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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第五章 【記憶の棺と幼い亡霊】

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第87話 幼いイリアス



 土の匂いがした。


 湿っている。


 冷たく、黒く、指を沈めれば爪の間まで入り込んでくるような土だった。雨が降った後ではない。血と灰と、燃え残った草が混ざり、長い時間をかけて冷えた匂いだ。


 ノア・クロウは、その土の上に立っていた。


 夜だった。


 空は低く、煙で星が見えない。遠くの地平に、まだ消えきらない火の赤が揺れている。風が吹くたび、灰をかぶった草が細く鳴った。


 足元には、折れた剣が突き刺さっていた。


 刃は半ばから折れ、柄には乾いた泥がこびりついている。少し離れた場所には、浅く掘られた墓穴がいくつも並んでいた。きちんとした墓ではない。土を掘り、布に包んだものを横たえ、急いで埋めるための穴だ。


 墓標も粗末だった。


 割れた板。


 折れた槍。


 剣の柄。


 名前すら刻まれていないものもある。


 戦場跡。


 けれど、ただの戦場跡ではなかった。


 ノアは知っている。


 この場所を、知っている気がした。


 夢だ。


 そう思った瞬間、首元の伴侶首輪《メイト・カラー》が、じわりと熱を持った。


 現実の寝台で眠っているはずの身体が、遠くで息を詰める気配がする。喉の奥がわずかに狭くなり、指先が何かを掴むように震えた。


 それでも、白い役所ではなかった。


 番号札もない。


 受付窓口もない。


 灰色の印も、白い花の徽章も、今は見えない。


 あるのは、土と灰と、死者の気配だけだった。


 ノアは周囲を見渡した。


「夢の背景選び、陰気すぎない?」


 軽口は出た。


 けれど、声が土に吸われる。


 返事はなかった。


 代わりに、足元の土がかすかに崩れる音がした。


 ノアは視線を下げた。


 そこに、小さな子どもが立っていた。


 黒い髪。


 細い肩。


 土で汚れた頬。


 手は泥だらけだった。指先には黒い土が入り込み、爪は割れ、薄い傷がいくつも走っている。身体は痩せていて、着ている服は破れていた。


 幼いイリアス・ノクスヴェルト。


 ノアは、呼吸を忘れかけた。


 幼いイリアスは泣いていなかった。


 泣くには、たぶん疲れすぎていた。


 ただ、ひどく静かにノアを見上げている。責めるでも、怒るでも、縋るでもない。黒い目だけが、土の底のように暗く澄んでいた。


 その少し後ろに、もう一人の少年がいた。


 金髪。


 細い身体。


 こちらもまだ幼い。


 セラフィード・ルミナリア。


 救国の英雄と呼ばれる前。


 王子でも英雄でもなく、ただ、戦場で誰かを見つけた少年。


 セラフィードは何も言わない。


 ただ、幼いイリアスの後ろに立っている。


 ノアの喉が、かすかに詰まった。


 幼いイリアスが口を開く。


「じゃあ、お前は俺を置いていくのか?」


 その声は幼かった。


 けれど、幼さだけではなかった。


 墓穴の土の冷たさがある。助けを待つ声ではなく、助けなどもう来ないことを知ってしまった子どもの声だった。


 ノアは即座に笑おうとした。


 逃げるために。


 いつも通り、軽口で。


「夢の中の俺、初手から重すぎない?」


 幼いイリアスは笑わなかった。


 当然だ。


 この子どもは、笑い方をまだ思い出していないような顔をしている。


 ノアは舌打ちしたくなった。


 自分相手に軽口が通じないの、かなり面倒くさい。いや、自分だから通じないのかもしれない。厄介だ。前世の自分、会話の相性が悪い。


 幼いイリアスは、土まみれの手をゆっくり見下ろした。


「ノア・クロウを選ぶんだろ」


 ノアの喉が止まる。


「……聞いてたのかよ」


「お前の中だから」


「それは反則」


「俺を、なかったことにしないって言った」


「言った」


「でも、ノア・クロウを選んだ」


「それも言った」


 幼いイリアスは顔を上げる。


 泣いてはいない。


 怒ってもいない。


 その静けさが、かえって深く刺さった。


「じゃあ、俺はどこに行く?」


 風が吹いた。


 灰をかぶった草が揺れる。


 墓穴のそばに置かれた折れた剣が、かすかに鳴った。


 ノアは、すぐに答えようとした。


 置いていくわけじゃない。


 そう言うつもりだった。


 けれど、声が出なかった。


 喉が詰まる。


 現実の身体が、寝台の上で小さく震えた。


 寮部屋。


 夜。


 レオ・アステルレインは、ノアの異常を赤い糸で察知して目を開けた。


 眠っていたわけではない。


 浅く意識を沈めていただけだ。ノアと手を繋ぐ許可は得ていた。寝返りを邪魔しない範囲で、指先だけを軽く触れている。約束通り、魂糸には結んでいない。


 その赤い糸が、急に冷えた。


 ノアの魂糸が、夢の奥へ引き込まれている。


 白い役所の時とは違う。


 もっと深い。


 もっと古い。


 ノアの中に残っている記憶の底へ、誰かが扉を開けたような感覚だった。


 レオは身を起こした。


 ノアは眠っている。


 額に薄く汗が浮かび、唇がわずかに開いている。喉が苦しげに鳴った。首元の伴侶首輪が熱を持ち、黒い亀裂が一瞬だけ疼く。


 照合率は進んでいない。


 二のまま。


 だが、記憶が揺れている。


 レオの胸が冷えた。


 眠りすら安全ではない。


 その事実が、再び彼の中の危うい衝動を呼び起こす。


 眠る時間を管理したい。


 夢を封じたい。


 ノアの意識が沈む深さも、見る夢も、触れる記憶も、全部見張りたい。


 だが、それをすれば、また奪うことになる。


 ノアが自分で名を選んだばかりだ。


 その選択を支えると決めたばかりだ。


 レオは、強く息を吸った。


 夢を封じない。


 勝手に入り込まない。


 まず、呼ぶ。


「ノア」


 声は、寮部屋の暗がりに落ちた。


 ノアの指先が、土を掴むように震える。


 レオはもう一度呼んだ。


「ノア・クロウ」


 赤い糸が、夢の奥へ伸びる。


 けれど、声は遠い。


 夢の中のノアには、風の向こうから聞こえるようにしか届かなかった。


 戦場跡で、ノアは幼いイリアスと向かい合っていた。


 遠くから、レオの声が聞こえる。


 ノア。


 ノア・クロウ。


 薄い。


 ひどく遠い。


 いつものように強く届かない。


 この場所は、レオの赤い糸でも簡単には入れない。敵が開いた夢の扉ではある。だが、その中にいる幼いイリアスは、敵の作った人形ではなかった。


 ノア自身の記憶の残響。


 魂の奥に残った、置き去りにされた子ども。


 敵は、この残響を利用しようとしている。


 名が止められたなら、次は記憶を揺さぶる。


 前世を否定しないと言ったノアに、前世そのものを突きつけてくる。


 性格が悪い。


 嫌になるほど、効率的に性格が悪い。


 ノアは幼いイリアスを見下ろした。


「置いていくわけじゃ」


 言いかけて、止まる。


 続かない。


 置いていくわけじゃない。


 そう言いたい。


 けれど、ではどうするのか。


 連れていくのか。


 抱えて生きるのか。


 同じだと認めるのか。


 違うと分けるのか。


 ノア・クロウを選ぶことと、イリアス・ノクスヴェルトを消さないことは、どう両立するのか。


 言葉が出ない。


 幼いイリアスは、静かに待っている。


 急かさない。


 責めない。


 だからこそ、苦しい。


 ノアは唇を噛んだ。


「……俺、説明下手なんだよ。察しろ」


 幼いイリアスは瞬きもしない。


「察したら、置いていかれるのか?」


「重い」


「お前が俺だから」


「やめろ。逃げ道塞ぐな」


 幼いイリアスは、ゆっくり墓穴の方を見た。


 浅く掘られた穴。


 布に包まれた誰か。


 土まみれの手。


 ああ、とノアは思った。


 この手で掘ったのか。


 幼いイリアスは、この小さな手で土を掘った。


 誰かを埋めるために。


 誰かを弔うために。


 世界に置き去りにされながら、それでも自分の手で何かを終わらせようとした。


 ノアの胸が詰まる。


 現実の身体が、寝台の上で短く息を詰めた。


「っ……」


 レオがすぐに水差しへ手を伸ばしかける。


 まだ起こすべきか。


 呼び続けるべきか。


 夢を切るべきか。


 判断が一瞬でいくつも並ぶ。


 けれど、ノアの魂糸は完全には切れていない。赤い糸が細く繋がっている。首輪の照合率も進んでいない。


 レオは歯を食いしばり、呼び続けた。


「ノア」


 夢の中で、その声がかすかに届く。


 幼いイリアスも、その声を聞いたように顔を上げた。


「誰だ」


 ノアは、少しだけ笑った。


「過保護王子様」


「王子?」


「いや、今はまだ違う……いや、前世だと王子か。面倒くさいな、時系列」


 幼いセラフィードが、後ろでノアを見ている。


 まだ幼いのに、その目は不思議と静かだった。


 現世のレオとは違う。


 あの重すぎる執着も、赤い糸も、伴侶首輪もない。


 ただ、戦場跡で一人の子どもを見つけた少年の目。


 ノアは、幼いセラフィードを見て、胸が少し痛んだ。


 あれが始まりだった。


 たぶん。


 幼いイリアスがもう一度言う。


「お前はノア・クロウなんだろ」


「うん」


「俺はイリアス・ノクスヴェルトだ」


「そうだな」


「じゃあ、俺はお前じゃないのか?」


 ノアは、また黙った。


 答えがないわけではない。


 ただ、うまく言葉にできない。


 前世の自分は自分だ。


 けれど、今の自分のすべてではない。


 イリアスの痛みも罪も記憶も、魂に残っている。


 けれど、ノア・クロウとして生きてきた時間も、同じくらい本物だ。


 どちらかを消せば楽かもしれない。


 でも、それは嘘だ。


 ノアは低く言った。


「お前をなかったことにはしない」


 幼いイリアスが見上げる。


「でも?」


「でも、俺はお前に戻るわけじゃない」


 首輪が熱を持つ。


 黒い亀裂が疼く。


 手の甲の照合番号が、夢の中でも薄く光った。


 幼いイリアスは、じっとノアを見る。


「じゃあ、どうする」


 ノアは喉を鳴らした。


「……それを今から考える」


「遅い」


「分かってる」


「俺はずっとここにいた」


 その言葉が、土より重く落ちた。


 ノアは何も返せなかった。


 幼いイリアスは、土まみれの手を見せるように少し持ち上げた。


「お前が笑ってる間も、名前を選んでる間も、俺はここにいた」


 ノアの胸が締めつけられる。


 軽口が出ない。


 出したら壊れそうだった。


 遠くで、レオの声が聞こえる。


「ノア・クロウ」


 その声に、ノアは踏みとどまる。


 ここに引きずり込まれてはいけない。


 この子どもに背を向けてもいけない。


 どちらも駄目だ。


 面倒くさい。


 本当に面倒くさい。


 だが、たぶん、それが生きるということなのだろう。過去は捨てられない。未来も諦められない。人間、実に不便な構造をしている。魂など特に最悪だ。もう少し収納しやすく作ってほしい。


 ノアは幼いイリアスの前にしゃがんだ。


 土の匂いが近くなる。


 小さな手。


 泥。


 傷。


 その手に触れようとして、止まる。


 触れたら、記憶が流れ込む気がした。


 今はまだ危ない。


 ノアは手を下ろしたまま言った。


「置いていくわけじゃない」


 声は小さかった。


 ぎりぎり出た。


 けれど、その先が続かない。


 幼いイリアスは、静かに問う。


「じゃあ、連れていくのか?」


 ノアの唇が動く。


 答えようとする。


 だが、言葉が出なかった。


 その瞬間、背後の墓穴から、黒い霧が立ち上った。


 白い花の香りではない。


 灰の匂い。


 黒いインクの匂い。


 魂帳局の管理印が、土の上に一瞬だけ浮かぶ。


 敵の干渉。


 記憶の残響に、何かが触れている。


 幼いイリアスの影が、少しだけ濃くなる。


 ノアは立ち上がった。


「お前じゃないな」


 黒い霧が、低く震える。


 幼いイリアスは何も言わない。


 ただ、ノアを見る。


 その目は、先ほどと同じだ。


 敵の作った幻ではない。


 だが、この場所に開いた穴を、敵が利用している。


 ノアは奥歯を噛んだ。


「勝手に俺の記憶へ入るな。役所も宗教も墓地も、まとめて営業時間外だ」


 遠くから、レオの声が強くなる。


「ノア」


 赤い糸が夢の空へ伸びた。


 今度は少し近い。


 ノアは幼いイリアスから目を逸らさずに言った。


「続きは、まただ」


 幼いイリアスは静かに聞いた。


「逃げるのか?」


「一時撤退。言葉の響きが大事」


「同じだ」


「違う。たぶん」


 幼いイリアスは、初めて少しだけ眉を動かした。


 笑ってはいない。


 けれど、完全な拒絶でもなかった。


 ノアは赤い糸を掴む。


 その瞬間、土の匂いが強くなった。


 墓穴。


 折れた剣。


 幼いセラフィードの静かな目。


 幼いイリアスの泥だらけの手。


 全部が遠ざかる。


 最後に、幼いイリアスの声だけが残った。


「置いていくな」


 ノアは答えようとした。


 だが、声になる前に目が覚めた。


 寮部屋の天井が見える。


 夜明け前だった。


 窓の外はまだ薄暗い。魔力灯は落ちている。レオが寝台のそばにいて、ノアの指先を握りすぎないように支えていた。


 ノアの喉は掠れていた。


 胸が重い。


 首輪の熱は引いているが、黒い亀裂がかすかに疼く。指先は、まだ土を掴むように震えていた。


 レオがすぐに水杯を取る。


「飲める?」


「……飲む」


 水を飲むと、喉のざらつきが少しだけ引いた。


 レオはノアの顔を見ている。


 あまりにも真剣に。


 夢の中へ入れなかったことへの焦りが、青い瞳の奥に残っている。


「何を見たの」


 ノアは水杯を返した。


 軽く笑おうとする。


 声は掠れていた。


「夢の俺に説教された」


 レオは笑わない。


「何を言われたの」


 ノアは答えなかった。


 答えたら、まだ言葉になっていないものまで壊れそうだった。


 置いていくのか。


 その問いが、胸の奥に残っている。


 ノアは目を逸らし、窓の外を見た。


「……まだ、うまく言えない」


 レオは、それ以上聞かなかった。


 代わりに、そっと水杯を机へ置いた。


 その時だった。


 ノアの枕元で、何かがぽろりと落ちた。


 黒い粒。


 土だった。


 湿った、黒い土。


 寝具の白い布の上に、ほんの少しだけ落ちている。


 夢の中の戦場跡の土。


 ノアも、レオも、それを見たまま動かなかった。


 ただの夢ではない。


 レオの表情が、静かに変わる。


 焦りでも怒りでもない。


 もっと冷たい理解。


 眠りの奥にある記憶が、現実へ触れ始めている。


 ノアは掠れた声で呟いた。


「……夢土産とか、いらないんだけどな」


 レオは、黒い土から目を離さなかった。


 赤い糸が、静かに張り詰めた。



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