第80話 灰の匂い
破り取られた出生簿の端には、まだ匂いが残っていた。
古い紙の匂い。
乾いた木棚。
埃。
平民区役所の記録保管室に染みついた、何十年分ものインクと人の手の匂い。
けれど、その奥にひとつ、場違いなものが混じっている。
白花派の聖香ではない。
英雄教会の祈祷紙に染み込んだ、あの甘く薄い白い花の匂いではない。
黒魔導書の腐臭でもない。
あれはもっと底から腐ったような、湿った闇の匂いがする。魂の奥へ爪を立てるような、嫌な残響がある。
ここに残っているのは、もっと乾いていた。
黒いインク。
灰。
燃え残った紙をすり潰して、古い記録紙へ溶かし込んだような匂い。
ノア・クロウは、破れた出生簿に顔を近づけたまま、しばらく黙っていた。
紙の端は、乱暴に裂けている。魔法で焼かれたのではない。聖魔法で浄化されたのでもない。黒魔法で腐らされたのでもない。指か、刃か、とにかく物理的に破り取られていた。
ノア・クロウの出生記録。
現世名の根。
その一番古い紙が、そこだけ消えている。
腹が立つ。
気持ちが悪い。
胸の奥が、ぎゅっと詰まる。
自分が今ここにいることを、紙一枚で否定されるわけではない。そんなことは分かっている。けれど、出生簿から自分の名が剥がされている光景は、思ったより深く刺さった。
ノアは軽く笑おうとした。
しかし、声は思ったより低く出た。
「教会じゃないな」
レオ・アステルレインが即座に反応した。
「何が?」
「匂い。白い花じゃない。聖香でもない。黒魔導書の匂いでもない」
セドリック・バロウズが、破れた紙片の上に黒魔法の細い線を伸ばす。
「何が残っている」
「黒いインクと灰」
ノアは、破れた端を見つめたまま答えた。
「記録室っぽい匂い。古い紙を腐らせないようにする……なんか、保存用のインクみたいな」
セドリックの手が止まった。
その一瞬で、部屋の空気が変わる。
管理人の年配の男が不安そうに三人を見比べる。平民区役所の記録保管室は、さっきまでよりずっと狭く感じられた。棚に並ぶ出生簿、婚姻簿、死亡簿、居住記録。その全部が突然、ただの紙ではなく、誰かに狙われうるものに見える。
セドリックが低く言った。
「防腐インクか」
「防腐?」
ノアが聞き返す。
セドリックは破れた端へ顔を近づけ、慎重に魔力を流した。
「魂帳局の記録保管庫で使われる古い防腐インクに似ている。紙ではなく、記録そのものの劣化を遅らせるためのインクだ。灰を混ぜる。死者記録や前世記録、魂名台帳の保管に使われることがある」
ノアは、ゆっくり瞬きした。
「魂帳局」
初めて口に出された名だった。
レオの赤い糸が、鋭く震える。
伴侶首輪の内側に残る黒い数字が、じわりと疼いた。
一パーセント。
その数字が、ほんの一瞬だけ濃くなりかける。
ノアは喉を押さえた。
「っ……」
胸の奥が詰まる。
吐き気に似た圧が、胃のあたりから喉へ上がってきた。強いものではない。崩れるほどではない。けれど、確かに気持ちが悪かった。
出生記録がない。
現世名の根が破られている。
その破れた端から、今度は前世記録を扱う組織の匂いがする。
できすぎている。
嫌になるほど。
セドリックはノアの反応を見て、眉を寄せた。
「無理に嗅ぐな。首輪が反応している」
「もう嗅いだ後ですー」
「分かっている。だから言っている」
「事後注意、先生っぽい」
「軽口を挟めるならまだ平気か」
「だいぶ怪しい」
ノアはそう言って、破れた出生簿から一歩離れた。
レオの手が、すぐ近くまで来て止まる。
触れる前に止まった。
昨日よりは学習している。
嫌になるほど重いが、ましではある。人間、少しずつ成長する。王子様もたぶん分類上は人間だ。たぶん。
「触れていい?」
レオが聞く。
ノアは少しだけ息を吐いた。
「今はいい。立ててる」
「顔色が悪い」
「出生から消されて、魂帳局とかいう新部署が出てきたんだぞ。顔色くらい悪くなる」
「ノア」
「呼びすぎ禁止」
「一回だけ」
「……許可」
レオは、ひどく丁寧に呼んだ。
「ノア・クロウ」
その名が耳に入った瞬間、胸の奥の吐き気が少しだけ引いた。
悔しい。
効く。
名前呼びが効くの、本当に怖い。セラピー扱いしたら絶対にレオが調子に乗る。いや、もう乗っている。世界は残酷だ。
ノアは低く言った。
「今度は役所か。俺の敵、事務作業得意すぎない?」
レオは笑わなかった。
「笑えない」
ノアも、今回はすぐには笑えなかった。
破れた出生簿。
魔導名簿の仮登録。
部屋札。
出席簿。
掲示板。
前世名。
証言。
声。
記憶。
自分の現世が、端から削られていく。
誰かが、ノア・クロウという名前の周囲にあるものを、一つずつ剥がしている。出生記録を破り、学院名簿を書き換え、同級生の口を使って前世名を呼ばせ、記録水晶で声を切り貼りする。
それは戦いというより、消しゴムだった。
自分の今を、丁寧に消していく消しゴム。
ノアは、喉の奥でかすかに笑った。
笑いきれなかった。
「俺もそろそろ笑えなくなってきた」
声は、思ったより静かだった。
レオの赤い糸が、痛いほど震えた。
セドリックも、何も言わなかった。
記録保管室に、古い紙の匂いだけが漂う。
その沈黙を壊したのは、管理人の震える声だった。
「あの……魂帳局とは、何なのでしょうか」
セドリックは短く息を吐いた。
「正式には、古代魂名記録局。現在ではほとんど表へ出ない外部機関だ。転生者、魂名、前世記録、死者記録を管理していた。学院や英雄教会とは別の組織だが、古い名簿術式や出生記録、死亡記録の一部に、その系統の管理式が残っている」
管理人は青ざめた。
「では、この出生簿も」
「平民区の紙台帳そのものは普通の記録だ。だが、出生登録の写しや照合情報が、古い魂名管理の経路へ流れている可能性はある」
ノアは片手を上げる。
「つまり、俺の出生簿を破ったやつは、ここへ物理的に来た。でも匂いは魂帳局系。教会の聖香じゃない」
「そうだ」
セドリックは険しい顔で頷いた。
「教会、白花派、魂帳局。敵はそれぞれの記録と術式を横断している。少なくとも一人ではないか、あるいは一人で複数機関の記録へ接続できる異常な立場にいる」
「悪役、部署横断どころか公文書荒らしまで始めた」
「笑い事ではない」
「さっき笑えなくなってきたって言っただろ」
ノアは、破れた紙片をもう一度見た。
「でも、これで少し分かった。白花派は儀礼。英雄教会は祈祷文。魂帳局は記録。オルドレイスはそれを繋ぐ術式。……俺を消すために、ずいぶん大がかりだな」
レオが低く言う。
「消させない」
「うん」
「君をどこにも登録させたくなくなる」
ノアは、そこでレオを見た。
「それは駄目な方向」
「分かっている」
「俺を学院からも役所からも教会からも魂帳局からも外して、お前の赤い糸だけに置きたいって思っただろ」
レオは、否定しなかった。
「思った」
「正直でよろしい。最悪だけど」
「でも、今はしない」
ノアは少し目を見開いた。
レオは続けた。
「君が笑えなくなってきたと言ったから」
「……それ理由?」
「うん」
「そこで閉じ込めに来るかと思った」
「来たかった」
「来たかったんだ」
「でも、君をこれ以上削りたくない」
レオの声は、静かだった。
不器用だった。
そして、痛いくらい本気だった。
「僕の契約内に置きたい。誰にも見せず、誰にも呼ばせず、記録にも触らせず、僕だけが君の名を持っていたい」
「うん。怖い」
「でも、それは君を守ることじゃなくて、君の世界を狭くすることだと分かっている」
ノアは黙った。
レオが、ここまで自分で言った。
かなり進歩している。
人類の文明よりは遅いが、レオ比では革命だ。いや、比べる対象が低すぎる。
ノアは小さく笑った。
「九点」
レオが、少しだけ目を上げる。
「上がった?」
「今のは上がるだろ」
「十点は?」
「調子に乗るな」
「努力する」
「便利」
管理人が閲覧記録をさらに確認している間、セドリックは破れた出生簿の端を封印紙で保護した。
「この匂いを学院へ持ち帰って解析する。魂帳局の防腐インクなら、成分に灰化した魂記録紙が混ざっている可能性がある」
ノアは顔をしかめた。
「うわ、紙の材料から嫌」
「古い魂記録は、記録紙そのものが魔力媒体だった。焼却後の灰を再利用する例もある」
「エコ精神をそんなところで発揮するな」
「同感だ」
セドリックは淡々と答え、封印紙を畳んだ。
「今日はここまでだ。ノア、役所内でこれ以上記録へ近づくな」
「俺の書類なのに」
「だから危ない」
「不便」
「敵はそこを突いている」
ノアは肩をすくめた。
「はいはい」
レオがすぐ水を差し出す。
ノアはそれを見て、呆れた。
「役所で給水係」
「声が乾いている」
「もう驚かなくなってきた自分が嫌」
「飲んで」
「はいはい」
水を飲む。
喉の詰まりが少しだけ引く。
首輪の冷たい熱は、完全には消えない。
平民区役所を出ると、夕方の光が街路に落ちていた。
学院とは違う賑わいがある。商店の呼び声、焼き菓子の匂い、荷車の音、子どもたちの笑い声。誰かが生まれ、名をつけられ、ここで暮らしていく街。
ノアは、少し立ち止まった。
自分も、たぶんこの街のどこかでノア・クロウとして記録された。
その紙は破られた。
けれど、街は残っている。
自分を知る人間がどこかにいるかもしれない。
ノア・クロウと呼ばれた場所が、まだあるかもしれない。
現世名の根。
出生簿だけではない。
レオが言ったように、名前を与えられただけではなく、その名で呼ばれ、自分で返事をして、この世界に根を張った場所。
ノアは、静かに息を吸った。
灰とインクの匂いは、まだ鼻の奥に残っていた。
夜。
寮部屋に戻ると、レオはいつもより無言だった。
ノアは寝台の端に座り、制服の上着を脱いだ。首輪の熱は薄く残っている。喉は痛むほどではない。けれど、胸の奥が疲れていた。
精神的な疲労。
面倒くさい言葉だが、今はそれ以外に言いようがない。
出生から消されるのは、気分が悪い。
さっき口にした言葉は、まだ自分の中に残っていた。
レオが櫛を持って立っている。
ノアはそれを見て、眉を上げた。
「今度は美容師?」
「髪、少し乱れている」
「いつものことだろ」
「今日は、整えたい」
声が静かだった。
閉じ込めるためではない。
所有を刻むためでもない。
ただ、削られたものの代わりに、何かを整えたいという声だった。
ノアは少し黙った。
それから、背を向ける。
「今日だけな」
レオの息が、ほんの少し止まった。
「今日だけでいい」
嘘だ。
ノアにも分かった。
絶対に今日だけでいいと思っていない。
明日も明後日も、できるなら毎日でも髪を梳きたいと思っている。声を聞き、名を呼び、喉を診て、首輪を鎮め、髪を整えたい。ノアの存在を、手の届く範囲で何度も確認したい。
重い。
でも、今日だけは拒まなかった。
櫛が髪に通る。
ノアの黒髪を、レオの手がゆっくり梳く。
乱暴さはない。
丁寧すぎるくらい丁寧だった。
沈黙が落ちる。
いつものように軽口を挟もうとして、ノアはやめた。
レオも、何も言わない。
ただ、髪を梳く。
呼吸を確認するように。
そこにいると確かめるように。
ノアは小さく言った。
「レオ」
「何?」
「俺、笑えなくなってきたって言ったけど」
「うん」
「まだ負けてはないからな」
櫛の動きが止まる。
すぐに、また動き出す。
「知っている」
「ならいい」
「ノア・クロウ」
「点呼?」
「一回だけ」
「はい。います」
その返事で、赤い糸が静かに震えた。
夜が深くなる。
ノアは、その夜、浅い眠りに落ちた。
夢の中で、白い部屋に立っていた。
学院ではない。
教会でもない。
役所のようだった。
壁も床も白い。けれど、清潔というより、何もかもが削ぎ落とされすぎていて不気味だった。窓口が並んでいる。番号札のような黒い札が天井から吊るされ、奥には見えない書棚が延々と続いている。
紙の匂い。
灰の匂い。
古いインクの匂い。
受付窓口の奥から、声がした。
「イリアス・ノクスヴェルト様」
ノアの喉が、冷たく詰まる。
窓口の奥に人影はない。
それでも声は続いた。
「照合手続きへどうぞ」
ノアは、白い床の上で立ち止まった。
首元に見えない熱が走る。
だが、今度は逃げなかった。
低く、はっきりと言った。
「呼ぶな」
白い部屋の奥で、紙をめくる音がした。




