第86話 俺が選ぶ名
寮部屋には、昼を過ぎても朝の気配が残っていた。
閉め切った窓の向こうで、学院の中庭はいつも通りに騒がしい。遠くで生徒たちの声がする。石畳を踏む靴音、授業開始を告げる鐘、魔力灯の調整に走る下級生の足音。世界は、何も知らない顔で進んでいた。
部屋の中だけが、少し時間から取り残されている。
水差し。
治癒用の銀糸。
セドリックが残していった解析紙。
机の上に置かれた、ノア・クロウの名を書いた紙束。
その隣には、白花派の儀礼対象印と魂帳局の照合番号について記した封印紙がある。見たくないのに、そこにある。書類というものはいつもそうだ。人の気持ちに配慮しない。紙のくせに態度が大きい。
ノアは寝台の端に腰かけていた。
喉はまだ掠れている。
身体も重い。
手の甲には黒い照合番号と、白い花の印。
伴侶首輪の内側には、黒い二が沈んでいる。昨日の重度反応で進んだ照合率。二パーセント。たった二。けれど、魂に数字を刻まれる不快さは、数字の大きさとは関係なかった。
二で止まっている。
進んでいない。
それが救いなのか、ただの猶予なのか、まだ分からない。
レオ・アステルレインは、窓際に立っていた。
朝からずっと、ノアの様子を見ている。水を渡し、喉の治癒をし、手の甲の熱を冷まし、首輪の残熱を鎮め、髪を整え、また水を渡す。やりすぎだ。完全に看病の名をした監視である。
ただ、今日はいつもより黙っていた。
呼びたい。
名を呼びたい。
それが赤い糸から伝わってくる。
けれど、呼びすぎることも縛りになると学んだため、レオは堪えている。
堪えているのが分かるほど、空気が重い。静かな犬が餌を前に待てをしているみたいだ。いや、犬に失礼かもしれない。犬はもっと健全だ。
セドリックが机の前に座り、解析紙を一枚広げた。
「結論から言う」
ノアは顔を上げる。
「先生の結論から言う、だいたい胃に悪い」
「今回は必要だ」
「もっと胃に悪い」
セドリックは容赦なく続けた。
「照合率を止めるには、ノア自身が現世名を選び直す必要がある」
部屋が静かになった。
レオの赤い糸が、細く震える。
ノアは、手の甲の番号を見下ろした。
「昨日も言ってたやつか」
「ああ。現世名の根を強めるには、出生名、認識名、そして本人が選び直す名の三層が必要だ。出生記録は破られた。認識名は、周囲にノア・クロウとして呼ばせることで補強できる。だが、最後は本人の意思だ」
セドリックは、ノアをまっすぐ見た。
「他人がいくら呼んでも、本人がその名を仮のものだと思っていれば、魂の根は浅いままだ」
レオが一歩動いた。
「僕が結べば」
ノアは即座に遮った。
「俺が選ぶんだろ」
レオの口が止まる。
白金の魔力も、赤い糸も、一瞬だけ凍ったように静止した。
ノアはレオを見た。
「お前の赤い糸じゃ代わりにならない。お前が俺の名前を何回呼んでも、お前が俺をノアだって何回固定しようとしても、最後は俺なんだろ」
レオは答えない。
答えられない顔だった。
守りたい。
代わりたい。
自分が結べるなら結びたい。
ノアが選ばなくても、レオがノア・クロウという名を魂に縫い止めてしまいたい。
その衝動が、赤い糸から滲んでくる。
だが、それをすれば敵と同じになる。
白花派は、ノアをイリアスへ戻そうとしている。
魂帳局は、番号を発行し、手続きを進めようとしている。
オルドレイス代理は、名義と記録でノアを縛ろうとしている。
レオが、守るためにノアの名を勝手に決めてしまえば、向きは違っても、ノアの選択を奪うことに変わりはない。
レオは、それを分かっている。
だから黙った。
ノアは少しだけ笑う。
「珍しく止まった」
レオの声は低い。
「止まるしかない」
「偉い」
「偉くない。結びたい」
「正直でよろしい。最悪だけど」
「君を守りたい」
「知ってる」
「でも、この選択は奪えない」
「うん」
「奪ったら、僕は君を守るものじゃなくなる」
ノアは、その言葉にしばらく黙った。
レオが自分でそこまで言う。
それはたぶん、かなり大きい。
危うさは消えていない。閉じ込めたい衝動も、名を独占したい欲も、声を自分のもとに置きたい願望も、全部残っている。けれど、今だけは止まっている。
ノアが選ぶために。
ノアは膝の上の手を見下ろした。
黒い照合番号。
白い花の印。
消えない。
敵はもう、ノアの外側だけでなく、魂の表面まで手を伸ばしている。
自分が選ばなければ、向こうが選ぶ。
自分が名乗らなければ、向こうが呼ぶ。
自分がノア・クロウでいることを曖昧にすれば、イリアス・ノクスヴェルトの死亡記録がそれを上書きしようとする。
ノアは息を吐いた。
「イリアスをなかったことにはしない」
レオの息が止まった。
セドリックも、口を挟まなかった。
ノアは、ゆっくり続ける。
「あいつがやったことも、俺の魂に残ってるものも、なかったことにはできない」
言葉にすると、胸の奥が少し痛んだ。
イリアス・ノクスヴェルト。
黒い災厄。
父王を失った憎しみ。
黒魔導書。
滅びかけた世界。
殺した人々。
救えなかったもの。
最後にセラフィードへ託した声。
頼んだぞ。
ざまぁみろ。
それらは、たしかにノアの魂の奥にある。
どれだけ茶化しても、どれだけ今世の自分を名乗っても、消えない。
消していいものでもない。
なかったことにしたら、今度は別の嘘になる。
ノアは、レオを見る。
「イリアスは俺じゃない、って言いたいわけじゃない。完全に無関係な他人みたいに切り捨てたら、たぶんまた足元すくわれる」
レオは声を出さない。
青い瞳だけが揺れている。
ノアは軽く肩をすくめた。
「でもさ」
喉が少し詰まる。
伴侶首輪が熱を持つ。
けれど、その熱は昨日のような痛みではなかった。
黒い二が揺れる。
白い花の印がかすかに震える。
照合番号が冷たく光る。
それでも、ノアは言った。
「でも、今ここで生きてる俺の名前は、ノア・クロウだ」
その瞬間、部屋の空気が変わった。
赤い糸が静かに震える。
伴侶首輪の黒い数字が、一瞬だけ薄れた。
二は消えない。
消えはしない。
けれど、黒い滲みが少しだけ引く。白い花印の縁も淡くなる。手の甲の照合番号はまだ残っているが、その灰色の縁取りが一瞬、光を失った。
喉の詰まりが少し解ける。
胸の奥にあった冷たい痛みが、ほんのわずか和らぐ。
魂糸が、どこかへ引っ張られる感覚が弱まった。
ノアは、息を吐いた。
「……効いた?」
セドリックが解析紙を見た。
「照合率、二パーセントで停止。白花印も一時的に薄れている」
「消えてはないんだ」
「消えない。だが、進行は止まった」
ノアは、少しだけ笑った。
「自己紹介、まだ仕事するんだな」
「自己紹介ではない」
セドリックは短く言った。
「選択だ」
その言葉が、やけに重く落ちた。
選択。
与えられた名ではなく。
呼ばれた名でもなく。
レオが縛った名でもなく。
敵に奪われる名でもなく。
ノア自身が選ぶ名。
ノア・クロウ。
それは、イリアスを消すことではない。
過去の罪を帳消しにすることでもない。
ただ、今ここで生きている自分の名を、自分で掴むことだった。
レオが、静かに言った。
「ノア・クロウ」
ノアはすぐに目を細める。
「はいはい、呼びすぎ」
「君が選んだ名だから」
「重いけど、まあ、今回は許す」
レオの青い瞳が、わずかに揺れた。
その揺れは、安堵に似ていた。
同時に、もっと危ういものにも似ていた。
これまでレオは、ノアを前世から守るために、ノアという名を呼んでいた。敵に戻されないように。魂を引き戻すために。けれど今、その名はノア自身が選んだものになった。
レオの執着が、静かに向きを変える。
ノア・クロウ。
ノアが選んだ名。
だから、レオはそれを何度でも呼びたい。
守りたい。
記録したい。
誰にも汚させたくない。
健全化ではない。
方向修正だ。
相変わらず重い。少し怖い。けれど、今だけは檻ではなく、支えに近かった。
ノアはそれを察して、ため息をついた。
「お前、今度は俺が選んだ名前に執着し始めたな」
レオは否定しなかった。
「うん」
「否定しろ」
「嘘は言いたくない」
「出た。最悪に正直」
「でも、勝手には結ばない」
「ほんとか?」
「努力する」
「そこで努力に戻るな」
セドリックが深く息を吐いた。
「この状態を維持する必要がある。ノア自身が選び直したことは大きいが、根が完全に定着したわけではない。今後、敵は名が駄目なら別の層を狙う」
ノアは眉を上げた。
「別の層?」
「記憶だ」
部屋が、また静かになった。
「声、名、記憶、証言。お前は名への干渉を一度止めた。次は前世の記憶を現世に上書きしようとする可能性が高い」
レオの赤い糸が冷たく張る。
ノアは苦笑した。
「記憶の上書き。嫌な予告」
「前世を否定しないと言ったばかりだ。そこを突かれる」
「性格悪いな、敵」
「敵とはそういうものだ」
「先生の人生訓、相変わらず嫌」
セドリックは解析紙を畳んだ。
「今日は休め。これ以上は魂糸に負荷がかかる」
「休むって言われても、夢に役所が来るんですけど」
「アステルレイン」
「はい」
「今夜も見張れ。ただし縛るな」
レオは、少しだけ間を置いた。
「分かりました」
ノアはそれを見て、軽く指を鳴らした。
「お、今“努力する”じゃなかった」
「縛らない」
「言い切った」
「でも、手は繋ぎたい」
「減点」
「……触れてもいい?」
「寝る時だけ。あと寝返りの邪魔しない範囲」
「分かった」
「よろしい」
セドリックは二人を見て、疲れた顔をした。
「採点制度はいつまで続くんだ」
「レオがまともになるまで?」
「長期戦だな」
「先生まで」
レオは少しだけ不服そうにしていた。
その顔が、ほんのわずかだけ人間らしくて、ノアは笑った。
笑えた。
少しだけ。
その日の夕方。
レオは寮部屋で、ノアの髪を梳いた。
章の終わりのような静けさがあった。もちろん、現実に章なんて便利な区切りはない。人間が物語を整理するために勝手につけた目印だ。世界は目印など気にせず殴ってくる。実に迷惑。
けれど、その夜は少し静かだった。
レオは水を渡し、喉を癒し、手の甲の熱を冷まし、首輪の黒い二を無理に消そうとはしなかった。ただ、その周囲を支えるように聖魔法を流した。
ノアは水杯を受け取り、掠れた声で言った。
「名前選んだだけで祝杯?」
レオは真面目に答えた。
「記念日だよ」
「増やすな」
「大事だから」
「増やすなって言ったそばから重い」
「ノアが、自分でノア・クロウを選んだ日」
「記念日認定するな」
「覚えておく」
「お前は絶対忘れないだろうな」
「うん」
「返事が怖い」
レオは櫛を通す手を止めずに言った。
「君がイリアスを消さずに、ノアを選んだ」
ノアは黙った。
「僕は、それを覚えておきたい」
櫛が、黒髪をゆっくり通る。
丁寧すぎるほど丁寧に。
ノアはしばらく黙っていたが、やがて小さく言った。
「覚えとくのはいいけど、額に入れて飾るなよ」
「飾らない」
「本当か?」
「紙には書くかも」
「やめろ」
「……一枚だけ」
「やめろ」
レオは黙った。
たぶん書く。
絶対に書く。
ノアはそれを察して、疲れたように笑った。
「まあ、今日はいい。今日だけな」
「今日だけでいい」
「嘘だろ」
「嘘だね」
「認めた」
レオの手が、髪の先を整える。
ノアは目を閉じた。
喉はまだ痛い。
身体は重い。
照合率は二で止まっているだけ。
白花印も消えていない。
敵は次に記憶を狙う。
分かっている。
それでも、今夜だけは少し息ができた。
レオが最後に、静かに呼んだ。
「ノア・クロウ」
ノアは目を閉じたまま返した。
「はいはい。います」
その返事に、赤い糸がゆっくり震えた。
夜。
ノアは眠った。
今度は白い役所ではなかった。
夢の中に、土の匂いがした。
湿った土。
灰を含んだ風。
小さな墓標が、いくつも並んでいる。
そこは、墓地だった。
空は暗い。戦争の煙で、星が見えない。遠くで炎が揺れている。どこかで誰かが泣いている。世界がまだ壊れきる前の、けれどもう十分に壊れていた時代。
ノアは立っていた。
現世の姿のまま。
黒髪。制服。手の甲には照合番号と白花印。首元には伴侶首輪。
その前に、小さな子どもがいた。
黒い髪。
土で汚れた手。
痩せた肩。
まだ幼いイリアス・ノクスヴェルト。
そして、その少し後ろに、金髪の少年が立っている。セラフィード・ルミナリア。まだ救国の英雄と呼ばれる前の、ただの子ども。
幼いイリアスが、ノアを見上げた。
その目は、前世の自分のものだった。
黒くて、暗くて、まだ災厄ではない目。
幼い声が言った。
「じゃあ、お前は俺を置いていくのか?」
ノアは息を止めた。
土の匂いが、胸の奥まで入り込んだ。
夢の中で、赤い糸が静かに震えた。




