第88話 置いていくのか
朝の寮部屋は、ひどく静かだった。
窓の外では、中庭の木々が朝風に揺れている。いつもなら、廊下の向こうから早起きの生徒たちの足音や、食堂へ急ぐ声が聞こえてくる時間だった。けれど、三〇七号室の中だけは、夜明け前の夢の残滓をまだ抱えたまま、時間が浅く沈んでいた。
寝台の白い枕元に、黒い土が落ちている。
ほんの少し。
指先でつまめばすぐ崩れそうな量だった。
だが、それはこの部屋にあるはずのないものだった。
学院の庭土ではない。寮の鉢植えの土でもない。乾いた教材用の魔法土でもない。もっと湿っていて、もっと古い。灰と血と、燃えた草の根を長く抱え込んだような黒だった。
ノア・クロウは寝台に座り、掠れた喉で笑った。
「夢土産ってやつ? サービス悪いな」
レオ・アステルレインは笑わなかった。
枕元に膝をつき、黒い土へ白金の魔力を近づけている。触れはしない。魔力の薄い膜で、土の表面に残った気配を読む。
青い瞳が、いつもより暗い。
「笑わないで」
ノアは肩をすくめた。
「笑わないと、ちょっと嫌な感じなんだよ」
声は軽くしようとした。
けれど、途中で喉が引っかかった。
昨夜の夢の感触が、まだ喉の奥に残っている。
じゃあ、お前は俺を置いていくのか?
幼いイリアスの声。
泣いていなかった。
怒ってもいなかった。
それが一番きつかった。
責められた方が、まだ軽口で跳ね返せたかもしれない。泣かれた方が、慰めるふりで逃げられたかもしれない。だが、あの子どもはただ静かに見上げてきた。土まみれの手で、墓穴の前に立ったまま。
置いていくのか。
その問いが、喉に刺さっている。
ノアは手の甲を見た。
黒い照合番号。
白い花の印。
伴侶首輪の奥には、二パーセントの黒い数字。
現世名を選び直した。
ノア・クロウだと、自分で言った。
それは嘘ではない。
けれど、イリアス・ノクスヴェルトをどうすればいいのかは、まだ分からない。
前世の罪。
前世の痛み。
前世で置き去りにされた幼い自分。
それらを、なかったことにはしないと決めた。
だが、なかったことにしないとは、どういうことなのか。
背負えばいいのか。
許せばいいのか。
連れていくとは、何なのか。
答えはまだ、土の中に埋まっている。
レオが黒い土から視線を上げた。
「学院の土じゃない」
「見れば分かるの?」
「魔力の粒が違う。学院の土は結界の影響を受けている。この土にはそれがない」
「土にも所属意識があるのか。大変だな」
「それに、残滓が古すぎる」
レオの声が低くなる。
「前世の戦場跡に近い」
ノアは、軽口を返そうとして失敗した。
胸の奥が重い。
伴侶首輪が、じわりと熱を持つ。痛みではない。けれど、何か古いものに触れたときの、魂糸のきしみだった。
レオはすぐにノアを見る。
「喉が詰まっている」
「喉の実況やめろ」
「声が震えた」
「便利すぎるな、お前の診断」
「隠している」
「人間、隠し事の一つや二つあるだろ」
「君は、声に出る」
「嫌な特技」
レオは無理に問い詰めなかった。
それが、逆にノアの胸を少しだけ重くした。
以前なら、レオは聞いただろう。何を見たのか、誰に会ったのか、何を言われたのか、どこが痛いのか、全部を知ろうとした。知ることが守ることだと信じて、境界線を踏み越えかけただろう。
今は、止まっている。
分かっているのだ。
無理に問えば、ノアは逃げる。
軽口で逃げる。
怒って逃げる。
黙って逃げる。
だから、レオは水杯を取った。
「飲んで」
ノアは少しだけ目を細めた。
「朝から夢診療、濃すぎ」
「飲んで」
「はいはい」
水は、いつものように冷たすぎなかった。
喉を通ると、引っかかっていた痛みがわずかに和らぐ。レオは水杯を受け取り、ノアの首元を見た。
伴侶首輪の黒い亀裂は、昨夜より広がってはいない。
照合率も二のまま。
ただ、亀裂の奥が時折、小さく疼く。
記憶に反応している。
レオは、静かに聞いた。
「触れていい?」
ノアは一瞬、答えなかった。
それから、少しだけ顎を引く。
「……喉だけな」
「うん」
レオの指先に、白金の光が灯る。
触れるか触れないかの距離で、治癒魔法が薄く広がった。喉の熱を取る。声を無理に戻すのではなく、発声の通り道を塞いでいる魂糸の緊張を少し緩める。
ノアは息を吐いた。
レオの治癒は、最近ようやく力加減を覚え始めた。遅い。だが覚えないよりはいい。人類の進歩はだいたい遅い。王子様の進歩も例外ではないらしい。
レオは喉を癒しながら、低く言った。
「夢で、何を言われたの」
ノアは目を閉じた。
声の震えを拾われている。
治癒魔法越しに、喉の奥の詰まりがばれている。
逃げづらい。
非常に嫌だ。
ノアは小さく笑う。
「夢の俺に説教された」
「それは聞いた」
「細かいな」
「大事だから」
「重い」
「うん」
ノアは、しばらく黙った。
窓の外で、鳥の声がした。
朝は来ている。
だが、ノアの中ではまだ墓地の夜が続いている。湿った土。折れた剣。灰をかぶった草。浅い墓穴。幼いイリアスの泥だらけの手。
ノアは、ようやく言った。
「じゃあ、お前は俺を置いていくのか、って」
レオの指先が止まった。
白金の光が、ほんの一瞬だけ揺れる。
ノアは続けた。
「幼いイリアスが言った。俺がノア・クロウを選んだから、自分を置いていくのかって」
レオは言葉を失った。
青い瞳が、ほんの少し揺れる。
ノアは、喉を癒されながら低く笑った。
「前世をなかったことにはしないって言ったばっかりなのに、さっそく前世の俺から苦情受付。仕事早すぎる。魂のカスタマーセンターかよ」
「ノア」
「分かってる。笑うところじゃない」
ノアの声は、少しだけ低くなった。
「分かってるけど、笑わないとちょっと無理」
伴侶首輪が熱を持つ。
魂糸が、夢の中の土へ引かれるように軋んだ。レオがすぐに現世名を呼ぶ。
「ノア・クロウ」
その名で、少しだけ安定する。
ノアは息を整えた。
照合率は進まない。
二のまま。
けれど、記憶の方へ引かれる感覚は残っている。
ノアは手の甲を見下ろした。
「イリアスをなかったことにはしない。あいつがやったことも、俺の魂に残ってるものも、なかったことにはできない。そう言った。言ったけど」
声が詰まる。
「じゃあ、あいつをどうすればいいのか分からない」
レオは黙って聞いている。
ノアは、自嘲するように笑った。
「背負えって?」
その言葉は、自分で思った以上に痛かった。
背負う。
前世の罪を。
前世の痛みを。
幼い自分の墓穴を。
黒い災厄になった理由も、殺した人間も、救えなかったものも、全部。
そんなものを背負えるほど、自分は立派ではない。
ノア・クロウは、ただの平民の黒魔法科生徒だ。
軽口を叩いていないと息が詰まる、面倒くさがりの、やたら前世が重いだけの人間だ。
背負えと言われても、潰れる気しかしない。
レオが、静かに言った。
「背負うんじゃなくて、連れていく」
ノアは、返せなかった。
茶化す言葉が出てこない。
レオの声は、ひどく静かだった。
「置いていく必要はない」
ノアは、ゆっくり顔を上げた。
レオはノアだけを見ている。
「イリアスを消さなくていい。墓地に置いたままにしなくていい。罪も痛みも、君一人で背負うものにしなくていい」
「……簡単に言うなよ」
「簡単じゃない」
「だろうな」
「でも、背負うって言うと、君は一人で潰れようとする」
ノアの喉が詰まった。
レオは続ける。
「連れていくなら、歩ける。止まったら、休める。君がノア・クロウとして進む場所へ、イリアスの記憶も一緒に連れていく。置いていくんじゃなくて、上書きされるんでもなくて」
レオの赤い糸が、静かに震えた。
「君の中にいるまま、君が選んだ名で進む」
ノアは、しばらく何も言えなかった。
レオの言葉は重い。
相変わらず重い。
だが、今の重さは檻の重さではなかった。
何かを押しつける重さでもない。
地面に置かれた石のような重さだった。そこへ足を置けば、少しだけ踏みとどまれるような。
ノアは視線を逸らした。
「……お前、たまにまともなこと言うのやめろ。反応に困る」
「困っていい」
「いいんだ」
「うん」
「重い」
「うん」
ノアは息を吐いた。
茶化せない。
完全には。
それが少し悔しかった。
枕元の黒い土を、レオは封印箱へ移した。
直接触れず、白金の薄い結界で包み、黒い土を一粒ずつ小箱へ落とす。土は箱の底で、かすかに湿った音を立てた。
蓋が閉じると、部屋の空気がほんの少し軽くなる。
だが、完全には消えない。
夢と現実が、どこかで繋がった。
黒い土はその証拠だった。
ノアは髪を指で乱そうとして、レオに見つかった。
「整える」
「今?」
「乱れている」
「夢診療の次は朝美容」
「座って」
「命令形」
「お願い」
「言い直しが早い」
ノアは小さく笑い、背を向けた。
レオが櫛を通す。
いつものように丁寧だった。
ノアの黒髪を梳きながら、レオは何も聞かない。聞きたいことは山ほどあるはずだ。幼いイリアスのこと。幼いセラフィードのこと。墓地のこと。置いていくのかという問いのこと。
それでも、聞かない。
今日はそれが助かった。
ノアは、ぼそりと言った。
「レオ」
「何?」
「俺、まだ答えられてない」
「うん」
「置いていかないって言いかけたけど、その先が分からなかった」
「今は、それでいい」
「甘いな」
「甘くしたい」
「言い方」
「君が苦いものばかり飲まされているから」
ノアは、少しだけ目を閉じた。
「そういうの、急に出すな」
「嫌?」
「……嫌ではない」
レオの手が一瞬だけ止まる。
そして、また髪を梳き始めた。
たぶん今の一言で、レオの中に何かが記録された。嫌な確信がある。記念日だの許可だのと同じ箱にしまわれた気がする。人間の記憶管理としては非常に重い。いや、レオを人間基準にする方が悪いのかもしれない。
朝食の鐘が遠くで鳴った。
ノアは水を飲み、喉をもう一度癒され、手の甲の番号と白花印の熱を確認された。首輪の照合率は二のまま。進んではいない。
だが、止まっているだけだ。
敵は名の次に記憶を狙っている。
幼いイリアスの問いは、敵が作った嘘ではない。だからこそ危ない。嘘なら否定すればいい。幻なら壊せばいい。けれど、あれはノア自身の中に残っている。
敵は、その残響へ手を伸ばしている。
レオは封印箱を持ち、ノアと共にセドリックの研究室へ向かった。
廊下は朝の光で明るかった。
普通の生徒たちが行き交っている。笑い声もある。教本を抱えた一年生が走り、上級生がそれを叱る。昨日と同じ学院の朝。
ノアは、その中を歩きながら少しだけ思った。
自分は今、ノア・クロウとしてここを歩いている。
その足元の奥に、黒い土がある。
幼いイリアスがいる。
置いていくのではない。
たぶん。
でも、どう連れていくのかは、まだ分からない。
研究室に入ると、セドリックはすでに待っていた。
机の上には、魂帳局、防腐インク、白花派儀礼対象印に関する資料が広げられている。徹夜した顔だった。教師の生活、だいぶ終わっている。いや、自分たちのせいでもある。少しだけ申し訳ない。少しだけ。
レオが封印箱を置く。
「夢から現実へ持ち出された土です」
セドリックの表情が、一瞬で険しくなった。
彼は箱を開け、黒い土を見た。
黒魔法の細い線が土の表面をなぞる。
すぐに、研究室の空気が変わった。
「これは、ただの夢の残滓ではない」
ノアは椅子に座る。
「でしょうね。夢の土が枕元に落ちる時点で、ただの夢なら世も末ですし」
「世も末に近い」
「否定して」
セドリックは否定しなかった。
嫌な沈黙だった。
彼は黒い土を封印し直し、低く言った。
「記憶世界と現実が一部接続し始めている。オルドレイス代理が、記憶の門を開けている可能性がある」
レオの赤い糸が鋭く震える。
ノアは眉をひそめた。
「記憶の門」
「前世の記憶を、単なる夢ではなく、魂が通過可能な空間として開く術式だ」
「嫌な説明だな」
「まだある」
「聞きたくない」
「聞け」
セドリックは、黒い土を見下ろした。
「これは、“記憶の棺”が開きかけている兆候だ」
ノアはしばらく黙った。
それから、掠れた声で呟いた。
「また嫌な専門用語が出た」




