第89話 記憶の棺
セドリック・バロウズの研究室には、黒い土の匂いが漂っていた。
小さな封印箱の中に収められた、それだけならただの土にしか見えないもの。けれど、蓋を開けた瞬間、部屋の空気は変わった。湿った土。灰。古い血。燃えた草の根。雨ではなく戦争で濡れ、時間ではなく記憶で腐らず残った匂い。
ノア・クロウは椅子に座り、その箱を見下ろしていた。
右手の甲には、魂帳局の照合番号。
その横には、白花派の儀礼対象印。
首元の伴侶首輪には、照合率二パーセントを示す黒い数字が沈んでいる。昨日より進んではいない。だが、消えてもいない。
嫌なものばかり、律儀に残る。
人間の都合の悪い書類と同じだ。必要な紙は消えるくせに、見たくない通知だけは机の真ん中に居座る。世界の事務処理は性格が悪い。
ノアは封印箱を見て、掠れた声で言った。
「夢から土が出てくるとか、もう寝具の管理基準が分からないな」
セドリックは無視した。
黒魔法の細い線を箱の中へ伸ばし、土の表面をなぞる。触れてはいない。ただ、魔力の層を読むように光が走った。
レオ・アステルレインは、ノアの隣に立っていた。
距離は近い。
だが、赤い糸はいつもより慎重に揺れている。ノアを包みたい。守りたい。夢も記憶も、首輪も手の甲の番号も、全部自分の管理下に置きたい。その衝動がある。だが、押し出さないように抑えている。
学習している。
遅いが。
ノアは横目で見た。
「王子様、赤い糸が待てしてる」
「している」
「認めるんだ」
「包みたい」
「まだ早い」
「分かっている」
「よろしい」
セドリックが低く言った。
「集中しろ」
「先生、集中しろって言われても、俺は土を見てるだけなんですけど」
「お前の土だ」
「俺の土ではない」
「お前の記憶から出た土だ」
「所有権の押しつけがひどい」
セドリックは封印箱の上に解析陣を重ねた。
黒い土の粒が、わずかに浮いた。
土の表面に、古い魔力の層が見える。現世のものではない。学院の結界にも、平民区役所の記録魔法にも、英雄教会の聖香にも似ていない。
もっと古い。
もっと沈んでいる。
魂の奥で、長いあいだ開かれなかった箱の底に溜まったような魔力。
ノアの喉が、かすかに詰まった。
伴侶首輪の黒い亀裂が、じわりと疼く。
レオがすぐに気づいた。
「ノア」
「呼びすぎ禁止」
「今のは確認」
「便利確認」
レオは水杯を机の端へ寄せた。
飲め、という無言の圧がすごい。
ノアは仕方なく受け取った。
「説明聞いただけで水分補給、授業料高いな」
「飲んで」
「はいはい」
水で喉を湿らせても、重さは完全には取れなかった。
セドリックは、土から黒魔法を引き上げた。
「これはただの夢干渉ではない」
ノアは眉を上げた。
「でしょうね。普通の夢なら土産つけない」
「魂に封じられた前世記憶の一部が、現実へ漏れている」
研究室の空気が、さらに重くなる。
ノアは軽口を叩こうとして、少し遅れた。
その遅れを、レオが見逃すわけがない。
ノアはわざと肩をすくめた。
「前世記憶、液漏れするのか。品質保証は?」
「ない」
「最悪」
「古い魂魔法では、こう呼ぶ」
セドリックは一枚の紙へ古い文字を書いた。
記憶の棺。
その四文字が、紙の上で黒く沈む。
ノアの首輪が熱を持った。
胸の奥が、かすかに引かれる。
夢の土。
浅い墓穴。
幼いイリアスの泥だらけの手。
置いていくのか。
その声が、喉の奥でまた蘇る。
ノアは唇を引き結んだ。
レオの赤い糸が震える。
現在へ固定しようと、ノアの魂糸の周囲で薄く光った。
セドリックは続けた。
「人が転生するとき、前世の記憶は魂の奥に封じられる。完全に消えるわけではない。痕跡、癖、魔力の質、夢、恐怖、好悪として残ることはある。だが、通常は棺のように閉じられている」
ノアは、古い文字を見下ろした。
「棺ね」
「前世の記憶を死者として扱い、魂の奥へ納めるための比喩だ。実際には、魂に刻まれた記憶層の封印構造を指す」
「比喩のわりに嫌な具体性」
「魂魔法はだいたいそうだ」
「俺の魂、収納下手すぎない?」
「収納の問題ではない」
「じゃあ管理会社が悪いな」
レオが低く言った。
「笑わないで」
ノアは、手の中の水杯を見た。
声は軽かったが、喉の奥は冷えていた。
「笑ってないと、棺の中身が起きそうなんだよ」
レオが息を止めた。
セドリックも、そこで一度沈黙した。
ノアは笑ったまま、笑えていなかった。
棺。
前世の記憶が封じられている場所。
そこに幼いイリアスがいる。
墓地の土を掴み、泣かずに立っている子どもがいる。
ノア・クロウとして生きると選んだ途端、その子どもが問いかけてきた。
置いていくのか。
それは敵の作った嘘ではない。
だから、余計に厄介だ。
嘘なら切れる。
幻なら壊せる。
敵の罠なら避けられる。
だが、あれは自分の中にある。
セドリックは、解析紙を一枚めくった。
「通常、記憶の棺は完全には開かない。前世の記憶が強い者でも、断片的な夢や感情として漏れる程度だ。だが、お前の場合は条件が悪すぎる」
「言い方」
「事実だ」
「はいはい。何が悪い?」
「前世の記憶が濃すぎる。黒魔導書への接触、世界規模の魔力災害、伴侶契約の赤い糸、前世の死に関わった相手との再接続。魂に残っている痕跡が多い」
レオの表情が少しだけ痛む。
セドリックは容赦なく続ける。
「そこへ、オルドレイス代理の術式、白花派の儀礼、魂帳局の照合番号が重なった。名を照合し、儀礼対象として登録し、前世記録と結びつけた結果、記憶の棺の蓋が開きかけている」
ノアは天井を見上げた。
「悪条件の詰め合わせ」
「そうだ」
「もう少し否定してほしかった」
「否定できない」
「先生、優しさをどこかに落としてきた?」
「拾う暇がない」
レオが低く言った。
「開けば、どうなる」
セドリックはレオを見た。
「前世記憶が現世人格へ流れ込む。断片的な回想では済まない。記憶が現実感を持ち、今のノア・クロウの経験を押し流す可能性がある」
ノアは、水杯を握る指に力を入れた。
「上書き」
「そうだ」
セドリックは、ノアを見た。
「前世の痛み、罪、怒り、喪失、黒魔導書の侵食。それらが、現在の感覚へ直接流れ込む。最悪の場合、ノア・クロウとしての自分と、イリアス・ノクスヴェルトとしての記憶の境界が崩れる」
レオの赤い糸が、鋭く震えた。
部屋の温度が一段下がる。
レオは、ほとんど反射のように言いかけた。
「なら、閉じれば」
「レオ」
ノアの声が遮った。
掠れている。
低い。
軽口ではない。
レオの言葉が止まる。
ノアは、レオを見た。
「閉じ込めるなって言ったよな。俺の記憶まで」
レオは沈黙した。
青い瞳が揺れる。
閉じたい。
その衝動は明らかだった。
記憶の棺を閉じてしまいたい。幼いイリアスも、墓地も、黒い土も、黒魔導書の記憶も、全部閉じて、ノアが見ないようにしたい。眠りも夢も記憶も管理し、開きそうな棺の蓋を赤い糸で縛ってしまいたい。
それがレオの恐怖だ。
ノアが前世に呑まれることへの恐怖。
ノアがイリアスに戻されることへの恐怖。
ノア・クロウが消えることへの恐怖。
レオは唇を引き結んだ。
けれど、手は伸ばさなかった。
赤い糸も、棺を縛るようには動かなかった。
ただ、震えている。
ノアは少しだけ息を吐いた。
「偉い」
「偉くない」
「今、閉じたかっただろ」
「閉じたい」
「正直でよろしい。最悪だけど」
「君を失いたくない」
「知ってる」
「記憶に呑まれる君を見たくない」
「それも知ってる」
「でも、閉じたら、君が向き合うものを僕が奪う」
「分かってるじゃん」
レオは目を伏せた。
「分かっているだけだよ」
「今日はそれでいい」
セドリックが静かに口を挟んだ。
「記憶の棺は、閉じればいいものではない」
ノアが眉を上げる。
「先生もレオに追撃?」
「事実だ。無理に閉じれば、前世記憶は魂の奥で圧縮される。敵が再度こじ開けた時、より強い反動で噴き出す可能性がある」
「棺の圧力鍋」
「嫌な例えだが、近い」
「近いんだ」
セドリックは黒い土を見た。
「前世を消すことはできない。消すべきでもない。お前が昨日言った通り、イリアスをなかったことにはできない」
ノアは黙った。
「必要なのは、棺を閉じることではなく、中身と向き合うことだ。ただし、敵に開かせるのではない。お前自身の意思で、少しずつ開き、見る。選ぶ。今の自分と、前世の記憶の境界を保ったままな」
ノアは、乾いた笑いを漏らした。
「難易度高くない?」
「高い」
「もうちょっと励まして」
「失敗すれば危険だ」
「励ましとは」
「成功すれば、敵に利用されにくくなる」
「それを先に言え」
レオが、低く問う。
「オルドレイスは、その棺を外から開けられるのですか」
「完全には分からない。だが、今回の土は外部干渉の痕跡を持っている。オルドレイス代理の術式が、記憶世界と現実の境目をこじ開けた可能性が高い」
セドリックは封印箱の縁を指で示した。
「目的は、おそらく前世記憶そのものではない。前世記憶を利用して、ノア本人の意思で前世名と災厄認定を受け入れさせることだ」
ノアの喉が詰まった。
首輪が熱を持つ。
幼いイリアスの問いが、また胸の奥で響く。
置いていくのか。
もし、あの問いに答えられないまま引きずられたら。
もし、幼いイリアスの痛みを救うために、イリアス・ノクスヴェルトへ戻ることを選ばされるなら。
敵は、そこを狙っている。
ノアは、ゆっくり息を吸った。
「本人の意思って言い方、最悪だな」
「最悪だ。だから危険だ」
「無理やりじゃなくて、自分で選んだ形にするわけか」
「そうだ。名の照合より厄介だ。本人の選択に見せかけられれば、魂糸の抵抗が弱まる」
レオの赤い糸が、怒りで震えた。
「許さない」
「怒るのは自由だが、怒りで棺を閉じるな」
セドリックが即座に釘を刺す。
レオは黙った。
ノアはその様子を見て、かすかに笑う。
「先生、レオの扱い上手くなってきましたね」
「上手くなりたくなかった」
「俺も巻き込んで申し訳ない気持ちが少しあります」
「少しなのが腹立たしいな」
「多めにしておきます」
レオはそこで、ようやくノアへ視線を向けた。
「喉を診ていい?」
「説明聞いただけで喉ケア、授業料高いな」
「詰まっている」
「まあ、詰まってる」
「触れていい?」
「喉だけ。棺は触るな」
「触らない」
「よろしい」
レオの白金の魔法が、ノアの喉を包む。
熱を取る。
奥の詰まりをほどく。
首輪の黒い亀裂には触れず、その周囲の負荷だけを軽くする。ノアは目を閉じ、少しだけ息を吐いた。
レオの指先が震えているのが分かった。
触れたいものが多すぎるのだ。
首輪。
番号。
白花印。
魂糸。
記憶の棺。
全部に手を伸ばして、自分の管理下に置きたい。
けれど、今は喉だけ。
ノアが許可した場所だけ。
レオはそこに留まっている。
ノアは、目を閉じたまま言った。
「九点」
「下がっていない?」
「今日は保留」
「難しい」
「簡単だったらお前すぐ満点取って調子乗るだろ」
「乗るかもしれない」
「自覚があるなら駄目」
セドリックは資料をまとめながら言った。
「今夜以降、夢を見る可能性が高い」
ノアは目を開けた。
「夢予告、いらない」
「備えろという意味だ」
「備えたところで夢なんですけど」
「寝る前に現世名を確認しろ。手の甲の番号と白花印の状態を記録する。喉、首輪、魔力回路も整えてから眠れ」
「就寝前点検項目が増えていく」
「増やさざるを得ない」
レオが静かに言う。
「僕が見る」
ノアは横目で睨んだ。
「管理じゃなくて補助」
「補助する」
「よろしい」
「でも、眠っている間に異常が出たら呼ぶ」
「それは許可」
「夢へ勝手に入らない」
「それもよろしい」
「入りたいけど」
「減点」
「……入らない」
「よろしい」
セドリックが疲れた顔で、封印箱を閉じた。
「黒い土は預かる。記憶の棺の開口度を測る術式を組む」
「開口度」
ノアは嫌そうに顔をしかめた。
「また嫌な管理項目が増えた」
「お前の魂は今、管理しないと危ない」
「言い方が役所側」
「否定できんのが腹立たしい」
研究室を出る頃には、昼の光が廊下に伸びていた。
生徒たちの声が遠くから聞こえる。
日常は、まだそこにある。
けれど、ノアの足元には、見えない土の感触が残っていた。
墓地。
幼いイリアス。
置いていくのか。
そして、今夜また夢を見るだろうという予感。
夜。
ノアは寮部屋の寝台に横になった。
レオは約束通り、手を繋ぎすぎない距離で指先に触れている。眠る前に、ノアは自分の名を一度だけ言った。
「俺はノア・クロウ」
レオが静かに返す。
「君はノア・クロウ」
「呼びすぎ禁止」
「一回だけ」
「よろしい」
水を飲み、喉を癒し、手の甲の熱を冷まし、首輪の黒い二を確認する。照合率は進んでいない。白花印も濃くなっていない。
それでも、眠りはすぐに深くなった。
土の匂いがした。
また、墓地だった。
黒く湿った土。
折れた剣。
灰をかぶった草。
浅く掘られた墓穴。
幼いイリアスがそこにいた。
そして、今度は幼いセラフィードも、はっきりと立っていた。
金髪に灰をかぶり、まだ幼い手で、黒い土を見下ろしている。
幼いイリアスの手には、土がある。
重そうな、黒い土。
幼いセラフィードは黙って歩み寄り、その土を半分持ち上げた。
小さな手が、黒く汚れる。
それでも、彼は手を離さなかった。
幼いセラフィードは、幼いイリアスを見て言った。
「なら、僕が半分持つ」
ノアは息を呑んだ。




