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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第四章 【仮の名と白い花】

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第85話 儀礼対象登録



 朝の光は、寮部屋の床に薄く伸びていた。


 昨夜の名残が、まだ部屋の中に残っている。替えられた寝具。水差し。濡れた布。治癒用の銀糸。机の端に置かれた封印紙。首輪の熱を鎮めるために使われた白金の魔法陣が、床に淡く残光を落としていた。


 夜は長かった。


 重度反応の余波は、簡単には引かなかった。照合率が二へ進んだことで、伴侶首輪《メイト・カラー》は何度も熱をぶり返し、手の甲の照合番号も冷たい痛みを放ち続けた。ノア・クロウの身体は魔力回路を引き攣らせ、喉は掠れ、魂糸は何度も前世名の方へ引かれかけた。


 そのたびに、レオ・アステルレインは名を呼んだ。


 ノア・クロウ。


 君はノアだ。


 戻されない。


 閉じ込めるためではなく、現世へ戻すために。


 それでも重かった。相変わらず重い。世界の重力を一人で増やしているのではないかというくらい重い。けれど、その重さが一晩、ノアの魂糸を支えていた。


 甘さもあった。


 乱暴なものではない。奪うものでもない。壊れた身体を包み、熱を逃がし、髪を梳き、声が戻るのを待つような、やたら重くて静かな甘さだった。ノアが半分眠りながら水を飲むたび、レオは名を呼び、首輪の熱を指先で鎮めた。


 朝になっても、レオは寝ていなかった。


 寝台の脇に座り、ノアの右手を布越しに支えている。直接握ってはいない。けれど、離してもいない。昨日から続く、ひどく慎重な距離だった。


 ノアは目を開けた。


 喉が痛い。


 身体は鉛のように重い。


 首元には、まだ黒い二の残熱がある。伴侶首輪の黒い亀裂は消えていない。白い花紋も、まるで皮肉のようにそこへ浮かんでいる。


 右手の甲には、照合番号。


 その横に、小さな白い花の印が増えていた。


 ノアは、しばらくそれを見つめた。


 それから、掠れた声で言った。


「……朝から登録解除できないのか」


 レオが顔を上げる。


 青い瞳に、夜を越えた疲労が滲んでいた。けれど、声は静かだった。


「解除しない」


 ノアは瞬きした。


「そこ、解除するって言う場面じゃない?」


「君を僕の伴侶から解除する意味なら、しない」


「朝から重い」


「白花派の印は消す」


「言い直しても重い」


 レオは否定しなかった。


 否定しないあたりが本当にレオである。人間、間違っている自覚があるなら少しは言葉を選べ。いや、選んでこれなのかもしれない。だとしたら余計に救いがない。


 ノアは右手を少し持ち上げた。


 手の甲の照合番号が、薄く光る。その横に咲いた白い花の印は、皮膚の上に描かれたものではなかった。もっと奥だ。魂糸の表面に押された印が、皮膚を透かして見えている。


 白い花。


 五枚の花弁。


 縁だけが黒く、中心に灰色の点がある。


 レオの視線がそこへ落ちた瞬間、白金の魔力が指先で燃えかけた。


 ノアはすぐに言った。


「だから力技禁止って言ってるだろ」


 レオの指が止まる。


 ほんの少しだけ遅れて、魔力が引いた。


「……分かっている」


「いま消そうとした」


「したいと思った」


「正直でよろしい。最悪だけど」


「消したい」


「気持ちは分かる。実行は却下」


「うん」


「“うん”で済ませるな。魂糸に負荷かけたら怒るぞ」


「怒っていい」


「いや、怒られる前提でやるな」


 ノアはため息をつき、喉を押さえた。


 掠れた声でも軽口は出る。


 それが戻っただけ、まだましだった。


 レオは水杯を差し出した。


「飲んで」


「朝役所の次は朝登録」


「飲んで」


「聞き流した」


「声が掠れている」


「そりゃ、あれだけ名前呼ばれたら喉も疲れる」


「君も叫んだ」


「言うな。俺の喉が思い出す」


 水はぬるかった。


 喉を通ると、痛みが少しだけ引く。レオはすぐに喉へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。


「触れていい?」


 ノアは目を細める。


「許可制、継続中?」


「うん」


「よろしい。喉だけ。手の甲はまだ触るな」


「分かった」


 白金の聖魔法が、喉の外側を薄く包んだ。


 昨日のように乱れない。急がない。流し込みすぎない。熱を抜き、声帯ではなく魂糸の発声経路へ触れる手前で止める。ずいぶん慎重になった。


 ノアは目を閉じ、かすかに笑った。


「昨日よりは学習してる」


「君を痛がらせたくない」


「それはいいことだけど、毎回言い方が重い」


「軽く言えない」


「知ってる」


 その時、扉が叩かれた。


 返事を待たずに開けたのは、セドリック・バロウズだった。


 手には解析紙と、小さな封印箱を持っている。寝ていない顔をしていた。教師というより、事件に巻き込まれた研究者の顔だった。いや、研究者というものはだいたい寝ていない。人類の知性、睡眠と仲が悪すぎる。


 セドリックは部屋へ入るなり、ノアの右手を見た。


「増えているな」


「朝起きたら開花してました」


「軽口の質が落ちている。相当疲れているな」


「先生まで声診断するのやめてください」


「声ではなく顔だ」


「顔もやめて」


 セドリックは椅子を引き寄せ、ノアの手の甲を直接触らずに見る位置へ座った。黒魔法の薄い膜を広げ、照合番号と白い花の印を読み取る。


 レオは隣で、息を詰めるように見ている。


 赤い糸が落ち着かない。


 ノアを包みたい。


 隠したい。


 この印を見せたくない。


 証言も噂も祈りも、ノアの周囲から全部切り離したい。


 その衝動が、伴侶首輪へ触れかける。


 ノアは横目で言った。


「レオ。包むな」


 レオの肩がわずかに動く。


「……まだ包んでいない」


「包もうとした」


「したいと思った」


「はい、いつもの」


「でも、抑えている」


「九点」


 レオは少しだけ目を伏せた。


 嬉しそうにするな。いや、していない。していないが、赤い糸が少しだけ緩んだ。採点システムに反応するな、王子様。面倒くさい。


 セドリックは解析紙へ文字を書き込みながら言った。


「白花派の儀礼対象印だ」


 部屋の空気が、静かに重くなった。


 ノアは右手の甲を見た。


「やっぱり?」


「間違いない。白花派が儀礼対象を指定するために使う印だ。古い記録と一致している。ただし、お前の印は単独ではない」


 セドリックは照合番号を指した。


「魂帳局の照合番号と重ねられている。つまり、お前は魂帳局形式で前世記録と照合されながら、同時に白花派の儀礼対象として登録されかけている」


 ノアは喉の奥で笑った。


「役所と宗教の合わせ技、最悪」


 声は掠れていた。


 笑いも疲れていた。


 レオの表情から、温度が消える。


「消す」


 ノアは即座に睨んだ。


「だから力技禁止」


「分かっている」


「今の“消す”は、全然分かってない声だった」


「消したい」


「消したいのは分かる。でも、外から消そうとしたら俺の魂糸に来る」


 レオは唇を引き結ぶ。


 黙った。


 セドリックが淡々と言う。


「その通りだ。今の状態で無理に白花印を焼けば、魂帳局の照合番号が防衛反応を起こす可能性がある。最悪の場合、照合率が進む」


 レオの白金の魔力が、さらに冷たくなった。


「つまり、触れない」


「今はな」


「でも、放置すれば?」


「周囲の祈り、噂、証言、名前の呼び間違いがすべて照合率へ加算される可能性がある」


 ノアは、ゆっくり瞬きした。


 セドリックは続ける。


「白花派の儀礼対象になるということは、世界がその者を災厄として認識するための器に登録されるということだ。本人の声だけではない。周囲が祈る。周囲が恐れる。周囲が噂する。周囲が証言する。誰かが、お前を前世名で呼ぶ。それらが、儀礼上の補助証言として扱われる」


 ノアは乾いた声で言った。


「俺の悪口レビューが全部ポイント加算される感じ?」


「雑に言えばそうだ」


「雑に言ってほしくなかった」


「お前が先に雑にした」


「正論で刺すな」


 レオが低く言う。


「全部止める」


 ノアとセドリックが同時にレオを見た。


 レオの青い瞳は、冗談を言っていなかった。


「ノアへ向く祈りも、噂も、証言も、名前の呼び間違いも、全部止める」


「レオ」


 ノアは掠れ声で呼んだ。


「それやると、俺の現世認識まで弱くなるって昨日やっただろ」


 レオは黙る。


「俺をノア・クロウとして呼ぶ声も必要。友人も教師も同級生も、俺を今の名前で認識してくれる人が必要。全部遮断したら、白花派は防げても、現世名の根が弱る」


「分かっている」


「分かってる顔じゃない」


「分かっているけど、嫌だ」


「正直」


「君へ向く言葉を全部管理したい」


「最悪」


「でも、管理しすぎると君が削れる」


「そこまで言えたなら十点に近い」


 レオがわずかに目を上げる。


「近い?」


「近いだけ。まだ九点」


「難しい」


「簡単だったら怖い」


 セドリックが、二人のやり取りを横目に見ながら言った。


「対策は二つだ」


 ノアは水杯を持ち直す。


「聞きましょう。先生の地獄対策講座」


「一つは、悪性の証言を遮断する。噂、前世名、災厄扱い、白花派の祈り。これらは防ぐ必要がある」


「うん」


「もう一つは、現世名の認識を強める。ノア・クロウとして呼び、見て、記録する。こちらは遮断してはいけない」


 レオの赤い糸が、複雑に震えた。


 防ぎたい。


 呼ばせたくない。


 でも、呼ばせなければノアが削れる。


 矛盾が、レオの中でひどく暴れているのが分かる。


 ノアは、あえて軽く言った。


「独占欲、また試験範囲広がったな」


「難問だよ」


「お前が自分で言うと怖い」


「でも、解く」


「真面目」


「君の問題だから」


「重い」


「うん」


 セドリックが解析紙をまとめる。


「白花印は現時点で完全登録ではない。照合番号の横に予備登録として重なっている段階だ。だが、照合率が上がるほど印も濃くなるだろう」


 ノアは手の甲を見る。


 黒い照合番号。


 白い花の印。


 その二つが共鳴している。


 首輪の二が熱を持つ。


 喉がかすかに痛む。


 ノアは疲れた声で言った。


「俺の手、だんだん掲示板になってきたな」


 レオが即座に返す。


「違う」


「違うって言われても、番号と花が出てるんだけど」


「君の手だ」


 ノアは少しだけ黙った。


 その言い方が、思ったより刺さった。


 自分の手。


 自分の声。


 自分の名。


 自分の記憶。


 敵は全部を記録や儀礼へ変えようとしてくる。


 レオは全部を自分の契約へ囲おうとする。


 ノアはそのどちらでもなく、自分のものとして取り戻さなければならない。


 面倒くさい。


 けれど、やるしかない。


 ノアは、水を飲み干した。


「で、先生。これ止めるには?」


 セドリックは少し沈黙した。


 その沈黙が、嫌だった。


 ノアは眉を上げる。


「嫌な間」


「照合率を根本的に止めるには、現世名の根を強める必要がある」


「また根菜」


「黙って聞け」


「はいはい」


 セドリックは、ノアの手の甲ではなく、ノア本人を見た。


「ノアが自分で現世名を選び直す儀式が必要だ」


 レオがすぐに言った。


「僕が結べば」


「違う」


 ノアの声が、それを遮った。


 掠れている。


 疲れている。


 それでも、はっきりしていた。


 レオがノアを見る。


 ノアは、右手の甲に浮かぶ番号と白い花を見下ろしたまま言った。


「俺が選ぶんだろ」


 部屋の空気が、静かに止まった。


 セドリックが頷く。


「そうだ」


 レオは何も言わなかった。


 言えなかったのかもしれない。


 ノアは、軽く息を吐いた。


「なら、俺がやる」


 声はまだ掠れている。


 身体は重い。


 首輪は熱い。


 手の甲には番号と花。


 それでも、ノアは笑った。


 今度は少しだけ、本当に笑えた。


「役所にも宗教にも王子様にも決めさせない。俺の名前くらい、俺が選ぶ」


 レオの赤い糸が、痛いほど震えた。


 それでも、彼はノアを遮らなかった。


 ただ、低く言った。


「呼んでいい?」


 ノアは目を細める。


「一回だけ」


 レオは静かに息を吸った。


「ノア・クロウ」


 ノアは答えた。


「はい。います」


 その返事に、白花印の縁がほんの少しだけ薄れた。


 だが、消えはしなかった。


 戦いは、まだ始まったばかりだった。




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