第90話 半分持つと言った子供
黒い土は、子どもの手には重すぎるように見えた。
夢の中の戦場跡は、前よりもはっきりしていた。
空は低い。煙で星が潰れ、遠くの火だけが赤く瞬いている。灰をかぶった草は風に揺れ、焦げた匂いを立てる。折れた剣が斜めに地面へ刺さり、その刃に乾いた泥が固まっていた。
浅く掘られた墓穴が、いくつも並んでいる。
深く掘る時間などなかったのだろう。
名を刻む余裕もなかったのだろう。
布に包まれた誰かを横たえ、土をかける。泣く暇も、祈る暇もない。ただ、死んだ者をそのままにしておけないから、子どもの手で土を掘る。
そんな場所だった。
ノア・クロウは、その墓穴の前に立っていた。
現世の制服姿のまま。
首元には伴侶首輪。
手の甲には照合番号と白花派の印。
ここにあるべきではないものばかりを身につけて、前世の墓地に立っている。
実に不釣り合いだ。
夢の中くらい服装を統一してほしい。世界観の整合性というものがあるだろう。いや、魂の夢にそんな配慮を求める方が間違っている。人間の内面なんて、だいたい散らかった物置みたいなものだ。
幼いイリアス・ノクスヴェルトは、墓穴のそばにいた。
黒い髪は泥と灰で汚れ、頬にも土がついている。泣いてはいない。相変わらず、泣くことを忘れた子どもの顔をしていた。両手には黒い土を抱えている。小さな手のひらには重すぎる量だった。
その隣に、幼いセラフィード・ルミナリアが立っていた。
金の髪に灰がかかり、白い頬にも煤がついている。まだ救国の英雄などではない。聖剣も持っていない。王国の希望と呼ばれるには幼すぎる、ただの子どもだった。
その子どもが、幼いイリアスの手元を見た。
黒く重い土。
墓穴へかけるための土。
死者を覆うための土。
幼いセラフィードは、黙って手を伸ばした。
幼いイリアスが少しだけ目を上げる。
警戒するような、諦めているような、どちらにも見える目だった。
幼いセラフィードは、黒い土を半分持ち上げた。
小さな白い手が、すぐに泥で汚れる。
それでも、彼は手を離さなかった。
「なら、僕が半分持つ」
その言葉が落ちた瞬間、ノアの胸が強く締めつけられた。
夢の景色が揺れる。
灰をかぶった草も、浅い墓穴も、折れた剣も、一瞬だけ遠くなり、代わりに古い記憶が胸の奥からせり上がってくる。
初めてだった。
幼いイリアスが、誰かに半分持つと言われたのは。
ひとりで土を掘り、ひとりで死者を埋め、ひとりで憎しみを飲み込もうとしていた子どもに、半分持つと手を伸ばした少年がいた。
それが始まりだった。
相棒。
約束。
救い。
呪い。
後に英雄と災厄と呼ばれる二人の、一番最初の形。
ノアは息を呑んだ。
伴侶首輪が熱を持つ。
痛みではない。だが、魂糸の奥が過去へ引かれるように軋んだ。手の甲の照合番号が、夢の中でも薄く光る。白花派の印が、灰の風に煽られるように揺れた。
幼いイリアスと幼いセラフィードが、同時に現世のノアを見た。
幼いイリアスの目は、暗い。
幼いセラフィードの目は、静かだ。
どちらも、ノアの中にある記憶の残響だった。
敵ではない。
それが分かるから、余計に苦しい。
幼いイリアスが問う。
「お前は、俺を置いていくのか?」
同じ問いだった。
けれど、今度は隣に幼いセラフィードがいる。
半分持つと言った子どもがいる。
逃げ道が、一段減った。
ノアは唇を動かした。
置いていかない。
そう言いたかった。
だが、前と同じように喉が詰まる。
言えない。
言い切れない。
置いていかないなら、どう連れていくのか。
イリアスの痛みも罪も、セラフィードの半分も、どこへ置くのか。
ノア・クロウとして生きる自分が、それらをどう抱えるのか。
答えはまだ、言葉になっていない。
幼いセラフィードが、黒い土を半分持ったまま口を開いた。
「君は、僕が持つと言った半分を返すの?」
ノアの喉が、さらに詰まった。
現実の寮部屋で、眠るノアの身体が小さく震えた。
額に冷や汗が滲む。
指先が、寝具の上で土を掴むように曲がる。喉が苦しげに鳴り、伴侶首輪が熱を持つ。黒い亀裂が一瞬だけ疼いた。
レオ・アステルレインは、寝台のそばで目を開いていた。
眠ってなどいなかった。
浅く意識を落として、赤い糸の反応を見張っていた。ノアの指先に、寝返りを妨げない程度に触れている。魂糸へは結んでいない。約束通りに。
その赤い糸が、急に痛んだ。
物理的な痛みではない。
もっと深い。
前世の何かに触れられたような、赤い糸そのものが幼い頃の記憶に引かれるような痛みだった。
レオは息を詰めた。
「ノア」
返事はない。
ノアの唇がわずかに動く。
声は出ていない。
レオは名を呼ぶ。
「ノア・クロウ」
赤い糸が夢へ伸びる。
だが、遠い。
前回よりも遠い。
夢の奥にある墓地は、ノアだけの記憶ではなくなりつつある。赤い糸を通して、レオの前世にも触れ始めている。
入りたい。
レオは強く思った。
夢の中へ入って、ノアを連れ戻したい。
幼いイリアスでも、幼いセラフィードでも、オルドレイスの干渉でも、何でもいい。ノアを苦しめるものを見つけて、引き剥がしたい。夢の奥を白金の魔法で照らし、墓地ごと封じてしまいたい。
だが、無断で入れば危険だ。
それはノアの記憶の棺だ。
レオが勝手に踏み込めば、守るどころか、棺の中身を乱すことになる。
分かっている。
分かっているのに、入りたい。
レオの指先が震えた。
「ノア」
呼ぶことしかできない。
その事実が、ひどく苦しかった。
夢の中で、レオの声は遠雷のように聞こえた。
ノア。
ノア・クロウ。
聞こえている。
かろうじて。
だが、目の前の幼い二人の声の方が、ずっと近かった。
幼いイリアスは、土まみれの手を胸の前に抱えたままノアを見上げている。
「お前は、俺を置いていくのか?」
幼いセラフィードも問う。
「君は、僕が持つと言った半分を返すの?」
ノアは答えられなかった。
重い。
土が重い。
言葉が重い。
胸の奥が沈む。まるで、あの墓穴に自分の肺まで埋められていくようだった。
ノアは、ようやく絞り出した。
「……俺は、ノア・クロウだ」
幼いイリアスが頷く。
「知ってる」
幼いセラフィードも、静かに言う。
「知っているよ」
ノアは奥歯を噛んだ。
それが一番嫌だった。
否定してくれた方がまだよかった。
お前はイリアスだと言われれば、違うと返せる。
ノア・クロウなんて仮の名だと言われれば、ふざけるなと怒れる。
けれど、幼い二人は知っていると言った。
ノアがノア・クロウを選んだことを。
その上で、問いかけている。
置いていくのか。
返すのか。
半分持つと言ったものを、なかったことにするのか。
ノアは低く笑った。
笑えていなかった。
「夢の中の子ども、遠慮がないな」
幼いイリアスは言う。
「お前だから」
幼いセラフィードも言う。
「僕でもあるから」
ノアの喉が詰まる。
首輪が熱を持つ。
赤い糸が痛むように震えた。
その震えが、夢の中の幼いセラフィードの声に重なる。
幼いセラフィードが、現世のレオと同じ声で言った。
「助けてと言わないまま、また行くの?」
ノアの胸が、そこで止まった。
墓地の風が消える。
遠くの火も、灰をかぶった草の音も、折れた剣の軋みも、全部が遠くなる。
助けて。
その言葉は、昔から苦手だった。
前世でも。
現世でも。
ノアは軽口を叩く。
怒る。
皮肉を言う。
自分で歩く。
自分で傷を隠す。
助けて、と言わない。
言えば、誰かを巻き込む。
言えば、半分持たせてしまう。
言えば、持つと言った相手が、本当に持ってしまう。
その相手が傷つく。
セラフィードは持った。
そして最後に、イリアスを殺した。
レオは今も持とうとしている。
そして、ノアはそれが怖い。
ノアは、低く返した。
「俺に、それを言わせるな」
声は震えていなかった。
だが、低かった。
拒絶だった。
幼いセラフィードは、黒い土を半分持ったままノアを見る。
「どうして」
「言ったら、お前は持つだろ」
「うん」
「持ちすぎるだろ」
「たぶん」
「それで壊れるだろ」
幼いセラフィードは少しだけ黙った。
幼いイリアスが、土まみれの手を握りしめる。
「だから、ひとりで行くのか」
「違う」
ノアは即座に言った。
だが、その先が続かない。
違う。
違うはずだ。
けれど、何が違うのかまだ分からない。
幼いイリアスを置いていきたくない。
幼いセラフィードへ半分を返したくもない。
助けてと言えば、レオは持つ。
持ちすぎる。
それが怖い。
どの道にも棘がある。
魂の中まで進路設計が悪すぎる。誰がこんな構造にした。前世の自分か。なら文句を言う相手が自分しかいない。最悪だ。
墓穴の奥から、黒い霧が上がった。
灰の匂い。
黒いインクの匂い。
魂帳局の印が、土の表面に薄く浮かぶ。
ノアはすぐに気づいた。
幼い二人は敵ではない。
だが、この問いを利用している何かがいる。
罪悪感を深くするために。
ノアが自分の意思で前世記憶へ沈むように。
ノアが、自分でイリアスへ戻ることを選ぶように。
ノアは黒い霧を睨んだ。
「またお前か。記憶の中まで書類挟むな」
返事はない。
ただ、墓穴の土が少し沈む。
幼いイリアスの影が濃くなる。
幼いセラフィードの持つ土も、重さを増したように見えた。
ノアの胸がさらに苦しくなる。
現実の身体が、寝台の上で強く震えた。
冷や汗がこめかみを伝う。喉が詰まり、唇から掠れた息が漏れる。指先はまだ土を掴む形で硬直している。
レオは、ノアの指先に触れたまま赤い糸へ意識を集中した。
夢へ入りたい。
だが、入らない。
入らずに呼ぶ。
「ノア・クロウ」
声が震えた。
それでも、何度も呼ぶ。
「君はノアだ」
赤い糸が、現実から夢へ細く伸びる。
夢の中で、その声が少しだけ近くなった。
ノアは、息を吸った。
胸が重い。
幼い二人の問いは消えない。
答えも出ない。
それでも、ここで沈むわけにはいかない。
ノアは幼いイリアスと幼いセラフィードを見た。
「答えは、まだ出せない」
幼いイリアスは黙っている。
幼いセラフィードも、黒い土を持ったまま見ている。
「置いていかないって言い切るには、俺はまだ弱い。連れていくって言い切るには、どうすればいいか分かってない。助けてって言うのも、まだ怖い」
言葉にするたび、喉が痛んだ。
だが、言った。
「でも、勝手に利用される気はない」
黒い霧が揺れる。
ノアは足元の土を踏みしめた。
「お前らは俺の記憶だ。俺の痛みだ。だから、オルドレイス代理だか魂帳局だか知らないが、外から勝手に帳簿へ載せるな」
幼いイリアスの目が、かすかに揺れた。
幼いセラフィードが、半分持った土を見下ろす。
ノアは、赤い糸へ手を伸ばした。
指先が震えている。
それでも掴む。
現実のレオの声が、今度ははっきり届いた。
「ノア」
ノアは夢の中で、低く返した。
「聞こえてる」
赤い糸が強く震える。
幼いセラフィードが、その糸を見た。
「彼だね」
ノアは顔をしかめる。
「そうだよ。現世の過保護王子様」
「助けてと言えば、来る?」
「来る。来すぎる」
「なら、どうして呼ばないの」
ノアは答えられなかった。
幼いイリアスが、静かに言った。
「半分持つって言われたのに」
ノアは目を伏せた。
「……だから怖いんだろ」
その本音だけが、土の上に落ちた。
幼い二人は何も言わなかった。
黒い霧が、再び墓穴の奥で揺れる。
ノアは、赤い糸を強く握った。
「今日はここまでだ」
幼いイリアスが問う。
「また逃げるのか」
「一時撤退」
「同じだ」
「違う。たぶん」
幼いセラフィードが言った。
「次は、助けてって言う?」
ノアは息を止めた。
すぐには答えなかった。
答えられなかった。
代わりに、低く言う。
「……考えとく」
幼いセラフィードは、少しだけ目を伏せた。
「うん」
幼いイリアスは、まだノアを見ていた。
置いていくのか。
その問いは、言葉にならなくてもそこにある。
ノアは赤い糸に引かれ、夢の戦場跡から浮き上がった。
墓穴が遠ざかる。
折れた剣が遠ざかる。
黒い土を半分持つ幼いセラフィードと、泥だらけの手の幼いイリアスが遠ざかる。
最後に、幼いセラフィードの声が聞こえた。
「半分は、まだ持ってるよ」
ノアは、何も返せなかった。
目が覚めた。
寮部屋の天井が見える。
夜明け前の薄暗さ。
乱れた呼吸。
喉の奥の痛み。
額に滲んだ冷や汗。
指先は、まだ何かを掴むように曲がっていた。
レオがすぐそばにいた。
青い瞳が、ノアを見ている。
心配と焦りと、夢に入れなかった苛立ちが混ざっている。相変わらず情報量の多い目だ。目だけで長文を書くな。
レオは水杯を差し出した。
「飲める?」
ノアは掠れた声で答えた。
「……飲める」
水を飲む。
喉が少しだけ楽になる。
レオは、ノアの指先をそっと離した。握りすぎてはいない。約束は守られていた。だが、赤い糸はまだ震えている。
レオが低く聞く。
「何を見たの」
ノアは水杯を返し、かすかに笑った。
「夢の中で過去の俺たちに説教された」
レオの表情が動く。
「僕もいた?」
ノアは、少しだけ沈黙した。
黒い土を半分持った幼いセラフィード。
現世のレオと同じ声で、助けてと言わないまま、また行くのかと問うた子ども。
ノアは目を逸らした。
「小さいお前がいた」
レオは息を止めた。
その沈黙は短かったが、深かった。
「何を言ったの」
「……半分持つって」
レオの赤い糸が、痛むように震えた。
ノアはそれ以上言わなかった。
言えば、まだ夢の土が喉から出てきそうだった。
レオも、無理には聞かなかった。
ただ、ノアの喉へ手を伸ばしかけ、止める。
「触れていい?」
「……喉だけ」
「うん」
白金の治癒魔法が、喉の痛みを包む。
熱を取る。
詰まりをほどく。
ノアは目を閉じた。
その時、レオが小さく息を呑んだ。
ノアは目を開ける。
「何」
レオは、自分の手を見ていた。
ノアの指先に触れていた方の手。
その手のひらに、黒い土が少し付いていた。
湿った、黒い土。
夢の戦場跡の土。
レオは夢に入っていない。
入っていないはずだった。
それなのに、赤い糸を通じて、記憶の棺に触れ始めている。
レオの表情が、静かに凍った。
ノアも、その土から目を離せなかった。
赤い糸が、二人の間でかすかに震えた。




