第84話 二パーセント
研究室の窓ガラスに、白い受付窓口が映っていた。
朝の光は、まだ完全には学院へ届いていない。セドリック・バロウズの研究室には、魔力灯の薄い明かりと、机の上に積まれた資料の影だけがあった。古い紙、封印蝋、インク、灰。事件の匂いが、部屋の隅々まで染み込んでいる。
その窓ガラスの向こうに、現実ではない白があった。
無機質な壁。
仕切り硝子。
灰色の印。
白い花の徽章。
顔の見えない受付係が、そこに座っている。
夢で見た魂帳局の窓口。
その受付係が、微笑んだ。
「照合率、二パーセント」
声は硝子越しのようにくぐもっていた。
だが、ノア・クロウの魂には直接届いた。
伴侶首輪が、音を立てたように熱を持つ。
一。
首輪の内側に浮かんでいた黒い数字が、どろりと滲んだ。
黒い染みが赤い輪の内側を這い、白い花紋の縁を侵す。亀裂が一本、首輪の奥で広がる。数字の形が崩れ、歪み、もう一度組み上がる。
二。
ノアの喉が詰まった。
空気が入らない。
いや、肺は動いている。呼吸はしようとしている。それなのに、魂糸の奥を何かが締め上げて、喉の内側を名前ごと捻り潰してくる。
手の甲の照合番号が焼けるように光った。
黒い番号が灰色の縁を引きずり、皮膚の上から胸の奥へ冷たい針を刺す。手の甲だけではない。腕を伝い、肩を抜け、心臓の裏側へ届く。
ノアは軽口を叩こうとした。
「……整理券、昇格……とか、いらな……」
最後まで言えなかった。
喉が、勝手に動こうとする。
ノア・クロウではない名を。
イリアス・ノクスヴェルトという、前世の名を。
言わせようとする。
その瞬間、ノアの瞳孔が開いた。
黒い瞳の奥で、赤が弾ける。赤い瞳の周囲に細い血管が浮き、白目の縁がぎらりと光った。焦点が定まらない。視界の端で、研究室の本棚が白い窓口へ変わり、机の紙束が巨大な帳簿へ見えた。
セドリックが叫んだ。
「アステルレイン!」
レオ・アステルレインはすでに動いていた。
白金の魔力が床を走る。
遮音ではない。
声を閉じない。
レオは、ノアの声を奪わせないために、赤い糸を現世名へ叩きつけるように伸ばした。
「ノア・クロウ」
その名が、研究室に落ちる。
だが、首輪の二は消えない。
むしろ黒く濃くなり、ノアの喉を灼くように締めた。
ノアの背筋が弓なりに跳ねた。
椅子が倒れる。
身体が机の端にぶつかり、指先が硬直したまま木目を掻く。爪が軋み、机の上の紙が散った。黒い魔力が口元から霧のように漏れ、泡混じりの息が唇に滲む。
舌がうまく収まらない。
言葉にならない。
ただ、喉の奥で獣のような音が膨れ上がった。
「ぐ、ぁ……っ、あ゛、あ゛ああああああッ!!」
整った悲鳴ではなかった。
理性が形を保てない声だった。喉を裂き、肺の底を引きずり、魂糸の奥から無理やり引きずり出された咆哮。
ノアの身体が床へ崩れる。
だが、崩れた後も止まらない。背筋が跳ね、膝が床を打ち、指先が床板を掻いた。手の甲の番号が焼けるように光り、首輪の二が黒い液体のように滲む。
「ぎぃいいいいいいいいいいいい!!がぁあああああああああ!!!」
レオがノアのそばへ膝をついた。
押さえつけるのではない。
暴れる身体が机や床へ打ちつけられないよう、白金の結界を薄く敷き、赤い糸で魂の位置を固定する。片腕でノアの肩を支え、もう片方の手を喉元へ近づけた。
触れる前に、聞く余裕はなかった。
だが、レオは直接流し込まない。
聖魔法を外側へ薄く広げ、首輪そのものではなく、首輪が食い込む魂糸の周辺を支える。
「ノア・クロウ」
レオの声は低く、甘いほど静かだった。
恐怖の底で、必死に整えた声。
「君はノアだ」
ノアは返せない。
返せる状態ではない。
喉が勝手に前世名を作ろうとするたび、ノアはそれを噛み潰す。舌がもつれ、泡混じりの息が唇を濡らし、黒い霧が吐息に混ざった。
「おごぉおぉぉおおおおお!?んおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!!?」
セドリックが机を払い、床に制御陣を展開した。
黒魔法の線が研究室の床へ走る。照合率の進行を測る術式、魂糸の歪みを記録する術式、夢干渉を遮断する術式。それらが重なり、床に黒い円を作った。
窓ガラスの受付係は、まだ微笑んでいる。
その微笑みだけが異様に静かだった。
「対象名、イリアス・ノクスヴェルト。照合率、二パーセント」
「黙れ」
レオの声が凍った。
白金の魔力が窓へ向かって走る。
だが、受付窓口は現実のガラスの中に映っているだけで、実体がない。聖魔法は硝子の表面を灼くように光り、しかし窓口の奥までは届かない。
レオの苛立ちが赤い糸を震わせる。
その震えが伴侶首輪へ伝わり、ノアの首元にさらに熱が走った。
「っ、あぎゃあああああ、ぎぇ、おごぉ、んぐううううううううううううううううッッッ!!!!?!?!?」
ノアの身体が床で跳ねた。
レオは即座に結界の厚みを変えた。硬く押さえ込めば、ノアの魂糸を圧迫する。緩すぎれば、身体を打ちつける。限界ぎりぎりで、暴れる身体の衝撃だけを逃がす。
それでもノアはのたうつ。
背筋が弓なりに反り、踵が床を打ち、指先が硬直して床板を掻く。呼吸が乱れ、吐き気で身体が折れた。
「おおおおおおおおおおお!!?んぐぅ、ぐぇえ、えええぐぅうううう!!」
口元から泡混じりの息が漏れ、黒い魔力が霧になって床へ落ちる。
ノアの喉が、勝手に前世名の最初の音を作ろうとした。
イ。
その音が喉奥に生まれかけた瞬間、ノアは獣のようにそれを潰した。
「ぉえ、おえええええええっ、ごぼおおおおおおおおおおおおおおおお!!?」
吐き気が込み上げる。
身体が横へ折れ、こらえきれない胃の反応が床へ落ちた。黒い霧と混じり、魔法的な限界反応として床の制御陣を汚す。セドリックが即座に隔離陣を重ねた。
レオは動じなかった。
動じないというより、動じる余裕がなかった。
ノアの髪が乱れ、頬が汗で濡れ、唇に泡が滲み、瞳孔は開いたまま戻らない。赤い目の縁は血走っている。
そのすべてを見て、レオは静かに言った。
「戻されない」
ノアの耳元へ、声を落とす。
「ノア・クロウ。君はノアだ」
その声に、赤い糸が応えた。
魂糸が、ほんのわずか現世名へ引き戻される。
けれど、照合番号も首輪も同時に反発する。
手の甲の黒い数字がさらに強く光り、首輪の二が焼き印のように滲んだ。
「げぇええええええ!!んぎいいいい!!あがぁあああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!」
ノアの声が研究室に響いた。
遮音はない。
レオは閉じなかった。
この声は、ノアが前世名を拒むための声だった。
奪わせないための声だった。
どれほど壊れていても、どれほど獣じみていても、今この声はノアのものだ。
レオはそれを閉じない。
支える。
重すぎる独占欲が、今だけは救済の形を取っていた。
「ぎゃああああああああああああッッッ!!!!!」
ノアの身体が大きく跳ねる。
白目を剥きかけた。瞳孔は開いたまま、焦点が合わない。舌が力を失いかけ、声が濁る。喉が勝手に前世名を発声しようとするたび、ノアは咆哮でそれを壊した。
「ぐぼおおおおおおおおッッッ!!!!ぐぎいいいいいいいいいいいいいッッッ!!!!!」
床に散った紙が、黒い魔力の霧に触れて灰色に染まる。
セドリックが短く舌打ちした。
「魂糸が前世名へ引かれている。アステルレイン、呼び続けろ。声を閉じるな」
「分かっています」
レオはノアの肩を支えたまま、繰り返す。
「ノア・クロウ」
赤い糸が、その名を魂へ刻むように震える。
「君はノアだ」
ノアの指が床を掻いた。
「あが、あがががががががががががががッッッ!!!!」
「戻されない」
「あぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎ!!!ぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!」
その叫びは、もう人の言葉ではなかった。
だが、前世名でもなかった。
ノアは言わされていない。
言わせないために、壊れた声で抗っている。
首輪の二が黒く脈打つ。
手の甲の照合番号が焼けるように光る。
胸の奥へ冷たい痛みが走り、ノアの身体が再び折れた。
「おご、ごぼおおおおおっ、あがあぁああッッッ!んがあああああああああああああああああああ!!!」
限界反応が重なる。
吐き気、痙攣、泡混じりの息、身体制御の喪失。衣服も床も汚れる。ノアの意志とは無関係に、身体が生理反応を起こす。官能でも羞恥の演出でもない。ただ、魔法的限界を超えた肉体が、制御を失っているだけだった。
レオの制服にも汚れが散った。
レオは一瞬たりとも離れなかった。
嫌悪ではなく、恐怖でもなく、もっと暗いものが青い瞳に宿る。
それでも、彼は汚れを見ない。
ノアを見る。
ノアの喉を見る。
声を見る。
魂糸を見る。
「ノア」
耳元で呼ぶ。
「ノア・クロウ」
甘く、静かに、執拗に。
「君はここにいる」
ノアの喉から、形にならない声が溢れた。
「〜〜〜〜〜〜〜〜ッッッッごわ゛れ゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛〜〜〜〜〜〜〜〜ッッッッ〜〜〜〜〜〜〜〜ッッッッ!!!!」
レオの腕が震えた。
壊れる。
その言葉に、彼の赤い糸が激しく揺れた。
けれど、締めない。
閉じない。
押し潰さない。
ただ、支える。
「壊れない」
レオの声は低かった。
「壊させない。戻させない。君はノアだ」
ノアの背筋が再び弓なりに跳ねる。
喉が裂けるように鳴った。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
研究室の窓ガラスが震えた。
受付窓口の映像に、ひびが入る。
硝子の向こうで、受付係の微笑みがわずかに歪んだ。
ノアの声が、前世名を拒んでいる。
現世名を呼ばれながら、魂糸が踏みとどまっている。
セドリックの制御陣が光を増した。
「照合進行、停止しかけている。あと少しだ」
ノアの身体が、最後に大きく折れた。
「おげえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!」
喉の奥から、黒い霧と泡混じりの息が漏れる。
吐き気に身体が震え、指先が痙攣し、視界の焦点が飛びかける。白目を剥きかけた目が、かすかにレオの方へ戻った。
レオは、ノアの額に自分の額を近づけるほどの距離で言った。
「ノア・クロウ」
赤い糸が、強く、しかし優しく震えた。
「君はノアだ」
ノアの唇が震えた。
声はほとんど残っていない。
泡混じりの息の間から、ひび割れた音だけが漏れる。
「……の、ぁ……」
それは、自分の名だった。
ノアが、ノア自身の名を掴んだ声だった。
首輪の二が、黒く滲んだまま止まる。
照合率は進まない。
二で止まる。
受付窓口の映像が、窓ガラスの中で薄れていく。
受付係の微笑みは最後まで消えなかった。
ただ、声だけが残った。
「次回手続きまで、お待ちください」
ノアは、かすれた息で低く吐いた。
「……待た、ねぇ……」
そのまま、意識が落ちた。
研究室には、散乱した紙と、黒い霧の残り香と、荒い呼吸だけが残った。
レオはノアを抱え上げた。
今度は強く締めない。
壊れた身体を支えるように、熱を逃がすように、ゆっくりと。
セドリックが短く言う。
「医務室ではなく寮へ戻せ。外へ出すな。こちらで研究室の痕跡を封じる」
「分かりました」
「アステルレイン」
レオが立ち止まる。
「閉じ込めるな。支えろ」
レオは、ノアを抱いたまま答えた。
「……努力します」
セドリックは眉を寄せた。
「そこは分かったと言え」
レオは少しだけ目を伏せた。
「分かりました」
夜。
ノアの重度反応の余波は続いた。
寮部屋に戻ってからも、首輪の熱は何度もぶり返した。手の甲の照合番号は消えず、二パーセントの数字と共鳴して、夜通し冷たい痛みを放った。
レオは離れなかった。
水。
喉の治癒。
手の甲の冷えを取る。
魔力回路の調整。
髪を梳く。
首輪の熱を鎮める。
汚れた布を替え、身体を冷やさないように包み、呼吸が乱れるたびに名前を呼ぶ。
ノア・クロウ。
君はノアだ。
戻されない。
何度も。
何度も。
重い。
だが、その重さが夜明けまで、ノアの魂糸を現世に留めていた。
翌朝。
薄い朝日が寮部屋の床へ差し込む頃、ノアはようやく目を開けた。
喉は酷く掠れている。
身体は重い。
首輪の奥には黒い二が残っている。
手の甲の番号も消えていない。
レオは、寝台のそばに座ったままだった。
眠っていない顔だった。
ノアは唇を動かした。
「……名前、呼びすぎ」
声はひどく掠れていた。
それでも、ノアの声だった。
レオの青い瞳が揺れる。
「何度でも覚え直して」
ノアは、かすかに目を細める。
「重い……」
「うん」
「反省しろ」
「努力する」
「……便利呪文」
レオは水を差し出した。
ノアは少しずつ飲む。
喉が痛い。
だが、声は戻っている。
完全ではなくても、戻っている。
セドリックが昼前に来た。
手には解析紙を持っている。
彼はノアの首輪と手の甲を確認し、険しい顔をした。
「照合番号は消えていない」
「でしょうね」
ノアは掠れ声で返す。
セドリックは、手の甲の番号の横を指した。
「それに、増えている」
ノアは右手を見た。
照合番号の横に、小さな白い花の印が浮かんでいた。
白花派の花紋。
ただし、黒い縁取りがある。
レオの表情が冷える。
セドリックが低く言った。
「次は、君を白花派の儀礼対象として登録し直す気だ」
ノアは、喉の痛みを押し殺して笑った。
「登録業務、しつこすぎ」
誰も笑わなかった。




