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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第四章 【仮の名と白い花】

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第80話 灰の匂い



 破り取られた出生簿の端には、まだ匂いが残っていた。


 古い紙の匂い。


 乾いた木棚。


 埃。


 平民区役所の記録保管室に染みついた、何十年分ものインクと人の手の匂い。


 けれど、その奥にひとつ、場違いなものが混じっている。


 白花派の聖香ではない。


 英雄教会の祈祷紙に染み込んだ、あの甘く薄い白い花の匂いではない。


 黒魔導書の腐臭でもない。


 あれはもっと底から腐ったような、湿った闇の匂いがする。魂の奥へ爪を立てるような、嫌な残響がある。


 ここに残っているのは、もっと乾いていた。


 黒いインク。


 灰。


 燃え残った紙をすり潰して、古い記録紙へ溶かし込んだような匂い。


 ノア・クロウは、破れた出生簿に顔を近づけたまま、しばらく黙っていた。


 紙の端は、乱暴に裂けている。魔法で焼かれたのではない。聖魔法で浄化されたのでもない。黒魔法で腐らされたのでもない。指か、刃か、とにかく物理的に破り取られていた。


 ノア・クロウの出生記録。


 現世名の根。


 その一番古い紙が、そこだけ消えている。


 腹が立つ。


 気持ちが悪い。


 胸の奥が、ぎゅっと詰まる。


 自分が今ここにいることを、紙一枚で否定されるわけではない。そんなことは分かっている。けれど、出生簿から自分の名が剥がされている光景は、思ったより深く刺さった。


 ノアは軽く笑おうとした。


 しかし、声は思ったより低く出た。


「教会じゃないな」


 レオ・アステルレインが即座に反応した。


「何が?」


「匂い。白い花じゃない。聖香でもない。黒魔導書の匂いでもない」


 セドリック・バロウズが、破れた紙片の上に黒魔法の細い線を伸ばす。


「何が残っている」


「黒いインクと灰」


 ノアは、破れた端を見つめたまま答えた。


「記録室っぽい匂い。古い紙を腐らせないようにする……なんか、保存用のインクみたいな」


 セドリックの手が止まった。


 その一瞬で、部屋の空気が変わる。


 管理人の年配の男が不安そうに三人を見比べる。平民区役所の記録保管室は、さっきまでよりずっと狭く感じられた。棚に並ぶ出生簿、婚姻簿、死亡簿、居住記録。その全部が突然、ただの紙ではなく、誰かに狙われうるものに見える。


 セドリックが低く言った。


「防腐インクか」


「防腐?」


 ノアが聞き返す。


 セドリックは破れた端へ顔を近づけ、慎重に魔力を流した。


「魂帳局の記録保管庫で使われる古い防腐インクに似ている。紙ではなく、記録そのものの劣化を遅らせるためのインクだ。灰を混ぜる。死者記録や前世記録、魂名台帳の保管に使われることがある」


 ノアは、ゆっくり瞬きした。


「魂帳局」


 初めて口に出された名だった。


 レオの赤い糸が、鋭く震える。


 伴侶首輪《メイト・カラー》の内側に残る黒い数字が、じわりと疼いた。


 一パーセント。


 その数字が、ほんの一瞬だけ濃くなりかける。


 ノアは喉を押さえた。


「っ……」


 胸の奥が詰まる。


 吐き気に似た圧が、胃のあたりから喉へ上がってきた。強いものではない。崩れるほどではない。けれど、確かに気持ちが悪かった。


 出生記録がない。


 現世名の根が破られている。


 その破れた端から、今度は前世記録を扱う組織の匂いがする。


 できすぎている。


 嫌になるほど。


 セドリックはノアの反応を見て、眉を寄せた。


「無理に嗅ぐな。首輪が反応している」


「もう嗅いだ後ですー」


「分かっている。だから言っている」


「事後注意、先生っぽい」


「軽口を挟めるならまだ平気か」


「だいぶ怪しい」


 ノアはそう言って、破れた出生簿から一歩離れた。


 レオの手が、すぐ近くまで来て止まる。


 触れる前に止まった。


 昨日よりは学習している。


 嫌になるほど重いが、ましではある。人間、少しずつ成長する。王子様もたぶん分類上は人間だ。たぶん。


「触れていい?」


 レオが聞く。


 ノアは少しだけ息を吐いた。


「今はいい。立ててる」


「顔色が悪い」


「出生から消されて、魂帳局とかいう新部署が出てきたんだぞ。顔色くらい悪くなる」


「ノア」


「呼びすぎ禁止」


「一回だけ」


「……許可」


 レオは、ひどく丁寧に呼んだ。


「ノア・クロウ」


 その名が耳に入った瞬間、胸の奥の吐き気が少しだけ引いた。


 悔しい。


 効く。


 名前呼びが効くの、本当に怖い。セラピー扱いしたら絶対にレオが調子に乗る。いや、もう乗っている。世界は残酷だ。


 ノアは低く言った。


「今度は役所か。俺の敵、事務作業得意すぎない?」


 レオは笑わなかった。


「笑えない」


 ノアも、今回はすぐには笑えなかった。


 破れた出生簿。


 魔導名簿の仮登録。


 部屋札。


 出席簿。


 掲示板。


 前世名。


 証言。


 声。


 記憶。


 自分の現世が、端から削られていく。


 誰かが、ノア・クロウという名前の周囲にあるものを、一つずつ剥がしている。出生記録を破り、学院名簿を書き換え、同級生の口を使って前世名を呼ばせ、記録水晶で声を切り貼りする。


 それは戦いというより、消しゴムだった。


 自分の今を、丁寧に消していく消しゴム。


 ノアは、喉の奥でかすかに笑った。


 笑いきれなかった。


「俺もそろそろ笑えなくなってきた」


 声は、思ったより静かだった。


 レオの赤い糸が、痛いほど震えた。


 セドリックも、何も言わなかった。


 記録保管室に、古い紙の匂いだけが漂う。


 その沈黙を壊したのは、管理人の震える声だった。


「あの……魂帳局とは、何なのでしょうか」


 セドリックは短く息を吐いた。


「正式には、古代魂名記録局。現在ではほとんど表へ出ない外部機関だ。転生者、魂名、前世記録、死者記録を管理していた。学院や英雄教会とは別の組織だが、古い名簿術式や出生記録、死亡記録の一部に、その系統の管理式が残っている」


 管理人は青ざめた。


「では、この出生簿も」


「平民区の紙台帳そのものは普通の記録だ。だが、出生登録の写しや照合情報が、古い魂名管理の経路へ流れている可能性はある」


 ノアは片手を上げる。


「つまり、俺の出生簿を破ったやつは、ここへ物理的に来た。でも匂いは魂帳局系。教会の聖香じゃない」


「そうだ」


 セドリックは険しい顔で頷いた。


「教会、白花派、魂帳局。敵はそれぞれの記録と術式を横断している。少なくとも一人ではないか、あるいは一人で複数機関の記録へ接続できる異常な立場にいる」


「悪役、部署横断どころか公文書荒らしまで始めた」


「笑い事ではない」


「さっき笑えなくなってきたって言っただろ」


 ノアは、破れた紙片をもう一度見た。


「でも、これで少し分かった。白花派は儀礼。英雄教会は祈祷文。魂帳局は記録。オルドレイスはそれを繋ぐ術式。……俺を消すために、ずいぶん大がかりだな」


 レオが低く言う。


「消させない」


「うん」


「君をどこにも登録させたくなくなる」


 ノアは、そこでレオを見た。


「それは駄目な方向」


「分かっている」


「俺を学院からも役所からも教会からも魂帳局からも外して、お前の赤い糸だけに置きたいって思っただろ」


 レオは、否定しなかった。


「思った」


「正直でよろしい。最悪だけど」


「でも、今はしない」


 ノアは少し目を見開いた。


 レオは続けた。


「君が笑えなくなってきたと言ったから」


「……それ理由?」


「うん」


「そこで閉じ込めに来るかと思った」


「来たかった」


「来たかったんだ」


「でも、君をこれ以上削りたくない」


 レオの声は、静かだった。


 不器用だった。


 そして、痛いくらい本気だった。


「僕の契約内に置きたい。誰にも見せず、誰にも呼ばせず、記録にも触らせず、僕だけが君の名を持っていたい」


「うん。怖い」


「でも、それは君を守ることじゃなくて、君の世界を狭くすることだと分かっている」


 ノアは黙った。


 レオが、ここまで自分で言った。


 かなり進歩している。


 人類の文明よりは遅いが、レオ比では革命だ。いや、比べる対象が低すぎる。


 ノアは小さく笑った。


「九点」


 レオが、少しだけ目を上げる。


「上がった?」


「今のは上がるだろ」


「十点は?」


「調子に乗るな」


「努力する」


「便利」


 管理人が閲覧記録をさらに確認している間、セドリックは破れた出生簿の端を封印紙で保護した。


「この匂いを学院へ持ち帰って解析する。魂帳局の防腐インクなら、成分に灰化した魂記録紙が混ざっている可能性がある」


 ノアは顔をしかめた。


「うわ、紙の材料から嫌」


「古い魂記録は、記録紙そのものが魔力媒体だった。焼却後の灰を再利用する例もある」


「エコ精神をそんなところで発揮するな」


「同感だ」


 セドリックは淡々と答え、封印紙を畳んだ。


「今日はここまでだ。ノア、役所内でこれ以上記録へ近づくな」


「俺の書類なのに」


「だから危ない」


「不便」


「敵はそこを突いている」


 ノアは肩をすくめた。


「はいはい」


 レオがすぐ水を差し出す。


 ノアはそれを見て、呆れた。


「役所で給水係」


「声が乾いている」


「もう驚かなくなってきた自分が嫌」


「飲んで」


「はいはい」


 水を飲む。


 喉の詰まりが少しだけ引く。


 首輪の冷たい熱は、完全には消えない。


 平民区役所を出ると、夕方の光が街路に落ちていた。


 学院とは違う賑わいがある。商店の呼び声、焼き菓子の匂い、荷車の音、子どもたちの笑い声。誰かが生まれ、名をつけられ、ここで暮らしていく街。


 ノアは、少し立ち止まった。


 自分も、たぶんこの街のどこかでノア・クロウとして記録された。


 その紙は破られた。


 けれど、街は残っている。


 自分を知る人間がどこかにいるかもしれない。


 ノア・クロウと呼ばれた場所が、まだあるかもしれない。


 現世名の根。


 出生簿だけではない。


 レオが言ったように、名前を与えられただけではなく、その名で呼ばれ、自分で返事をして、この世界に根を張った場所。


 ノアは、静かに息を吸った。


 灰とインクの匂いは、まだ鼻の奥に残っていた。


 夜。


 寮部屋に戻ると、レオはいつもより無言だった。


 ノアは寝台の端に座り、制服の上着を脱いだ。首輪の熱は薄く残っている。喉は痛むほどではない。けれど、胸の奥が疲れていた。


 精神的な疲労。


 面倒くさい言葉だが、今はそれ以外に言いようがない。


 出生から消されるのは、気分が悪い。


 さっき口にした言葉は、まだ自分の中に残っていた。


 レオが櫛を持って立っている。


 ノアはそれを見て、眉を上げた。


「今度は美容師?」


「髪、少し乱れている」


「いつものことだろ」


「今日は、整えたい」


 声が静かだった。


 閉じ込めるためではない。


 所有を刻むためでもない。


 ただ、削られたものの代わりに、何かを整えたいという声だった。


 ノアは少し黙った。


 それから、背を向ける。


「今日だけな」


 レオの息が、ほんの少し止まった。


「今日だけでいい」


 嘘だ。


 ノアにも分かった。


 絶対に今日だけでいいと思っていない。


 明日も明後日も、できるなら毎日でも髪を梳きたいと思っている。声を聞き、名を呼び、喉を診て、首輪を鎮め、髪を整えたい。ノアの存在を、手の届く範囲で何度も確認したい。


 重い。


 でも、今日だけは拒まなかった。


 櫛が髪に通る。


 ノアの黒髪を、レオの手がゆっくり梳く。


 乱暴さはない。


 丁寧すぎるくらい丁寧だった。


 沈黙が落ちる。


 いつものように軽口を挟もうとして、ノアはやめた。


 レオも、何も言わない。


 ただ、髪を梳く。


 呼吸を確認するように。


 そこにいると確かめるように。


 ノアは小さく言った。


「レオ」


「何?」


「俺、笑えなくなってきたって言ったけど」


「うん」


「まだ負けてはないからな」


 櫛の動きが止まる。


 すぐに、また動き出す。


「知っている」


「ならいい」


「ノア・クロウ」


「点呼?」


「一回だけ」


「はい。います」


 その返事で、赤い糸が静かに震えた。


 夜が深くなる。


 ノアは、その夜、浅い眠りに落ちた。


 夢の中で、白い部屋に立っていた。


 学院ではない。


 教会でもない。


 役所のようだった。


 壁も床も白い。けれど、清潔というより、何もかもが削ぎ落とされすぎていて不気味だった。窓口が並んでいる。番号札のような黒い札が天井から吊るされ、奥には見えない書棚が延々と続いている。


 紙の匂い。


 灰の匂い。


 古いインクの匂い。


 受付窓口の奥から、声がした。


「イリアス・ノクスヴェルト様」


 ノアの喉が、冷たく詰まる。


 窓口の奥に人影はない。


 それでも声は続いた。


「照合手続きへどうぞ」


 ノアは、白い床の上で立ち止まった。


 首元に見えない熱が走る。


 だが、今度は逃げなかった。


 低く、はっきりと言った。


「呼ぶな」


 白い部屋の奥で、紙をめくる音がした。



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