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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第四章 【仮の名と白い花】

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第82話 照合番号


 夜明け前の寮部屋は、薄い青に沈んでいた。


 窓の外には、まだ朝日はない。学院の塔の輪郭だけが、夜と朝の境目に黒く浮かんでいる。魔力灯は落としてある。机の上の水杯、畳まれた布、昨夜レオが使った治癒用の銀糸だけが、月の残り光をかすかに受けていた。


 寝台の上で、ノア・クロウは右手を持ち上げていた。


 手の甲に、黒い数字が浮かんでいる。


 ただの数字ではない。


 番号札のような形をしていた。黒い文字の周囲には、灰色の細い縁取りがある。数字とも、記号とも、古代文字ともつかない。けれど、魂に触れてくる嫌な重みだけははっきり分かる。


 照合番号。


 夢の中の白い役所で発行されたもの。


 イリアス・ノクスヴェルト様、照合手続きへどうぞ。


 あの無機質な声が、まだ耳の奥に残っていた。


 ノアはしばらく手の甲を見つめた。


 それから、寝起きの掠れ声で言った。


「整理券もらって帰ってきた。最悪」


 声は乾いていた。


 喉の奥がざらつく。夢の中で叫んだわけではない。絶叫したわけでもない。それなのに、魂糸の発声経路を冷たい指で撫でられたような違和感が残っている。


 レオ・アステルレインは、寝台のすぐ横にいた。


 眠っていない。


 ノアが目覚めるまで、ずっと起きていたのだろう。青い瞳の下には疲労の影がある。けれど、その表情は穏やかで、だからこそ怖かった。怒りと恐怖を、薄い硝子の下に閉じ込めた顔だ。


 レオはノアの手を見ていた。


 視線が、黒い照合番号に釘づけになっている。


 白金の魔力が、指先に灯りかけた。


 ノアは、すぐに眉を上げる。


「レオ」


 レオの指が止まった。


 ほんの少し前なら、止まらなかったかもしれない。


 消す。


 燃やす。


 封じる。


 そう判断して、即座に聖魔法を流していただろう。


 けれど今回は、レオは止まった。


 喉が小さく動く。


 それから、低く聞いた。


「触れていい?」


 ノアは右手を少し揺らした。


「いいけど、力技は禁止」


「分かっている」


「本当に?」


「努力する」


「信用しづらい返事だな」


 レオは否定しなかった。


 正直すぎる。


 人間、正直であればいいというものではない。いや、嘘をつかれるよりはいい。だが不穏な本音をそのまま出されると、こちらの心臓が過労死する。まったく、王子様は扱いづらい生き物である。


 ノアはため息をつき、手を差し出した。


「表面だけ。魂糸に流し込むな。首輪にも繋げるな。番号を消そうとするな」


「分かった」


「今度は“努力する”じゃないんだ」


「君が細かく言ったから」


「指示書がないと危ないのか」


「君に関しては、危ない」


「認めるな」


 レオは、ノアの手を取った。


 丁寧だった。


 指先が、手の甲の照合番号に触れるか触れないかの距離で止まる。触れた瞬間、黒い文字がじわりと熱を持った。


 いや、熱ではない。


 冷たさだ。


 手の甲から、胸の奥へ細い冷気が走る。


「っ……」


 ノアの喉が詰まった。


 瞳孔が一瞬開く。


 息が浅くなる。


 黒い番号は、ただ皮膚の上に浮かんでいるのではない。魂糸へ繋がっている。手の甲から魂名の奥へ、細い針が刺さっているような感覚だった。


 レオが即座に手を止める。


「痛い?」


「冷たい。胸に来る」


「やめる?」


「まだ。見るだけなら」


 レオの指が震えた。


 やめたいのではない。


 消したいのだ。


 この番号を、ノアから引き剥がしたい。夢の役所ごと燃やしたい。魂帳局という得体の知れない機関ごと、白金の聖魔法で灰にしたい。


 赤い糸が、そう叫ぶように震えている。


 ノアは半眼でレオを見た。


「いま魂帳局を建物ごと焼く想像した?」


「した」


「即答」


「君の手に番号をつけた」


「まあ、気持ちは分かる」


「分かる?」


「嫌なのは分かる。実行は不可」


「分かっている」


「努力じゃなくて?」


「不可」


 ノアは少しだけ笑った。


「九点」


 レオは、ノアの手を支えたまま照合番号を観察した。


 白金の魔力を流さず、ただ見る。視る。聖魔法の解析だけを、外側に薄く広げる。


 照合番号の表面に、灰色の管理印が浮かび上がった。


 丸い印。


 その内側に、古い羽ペンと閉じた帳簿の意匠。


 魂帳局。


 ノアは顔をしかめる。


「役所印まである。嫌な本格派」


 レオの声が低くなる。


「正式形式だ」


「分かるの?」


「古い聖王国の記録で見たことがある。死者記録や転生者照合に使われる番号形式に似ている」


「さすが王子様、履修範囲が嫌」


「照合番号は、魂名と前世記録を繋ぐ受付番号だと思う」


「受付番号って言い方、腹立つな」


「これを持っている限り、夢や記録を通じて照合が進む可能性がある」


「もっと腹立つ説明ありがとう」


 ノアは手の甲を見下ろした。


 黒い照合番号。


 夢の中だけのものではない。


 現実へ持ち越された。


 つまり、魂帳局の白い空間はただの夢ではない。魂記録へ干渉する窓口。正式手続き。少なくとも、向こうはそう扱っている。


 ノアの胸の奥が重くなる。


 出生記録。


 魔導名簿。


 出席簿。


 部屋札。


 今度は照合番号。


 自分の名前が、どんどん書類と記録と手続きに囲まれていく。


 本人の意思を置き去りにして。


 ノアは乾いた声で呟いた。


「俺、そろそろ事務処理に殺されるんじゃない?」


「殺させない」


「書類相手にも殺意向けるの?」


「向ける」


「だろうな」


 レオは、照合番号を包むように赤い糸を近づけた。


 ノアはすぐに目を細める。


「包もうとした?」


「したいと思った」


「また正直」


「でも、まだしていない」


「偉いけど、“まだ”が怖い」


 レオは苦しげに目を伏せた。


「手の甲まで管理対象に入れたくなる」


「それ言うと思った」


「眠りも、夢も、手も、喉も、名も、声も、全部」


「どんどん増えるな」


「でも、全部を僕の中に入れたら君が削れる」


 ノアは黙った。


 レオが、自分でそこまで言うのは珍しい。


 昨日、ノアが笑えなくなってきたと言ったからかもしれない。出生記録が破られたことが、レオにも相当刺さっている。ノアを支える方向へ動こうとしている。


 危うい。


 けれど、動いてはいる。


 ノアは軽く息を吐いた。


「なら、管理じゃなくて監視……も嫌だな。補助?」


「補助」


「言い慣れてない顔」


「難しい」


「だろうな」


 レオは、もう一度ノアの手の甲を見た。


「番号そのものは消せない。少なくとも、僕が外から触ると魂糸に負荷がかかる」


「触れた時点で胸に来たしな」


「セドリック先生に見せる」


「また先生の仕事が増える」


「必要だよ」


「はいはい」


 レオはそこでようやく、手の甲から視線を外した。


 水杯を取る。


「飲んで」


「朝チュンじゃなくて朝役所」


「笑えない」


「俺も笑いきれてない」


「だから飲んで」


「はいはい」


 水は、ぬるすぎず冷たすぎない。


 喉を通ると、夢の中で詰まっていた声の通り道が少しだけ戻った。レオは許可を取ってから、喉元へ薄く聖魔法を流す。首輪の熱を鎮める。手の甲の冷えは、直接消そうとせず、周囲の血流と魔力循環を整えるように温める。


 慎重だった。


 腹立つほど慎重だった。


 ノアは目を細める。


「昨日よりは学習してる」


「君を痛がらせたくない」


「それはいいことだけど、言い方が重い」


「軽く言えない」


「だろうな」


 夜が少しずつ薄れていく。


 窓の外が青から白へ変わり始めた。


 ノアは水杯を置き、右手の甲をもう一度見た。


 黒い照合番号は消えない。


 伴侶首輪の一パーセントと、手の甲の番号が、かすかに共鳴している。手の甲が冷えると首輪が熱を持つ。首輪が疼くと、番号の縁が灰色に光る。


 繋がっている。


 腹立たしいくらい、きっちり繋がっている。


「レオ」


「何?」


「寝る時、手を繋ぐ件だけど」


「うん」


「寝返り打てる範囲にしろ」


「分かった」


「魂糸に結ぶな」


「努力する」


「信用しづらい」


「結ばないように努力する」


「そこは断言しろ」


 レオは少しだけ黙った。


「……結ばない」


「よろしい」


「でも、離れたら起きる」


「犬?」


「伴侶」


「便利な言葉」


 ノアはため息をついた。


 その時、手の甲の番号が一瞬だけ光った。


 黒い文字が、わずかに形を変える。


 ノアは息を止めた。


 レオもすぐに気づく。


 番号の下に、小さな灰色の線が浮かぶ。


 まるで、発行者欄のように。


 しかし、文字はまだ読めない。


 すぐに消えた。


「今の」


「発行者欄かもしれない」


 レオの声が低い。


「夢の中では見えなかった」


「セドリック先生なら読めるかも」


「行こう」


「早い」


「待てない」


「まあ、俺もこれは待ちたくない」


 朝になりきらない時間に、二人はセドリックの研究室へ向かった。


 廊下にはまだ人が少ない。魔力灯の残り光が床に細く伸び、窓の外では朝霧が中庭を覆っている。ノアの右手は、レオの指に軽く支えられていた。


 手を繋いでいる。


 正確には、レオが触れすぎないように、でも離さないように、指先だけを支えている。


 面倒な配慮だ。


 だが、嫌ではなかった。


 今は。


 セドリックの研究室の扉を叩くと、返事はすぐにあった。


「入れ」


 もう起きていた。


 いや、たぶん寝ていない。


 机には昨夜よりさらに紙が増えていた。魂帳局の古い管理印についての資料、白花派の紋章写し、出生簿の破片の匂いを封じた小瓶が並んでいる。


 セドリックはノアの顔を見るなり、眉を寄せた。


「また何か増えた顔だな」


「顔で判断しないでください」


「顔に出ている」


「レオみたいなこと言う」


「不名誉だな」


 レオが静かに抗議する。


「不名誉では」


「黙れ、過保護」


「……はい」


 ノアは少し笑い、右手を差し出した。


「夢の役所で整理券もらいました」


 セドリックの表情が、一瞬で変わった。


 軽口に返す余裕すら消えた顔だった。


 彼はノアの手の甲に浮かぶ照合番号を見て、低く呟いた。


「魂帳局の正式形式だ」


 ノアの胸が、また少し冷える。


「やっぱり?」


「外形だけならな。だが、現代でこれを発行できる機関は限られている。少なくとも、白花派単独では不可能だ」


 レオが問う。


「内部協力者がいる」


「その可能性が高い。夢への干渉、番号発行、現実への持ち越し。魂帳局の管理権限なしでは成立しない」


 ノアは手の甲を見下ろした。


「役所が敵に回ると面倒だな」


「役所そのものか、一部の職員かは分からん」


「職員って言うと急に嫌な現実味」


 セドリックは黒魔法の薄い膜を展開した。


「番号を読む。直接触れない。反応があればすぐ言え」


「了解」


 レオが隣で息を詰める。


 ノアは横目で見る。


「お前も呼吸しろ」


「している」


「浅い」


「君の手に番号がある」


「俺の手です」


「知っている」


「知ってる顔じゃない」


 セドリックの黒魔法が、手の甲の番号の周囲をなぞる。


 触れない。


 光だけが読む。


 番号の黒い文字が、ゆっくりと浮かび上がる。灰色の縁取りが濃くなり、その下に小さな文字列が現れた。


 発行区分。


 魂名照合。


 対象名。


 イリアス・ノクスヴェルト。


 ノアの喉が詰まる。


 レオの赤い糸がすぐに支える。


 セドリックが低く言った。


「まだ読む。耐えられるか」


「読め」


 ノアの声は低かった。


 セドリックは続ける。


 発行者欄が浮かび上がる。


 古い文字。


 かすれている。


 だが、読めた。


 オルドレイス代理。


 研究室の空気が止まった。


 レオの表情が、完全に消える。


 セドリックの眉間に深い皺が刻まれる。


 ノアは手の甲の文字を見つめたまま、乾いた声で笑った。


「代理人まで立ててる。仕事が丁寧だな、最悪」


 レオの白金の魔力が、静かに燃え上がった。




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