誰がこんな構造にした。前世の自分か。なら文句を言う相手が自分しかいない。最悪だ。


 墓穴の奥から、黒い霧が上がった。


 灰の匂い。


 黒いインクの匂い。


 魂帳局の印が、土の表面に薄く浮かぶ。


 ノアはすぐに気づいた。


 幼い二人は敵ではない。


 だが、この問いを利用している何かがいる。


 罪悪感を深くするために。


 ノアが自分の意思で前世記憶へ沈むように。


 ノアが、自分でイリアスへ戻ることを選ぶように。


 ノアは黒い霧を睨んだ。


「またお前か。記憶の中まで書類挟むな」


 返事はない。


 ただ、墓穴の土が少し沈む。


 幼いイリアスの影が濃くなる。


 幼いセラフィードの持つ土も、重さを増したように見えた。


 ノアの胸がさらに苦しくなる。


 現実の身体が、寝台の上で強く震えた。


 冷や汗がこめかみを伝う。喉が詰まり、唇から掠れた息が漏れる。指先はまだ土を掴む形で硬直している。


 レオは、ノアの指先に触れたまま赤い糸へ意識を集中した。


 夢へ入りたい。


 だが、入らない。


 入らずに呼ぶ。


「ノア・クロウ」


 声が震えた。


 それでも、何度も呼ぶ。


「君はノアだ」


 赤い糸が、現実から夢へ細く伸びる。


 夢の中で、その声が少しだけ近くなった。


 ノアは、息を吸った。


 胸が重い。


 幼い二人の問いは消えない。


 答えも出ない。


 それでも、ここで沈むわけにはいかない。


 ノアは幼いイリアスと幼いセラフィードを見た。


「答えは、まだ出せない」


 幼いイリアスは黙っている。


 幼いセラフィードも、黒い土を持ったまま見ている。


「置いていかないって言い切るには、俺はまだ弱い。連れていくって言い切るには、どうすればいいか分かってない。助けてって言うのも、まだ怖い」


 言葉にするたび、喉が痛んだ。


 だが、言った。


「でも、勝手に利用される気はない」


 黒い霧が揺れる。


 ノアは足元の土を踏みしめた。


「お前らは俺の記憶だ。俺の痛みだ。だから、オルドレイス代理だか魂帳局だか知らないが、外から勝手に帳簿へ載せるな」


 幼いイリアスの目が、かすかに揺れた。


 幼いセラフィードが、半分持った土を見下ろす。


 ノアは、赤い糸へ手を伸ばした。


 指先が震えている。


 それでも掴む。


 現実のレオの声が、今度ははっきり届いた。


「ノア」


 ノアは夢の中で、低く返した。


「聞こえてる」


 赤い糸が強く震える。


 幼いセラフィードが、その糸を見た。


「彼だね」


 ノアは顔をしかめる。


「そうだよ。現世の過保護王子様」


「助けてと言えば、来る?」


「来る。来すぎる」


「なら、どうして呼ばないの」


 ノアは答えられなかった。


 幼いイリアスが、静かに言った。


「半分持つって言われたのに」


 ノアは目を伏せた。


「……だから怖いんだろ」


 その本音だけが、土の上に落ちた。


 幼い二人は何も言わなかった。


 黒い霧が、再び墓穴の奥で揺れる。


 ノアは、赤い糸を強く握った。


「今日はここまでだ」


 幼いイリアスが問う。


「また逃げるのか」


「一時撤退」


「同じだ」


「違う。たぶん」


 幼いセラフィードが言った。


「次は、助けてって言う?」


 ノアは息を止めた。


 すぐには答えなかった。


 答えられなかった。


 代わりに、低く言う。


「……考えとく」


 幼いセラフィードは、少しだけ目を伏せた。


「うん」


 幼いイリアスは、まだノアを見ていた。


 置いていくのか。


 その問いは、言葉にならなくてもそこにある。


 ノアは赤い糸に引かれ、夢の戦場跡から浮き上がった。


 墓穴が遠ざかる。


 折れた剣が遠ざかる。


 黒い土を半分持つ幼いセラフィードと、泥だらけの手の幼いイリアスが遠ざかる。


 最後に、幼いセラフィードの声が聞こえた。


「半分は、まだ持ってるよ」


 ノアは、何も返せなかった。


 目が覚めた。


 寮部屋の天井が見える。


 夜明け前の薄暗さ。


 乱れた呼吸。


 喉の奥の痛み。


 額に滲んだ冷や汗。


 指先は、まだ何かを掴むように曲がっていた。


 レオがすぐそばにいた。


 青い瞳が、ノアを見ている。


 心配と焦りと、夢に入れなかった苛立ちが混ざっている。相変わらず情報量の多い目だ。目だけで長文を書くな。


 レオは水杯を差し出した。


「飲める?」


 ノアは掠れた声で答えた。


「……飲める」


 水を飲む。


 喉が少しだけ楽になる。


 レオは、ノアの指先をそっと離した。握りすぎてはいない。約束は守られていた。だが、赤い糸はまだ震えている。


 レオが低く聞く。


「何を見たの」


 ノアは水杯を返し、かすかに笑った。


「夢の中で過去の俺たちに説教された」


 レオの表情が動く。


「僕もいた?」


 ノアは、少しだけ沈黙した。


 黒い土を半分持った幼いセラフィード。


 現世のレオと同じ声で、助けてと言わないまま、また行くのかと問うた子ども。


 ノアは目を逸らした。


「小さいお前がいた」


 レオは息を止めた。


 その沈黙は短かったが、深かった。


「何を言ったの」


「……半分持つって」


 レオの赤い糸が、痛むように震えた。


 ノアはそれ以上言わなかった。


 言えば、まだ夢の土が喉から出てきそうだった。


 レオも、無理には聞かなかった。


 ただ、ノアの喉へ手を伸ばしかけ、止める。


「触れていい?」


「……喉だけ」


「うん」


 白金の治癒魔法が、喉の痛みを包む。


 熱を取る。


 詰まりをほどく。


 ノアは目を閉じた。


 その時、レオが小さく息を呑んだ。


 ノアは目を開ける。


「何」


 レオは、自分の手を見ていた。


 ノアの指先に触れていた方の手。


 その手のひらに、黒い土が少し付いていた。


 湿った、黒い土。


 夢の戦場跡の土。


 レオは夢に入っていない。


 入っていないはずだった。


 それなのに、赤い糸を通じて、記憶の棺に触れ始めている。


 レオの表情が、静かに凍った。


 ノアも、その土から目を離せなかった。


 赤い糸が、二人の間でかすかに震えた。




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