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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第五章 【記憶の棺と幼い亡霊】

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第89話 記憶の棺



 セドリック・バロウズの研究室には、黒い土の匂いが漂っていた。


 小さな封印箱の中に収められた、それだけならただの土にしか見えないもの。けれど、蓋を開けた瞬間、部屋の空気は変わった。湿った土。灰。古い血。燃えた草の根。雨ではなく戦争で濡れ、時間ではなく記憶で腐らず残った匂い。


 ノア・クロウは椅子に座り、その箱を見下ろしていた。


 右手の甲には、魂帳局の照合番号。


 その横には、白花派の儀礼対象印。


 首元の伴侶首輪《メイト・カラー》には、照合率二パーセントを示す黒い数字が沈んでいる。昨日より進んではいない。だが、消えてもいない。


 嫌なものばかり、律儀に残る。


 人間の都合の悪い書類と同じだ。必要な紙は消えるくせに、見たくない通知だけは机の真ん中に居座る。世界の事務処理は性格が悪い。


 ノアは封印箱を見て、掠れた声で言った。


「夢から土が出てくるとか、もう寝具の管理基準が分からないな」


 セドリックは無視した。


 黒魔法の細い線を箱の中へ伸ばし、土の表面をなぞる。触れてはいない。ただ、魔力の層を読むように光が走った。


 レオ・アステルレインは、ノアの隣に立っていた。


 距離は近い。


 だが、赤い糸はいつもより慎重に揺れている。ノアを包みたい。守りたい。夢も記憶も、首輪も手の甲の番号も、全部自分の管理下に置きたい。その衝動がある。だが、押し出さないように抑えている。


 学習している。


 遅いが。


 ノアは横目で見た。


「王子様、赤い糸が待てしてる」


「している」


「認めるんだ」


「包みたい」


「まだ早い」


「分かっている」


「よろしい」


 セドリックが低く言った。


「集中しろ」


「先生、集中しろって言われても、俺は土を見てるだけなんですけど」


「お前の土だ」


「俺の土ではない」


「お前の記憶から出た土だ」


「所有権の押しつけがひどい」


 セドリックは封印箱の上に解析陣を重ねた。


 黒い土の粒が、わずかに浮いた。


 土の表面に、古い魔力の層が見える。現世のものではない。学院の結界にも、平民区役所の記録魔法にも、英雄教会の聖香にも似ていない。


 もっと古い。


 もっと沈んでいる。


 魂の奥で、長いあいだ開かれなかった箱の底に溜まったような魔力。


 ノアの喉が、かすかに詰まった。


 伴侶首輪の黒い亀裂が、じわりと疼く。


 レオがすぐに気づいた。


「ノア」


「呼びすぎ禁止」


「今のは確認」


「便利確認」


 レオは水杯を机の端へ寄せた。


 飲め、という無言の圧がすごい。


 ノアは仕方なく受け取った。


「説明聞いただけで水分補給、授業料高いな」


「飲んで」


「はいはい」


 水で喉を湿らせても、重さは完全には取れなかった。


 セドリックは、土から黒魔法を引き上げた。


「これはただの夢干渉ではない」


 ノアは眉を上げた。


「でしょうね。普通の夢なら土産つけない」


「魂に封じられた前世記憶の一部が、現実へ漏れている」


 研究室の空気が、さらに重くなる。


 ノアは軽口を叩こうとして、少し遅れた。


 その遅れを、レオが見逃すわけがない。


 ノアはわざと肩をすくめた。


「前世記憶、液漏れするのか。品質保証は?」


「ない」


「最悪」


「古い魂魔法では、こう呼ぶ」


 セドリックは一枚の紙へ古い文字を書いた。


 記憶の棺。


 その四文字が、紙の上で黒く沈む。


 ノアの首輪が熱を持った。


 胸の奥が、かすかに引かれる。


 夢の土。


 浅い墓穴。


 幼いイリアスの泥だらけの手。


 置いていくのか。


 その声が、喉の奥でまた蘇る。


 ノアは唇を引き結んだ。


 レオの赤い糸が震える。


 現在へ固定しようと、ノアの魂糸の周囲で薄く光った。


 セドリックは続けた。


「人が転生するとき、前世の記憶は魂の奥に封じられる。完全に消えるわけではない。痕跡、癖、魔力の質、夢、恐怖、好悪として残ることはある。だが、通常は棺のように閉じられている」


 ノアは、古い文字を見下ろした。


「棺ね」


「前世の記憶を死者として扱い、魂の奥へ納めるための比喩だ。実際には、魂に刻まれた記憶層の封印構造を指す」


「比喩のわりに嫌な具体性」


「魂魔法はだいたいそうだ」


「俺の魂、収納下手すぎない?」


「収納の問題ではない」


「じゃあ管理会社が悪いな」


 レオが低く言った。


「笑わないで」


 ノアは、手の中の水杯を見た。


 声は軽かったが、喉の奥は冷えていた。


「笑ってないと、棺の中身が起きそうなんだよ」


 レオが息を止めた。


 セドリックも、そこで一度沈黙した。


 ノアは笑ったまま、笑えていなかった。


 棺。


 前世の記憶が封じられている場所。


 そこに幼いイリアスがいる。


 墓地の土を掴み、泣かずに立っている子どもがいる。


 ノア・クロウとして生きると選んだ途端、その子どもが問いかけてきた。


 置いていくのか。


 それは敵の作った嘘ではない。


 だから、余計に厄介だ。


 嘘なら切れる。


 幻なら壊せる。


 敵の罠なら避けられる。


 だが、あれは自分の中にある。


 セドリックは、解析紙を一枚めくった。


「通常、記憶の棺は完全には開かない。前世の記憶が強い者でも、断片的な夢や感情として漏れる程度だ。だが、お前の場合は条件が悪すぎる」


「言い方」


「事実だ」


「はいはい。何が悪い?」


「前世の記憶が濃すぎる。黒魔導書への接触、世界規模の魔力災害、伴侶契約の赤い糸、前世の死に関わった相手との再接続。魂に残っている痕跡が多い」


 レオの表情が少しだけ痛む。


 セドリックは容赦なく続ける。


「そこへ、オルドレイス代理の術式、白花派の儀礼、魂帳局の照合番号が重なった。名を照合し、儀礼対象として登録し、前世記録と結びつけた結果、記憶の棺の蓋が開きかけている」


 ノアは天井を見上げた。


「悪条件の詰め合わせ」


「そうだ」


「もう少し否定してほしかった」


「否定できない」


「先生、優しさをどこかに落としてきた?」


「拾う暇がない」


 レオが低く言った。


「開けば、どうなる」


 セドリックはレオを見た。


「前世記憶が現世人格へ流れ込む。断片的な回想では済まない。記憶が現実感を持ち、今のノア・クロウの経験を押し流す可能性がある」


 ノアは、水杯を握る指に力を入れた。


「上書き」


「そうだ」


 セドリックは、ノアを見た。


「前世の痛み、罪、怒り、喪失、黒魔導書の侵食。それらが、現在の感覚へ直接流れ込む。最悪の場合、ノア・クロウとしての自分と、イリアス・ノクスヴェルトとしての記憶の境界が崩れる」


 レオの赤い糸が、鋭く震えた。


 部屋の温度が一段下がる。


 レオは、ほとんど反射のように言いかけた。


「なら、閉じれば」


「レオ」


 ノアの声が遮った。


 掠れている。


 低い。


 軽口ではない。


 レオの言葉が止まる。


 ノアは、レオを見た。


「閉じ込めるなって言ったよな。俺の記憶まで」


 レオは沈黙した。


 青い瞳が揺れる。


 閉じたい。


 その衝動は明らかだった。


 記憶の棺を閉じてしまいたい。幼いイリアスも、墓地も、黒い土も、黒魔導書の記憶も、全部閉じて、ノアが見ないようにしたい。眠りも夢も記憶も管理し、開きそうな棺の蓋を赤い糸で縛ってしまいたい。


 それがレオの恐怖だ。


 ノアが前世に呑まれることへの恐怖。


 ノアがイリアスに戻されることへの恐怖。


 ノア・クロウが消えることへの恐怖。


 レオは唇を引き結んだ。


 けれど、手は伸ばさなかった。


 赤い糸も、棺を縛るようには動かなかった。


 ただ、震えている。


 ノアは少しだけ息を吐いた。


「偉い」


「偉くない」


「今、閉じたかっただろ」


「閉じたい」


「正直でよろしい。最悪だけど」


「君を失いたくない」


「知ってる」


「記憶に呑まれる君を見たくない」


「それも知ってる」


「でも、閉じたら、君が向き合うものを僕が奪う」


「分かってるじゃん」


 レオは目を伏せた。


「分かっているだけだよ」


「今日はそれでいい」


 セドリックが静かに口を挟んだ。


「記憶の棺は、閉じればいいものではない」


 ノアが眉を上げる。


「先生もレオに追撃?」


「事実だ。無理に閉じれば、前世記憶は魂の奥で圧縮される。敵が再度こじ開けた時、より強い反動で噴き出す可能性がある」


「棺の圧力鍋」


「嫌な例えだが、近い」


「近いんだ」


 セドリックは黒い土を見た。


「前世を消すことはできない。消すべきでもない。お前が昨日言った通り、イリアスをなかったことにはできない」


 ノアは黙った。


「必要なのは、棺を閉じることではなく、中身と向き合うことだ。ただし、敵に開かせるのではない。お前自身の意思で、少しずつ開き、見る。選ぶ。今の自分と、前世の記憶の境界を保ったままな」


 ノアは、乾いた笑いを漏らした。


「難易度高くない?」


「高い」


「もうちょっと励まして」


「失敗すれば危険だ」


「励ましとは」


「成功すれば、敵に利用されにくくなる」


「それを先に言え」


 レオが、低く問う。


「オルドレイスは、その棺を外から開けられるのですか」


「完全には分からない。だが、今回の土は外部干渉の痕跡を持っている。オルドレイス代理の術式が、記憶世界と現実の境目をこじ開けた可能性が高い」


 セドリックは封印箱の縁を指で示した。


「目的は、おそらく前世記憶そのものではない。前世記憶を利用して、ノア本人の意思で前世名と災厄認定を受け入れさせることだ」


 ノアの喉が詰まった。


 首輪が熱を持つ。


 幼いイリアスの問いが、また胸の奥で響く。


 置いていくのか。


 もし、あの問いに答えられないまま引きずられたら。


 もし、幼いイリアスの痛みを救うために、イリアス・ノクスヴェルトへ戻ることを選ばされるなら。


 敵は、そこを狙っている。


 ノアは、ゆっくり息を吸った。


「本人の意思って言い方、最悪だな」


「最悪だ。だから危険だ」


「無理やりじゃなくて、自分で選んだ形にするわけか」


「そうだ。名の照合より厄介だ。本人の選択に見せかけられれば、魂糸の抵抗が弱まる」


 レオの赤い糸が、怒りで震えた。


「許さない」


「怒るのは自由だが、怒りで棺を閉じるな」


 セドリックが即座に釘を刺す。


 レオは黙った。


 ノアはその様子を見て、かすかに笑う。


「先生、レオの扱い上手くなってきましたね」


「上手くなりたくなかった」


「俺も巻き込んで申し訳ない気持ちが少しあります」


「少しなのが腹立たしいな」


「多めにしておきます」


 レオはそこで、ようやくノアへ視線を向けた。


「喉を診ていい?」


「説明聞いただけで喉ケア、授業料高いな」


「詰まっている」


「まあ、詰まってる」


「触れていい?」


「喉だけ。棺は触るな」


「触らない」


「よろしい」


 レオの白金の魔法が、ノアの喉を包む。


 熱を取る。


 奥の詰まりをほどく。


 首輪の黒い亀裂には触れず、その周囲の負荷だけを軽くする。ノアは目を閉じ、少しだけ息を吐いた。


 レオの指先が震えているのが分かった。


 触れたいものが多すぎるのだ。


 首輪。


 番号。


 白花印。


 魂糸。


 記憶の棺。


 全部に手を伸ばして、自分の管理下に置きたい。


 けれど、今は喉だけ。


 ノアが許可した場所だけ。


 レオはそこに留まっている。


 ノアは、目を閉じたまま言った。


「九点」


「下がっていない?」


「今日は保留」


「難しい」


「簡単だったらお前すぐ満点取って調子乗るだろ」


「乗るかもしれない」


「自覚があるなら駄目」


 セドリックは資料をまとめながら言った。


「今夜以降、夢を見る可能性が高い」


 ノアは目を開けた。


「夢予告、いらない」


「備えろという意味だ」


「備えたところで夢なんですけど」


「寝る前に現世名を確認しろ。手の甲の番号と白花印の状態を記録する。喉、首輪、魔力回路も整えてから眠れ」


「就寝前点検項目が増えていく」


「増やさざるを得ない」


 レオが静かに言う。


「僕が見る」


 ノアは横目で睨んだ。


「管理じゃなくて補助」


「補助する」


「よろしい」


「でも、眠っている間に異常が出たら呼ぶ」


「それは許可」


「夢へ勝手に入らない」


「それもよろしい」


「入りたいけど」


「減点」


「……入らない」


「よろしい」


 セドリックが疲れた顔で、封印箱を閉じた。


「黒い土は預かる。記憶の棺の開口度を測る術式を組む」


「開口度」


 ノアは嫌そうに顔をしかめた。


「また嫌な管理項目が増えた」


「お前の魂は今、管理しないと危ない」


「言い方が役所側」


「否定できんのが腹立たしい」


 研究室を出る頃には、昼の光が廊下に伸びていた。


 生徒たちの声が遠くから聞こえる。


 日常は、まだそこにある。


 けれど、ノアの足元には、見えない土の感触が残っていた。


 墓地。


 幼いイリアス。


 置いていくのか。


 そして、今夜また夢を見るだろうという予感。


 夜。


 ノアは寮部屋の寝台に横になった。


 レオは約束通り、手を繋ぎすぎない距離で指先に触れている。眠る前に、ノアは自分の名を一度だけ言った。


「俺はノア・クロウ」


 レオが静かに返す。


「君はノア・クロウ」


「呼びすぎ禁止」


「一回だけ」


「よろしい」


 水を飲み、喉を癒し、手の甲の熱を冷まし、首輪の黒い二を確認する。照合率は進んでいない。白花印も濃くなっていない。


 それでも、眠りはすぐに深くなった。


 土の匂いがした。


 また、墓地だった。


 黒く湿った土。


 折れた剣。


 灰をかぶった草。


 浅く掘られた墓穴。


 幼いイリアスがそこにいた。


 そして、今度は幼いセラフィードも、はっきりと立っていた。


 金髪に灰をかぶり、まだ幼い手で、黒い土を見下ろしている。


 幼いイリアスの手には、土がある。


 重そうな、黒い土。


 幼いセラフィードは黙って歩み寄り、その土を半分持ち上げた。


 小さな手が、黒く汚れる。


 それでも、彼は手を離さなかった。


 幼いセラフィードは、幼いイリアスを見て言った。


「なら、僕が半分持つ」


 ノアは息を呑んだ。




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