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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第四章 【仮の名と白い花】

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第79話 破り取られた出生簿



 平民区役所の記録保管室は、学院の記録室とはまるで違う匂いがした。


 学院の魔導名簿には、古い魔力と封印蝋の匂いがあった。青白い光が紙の代わりに名前を浮かべ、魂名だの登録原簿だの、聞くだけで胃が重くなるものが平然と並んでいた。


 けれど、この保管室はもっと現実的だった。


 古い紙。


 乾いた木棚。


 インク。


 埃。


 何度も人の手でめくられて、角が丸くなった台帳。


 平民区で生まれた子どもたちの名前が、年ごと、地区ごと、家ごとに残されている。魔法よりも、人間の生活に近い記録だった。


 誰かが生まれた。


 誰かが名をつけられた。


 誰かがその名で暮らし始めた。


 そういう、ごく当たり前の記録。


 その当たり前が、今のノア・クロウには少し眩しかった。


 記録保管室の中央に、分厚い出生簿が置かれている。黄ばんだ紙の束を、革の表紙が重く閉じていた。管理人の年配の男が慎重に頁をめくり、セドリック・バロウズが横から確認している。


 レオ・アステルレインは、ノアのすぐ隣に立っていた。


 近い。


 もう驚くほどではない。最近のレオの距離感は、常識を学院の焼却炉へ捨ててきたような位置で固定されている。けれど、今回は文句を言う気になれなかった。


 出生簿。


 ノア・クロウという名前が、この世界で最初に記録されたはずの場所。


 現世名の根。


 それを確認しに来たのだ。


 ノアは腕を組み、軽く笑った。


「役所って、もっと退屈な場所だと思ってた」


 セドリックが頁を追いながら答える。


「退屈な場所ほど、改竄されると厄介だ」


「先生の人生訓、今日も嫌な方向に深い」


「黙っていろ。探している」


 管理人が恐縮したように言った。


「クロウ姓、南区、該当年……こちらの欄です。数日前にも一度、別件で確認しておりますので、間違いなく残っていたはずですが」


 ノアの首元が、ひやりとした。


 伴侶首輪《メイト・カラー》の内側で、黒い数字が小さく疼く。


 一パーセント。


 その存在を思い出させるように、冷たい熱が走った。


 レオがすぐにノアを見る。


「大丈夫?」


「まだ何も見てない」


「声が変わった」


「便利診断、営業中?」


「ずっと」


「定休日作れ」


 軽口は出る。


 けれど、胸の奥は重かった。


 管理人が頁をめくる。


 前後の記録は、きちんと残っていた。


 誰々の子。


 出生日時。


 母の名。


 父の名。


 居住区。


 登録者の署名。


 古いインクの文字が、整然と並んでいる。


 その中に、ぽっかりと空白があった。


 いや、空白ではない。


 頁そのものが、破り取られていた。


 ノア・クロウの記録があるはずの一枚だけが、乱暴に抜き取られている。


 紙の端が、台帳の綴じ目に沿って残っていた。細い紙片が、まるで剥がされた皮膚のように不規則に裂けている。魔法的に焼かれた痕ではない。浄化魔法で消されたわけでも、黒魔法で溶かされたわけでもない。


 ただ、手で破られている。


 古い紙の匂いに混じって、破れた繊維の生々しい匂いがした。


 ノアはしばらく、その破れた端を見つめていた。


 それから、低く笑った。


「俺、書類上も迷子になってきたな」


 レオは笑わなかった。


 当然だ。


 彼の顔から、すっと血の気が引いていく。青い瞳は、破り取られた頁の端に釘づけになっていた。まるでノアの一部がそこから剥がされたみたいに。


 セドリックが慎重に、破れた紙片の端へ黒魔法を伸ばす。


「魔法焼却ではないな。物理的に破られている」


 管理人が青ざめた。


「そんな、馬鹿な……この記録室は、許可のある者しか入れません。出生簿は毎日封印確認を」


「数日前までは頁があったと言ったな」


「はい。確かにございました。クロウ姓の記録は、別の調査で確認したばかりです。その時は破損などありませんでした」


 ノアは、破れた台帳を見つめる。


「じゃあ、ここ数日の間に破られた」


「そうなります」


 管理人の声は震えていた。


 セドリックが問う。


「この保管室に入れる者は?」


「私と副管理官、区役所長、記録補助官が二名。それから、学院や教会の正式照会があった場合には、立ち会いの上で閲覧を許可します」


「直近で閲覧した者の記録は」


「すぐに確認します」


 管理人は慌てて別の台帳を取りに行く。


 レオは動かない。


 白金の魔力が指先に灯りかけている。誰を焼くつもりかは、まだ分からない。たぶん、犯人が目の前にいたらためらわない。役所の壁でも燃やしかねない顔をしている。


 ノアは横目で見た。


「レオ」


 レオの視線がこちらへ戻る。


「燃やすな」


「まだ燃やしていない」


「“まだ”が怖いんだって何回言わせる気だ」


「君の出生記録が消された」


「破られた、な。物理的に」


「同じだよ」


「違う。魔法じゃなくて手で破ってる。つまり、誰かがここに来た。術式だけじゃない。実働犯がいる」


 レオの目が冷えた。


「探す」


「探すのは同意。でも、この場で暴走するな」


「努力する」


「便利呪文」


 ノアは台帳へ近づいた。


 セドリックが制止する。


「触るな。反応が出る」


「見るだけ」


「お前の見るだけは信用できん」


「ひどい」


「事実だ」


 ノアは少し身を乗り出し、破れた端を見た。


 残った紙片に、インクの跡がわずかに残っている。文字の一部だけだ。名前の欄だったのか、親の記録だったのかまでは分からない。だが、ノアの目には、黒いインクの名残が妙に濃く見えた。


 その瞬間、首輪が冷えた。


 熱ではない。


 氷水を流し込まれたような冷たさ。


「っ……」


 喉が詰まる。


 胸の奥が不安定に揺れた。


 魂糸が、足場を一つ失ったように震える。


 レオの赤い糸が即座に伸びた。


 支えるように、ノアの胸の奥へ触れる。


 今度は無理に縛らない。


 ただ、落ちないように支える。


 ノアは、少しだけ息を吸った。


「出生から消されるの、気分悪いな」


 声は、軽くできなかった。


 低い。


 自分でも分かるくらい、怒っていた。


 レオがすぐに言った。


「消えない」


 断言だった。


 迷いがなかった。


 ノアは、破れた出生簿から目を離し、レオを見る。


 いつものように重い。


 怖いくらいまっすぐ。


 けれど今は、その断言が少しだけ足場になった。


 ノアは小さく笑った。


「お前の断言、たまに怖いけど、今は少し助かる」


 レオの表情が止まった。


 青い瞳が揺れる。


 赤い糸が、痛いほど震えた。


「ノア」


「呼びすぎ禁止」


「一回だけ」


「今のは許可」


 レオは、ゆっくりと言った。


「ノア・クロウ」


 その名に、首輪の冷えが少し和らいだ。


 黒い数字が、一瞬だけ濃くなりかける。


 一から二へ。


 ほんの一瞬、形が揺れた。


 レオが息を止める。


 ノアは、台帳から視線を外さずに言った。


「俺はノア・クロウ」


 数字の揺れが止まった。


 黒い一は、そのまま残る。


 二にはならない。


 首輪の白い花紋が、かすかに光った。


 ノアは息を吐く。


「危な。今、二になりかけたな」


 セドリックが険しい顔で頷いた。


「出生記録の欠損が照合率を進めかけた。現世名の根を削られたと判断されたのだろう」


「判断するな。失礼な魂システムだな」


「お前が自分の名を言ったことで止まった」


「自己紹介、今日も仕事してる」


 レオが低く言う。


「もう一度」


「え?」


「もう一度、言って」


 ノアは眉を上げた。


「名前?」


「うん」


「お前が言うんじゃなくて?」


「君が」


 レオの声は苦しかった。


 だが、正しかった。


 ノア本人が選び直す名。


 自分で言う必要がある。


 ノアは、破り取られた出生簿を見た。


 そこに自分の最初の記録はない。


 書類は剥がされた。


 紙は破られた。


 それでも。


「俺はノア・クロウ」


 声は掠れていた。


 だが、はっきりしていた。


「出生簿が家出してても、俺はノア・クロウ」


 レオが、静かに息を吐く。


 セドリックは台帳の周囲へ封印線を引いた。


「破られた頁の痕跡を保存する。原本の欠損は痛いが、欠損したという事実も証拠になる」


「前向きなのか後ろ向きなのか分かりにくい」


「事実を残すだけだ」


「書類って大事だなぁ」


「いまさらか」


「出生簿破られてから実感しました」


 管理人が戻ってきた。


 手には閲覧記録簿を持っている。


「直近一週間の閲覧記録です。学院からの照会が一件、英雄教会からの閲覧申請が一件、区役所長の内部確認が一件……」


 レオの目が、英雄教会の文字に反応した。


 ノアはすぐに言う。


「まだ決めつけるな」


「分かっている」


「分かってる顔してない」


「努力する」


「便利」


 セドリックが閲覧記録を受け取り、目を通す。


「学院照会は私の申請だ。教会申請は、オルブライト司祭ではない」


 ノアが目を細める。


「誰?」


「名前が空欄だ。教会印だけがある」


「それ許されるの?」


 管理人が汗を拭う。


「通常は許可されません。ですが、英雄教会の上級照会印があれば、緊急閲覧として通る場合が」


 セドリックの声が冷える。


「つまり、教会の印を持つ者か、印を偽装できる者が来た」


「はい……」


 ノアは腕を組んだ。


「教会か、教会の印を使える外部犯。もしくは、教会にいるけど教会じゃない顔をしてるやつ」


「白花派」


 レオが言う。


 ノアは頷く。


「候補としては濃いな」


 だが、ノアは破れた頁の端から目を離せなかった。


 白花派。


 英雄教会。


 災厄再臨儀礼。


 たしかに繋がっている。


 けれど、何かが違う。


 この破り方は、儀礼的ではない。


 白い花の紋章もない。


 聖魔法の残滓もない。


 もっと荒い。


 もっと現実的だ。


 誰かが、この場所へ来て、台帳を開き、ノア・クロウの出生記録だけを手で破り取った。


 儀礼というより、盗みだ。


 証拠隠滅。


 実働犯。


 ノアは、破れた紙片へさらに顔を近づけた。


 セドリックが止める前に、息を吸う。


 古い紙。


 乾いたインク。


 埃。


 その奥に、微かな匂いがあった。


 白い花ではない。


 教会の祈祷紙でもない。


 黒いインク。


 そして、灰。


 焦げたような、乾いた灰の匂い。


 ノアは目を細めた。


「教会じゃないな」


 レオが即座にこちらを見る。


「何が」


「匂い。白い花じゃない。聖印の匂いもしない」


 セドリックが眉を動かす。


「何が残っている」


「黒いインクと灰」


 ノアは、破れた出生簿を見下ろした。


「これ、教会の儀礼犯じゃない。もっと別の、記録を扱うやつの匂いがする」


 レオの赤い糸が、静かに張った。


 セドリックの表情が、さらに険しくなる。


「魂帳局系か」


 ノアは答えなかった。


 ただ、破れた頁の端を見つめていた。


 現世名の根は、破り取られている。


 だが、そこに残った匂いは、次の敵の輪郭を示していた。


 黒いインク。


 灰。


 そして、教会ではない何者か。


 ノアは、低く笑った。


「役所の紙まで破るなんて、次の敵は事務職かよ」


 誰も笑わなかった。


 夜。


 寮部屋に戻ったノアは、机の前でぼんやり座っていた。


 レオは無言で紙を広げた。


 白い便箋ではない。


 学院の記録紙でもない。


 ただの厚い紙。


 そこに、丁寧な文字で名前を書き始める。


 ノア・クロウ。


 また一枚。


 ノア・クロウ。


 また一枚。


 ノアはしばらく見ていた。


「写経?」


 レオは手を止めずに答えた。


「記録」


「重い」


「君の記録が破られたから」


「紙に書けば増えるって?」


「少なくとも、ここには残る」


 ノアは黙った。


 重い。


 ものすごく重い。


 けれど、その重さは少しだけ温かかった。


 出生簿の頁は破られた。


 けれど、レオが今、目の前でノアの名を書いている。


 壊れた記録の代わりにはならない。


 でも、何もないよりはずっといい。


 ノアは頬杖をつき、掠れた声で言った。


「字、綺麗だな」


「君の名前だから」


「理由が怖い」


「雑に書きたくない」


「……そりゃどうも」


 レオは、また一枚書いた。


 ノア・クロウ。


 黒いインクが、紙の上に静かに乾いていく。


 ノアはその文字を見つめながら、小さく呟いた。


「俺は、ノア・クロウ」


 首輪の数字は、一のままだった。


 けれど、ほんの少しだけ薄くなった気がした。




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