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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第四章 【仮の名と白い花】

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第83話 オルドレイス代理


 セドリック・バロウズの研究室に、朝の光はまだ届いていなかった。


 窓の外は薄青い。学院の塔の輪郭が霧の向こうでぼやけ、魔力灯の残り火が、机の上に散らばった紙束を淡く照らしている。


 研究室の机には、これまでの異常がすべて並んでいた。


 白花派の紋章写し。


 災厄再臨儀礼の写し。


 破り取られた出生簿の端から採取した灰と黒いインクの残滓。


 記録水晶の破片。


 部屋札と出席簿の反応記録。


 そして、ノア・クロウの右手の甲に浮かんだ黒い照合番号。


 まともな学園生活の証拠が一つもない。


 入学してからまだ日も浅いというのに、机の上はすでに事件現場の見本市である。人類、学校という制度にもう少し優しさを混ぜろ。


 ノアは椅子に座り、右手を机の上に置いていた。


 手の甲には、黒い数字が浮いている。


 魂帳局式の照合番号。


 夢の中の白い役所空間で渡された、最悪の整理券。


 黒い文字の縁には灰色の管理印が薄く残り、その下に小さな発行者欄が浮かび上がっていた。


 セドリックの黒魔法が、その文字を慎重になぞる。触れてはいない。ただ、光の薄膜で読み取っている。


 レオ・アステルレインは、ノアの隣に立っていた。


 さっきから一言も喋っていない。


 だが沈黙がうるさい。白金の魔力が指先で静かに燃え、赤い糸はノアの魂糸の周囲で警戒するように震えている。


 ノアは横目で見た。


「王子様、燃やすなよ」


「まだ燃やしていない」


「“まだ”をつけるな」


「努力している」


「便利呪文」


 セドリックが低く言った。


「動くな。発行者欄が出る」


 ノアは軽く肩をすくめた。


「はいはい」


 手の甲の黒い文字が、じわりと濃くなる。


 発行者欄。


 そこに、古い文字が浮かび上がった。


 オルドレイス代理。


 研究室の空気が止まった。


 ノアは、しばらくその文字を見ていた。


 読める。


 確かに、そう書かれている。


 オルドレイス。


 代理。


 ノアは喉の奥で乾いた笑いを漏らした。


「代理って何だよ。本人不在のくせに事務処理だけうまいな」


 軽口は出た。


 けれど、声の奥が少し詰まっていた。


 その名前を見た瞬間、伴侶首輪《メイト・カラー》の内側が冷たく熱を持った。黒い亀裂が一瞬だけ広がり、胸の奥に細い氷を差し込まれたような感覚が走る。


 知っている。


 知らない。


 いや、どこかで見た。


 どこかで聞いた。


 前世の戦場か、同盟儀式の前か、黒魔導書の頁の奥か。


 思い出せない。


 思い出せないのに、魂だけがその名を嫌がっている。


 レオが低く問う。


「知っている名?」


 ノアは手の甲を見たまま、少しだけ黙った。


「……知らない、って言いたいところだけど」


 喉が詰まる。


 声がわずかに掠れた。


「なんか、気持ち悪い。名前だけで胃の奥に引っかかる感じ」


 レオの赤い糸が、すぐにノアを支えるように震えた。


「無理に思い出さなくていい」


「お前がそれ言うの珍しいな」


「思い出すことで傷つくなら、今はいい」


「成長した?」


「閉じ込めたい気持ちはある」


「そこまで正直に言わなくていい」


 セドリックは、発行者欄を写し取りながら言った。


「オルドレイスは古代魔王戦争期に記録される名だ」


 ノアは顔を上げる。


「魔王戦争期」


「お前たちの前世よりさらに古い時代の名として残っている。正確な立場は記録ごとに違う。魔導学者、魂術師、戦争記録官、あるいは禁書編纂者。どの記録も一致しない」


 レオの目が冷える。


「実在した人物ですか」


「記録上は、実在したとされている。だが死亡記録も曖昧だ。ある記録では戦争末期に死亡。別の記録では行方不明。さらに別の記録では、名前そのものが後世に作られた符号だとされている」


 ノアは軽く眉を上げた。


「本人なのか概念なのか分からないタイプ?」


「そうだ」


「迷惑」


「同感だ」


 セドリックは紙へ走り書きする。


「だが、重要なのは今回の発行者欄だ。魂帳局の正式形式で番号が発行されている。その発行者に、現在の役職名でも個人名でもなく、“オルドレイス代理”とある」


 ノアは手の甲を見下ろした。


「代理ってことは、本人の名義を使って誰かが手続きしてる?」


「可能性はある。あるいは、オルドレイス本人ではなく、その名を権限として利用する存在がいる」


 レオの声が硬くなる。


「名義を使ってノアを照合した」


「そうだ」


「実体は?」


「不明だ」


「どこにいる」


「不明だ」


「殺せますか」


「お前は質問の段階を飛ばすな」


 セドリックの声が鋭くなる。


 レオは黙った。


 だが、白金の魔力は静かに燃えている。


 ノアは半眼で見た。


「ついに抽象的な記録名義まで殺したくなってる」


「君の手に番号をつけた」


「うん」


「君をイリアスとして呼んだ」


「うん」


「夢の中まで入ってきた」


「うん」


「殺したい」


「気持ちは分かるけど、対象がふわっとしすぎてる」


 レオは、手の甲の文字を見る。


 オルドレイス代理。


 その四文字を、まるで刃物でも見るような目で睨んでいる。


 ノアは、わざと軽く言った。


「代理人付き整理券、豪華だな」


 レオは即座に返した。


「剥がす」


「力技は禁止」


「分かっている」


「本当に?」


「努力する」


「信用しづらい返事」


「でも、剥がす方法は探す」


「それならよし」


 セドリックがノアの手の甲から魔法を引いた。


「今は番号そのものに触れるな。消そうとすれば魂糸へ負荷がかかる。読み取りだけで、すでに反応が出ている」


 ノアは首元に手を当てた。


 確かに、首輪がまだ冷たく熱い。


 喉の奥に細い違和感が残っている。


 重度反応ではない。


 だが、この名前はよくない。


 オルドレイス。


 音の並びだけで、黒魔導書の奥の頁がめくれるような気配がある。イリアスの記憶が完全に戻るわけではない。むしろ、思い出せないことが不快だった。


 前世の自分は、この名をどこかで見たのか。


 セラフィードは知っていたのか。


 それとも、黒魔導書に触れた後、魂のどこかでその名に絡め取られたのか。


 レオがノアの変化に気づく。


「ノア」


「呼びすぎ禁止」


「今のは必要」


「まあ、今のは許可」


「顔色が悪い」


「名前一つでこの反応、俺の魂、わりと面倒だな」


「面倒じゃない」


「そこ否定するんだ」


「君は面倒じゃない。君を傷つけるものが面倒だ」


「重い。九点から八点に戻すぞ」


「下がった」


「ちょっと嬉しそうにするな」


 レオは、ほんのわずかだけ目を伏せた。


 嬉しそう、ではない。


 ノアが軽口を返せていることに、安心しているのだろう。


 分かる。


 分かるが、反応が重い。


 セドリックが資料棚から古い冊子を取り出した。


 革表紙は黒ずみ、背には「魔王戦争期禁書索引」とある。


「オルドレイスに関する記録は断片的だ。だが、共通する特徴はある」


「特徴?」


「直接姿を現さない。記録、名義、代理人、信仰、儀礼に寄生するように現れる」


 ノアは目を細めた。


「寄生」


「本人が実在したかどうかとは別に、後世に残る術式はそういう性質を持つ。誰かの名で手続きし、誰かの記録へ入り込み、誰かの信仰を利用し、誰かの儀礼を改変する」


 レオの赤い糸が鋭く震える。


「白花派も利用されている」


「その可能性が高い。白花派の思想は最悪だが、技術的には足りない部分が多い。魂帳局の番号発行、学院名簿への侵入、記録水晶の改竄、夢の役所空間への接続。これらは白花派だけでは成立しない」


 ノアは腕を組む。


「つまり、白花派は災厄を呼び戻して殺したい宗教思想。魂帳局は名と記録の管理権限。オルドレイス代理は、その二つを繋いで俺を手続きにかけてる」


「おそらくな」


「敵が嫌な方向に賢い」


「そういう敵ほど面倒だ」


「先生の人生訓、今日も嫌」


 セドリックは無視した。


「ノア。オルドレイスという名に心当たりは本当にないか」


 ノアは黙った。


 手の甲が冷たい。


 首輪が熱い。


 胸の奥に、何かが引っかかる。


 黒い頁。


 同盟儀式の床。


 父王の血。


 偽装聖魔法。


 黒魔導書の背表紙。


 そこに、似た構文があった気がする。


 だが、名前としては思い出せない。


 ノアは、ようやく答えた。


「思い出せない。でも、知らない名前じゃない気がする」


 レオが静かに言った。


「僕も」


 ノアが顔を向ける。


「お前も?」


「はっきりとは思い出せない。でも、嫌な感じがする。前世のどこかで、その名の影に触れた気がする」


「影」


「名そのものではなく、術式か記録か」


 セドリックが二人を見比べる。


「前世の記憶に触れすぎると反応が出る。無理には探るな」


 ノアは苦笑した。


「珍しく先生が優しい」


「倒れられると面倒だ」


「理由」


「事実だ」


 レオが低く言う。


「僕が探る」


「お前も駄目だろ」


 ノアが即座に返した。


「前世関連だと、お前も地雷原歩いてるようなもんなんだから」


「でも」


「でもじゃない。二人とも地雷原なら、足元見ながら進む。片方が爆走する展開は却下」


 レオは黙った。


 セドリックが少しだけ頷く。


「正しい」


「先生に認められましたー」


「調子に乗るな」


「はいはい」


 研究室の空気は、まだ重い。


 だが、少しだけ形が見えた。


 敵は、ただの白花派ではない。


 ただの英雄教会でもない。


 ただの魂帳局でもない。


 白花派の思想。


 魂帳局の形式。


 学院の名簿基盤。


 記録水晶の改竄。


 夢の受付空間。


 それらを代理という名義で繋ぐ何か。


 オルドレイス代理。


 本人かどうかは分からない。


 実体があるのかも分からない。


 だが、その名は明確にノアへ向けられている。


 ノアを、イリアス・ノクスヴェルトとして照合するために。


 レオが突然、ノアの手の甲を見た。


「確認していい?」


「また?」


「番号が濃くなっていないか」


「見るだけなら」


「触らない」


「偉い」


 レオは本当に触れなかった。


 ノアの手の甲を、距離を保って見る。


 黒い照合番号は、まだそこにある。


 オルドレイス代理の文字は、薄くなっているが消えてはいない。


 ノアは息を吐いた。


「代理人付き整理券、豪華だな」


「剥がす」


「二回目」


「何度でも言う」


「名前呼びと同じノリで言うな」


 レオの顔は笑っていない。


 ノアも、もう笑いきれてはいなかった。


 研究室を出る頃には、朝の光が廊下へ届いていた。


 人の気配が少しずつ増え始めている。生徒たちの足音、遠くの鐘、授業前のざわめき。いつもの学院の朝だ。


 だが、ノアの手の甲には照合番号がある。


 首輪には一パーセントが残っている。


 そして、敵の名がひとつ増えた。


 オルドレイス代理。


 ノアは廊下の窓際で足を止めた。


 窓ガラスに、自分の顔が映っている。


 黒髪。


 黒い瞳。


 少し疲れた顔。


 ノア・クロウ。


 その背後に、ほんの一瞬だけ、白い役所の受付窓口が映った。


 無機質な硝子。


 灰色の印。


 白い花の徽章。


 顔の見えない受付係が、窓口の奥で微笑んだ。


 声は、硝子越しに聞こえた。


「照合率、二パーセント」


 伴侶首輪が、焼けるように熱を持った。


 ノアの喉が詰まる。


 黒い数字が、一から二へ揺らぐ。


 レオの顔から、完全に表情が消えた。


 ノアは窓ガラスを睨み、低く言った。


「勝手に進めるな」


 受付係の笑みだけが、硝子の奥で薄く残っていた。




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