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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第四章 【仮の名と白い花】

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第81話 照合手続きへどうぞ


 白い部屋だった。


 壁も、床も、天井も、白い。


 ただし、学院の白い石壁とは違う。英雄教会の礼拝室にあった、祈りで磨かれた白さとも違う。もっと無機質で、もっと冷たい。汚れがないのではなく、汚れも温度も記憶も削り取られたような白だった。


 窓はない。


 扉も見えない。


 代わりに、正面へずらりと受付窓口が並んでいた。


 番号札。


 仕切り硝子。


 古い羽ペン。


 灰色のインク壺。


 分厚い帳簿。


 棚の奥には、何冊もの台帳が整然と並んでいる。背表紙には見たことのない管理番号が振られ、ところどころに黒い札が挟まれていた。


 役所に似ている。


 けれど、生きている人間のための場所ではない。


 紙の匂いがする。


 灰の匂いがする。


 古いインクの匂いがする。


 そして、誰もいないのに、誰かがこちらを見ている気配があった。


 ノア・クロウは、白い床の上に立っていた。


 制服姿のままだ。


 寮部屋で眠ったはずだった。レオに髪を梳かれ、伴侶首輪の熱を鎮められ、浅い眠りに落ちたはずだった。


 それなのに、ここにいる。


 夢だ。


 そう理解するまで、一呼吸も要らなかった。


 理解したところで、嫌さは減らない。


 むしろ増える。


 夢にまで出勤してくる役所。最悪の労働環境である。魂相手の窓口業務とか、誰が喜ぶんだ。いや、喜ぶやつがいるから今ここにあるのだろう。世界、性格が悪い。


 受付窓口の奥で、紙をめくる音がした。


 人影は見えない。


 顔もない。


 ただ、声だけが聞こえる。


「イリアス・ノクスヴェルト様」


 首元に、冷たい熱が走った。


 夢の中なのに、伴侶首輪《メイト・カラー》が反応している。


 ノアは笑わなかった。


 唇の端すら上げなかった。


 低く言う。


「呼ぶな」


 受付の奥で、羽ペンが紙を擦る音がした。


 さらさら。


 さらさら。


 乾いた音。


 それだけで、出生簿の破れた端を思い出す。


 黒いインク。


 灰。


 魂帳局の防腐インク。


 ノアは喉の奥が詰まるのを感じた。


 受付の声は、淡々としていた。


「照合手続きへどうぞ」


「行かない」


「手続きは開始されています」


「許可してない」


「許可は不要です」


 ノアは、ようやく薄く笑った。


 けれど、そこに軽さはなかった。


「役所っぽい顔して、ずいぶん横暴だな」


 受付の硝子の奥に、淡い光が浮かんだ。


 顔ではない。


 徽章だった。


 白い花。


 その奥に、灰色の印。


 白花派の花紋と、魂帳局の灰色の管理印が、重なるように浮かんでいる。


 英雄教会だけではない。


 白花派だけでもない。


 魂帳局。


 転生者、魂名、前世記録、死者記録を扱う外部機関。


 その一部が、この夢の白い役所空間を通してノアへ干渉している。


 ノアは、ゆっくり息を吸った。


「俺はノア・クロウだ」


 受付の声は、即座に返ってきた。


「仮名は確認済みです」


 伴侶首輪が焼けるように熱を持った。


 夢の中の首元に、赤い輪が浮かぶ。


 薄いはずの首輪が、今はやけにはっきり見えた。黒い亀裂。白い花紋。内側に残る黒い数字。


 一。


 その数字が、じわりと揺れる。


 ノアの喉が詰まった。


「っ……」


 息が浅くなる。


 夢の中の身体だけではない。


 現実の身体も反応している。


 遠くで、寝台の感触がかすかに戻った。背中に敷布の重み。喉の奥の苦しさ。指先の硬直。額に滲む冷や汗。


 白い部屋と寮部屋が、薄く重なる。


 受付の声が続いた。


「出生記録、欠損」


 白い空間の奥で、巨大な帳簿が開く。


 頁が一枚、破れている。


「現世名、仮登録」


 次の帳簿が開く。


 魔導名簿。


 ノア・クロウの欄に、黒い花の印。


「前世名、照合中」


 さらに奥で、古い死亡記録が開いた。


 イリアス・ノクスヴェルト。


 死亡。


 照合中。


 首輪の数字が、また揺れる。


 ノアの膝が、わずかに震えた。


 夢の中で、白い床に影が落ちる。


 自分の影ではない。


 黒い荒野の影だ。


 世界の歓声。


 最終決戦の灰。


 セラフィードの腕。


 イリアスの最後の笑み。


 記憶が、白い役所の床下からじわじわ滲んでくる。


 ノアは奥歯を噛んだ。


「違う」


 受付の声は冷たい。


「照合対象、イリアス・ノクスヴェルト」


「違うって言ってんだろ」


「現世名、仮名」


「ノア・クロウだ」


「仮名は確認済みです」


 その言葉が、喉を締めた。


 夢の中の首輪が強く光る。


 現実のノアの身体が、寝台の上で硬直した。


 指先が敷布を掴む。


 息が詰まる。


 声にならない呻きが、唇から漏れた。


「……っ、ぅ……」


 寮部屋で、レオ・アステルレインが目を開けた。


 赤い糸が異常を告げている。


 ノアの魂糸が、夢の奥へ引かれている。


 レオは一瞬で身を起こした。


 部屋は暗い。


 魔力灯は落としている。


 月明かりの中で、ノアは寝台の上に横たわっていた。眠っている。けれど、呼吸が浅い。額に汗が滲み、首元の伴侶首輪が赤く熱を持っている。


 レオの顔から温度が消えた。


「ノア」


 返事はない。


 ノアの唇が、かすかに動く。


 声は出ていない。


 レオは手を伸ばしかけて、止めた。


 触れる前に、ほんの一瞬だけ止まった。


 昨日の痛みを思い出したのだ。


 焦りで聖魔法を流し、ノアの魂糸へ負荷をかけたこと。


 レオは息を吸う。


「ノア、触れていい?」


 眠っているノアは答えない。


 答えないまま、喉が苦しげに鳴った。


 レオの指が震えた。


 許可が取れない。


 けれど、放っておけない。


 赤い糸が夢の奥へ引かれている。


 レオは、触れるのではなく、赤い糸へ意識を沈めた。


 ノアの声を奪わない。


 喉を閉じない。


 魂糸を縛らない。


 ただ、呼ぶ。


「ノア」


 夢の中で、その声が届いた。


 白い役所の床に、一本の赤い糸が落ちる。


 それは天井からではない。


 空間の外側から伸びていた。


 レオの声が、白い受付の無機質な空気を裂いて届く。


「ノア」


 ノアは息を吸った。


 胸の奥で、何かが引き戻される。


 白い部屋の奥へ伸びかけていた影が止まる。


 受付の声が、わずかに硬くなった。


「外部干渉を検知」


 ノアは低く笑った。


 今度は少しだけ、いつもの調子に近かった。


「残念。過保護回線が繋がってるんで」


 受付の奥で、羽ペンが激しく動く音がした。


「伴侶契約、未承認接続」


「そっちはそっちで面倒なんだよな」


「赤糸接続、制限対象」


「やれるもんならやってみろ」


 ノアは、赤い糸へ手を伸ばす。


 夢の中の手は少し震えていた。


 白い床が冷たい。


 首輪が熱い。


 喉が詰まる。


 身体の奥が前世名へ引かれる。


 それでも、レオの声だけは届いている。


 ノア。


 ノア・クロウ。


 その名を呼ぶ声。


 重くて、怖くて、たまに過保護で、すぐに閉じ込めようとして、でも今は自分を呼び戻そうとしている声。


 ノアは赤い糸を掴んだ。


 受付の声が言う。


「イリアス・ノクスヴェルト様、窓口へ」


 ノアは正面を睨んだ。


「呼ぶなって言っただろ」


「照合手続きへどうぞ」


「行かない」


「手続きは進行します」


「勝手に進めるな。俺はノア・クロウだ」


「仮名は確認済みです」


 その瞬間、白い部屋のあちこちで帳簿が開いた。


 出生簿。


 魔導名簿。


 死亡記録。


 証言録。


 音声封印。


 記録水晶。


 部屋札。


 出席簿。


 全部が、白い空間の中へ浮かび上がる。


 それぞれに、ノアの名前が薄くなり、イリアスの名が重ねられていく。


 胸の奥を強く引かれた。


 ノアの身体が、現実の寝台で硬直する。


 瞳は閉じているのに、瞼の下で眼球が細かく震えた。喉が詰まり、息が途切れ、唇から苦しげな音だけが漏れる。


「っ……ぅ、く……」


 レオは寝台の横で、赤い糸を強く握るように意識を集中した。


「ノア、戻って」


 声は穏やかだった。


 しかし、その奥は震えている。


「君はノア・クロウだ」


 夢の中で、ノアの足元に赤い光が広がった。


 白い部屋の床に、ノア・クロウという文字が浮かぶ。


 誰かに書かれたものではない。


 レオの声に呼応して、魂糸が浮かび上がらせた現世名だった。


 ノアはそれを見た。


 胸の奥が、少しだけ安定する。


 だが、受付の声は消えない。


「出生記録、欠損」


 床の文字が揺れる。


「認識名、汚染進行」


 白い帳簿に、ミロの口が「イリアス」と呼んだ記録が浮かぶ。


「前世名、照合中」


 黒い数字が、首輪の内側で揺れる。


 ノアは、唇を噛んだ。


「うるさい」


 受付の声が、一拍止まる。


 ノアは赤い糸を握ったまま、低く言った。


「出生簿が破られても、出席簿が寝ぼけても、名簿が馬鹿でも、受付がしつこくても、俺は今ノア・クロウだ」


 白い部屋の壁に、ひびが入る。


 レオの声がもう一度届く。


「ノア」


 ノアは答えた。


「聞こえてる」


 現実では、声にならない。


 夢の中だけの返事だった。


 けれど、赤い糸はそれを拾った。


 レオの表情が、わずかに動く。


 ノアがそこにいる。


 夢の奥で、まだ返事をしている。


 レオは息を吐き、赤い糸を通して呼び続けた。


「ノア・クロウ」


 白い部屋の受付窓口の奥で、羽ペンが止まった。


 灰色の印がにじむ。


 白い花の徽章が、黒く揺れる。


 受付の声が低くなる。


「照合番号を発行します」


 ノアは嫌な予感に眉を寄せた。


「いらない」


「発行済み」


「聞く気ないな、お前」


 受付窓口の奥から、黒い札が一枚滑り出す。


 番号札のようだった。


 黒い紙片。


 灰色の文字。


 ノアが触れてもいないのに、その札がふっと消える。


 同時に、現実のノアの手の甲が熱を持った。


 ノアは夢の中で、自分の右手を見た。


 黒い数字が浮かび上がっている。


 照合番号。


 まだ読めない。


 数字とも、文字ともつかない黒い印。


 ノアは舌打ちした。


「番号札まで持たせるな。待ち時間長そうで嫌だろ」


 受付の声は変わらない。


「次回呼出まで、お待ちください」


「二度と呼ぶな」


 その瞬間、赤い糸が強く引いた。


 白い部屋が遠ざかる。


 帳簿が閉じる音が、何冊も重なって響いた。


 ばたん。


 ばたん。


 ばたん。


 最後に、受付の声だけが残る。


「イリアス・ノクスヴェルト様」


 ノアは、白い闇へ落ちながら低く返した。


「呼ぶな」


 目が覚めた。


 寮部屋の天井が見える。


 息が荒い。


 喉が痛い。


 額には冷や汗が滲んでいる。


 指先がまだ敷布を掴んでいた。身体は硬直の名残で重い。瞳孔が揺れ、視界が少し遅れて焦点を結ぶ。


 レオがすぐそばにいた。


 寝台の脇に膝をつき、ノアの手に触れないぎりぎりの距離で止まっている。


 青い瞳が、ひどく暗い。


「ノア」


 ノアは、掠れた息を吐いた。


「……夢の中まで出張してくる役所、ブラックすぎ」


 レオは笑わなかった。


 水杯を差し出す。


「飲める?」


「飲む」


 水は冷たすぎなかった。


 喉を通ると、痛みが少しだけ引いた。


 ノアは息を整える。


 首輪の熱はまだあるが、照合率は進んでいない。一パーセントのまま。ぎりぎり踏みとどまったらしい。


 レオが低く言った。


「今夜から眠る時も手を繋ぐ」


 ノアは水を飲みかけて、軽く咳き込んだ。


「管理が増えた」


「夢に干渉された」


「それはそう」


「睡眠も安全じゃない」


「それもそう」


「だから手を繋ぐ」


「論理が早い」


「離れたくない」


「本音も早い」


 レオは否定しなかった。


 ノアは息を吐いた。


「手、繋ぐだけな。魂糸をぐるぐる巻きにするのは禁止」


「努力する」


「そこは分かったって言え」


「……分かった」


「珍しい」


 レオの赤い糸が、少しだけ緩んだ。


 ノアは、ようやく自分の右手に違和感を覚えた。


 手の甲が、じわじわと熱い。


 月明かりの下で、右手を上げる。


 そこに、黒い数字のようなものが浮かんでいた。


 番号札。


 いや、照合番号。


 夢の中で渡されたものが、現実の手の甲に残っている。


 黒い文字は、まだ完全には読めない。けれど、確かに何かの管理番号だった。灰色の縁取り。魂帳局の印。


 レオがそれを見た瞬間、表情が消えた。


 部屋の温度が、一段下がったようだった。


 ノアは手の甲を見つめたまま、低く笑った。


「夢の役所、仕事だけは早いな」


 レオの白金の魔力が、静かに燃えた。



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