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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第五章 【記憶の棺と幼い亡霊】

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第88話 置いていくのか



 朝の寮部屋は、ひどく静かだった。


 窓の外では、中庭の木々が朝風に揺れている。いつもなら、廊下の向こうから早起きの生徒たちの足音や、食堂へ急ぐ声が聞こえてくる時間だった。けれど、三〇七号室の中だけは、夜明け前の夢の残滓をまだ抱えたまま、時間が浅く沈んでいた。


 寝台の白い枕元に、黒い土が落ちている。


 ほんの少し。


 指先でつまめばすぐ崩れそうな量だった。


 だが、それはこの部屋にあるはずのないものだった。


 学院の庭土ではない。寮の鉢植えの土でもない。乾いた教材用の魔法土でもない。もっと湿っていて、もっと古い。灰と血と、燃えた草の根を長く抱え込んだような黒だった。


 ノア・クロウは寝台に座り、掠れた喉で笑った。


「夢土産ってやつ? サービス悪いな」


 レオ・アステルレインは笑わなかった。


 枕元に膝をつき、黒い土へ白金の魔力を近づけている。触れはしない。魔力の薄い膜で、土の表面に残った気配を読む。


 青い瞳が、いつもより暗い。


「笑わないで」


 ノアは肩をすくめた。


「笑わないと、ちょっと嫌な感じなんだよ」


 声は軽くしようとした。


 けれど、途中で喉が引っかかった。


 昨夜の夢の感触が、まだ喉の奥に残っている。


 じゃあ、お前は俺を置いていくのか?


 幼いイリアスの声。


 泣いていなかった。


 怒ってもいなかった。


 それが一番きつかった。


 責められた方が、まだ軽口で跳ね返せたかもしれない。泣かれた方が、慰めるふりで逃げられたかもしれない。だが、あの子どもはただ静かに見上げてきた。土まみれの手で、墓穴の前に立ったまま。


 置いていくのか。


 その問いが、喉に刺さっている。


 ノアは手の甲を見た。


 黒い照合番号。


 白い花の印。


 伴侶首輪の奥には、二パーセントの黒い数字。


 現世名を選び直した。


 ノア・クロウだと、自分で言った。


 それは嘘ではない。


 けれど、イリアス・ノクスヴェルトをどうすればいいのかは、まだ分からない。


 前世の罪。


 前世の痛み。


 前世で置き去りにされた幼い自分。


 それらを、なかったことにはしないと決めた。


 だが、なかったことにしないとは、どういうことなのか。


 背負えばいいのか。


 許せばいいのか。


 連れていくとは、何なのか。


 答えはまだ、土の中に埋まっている。


 レオが黒い土から視線を上げた。


「学院の土じゃない」


「見れば分かるの?」


「魔力の粒が違う。学院の土は結界の影響を受けている。この土にはそれがない」


「土にも所属意識があるのか。大変だな」


「それに、残滓が古すぎる」


 レオの声が低くなる。


「前世の戦場跡に近い」


 ノアは、軽口を返そうとして失敗した。


 胸の奥が重い。


 伴侶首輪が、じわりと熱を持つ。痛みではない。けれど、何か古いものに触れたときの、魂糸のきしみだった。


 レオはすぐにノアを見る。


「喉が詰まっている」


「喉の実況やめろ」


「声が震えた」


「便利すぎるな、お前の診断」


「隠している」


「人間、隠し事の一つや二つあるだろ」


「君は、声に出る」


「嫌な特技」


 レオは無理に問い詰めなかった。


 それが、逆にノアの胸を少しだけ重くした。


 以前なら、レオは聞いただろう。何を見たのか、誰に会ったのか、何を言われたのか、どこが痛いのか、全部を知ろうとした。知ることが守ることだと信じて、境界線を踏み越えかけただろう。


 今は、止まっている。


 分かっているのだ。


 無理に問えば、ノアは逃げる。


 軽口で逃げる。


 怒って逃げる。


 黙って逃げる。


 だから、レオは水杯を取った。


「飲んで」


 ノアは少しだけ目を細めた。


「朝から夢診療、濃すぎ」


「飲んで」


「はいはい」


 水は、いつものように冷たすぎなかった。


 喉を通ると、引っかかっていた痛みがわずかに和らぐ。レオは水杯を受け取り、ノアの首元を見た。


 伴侶首輪の黒い亀裂は、昨夜より広がってはいない。


 照合率も二のまま。


 ただ、亀裂の奥が時折、小さく疼く。


 記憶に反応している。


 レオは、静かに聞いた。


「触れていい?」


 ノアは一瞬、答えなかった。


 それから、少しだけ顎を引く。


「……喉だけな」


「うん」


 レオの指先に、白金の光が灯る。


 触れるか触れないかの距離で、治癒魔法が薄く広がった。喉の熱を取る。声を無理に戻すのではなく、発声の通り道を塞いでいる魂糸の緊張を少し緩める。


 ノアは息を吐いた。


 レオの治癒は、最近ようやく力加減を覚え始めた。遅い。だが覚えないよりはいい。人類の進歩はだいたい遅い。王子様の進歩も例外ではないらしい。


 レオは喉を癒しながら、低く言った。


「夢で、何を言われたの」


 ノアは目を閉じた。


 声の震えを拾われている。


 治癒魔法越しに、喉の奥の詰まりがばれている。


 逃げづらい。


 非常に嫌だ。


 ノアは小さく笑う。


「夢の俺に説教された」


「それは聞いた」


「細かいな」


「大事だから」


「重い」


「うん」


 ノアは、しばらく黙った。


 窓の外で、鳥の声がした。


 朝は来ている。


 だが、ノアの中ではまだ墓地の夜が続いている。湿った土。折れた剣。灰をかぶった草。浅い墓穴。幼いイリアスの泥だらけの手。


 ノアは、ようやく言った。


「じゃあ、お前は俺を置いていくのか、って」


 レオの指先が止まった。


 白金の光が、ほんの一瞬だけ揺れる。


 ノアは続けた。


「幼いイリアスが言った。俺がノア・クロウを選んだから、自分を置いていくのかって」


 レオは言葉を失った。


 青い瞳が、ほんの少し揺れる。


 ノアは、喉を癒されながら低く笑った。


「前世をなかったことにはしないって言ったばっかりなのに、さっそく前世の俺から苦情受付。仕事早すぎる。魂のカスタマーセンターかよ」


「ノア」


「分かってる。笑うところじゃない」


 ノアの声は、少しだけ低くなった。


「分かってるけど、笑わないとちょっと無理」


 伴侶首輪が熱を持つ。


 魂糸が、夢の中の土へ引かれるように軋んだ。レオがすぐに現世名を呼ぶ。


「ノア・クロウ」


 その名で、少しだけ安定する。


 ノアは息を整えた。


 照合率は進まない。


 二のまま。


 けれど、記憶の方へ引かれる感覚は残っている。


 ノアは手の甲を見下ろした。


「イリアスをなかったことにはしない。あいつがやったことも、俺の魂に残ってるものも、なかったことにはできない。そう言った。言ったけど」


 声が詰まる。


「じゃあ、あいつをどうすればいいのか分からない」


 レオは黙って聞いている。


 ノアは、自嘲するように笑った。


「背負えって?」


 その言葉は、自分で思った以上に痛かった。


 背負う。


 前世の罪を。


 前世の痛みを。


 幼い自分の墓穴を。


 黒い災厄になった理由も、殺した人間も、救えなかったものも、全部。


 そんなものを背負えるほど、自分は立派ではない。


 ノア・クロウは、ただの平民の黒魔法科生徒だ。


 軽口を叩いていないと息が詰まる、面倒くさがりの、やたら前世が重いだけの人間だ。


 背負えと言われても、潰れる気しかしない。


 レオが、静かに言った。


「背負うんじゃなくて、連れていく」


 ノアは、返せなかった。


 茶化す言葉が出てこない。


 レオの声は、ひどく静かだった。


「置いていく必要はない」


 ノアは、ゆっくり顔を上げた。


 レオはノアだけを見ている。


「イリアスを消さなくていい。墓地に置いたままにしなくていい。罪も痛みも、君一人で背負うものにしなくていい」


「……簡単に言うなよ」


「簡単じゃない」


「だろうな」


「でも、背負うって言うと、君は一人で潰れようとする」


 ノアの喉が詰まった。


 レオは続ける。


「連れていくなら、歩ける。止まったら、休める。君がノア・クロウとして進む場所へ、イリアスの記憶も一緒に連れていく。置いていくんじゃなくて、上書きされるんでもなくて」


 レオの赤い糸が、静かに震えた。


「君の中にいるまま、君が選んだ名で進む」


 ノアは、しばらく何も言えなかった。


 レオの言葉は重い。


 相変わらず重い。


 だが、今の重さは檻の重さではなかった。


 何かを押しつける重さでもない。


 地面に置かれた石のような重さだった。そこへ足を置けば、少しだけ踏みとどまれるような。


 ノアは視線を逸らした。


「……お前、たまにまともなこと言うのやめろ。反応に困る」


「困っていい」


「いいんだ」


「うん」


「重い」


「うん」


 ノアは息を吐いた。


 茶化せない。


 完全には。


 それが少し悔しかった。


 枕元の黒い土を、レオは封印箱へ移した。


 直接触れず、白金の薄い結界で包み、黒い土を一粒ずつ小箱へ落とす。土は箱の底で、かすかに湿った音を立てた。


 蓋が閉じると、部屋の空気がほんの少し軽くなる。


 だが、完全には消えない。


 夢と現実が、どこかで繋がった。


 黒い土はその証拠だった。


 ノアは髪を指で乱そうとして、レオに見つかった。


「整える」


「今?」


「乱れている」


「夢診療の次は朝美容」


「座って」


「命令形」


「お願い」


「言い直しが早い」


 ノアは小さく笑い、背を向けた。


 レオが櫛を通す。


 いつものように丁寧だった。


 ノアの黒髪を梳きながら、レオは何も聞かない。聞きたいことは山ほどあるはずだ。幼いイリアスのこと。幼いセラフィードのこと。墓地のこと。置いていくのかという問いのこと。


 それでも、聞かない。


 今日はそれが助かった。


 ノアは、ぼそりと言った。


「レオ」


「何?」


「俺、まだ答えられてない」


「うん」


「置いていかないって言いかけたけど、その先が分からなかった」


「今は、それでいい」


「甘いな」


「甘くしたい」


「言い方」


「君が苦いものばかり飲まされているから」


 ノアは、少しだけ目を閉じた。


「そういうの、急に出すな」


「嫌?」


「……嫌ではない」


 レオの手が一瞬だけ止まる。


 そして、また髪を梳き始めた。


 たぶん今の一言で、レオの中に何かが記録された。嫌な確信がある。記念日だの許可だのと同じ箱にしまわれた気がする。人間の記憶管理としては非常に重い。いや、レオを人間基準にする方が悪いのかもしれない。


 朝食の鐘が遠くで鳴った。


 ノアは水を飲み、喉をもう一度癒され、手の甲の番号と白花印の熱を確認された。首輪の照合率は二のまま。進んではいない。


 だが、止まっているだけだ。


 敵は名の次に記憶を狙っている。


 幼いイリアスの問いは、敵が作った嘘ではない。だからこそ危ない。嘘なら否定すればいい。幻なら壊せばいい。けれど、あれはノア自身の中に残っている。


 敵は、その残響へ手を伸ばしている。


 レオは封印箱を持ち、ノアと共にセドリックの研究室へ向かった。


 廊下は朝の光で明るかった。


 普通の生徒たちが行き交っている。笑い声もある。教本を抱えた一年生が走り、上級生がそれを叱る。昨日と同じ学院の朝。


 ノアは、その中を歩きながら少しだけ思った。


 自分は今、ノア・クロウとしてここを歩いている。


 その足元の奥に、黒い土がある。


 幼いイリアスがいる。


 置いていくのではない。


 たぶん。


 でも、どう連れていくのかは、まだ分からない。


 研究室に入ると、セドリックはすでに待っていた。


 机の上には、魂帳局、防腐インク、白花派儀礼対象印に関する資料が広げられている。徹夜した顔だった。教師の生活、だいぶ終わっている。いや、自分たちのせいでもある。少しだけ申し訳ない。少しだけ。


 レオが封印箱を置く。


「夢から現実へ持ち出された土です」


 セドリックの表情が、一瞬で険しくなった。


 彼は箱を開け、黒い土を見た。


 黒魔法の細い線が土の表面をなぞる。


 すぐに、研究室の空気が変わった。


「これは、ただの夢の残滓ではない」


 ノアは椅子に座る。


「でしょうね。夢の土が枕元に落ちる時点で、ただの夢なら世も末ですし」


「世も末に近い」


「否定して」


 セドリックは否定しなかった。


 嫌な沈黙だった。


 彼は黒い土を封印し直し、低く言った。


「記憶世界と現実が一部接続し始めている。オルドレイス代理が、記憶の門を開けている可能性がある」


 レオの赤い糸が鋭く震える。


 ノアは眉をひそめた。


「記憶の門」


「前世の記憶を、単なる夢ではなく、魂が通過可能な空間として開く術式だ」


「嫌な説明だな」


「まだある」


「聞きたくない」


「聞け」


 セドリックは、黒い土を見下ろした。


「これは、“記憶の棺”が開きかけている兆候だ」


 ノアはしばらく黙った。


 それから、掠れた声で呟いた。


「また嫌な専門用語が出た」




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