第81話 照合手続きへどうぞ
白い部屋だった。
壁も、床も、天井も、白い。
ただし、学院の白い石壁とは違う。英雄教会の礼拝室にあった、祈りで磨かれた白さとも違う。もっと無機質で、もっと冷たい。汚れがないのではなく、汚れも温度も記憶も削り取られたような白だった。
窓はない。
扉も見えない。
代わりに、正面へずらりと受付窓口が並んでいた。
番号札。
仕切り硝子。
古い羽ペン。
灰色のインク壺。
分厚い帳簿。
棚の奥には、何冊もの台帳が整然と並んでいる。背表紙には見たことのない管理番号が振られ、ところどころに黒い札が挟まれていた。
役所に似ている。
けれど、生きている人間のための場所ではない。
紙の匂いがする。
灰の匂いがする。
古いインクの匂いがする。
そして、誰もいないのに、誰かがこちらを見ている気配があった。
ノア・クロウは、白い床の上に立っていた。
制服姿のままだ。
寮部屋で眠ったはずだった。レオに髪を梳かれ、伴侶首輪の熱を鎮められ、浅い眠りに落ちたはずだった。
それなのに、ここにいる。
夢だ。
そう理解するまで、一呼吸も要らなかった。
理解したところで、嫌さは減らない。
むしろ増える。
夢にまで出勤してくる役所。最悪の労働環境である。魂相手の窓口業務とか、誰が喜ぶんだ。いや、喜ぶやつがいるから今ここにあるのだろう。世界、性格が悪い。
受付窓口の奥で、紙をめくる音がした。
人影は見えない。
顔もない。
ただ、声だけが聞こえる。
「イリアス・ノクスヴェルト様」
首元に、冷たい熱が走った。
夢の中なのに、伴侶首輪が反応している。
ノアは笑わなかった。
唇の端すら上げなかった。
低く言う。
「呼ぶな」
受付の奥で、羽ペンが紙を擦る音がした。
さらさら。
さらさら。
乾いた音。
それだけで、出生簿の破れた端を思い出す。
黒いインク。
灰。
魂帳局の防腐インク。
ノアは喉の奥が詰まるのを感じた。
受付の声は、淡々としていた。
「照合手続きへどうぞ」
「行かない」
「手続きは開始されています」
「許可してない」
「許可は不要です」
ノアは、ようやく薄く笑った。
けれど、そこに軽さはなかった。
「役所っぽい顔して、ずいぶん横暴だな」
受付の硝子の奥に、淡い光が浮かんだ。
顔ではない。
徽章だった。
白い花。
その奥に、灰色の印。
白花派の花紋と、魂帳局の灰色の管理印が、重なるように浮かんでいる。
英雄教会だけではない。
白花派だけでもない。
魂帳局。
転生者、魂名、前世記録、死者記録を扱う外部機関。
その一部が、この夢の白い役所空間を通してノアへ干渉している。
ノアは、ゆっくり息を吸った。
「俺はノア・クロウだ」
受付の声は、即座に返ってきた。
「仮名は確認済みです」
伴侶首輪が焼けるように熱を持った。
夢の中の首元に、赤い輪が浮かぶ。
薄いはずの首輪が、今はやけにはっきり見えた。黒い亀裂。白い花紋。内側に残る黒い数字。
一。
その数字が、じわりと揺れる。
ノアの喉が詰まった。
「っ……」
息が浅くなる。
夢の中の身体だけではない。
現実の身体も反応している。
遠くで、寝台の感触がかすかに戻った。背中に敷布の重み。喉の奥の苦しさ。指先の硬直。額に滲む冷や汗。
白い部屋と寮部屋が、薄く重なる。
受付の声が続いた。
「出生記録、欠損」
白い空間の奥で、巨大な帳簿が開く。
頁が一枚、破れている。
「現世名、仮登録」
次の帳簿が開く。
魔導名簿。
ノア・クロウの欄に、黒い花の印。
「前世名、照合中」
さらに奥で、古い死亡記録が開いた。
イリアス・ノクスヴェルト。
死亡。
照合中。
首輪の数字が、また揺れる。
ノアの膝が、わずかに震えた。
夢の中で、白い床に影が落ちる。
自分の影ではない。
黒い荒野の影だ。
世界の歓声。
最終決戦の灰。
セラフィードの腕。
イリアスの最後の笑み。
記憶が、白い役所の床下からじわじわ滲んでくる。
ノアは奥歯を噛んだ。
「違う」
受付の声は冷たい。
「照合対象、イリアス・ノクスヴェルト」
「違うって言ってんだろ」
「現世名、仮名」
「ノア・クロウだ」
「仮名は確認済みです」
その言葉が、喉を締めた。
夢の中の首輪が強く光る。
現実のノアの身体が、寝台の上で硬直した。
指先が敷布を掴む。
息が詰まる。
声にならない呻きが、唇から漏れた。
「……っ、ぅ……」
寮部屋で、レオ・アステルレインが目を開けた。
赤い糸が異常を告げている。
ノアの魂糸が、夢の奥へ引かれている。
レオは一瞬で身を起こした。
部屋は暗い。
魔力灯は落としている。
月明かりの中で、ノアは寝台の上に横たわっていた。眠っている。けれど、呼吸が浅い。額に汗が滲み、首元の伴侶首輪が赤く熱を持っている。
レオの顔から温度が消えた。
「ノア」
返事はない。
ノアの唇が、かすかに動く。
声は出ていない。
レオは手を伸ばしかけて、止めた。
触れる前に、ほんの一瞬だけ止まった。
昨日の痛みを思い出したのだ。
焦りで聖魔法を流し、ノアの魂糸へ負荷をかけたこと。
レオは息を吸う。
「ノア、触れていい?」
眠っているノアは答えない。
答えないまま、喉が苦しげに鳴った。
レオの指が震えた。
許可が取れない。
けれど、放っておけない。
赤い糸が夢の奥へ引かれている。
レオは、触れるのではなく、赤い糸へ意識を沈めた。
ノアの声を奪わない。
喉を閉じない。
魂糸を縛らない。
ただ、呼ぶ。
「ノア」
夢の中で、その声が届いた。
白い役所の床に、一本の赤い糸が落ちる。
それは天井からではない。
空間の外側から伸びていた。
レオの声が、白い受付の無機質な空気を裂いて届く。
「ノア」
ノアは息を吸った。
胸の奥で、何かが引き戻される。
白い部屋の奥へ伸びかけていた影が止まる。
受付の声が、わずかに硬くなった。
「外部干渉を検知」
ノアは低く笑った。
今度は少しだけ、いつもの調子に近かった。
「残念。過保護回線が繋がってるんで」
受付の奥で、羽ペンが激しく動く音がした。
「伴侶契約、未承認接続」
「そっちはそっちで面倒なんだよな」
「赤糸接続、制限対象」
「やれるもんならやってみろ」
ノアは、赤い糸へ手を伸ばす。
夢の中の手は少し震えていた。
白い床が冷たい。
首輪が熱い。
喉が詰まる。
身体の奥が前世名へ引かれる。
それでも、レオの声だけは届いている。
ノア。
ノア・クロウ。
その名を呼ぶ声。
重くて、怖くて、たまに過保護で、すぐに閉じ込めようとして、でも今は自分を呼び戻そうとしている声。
ノアは赤い糸を掴んだ。
受付の声が言う。
「イリアス・ノクスヴェルト様、窓口へ」
ノアは正面を睨んだ。
「呼ぶなって言っただろ」
「照合手続きへどうぞ」
「行かない」
「手続きは進行します」
「勝手に進めるな。俺はノア・クロウだ」
「仮名は確認済みです」
その瞬間、白い部屋のあちこちで帳簿が開いた。
出生簿。
魔導名簿。
死亡記録。
証言録。
音声封印。
記録水晶。
部屋札。
出席簿。
全部が、白い空間の中へ浮かび上がる。
それぞれに、ノアの名前が薄くなり、イリアスの名が重ねられていく。
胸の奥を強く引かれた。
ノアの身体が、現実の寝台で硬直する。
瞳は閉じているのに、瞼の下で眼球が細かく震えた。喉が詰まり、息が途切れ、唇から苦しげな音だけが漏れる。
「っ……ぅ、く……」
レオは寝台の横で、赤い糸を強く握るように意識を集中した。
「ノア、戻って」
声は穏やかだった。
しかし、その奥は震えている。
「君はノア・クロウだ」
夢の中で、ノアの足元に赤い光が広がった。
白い部屋の床に、ノア・クロウという文字が浮かぶ。
誰かに書かれたものではない。
レオの声に呼応して、魂糸が浮かび上がらせた現世名だった。
ノアはそれを見た。
胸の奥が、少しだけ安定する。
だが、受付の声は消えない。
「出生記録、欠損」
床の文字が揺れる。
「認識名、汚染進行」
白い帳簿に、ミロの口が「イリアス」と呼んだ記録が浮かぶ。
「前世名、照合中」
黒い数字が、首輪の内側で揺れる。
ノアは、唇を噛んだ。
「うるさい」
受付の声が、一拍止まる。
ノアは赤い糸を握ったまま、低く言った。
「出生簿が破られても、出席簿が寝ぼけても、名簿が馬鹿でも、受付がしつこくても、俺は今ノア・クロウだ」
白い部屋の壁に、ひびが入る。
レオの声がもう一度届く。
「ノア」
ノアは答えた。
「聞こえてる」
現実では、声にならない。
夢の中だけの返事だった。
けれど、赤い糸はそれを拾った。
レオの表情が、わずかに動く。
ノアがそこにいる。
夢の奥で、まだ返事をしている。
レオは息を吐き、赤い糸を通して呼び続けた。
「ノア・クロウ」
白い部屋の受付窓口の奥で、羽ペンが止まった。
灰色の印がにじむ。
白い花の徽章が、黒く揺れる。
受付の声が低くなる。
「照合番号を発行します」
ノアは嫌な予感に眉を寄せた。
「いらない」
「発行済み」
「聞く気ないな、お前」
受付窓口の奥から、黒い札が一枚滑り出す。
番号札のようだった。
黒い紙片。
灰色の文字。
ノアが触れてもいないのに、その札がふっと消える。
同時に、現実のノアの手の甲が熱を持った。
ノアは夢の中で、自分の右手を見た。
黒い数字が浮かび上がっている。
照合番号。
まだ読めない。
数字とも、文字ともつかない黒い印。
ノアは舌打ちした。
「番号札まで持たせるな。待ち時間長そうで嫌だろ」
受付の声は変わらない。
「次回呼出まで、お待ちください」
「二度と呼ぶな」
その瞬間、赤い糸が強く引いた。
白い部屋が遠ざかる。
帳簿が閉じる音が、何冊も重なって響いた。
ばたん。
ばたん。
ばたん。
最後に、受付の声だけが残る。
「イリアス・ノクスヴェルト様」
ノアは、白い闇へ落ちながら低く返した。
「呼ぶな」
目が覚めた。
寮部屋の天井が見える。
息が荒い。
喉が痛い。
額には冷や汗が滲んでいる。
指先がまだ敷布を掴んでいた。身体は硬直の名残で重い。瞳孔が揺れ、視界が少し遅れて焦点を結ぶ。
レオがすぐそばにいた。
寝台の脇に膝をつき、ノアの手に触れないぎりぎりの距離で止まっている。
青い瞳が、ひどく暗い。
「ノア」
ノアは、掠れた息を吐いた。
「……夢の中まで出張してくる役所、ブラックすぎ」
レオは笑わなかった。
水杯を差し出す。
「飲める?」
「飲む」
水は冷たすぎなかった。
喉を通ると、痛みが少しだけ引いた。
ノアは息を整える。
首輪の熱はまだあるが、照合率は進んでいない。一パーセントのまま。ぎりぎり踏みとどまったらしい。
レオが低く言った。
「今夜から眠る時も手を繋ぐ」
ノアは水を飲みかけて、軽く咳き込んだ。
「管理が増えた」
「夢に干渉された」
「それはそう」
「睡眠も安全じゃない」
「それもそう」
「だから手を繋ぐ」
「論理が早い」
「離れたくない」
「本音も早い」
レオは否定しなかった。
ノアは息を吐いた。
「手、繋ぐだけな。魂糸をぐるぐる巻きにするのは禁止」
「努力する」
「そこは分かったって言え」
「……分かった」
「珍しい」
レオの赤い糸が、少しだけ緩んだ。
ノアは、ようやく自分の右手に違和感を覚えた。
手の甲が、じわじわと熱い。
月明かりの下で、右手を上げる。
そこに、黒い数字のようなものが浮かんでいた。
番号札。
いや、照合番号。
夢の中で渡されたものが、現実の手の甲に残っている。
黒い文字は、まだ完全には読めない。けれど、確かに何かの管理番号だった。灰色の縁取り。魂帳局の印。
レオがそれを見た瞬間、表情が消えた。
部屋の温度が、一段下がったようだった。
ノアは手の甲を見つめたまま、低く笑った。
「夢の役所、仕事だけは早いな」
レオの白金の魔力が、静かに燃えた。




