第79話 破り取られた出生簿
平民区役所の記録保管室は、学院の記録室とはまるで違う匂いがした。
学院の魔導名簿には、古い魔力と封印蝋の匂いがあった。青白い光が紙の代わりに名前を浮かべ、魂名だの登録原簿だの、聞くだけで胃が重くなるものが平然と並んでいた。
けれど、この保管室はもっと現実的だった。
古い紙。
乾いた木棚。
インク。
埃。
何度も人の手でめくられて、角が丸くなった台帳。
平民区で生まれた子どもたちの名前が、年ごと、地区ごと、家ごとに残されている。魔法よりも、人間の生活に近い記録だった。
誰かが生まれた。
誰かが名をつけられた。
誰かがその名で暮らし始めた。
そういう、ごく当たり前の記録。
その当たり前が、今のノア・クロウには少し眩しかった。
記録保管室の中央に、分厚い出生簿が置かれている。黄ばんだ紙の束を、革の表紙が重く閉じていた。管理人の年配の男が慎重に頁をめくり、セドリック・バロウズが横から確認している。
レオ・アステルレインは、ノアのすぐ隣に立っていた。
近い。
もう驚くほどではない。最近のレオの距離感は、常識を学院の焼却炉へ捨ててきたような位置で固定されている。けれど、今回は文句を言う気になれなかった。
出生簿。
ノア・クロウという名前が、この世界で最初に記録されたはずの場所。
現世名の根。
それを確認しに来たのだ。
ノアは腕を組み、軽く笑った。
「役所って、もっと退屈な場所だと思ってた」
セドリックが頁を追いながら答える。
「退屈な場所ほど、改竄されると厄介だ」
「先生の人生訓、今日も嫌な方向に深い」
「黙っていろ。探している」
管理人が恐縮したように言った。
「クロウ姓、南区、該当年……こちらの欄です。数日前にも一度、別件で確認しておりますので、間違いなく残っていたはずですが」
ノアの首元が、ひやりとした。
伴侶首輪の内側で、黒い数字が小さく疼く。
一パーセント。
その存在を思い出させるように、冷たい熱が走った。
レオがすぐにノアを見る。
「大丈夫?」
「まだ何も見てない」
「声が変わった」
「便利診断、営業中?」
「ずっと」
「定休日作れ」
軽口は出る。
けれど、胸の奥は重かった。
管理人が頁をめくる。
前後の記録は、きちんと残っていた。
誰々の子。
出生日時。
母の名。
父の名。
居住区。
登録者の署名。
古いインクの文字が、整然と並んでいる。
その中に、ぽっかりと空白があった。
いや、空白ではない。
頁そのものが、破り取られていた。
ノア・クロウの記録があるはずの一枚だけが、乱暴に抜き取られている。
紙の端が、台帳の綴じ目に沿って残っていた。細い紙片が、まるで剥がされた皮膚のように不規則に裂けている。魔法的に焼かれた痕ではない。浄化魔法で消されたわけでも、黒魔法で溶かされたわけでもない。
ただ、手で破られている。
古い紙の匂いに混じって、破れた繊維の生々しい匂いがした。
ノアはしばらく、その破れた端を見つめていた。
それから、低く笑った。
「俺、書類上も迷子になってきたな」
レオは笑わなかった。
当然だ。
彼の顔から、すっと血の気が引いていく。青い瞳は、破り取られた頁の端に釘づけになっていた。まるでノアの一部がそこから剥がされたみたいに。
セドリックが慎重に、破れた紙片の端へ黒魔法を伸ばす。
「魔法焼却ではないな。物理的に破られている」
管理人が青ざめた。
「そんな、馬鹿な……この記録室は、許可のある者しか入れません。出生簿は毎日封印確認を」
「数日前までは頁があったと言ったな」
「はい。確かにございました。クロウ姓の記録は、別の調査で確認したばかりです。その時は破損などありませんでした」
ノアは、破れた台帳を見つめる。
「じゃあ、ここ数日の間に破られた」
「そうなります」
管理人の声は震えていた。
セドリックが問う。
「この保管室に入れる者は?」
「私と副管理官、区役所長、記録補助官が二名。それから、学院や教会の正式照会があった場合には、立ち会いの上で閲覧を許可します」
「直近で閲覧した者の記録は」
「すぐに確認します」
管理人は慌てて別の台帳を取りに行く。
レオは動かない。
白金の魔力が指先に灯りかけている。誰を焼くつもりかは、まだ分からない。たぶん、犯人が目の前にいたらためらわない。役所の壁でも燃やしかねない顔をしている。
ノアは横目で見た。
「レオ」
レオの視線がこちらへ戻る。
「燃やすな」
「まだ燃やしていない」
「“まだ”が怖いんだって何回言わせる気だ」
「君の出生記録が消された」
「破られた、な。物理的に」
「同じだよ」
「違う。魔法じゃなくて手で破ってる。つまり、誰かがここに来た。術式だけじゃない。実働犯がいる」
レオの目が冷えた。
「探す」
「探すのは同意。でも、この場で暴走するな」
「努力する」
「便利呪文」
ノアは台帳へ近づいた。
セドリックが制止する。
「触るな。反応が出る」
「見るだけ」
「お前の見るだけは信用できん」
「ひどい」
「事実だ」
ノアは少し身を乗り出し、破れた端を見た。
残った紙片に、インクの跡がわずかに残っている。文字の一部だけだ。名前の欄だったのか、親の記録だったのかまでは分からない。だが、ノアの目には、黒いインクの名残が妙に濃く見えた。
その瞬間、首輪が冷えた。
熱ではない。
氷水を流し込まれたような冷たさ。
「っ……」
喉が詰まる。
胸の奥が不安定に揺れた。
魂糸が、足場を一つ失ったように震える。
レオの赤い糸が即座に伸びた。
支えるように、ノアの胸の奥へ触れる。
今度は無理に縛らない。
ただ、落ちないように支える。
ノアは、少しだけ息を吸った。
「出生から消されるの、気分悪いな」
声は、軽くできなかった。
低い。
自分でも分かるくらい、怒っていた。
レオがすぐに言った。
「消えない」
断言だった。
迷いがなかった。
ノアは、破れた出生簿から目を離し、レオを見る。
いつものように重い。
怖いくらいまっすぐ。
けれど今は、その断言が少しだけ足場になった。
ノアは小さく笑った。
「お前の断言、たまに怖いけど、今は少し助かる」
レオの表情が止まった。
青い瞳が揺れる。
赤い糸が、痛いほど震えた。
「ノア」
「呼びすぎ禁止」
「一回だけ」
「今のは許可」
レオは、ゆっくりと言った。
「ノア・クロウ」
その名に、首輪の冷えが少し和らいだ。
黒い数字が、一瞬だけ濃くなりかける。
一から二へ。
ほんの一瞬、形が揺れた。
レオが息を止める。
ノアは、台帳から視線を外さずに言った。
「俺はノア・クロウ」
数字の揺れが止まった。
黒い一は、そのまま残る。
二にはならない。
首輪の白い花紋が、かすかに光った。
ノアは息を吐く。
「危な。今、二になりかけたな」
セドリックが険しい顔で頷いた。
「出生記録の欠損が照合率を進めかけた。現世名の根を削られたと判断されたのだろう」
「判断するな。失礼な魂システムだな」
「お前が自分の名を言ったことで止まった」
「自己紹介、今日も仕事してる」
レオが低く言う。
「もう一度」
「え?」
「もう一度、言って」
ノアは眉を上げた。
「名前?」
「うん」
「お前が言うんじゃなくて?」
「君が」
レオの声は苦しかった。
だが、正しかった。
ノア本人が選び直す名。
自分で言う必要がある。
ノアは、破り取られた出生簿を見た。
そこに自分の最初の記録はない。
書類は剥がされた。
紙は破られた。
それでも。
「俺はノア・クロウ」
声は掠れていた。
だが、はっきりしていた。
「出生簿が家出してても、俺はノア・クロウ」
レオが、静かに息を吐く。
セドリックは台帳の周囲へ封印線を引いた。
「破られた頁の痕跡を保存する。原本の欠損は痛いが、欠損したという事実も証拠になる」
「前向きなのか後ろ向きなのか分かりにくい」
「事実を残すだけだ」
「書類って大事だなぁ」
「いまさらか」
「出生簿破られてから実感しました」
管理人が戻ってきた。
手には閲覧記録簿を持っている。
「直近一週間の閲覧記録です。学院からの照会が一件、英雄教会からの閲覧申請が一件、区役所長の内部確認が一件……」
レオの目が、英雄教会の文字に反応した。
ノアはすぐに言う。
「まだ決めつけるな」
「分かっている」
「分かってる顔してない」
「努力する」
「便利」
セドリックが閲覧記録を受け取り、目を通す。
「学院照会は私の申請だ。教会申請は、オルブライト司祭ではない」
ノアが目を細める。
「誰?」
「名前が空欄だ。教会印だけがある」
「それ許されるの?」
管理人が汗を拭う。
「通常は許可されません。ですが、英雄教会の上級照会印があれば、緊急閲覧として通る場合が」
セドリックの声が冷える。
「つまり、教会の印を持つ者か、印を偽装できる者が来た」
「はい……」
ノアは腕を組んだ。
「教会か、教会の印を使える外部犯。もしくは、教会にいるけど教会じゃない顔をしてるやつ」
「白花派」
レオが言う。
ノアは頷く。
「候補としては濃いな」
だが、ノアは破れた頁の端から目を離せなかった。
白花派。
英雄教会。
災厄再臨儀礼。
たしかに繋がっている。
けれど、何かが違う。
この破り方は、儀礼的ではない。
白い花の紋章もない。
聖魔法の残滓もない。
もっと荒い。
もっと現実的だ。
誰かが、この場所へ来て、台帳を開き、ノア・クロウの出生記録だけを手で破り取った。
儀礼というより、盗みだ。
証拠隠滅。
実働犯。
ノアは、破れた紙片へさらに顔を近づけた。
セドリックが止める前に、息を吸う。
古い紙。
乾いたインク。
埃。
その奥に、微かな匂いがあった。
白い花ではない。
教会の祈祷紙でもない。
黒いインク。
そして、灰。
焦げたような、乾いた灰の匂い。
ノアは目を細めた。
「教会じゃないな」
レオが即座にこちらを見る。
「何が」
「匂い。白い花じゃない。聖印の匂いもしない」
セドリックが眉を動かす。
「何が残っている」
「黒いインクと灰」
ノアは、破れた出生簿を見下ろした。
「これ、教会の儀礼犯じゃない。もっと別の、記録を扱うやつの匂いがする」
レオの赤い糸が、静かに張った。
セドリックの表情が、さらに険しくなる。
「魂帳局系か」
ノアは答えなかった。
ただ、破れた頁の端を見つめていた。
現世名の根は、破り取られている。
だが、そこに残った匂いは、次の敵の輪郭を示していた。
黒いインク。
灰。
そして、教会ではない何者か。
ノアは、低く笑った。
「役所の紙まで破るなんて、次の敵は事務職かよ」
誰も笑わなかった。
夜。
寮部屋に戻ったノアは、机の前でぼんやり座っていた。
レオは無言で紙を広げた。
白い便箋ではない。
学院の記録紙でもない。
ただの厚い紙。
そこに、丁寧な文字で名前を書き始める。
ノア・クロウ。
また一枚。
ノア・クロウ。
また一枚。
ノアはしばらく見ていた。
「写経?」
レオは手を止めずに答えた。
「記録」
「重い」
「君の記録が破られたから」
「紙に書けば増えるって?」
「少なくとも、ここには残る」
ノアは黙った。
重い。
ものすごく重い。
けれど、その重さは少しだけ温かかった。
出生簿の頁は破られた。
けれど、レオが今、目の前でノアの名を書いている。
壊れた記録の代わりにはならない。
でも、何もないよりはずっといい。
ノアは頬杖をつき、掠れた声で言った。
「字、綺麗だな」
「君の名前だから」
「理由が怖い」
「雑に書きたくない」
「……そりゃどうも」
レオは、また一枚書いた。
ノア・クロウ。
黒いインクが、紙の上に静かに乾いていく。
ノアはその文字を見つめながら、小さく呟いた。
「俺は、ノア・クロウ」
首輪の数字は、一のままだった。
けれど、ほんの少しだけ薄くなった気がした。




