第87話 幼いイリアス
土の匂いがした。
湿っている。
冷たく、黒く、指を沈めれば爪の間まで入り込んでくるような土だった。雨が降った後ではない。血と灰と、燃え残った草が混ざり、長い時間をかけて冷えた匂いだ。
ノア・クロウは、その土の上に立っていた。
夜だった。
空は低く、煙で星が見えない。遠くの地平に、まだ消えきらない火の赤が揺れている。風が吹くたび、灰をかぶった草が細く鳴った。
足元には、折れた剣が突き刺さっていた。
刃は半ばから折れ、柄には乾いた泥がこびりついている。少し離れた場所には、浅く掘られた墓穴がいくつも並んでいた。きちんとした墓ではない。土を掘り、布に包んだものを横たえ、急いで埋めるための穴だ。
墓標も粗末だった。
割れた板。
折れた槍。
剣の柄。
名前すら刻まれていないものもある。
戦場跡。
けれど、ただの戦場跡ではなかった。
ノアは知っている。
この場所を、知っている気がした。
夢だ。
そう思った瞬間、首元の伴侶首輪が、じわりと熱を持った。
現実の寝台で眠っているはずの身体が、遠くで息を詰める気配がする。喉の奥がわずかに狭くなり、指先が何かを掴むように震えた。
それでも、白い役所ではなかった。
番号札もない。
受付窓口もない。
灰色の印も、白い花の徽章も、今は見えない。
あるのは、土と灰と、死者の気配だけだった。
ノアは周囲を見渡した。
「夢の背景選び、陰気すぎない?」
軽口は出た。
けれど、声が土に吸われる。
返事はなかった。
代わりに、足元の土がかすかに崩れる音がした。
ノアは視線を下げた。
そこに、小さな子どもが立っていた。
黒い髪。
細い肩。
土で汚れた頬。
手は泥だらけだった。指先には黒い土が入り込み、爪は割れ、薄い傷がいくつも走っている。身体は痩せていて、着ている服は破れていた。
幼いイリアス・ノクスヴェルト。
ノアは、呼吸を忘れかけた。
幼いイリアスは泣いていなかった。
泣くには、たぶん疲れすぎていた。
ただ、ひどく静かにノアを見上げている。責めるでも、怒るでも、縋るでもない。黒い目だけが、土の底のように暗く澄んでいた。
その少し後ろに、もう一人の少年がいた。
金髪。
細い身体。
こちらもまだ幼い。
セラフィード・ルミナリア。
救国の英雄と呼ばれる前。
王子でも英雄でもなく、ただ、戦場で誰かを見つけた少年。
セラフィードは何も言わない。
ただ、幼いイリアスの後ろに立っている。
ノアの喉が、かすかに詰まった。
幼いイリアスが口を開く。
「じゃあ、お前は俺を置いていくのか?」
その声は幼かった。
けれど、幼さだけではなかった。
墓穴の土の冷たさがある。助けを待つ声ではなく、助けなどもう来ないことを知ってしまった子どもの声だった。
ノアは即座に笑おうとした。
逃げるために。
いつも通り、軽口で。
「夢の中の俺、初手から重すぎない?」
幼いイリアスは笑わなかった。
当然だ。
この子どもは、笑い方をまだ思い出していないような顔をしている。
ノアは舌打ちしたくなった。
自分相手に軽口が通じないの、かなり面倒くさい。いや、自分だから通じないのかもしれない。厄介だ。前世の自分、会話の相性が悪い。
幼いイリアスは、土まみれの手をゆっくり見下ろした。
「ノア・クロウを選ぶんだろ」
ノアの喉が止まる。
「……聞いてたのかよ」
「お前の中だから」
「それは反則」
「俺を、なかったことにしないって言った」
「言った」
「でも、ノア・クロウを選んだ」
「それも言った」
幼いイリアスは顔を上げる。
泣いてはいない。
怒ってもいない。
その静けさが、かえって深く刺さった。
「じゃあ、俺はどこに行く?」
風が吹いた。
灰をかぶった草が揺れる。
墓穴のそばに置かれた折れた剣が、かすかに鳴った。
ノアは、すぐに答えようとした。
置いていくわけじゃない。
そう言うつもりだった。
けれど、声が出なかった。
喉が詰まる。
現実の身体が、寝台の上で小さく震えた。
寮部屋。
夜。
レオ・アステルレインは、ノアの異常を赤い糸で察知して目を開けた。
眠っていたわけではない。
浅く意識を沈めていただけだ。ノアと手を繋ぐ許可は得ていた。寝返りを邪魔しない範囲で、指先だけを軽く触れている。約束通り、魂糸には結んでいない。
その赤い糸が、急に冷えた。
ノアの魂糸が、夢の奥へ引き込まれている。
白い役所の時とは違う。
もっと深い。
もっと古い。
ノアの中に残っている記憶の底へ、誰かが扉を開けたような感覚だった。
レオは身を起こした。
ノアは眠っている。
額に薄く汗が浮かび、唇がわずかに開いている。喉が苦しげに鳴った。首元の伴侶首輪が熱を持ち、黒い亀裂が一瞬だけ疼く。
照合率は進んでいない。
二のまま。
だが、記憶が揺れている。
レオの胸が冷えた。
眠りすら安全ではない。
その事実が、再び彼の中の危うい衝動を呼び起こす。
眠る時間を管理したい。
夢を封じたい。
ノアの意識が沈む深さも、見る夢も、触れる記憶も、全部見張りたい。
だが、それをすれば、また奪うことになる。
ノアが自分で名を選んだばかりだ。
その選択を支えると決めたばかりだ。
レオは、強く息を吸った。
夢を封じない。
勝手に入り込まない。
まず、呼ぶ。
「ノア」
声は、寮部屋の暗がりに落ちた。
ノアの指先が、土を掴むように震える。
レオはもう一度呼んだ。
「ノア・クロウ」
赤い糸が、夢の奥へ伸びる。
けれど、声は遠い。
夢の中のノアには、風の向こうから聞こえるようにしか届かなかった。
戦場跡で、ノアは幼いイリアスと向かい合っていた。
遠くから、レオの声が聞こえる。
ノア。
ノア・クロウ。
薄い。
ひどく遠い。
いつものように強く届かない。
この場所は、レオの赤い糸でも簡単には入れない。敵が開いた夢の扉ではある。だが、その中にいる幼いイリアスは、敵の作った人形ではなかった。
ノア自身の記憶の残響。
魂の奥に残った、置き去りにされた子ども。
敵は、この残響を利用しようとしている。
名が止められたなら、次は記憶を揺さぶる。
前世を否定しないと言ったノアに、前世そのものを突きつけてくる。
性格が悪い。
嫌になるほど、効率的に性格が悪い。
ノアは幼いイリアスを見下ろした。
「置いていくわけじゃ」
言いかけて、止まる。
続かない。
置いていくわけじゃない。
そう言いたい。
けれど、ではどうするのか。
連れていくのか。
抱えて生きるのか。
同じだと認めるのか。
違うと分けるのか。
ノア・クロウを選ぶことと、イリアス・ノクスヴェルトを消さないことは、どう両立するのか。
言葉が出ない。
幼いイリアスは、静かに待っている。
急かさない。
責めない。
だからこそ、苦しい。
ノアは唇を噛んだ。
「……俺、説明下手なんだよ。察しろ」
幼いイリアスは瞬きもしない。
「察したら、置いていかれるのか?」
「重い」
「お前が俺だから」
「やめろ。逃げ道塞ぐな」
幼いイリアスは、ゆっくり墓穴の方を見た。
浅く掘られた穴。
布に包まれた誰か。
土まみれの手。
ああ、とノアは思った。
この手で掘ったのか。
幼いイリアスは、この小さな手で土を掘った。
誰かを埋めるために。
誰かを弔うために。
世界に置き去りにされながら、それでも自分の手で何かを終わらせようとした。
ノアの胸が詰まる。
現実の身体が、寝台の上で短く息を詰めた。
「っ……」
レオがすぐに水差しへ手を伸ばしかける。
まだ起こすべきか。
呼び続けるべきか。
夢を切るべきか。
判断が一瞬でいくつも並ぶ。
けれど、ノアの魂糸は完全には切れていない。赤い糸が細く繋がっている。首輪の照合率も進んでいない。
レオは歯を食いしばり、呼び続けた。
「ノア」
夢の中で、その声がかすかに届く。
幼いイリアスも、その声を聞いたように顔を上げた。
「誰だ」
ノアは、少しだけ笑った。
「過保護王子様」
「王子?」
「いや、今はまだ違う……いや、前世だと王子か。面倒くさいな、時系列」
幼いセラフィードが、後ろでノアを見ている。
まだ幼いのに、その目は不思議と静かだった。
現世のレオとは違う。
あの重すぎる執着も、赤い糸も、伴侶首輪もない。
ただ、戦場跡で一人の子どもを見つけた少年の目。
ノアは、幼いセラフィードを見て、胸が少し痛んだ。
あれが始まりだった。
たぶん。
幼いイリアスがもう一度言う。
「お前はノア・クロウなんだろ」
「うん」
「俺はイリアス・ノクスヴェルトだ」
「そうだな」
「じゃあ、俺はお前じゃないのか?」
ノアは、また黙った。
答えがないわけではない。
ただ、うまく言葉にできない。
前世の自分は自分だ。
けれど、今の自分のすべてではない。
イリアスの痛みも罪も記憶も、魂に残っている。
けれど、ノア・クロウとして生きてきた時間も、同じくらい本物だ。
どちらかを消せば楽かもしれない。
でも、それは嘘だ。
ノアは低く言った。
「お前をなかったことにはしない」
幼いイリアスが見上げる。
「でも?」
「でも、俺はお前に戻るわけじゃない」
首輪が熱を持つ。
黒い亀裂が疼く。
手の甲の照合番号が、夢の中でも薄く光った。
幼いイリアスは、じっとノアを見る。
「じゃあ、どうする」
ノアは喉を鳴らした。
「……それを今から考える」
「遅い」
「分かってる」
「俺はずっとここにいた」
その言葉が、土より重く落ちた。
ノアは何も返せなかった。
幼いイリアスは、土まみれの手を見せるように少し持ち上げた。
「お前が笑ってる間も、名前を選んでる間も、俺はここにいた」
ノアの胸が締めつけられる。
軽口が出ない。
出したら壊れそうだった。
遠くで、レオの声が聞こえる。
「ノア・クロウ」
その声に、ノアは踏みとどまる。
ここに引きずり込まれてはいけない。
この子どもに背を向けてもいけない。
どちらも駄目だ。
面倒くさい。
本当に面倒くさい。
だが、たぶん、それが生きるということなのだろう。過去は捨てられない。未来も諦められない。人間、実に不便な構造をしている。魂など特に最悪だ。もう少し収納しやすく作ってほしい。
ノアは幼いイリアスの前にしゃがんだ。
土の匂いが近くなる。
小さな手。
泥。
傷。
その手に触れようとして、止まる。
触れたら、記憶が流れ込む気がした。
今はまだ危ない。
ノアは手を下ろしたまま言った。
「置いていくわけじゃない」
声は小さかった。
ぎりぎり出た。
けれど、その先が続かない。
幼いイリアスは、静かに問う。
「じゃあ、連れていくのか?」
ノアの唇が動く。
答えようとする。
だが、言葉が出なかった。
その瞬間、背後の墓穴から、黒い霧が立ち上った。
白い花の香りではない。
灰の匂い。
黒いインクの匂い。
魂帳局の管理印が、土の上に一瞬だけ浮かぶ。
敵の干渉。
記憶の残響に、何かが触れている。
幼いイリアスの影が、少しだけ濃くなる。
ノアは立ち上がった。
「お前じゃないな」
黒い霧が、低く震える。
幼いイリアスは何も言わない。
ただ、ノアを見る。
その目は、先ほどと同じだ。
敵の作った幻ではない。
だが、この場所に開いた穴を、敵が利用している。
ノアは奥歯を噛んだ。
「勝手に俺の記憶へ入るな。役所も宗教も墓地も、まとめて営業時間外だ」
遠くから、レオの声が強くなる。
「ノア」
赤い糸が夢の空へ伸びた。
今度は少し近い。
ノアは幼いイリアスから目を逸らさずに言った。
「続きは、まただ」
幼いイリアスは静かに聞いた。
「逃げるのか?」
「一時撤退。言葉の響きが大事」
「同じだ」
「違う。たぶん」
幼いイリアスは、初めて少しだけ眉を動かした。
笑ってはいない。
けれど、完全な拒絶でもなかった。
ノアは赤い糸を掴む。
その瞬間、土の匂いが強くなった。
墓穴。
折れた剣。
幼いセラフィードの静かな目。
幼いイリアスの泥だらけの手。
全部が遠ざかる。
最後に、幼いイリアスの声だけが残った。
「置いていくな」
ノアは答えようとした。
だが、声になる前に目が覚めた。
寮部屋の天井が見える。
夜明け前だった。
窓の外はまだ薄暗い。魔力灯は落ちている。レオが寝台のそばにいて、ノアの指先を握りすぎないように支えていた。
ノアの喉は掠れていた。
胸が重い。
首輪の熱は引いているが、黒い亀裂がかすかに疼く。指先は、まだ土を掴むように震えていた。
レオがすぐに水杯を取る。
「飲める?」
「……飲む」
水を飲むと、喉のざらつきが少しだけ引いた。
レオはノアの顔を見ている。
あまりにも真剣に。
夢の中へ入れなかったことへの焦りが、青い瞳の奥に残っている。
「何を見たの」
ノアは水杯を返した。
軽く笑おうとする。
声は掠れていた。
「夢の俺に説教された」
レオは笑わない。
「何を言われたの」
ノアは答えなかった。
答えたら、まだ言葉になっていないものまで壊れそうだった。
置いていくのか。
その問いが、胸の奥に残っている。
ノアは目を逸らし、窓の外を見た。
「……まだ、うまく言えない」
レオは、それ以上聞かなかった。
代わりに、そっと水杯を机へ置いた。
その時だった。
ノアの枕元で、何かがぽろりと落ちた。
黒い粒。
土だった。
湿った、黒い土。
寝具の白い布の上に、ほんの少しだけ落ちている。
夢の中の戦場跡の土。
ノアも、レオも、それを見たまま動かなかった。
ただの夢ではない。
レオの表情が、静かに変わる。
焦りでも怒りでもない。
もっと冷たい理解。
眠りの奥にある記憶が、現実へ触れ始めている。
ノアは掠れた声で呟いた。
「……夢土産とか、いらないんだけどな」
レオは、黒い土から目を離さなかった。
赤い糸が、静かに張り詰めた。




