第78話 現世名の根
セドリック・バロウズの研究室は、朝からひどい有様だった。
机の上には、魔導名簿の写し、白花派の儀礼記録、災厄再臨儀礼の写し、部屋札の反応図、出席簿の封印紙、記録水晶の欠片が重ねられている。壁には黒魔法の解析式が何枚も貼られ、床には魂名照合の進行を測る魔法陣が淡く光っていた。
教師の研究室というより、事件に負けかけた世界が最後の抵抗として紙を散らかした部屋だった。
ノア・クロウは椅子に座り、首元に手を当てていた。
伴侶首輪の内側には、まだ黒い数字が残っている。
一。
照合率一パーセント。
昨日より濃くはなっていない。だが、完全に消えてもいない。首輪の黒い亀裂と白い花紋の間に、まるでこちらを見張るように沈んでいる。
ノアは鏡を見なくても分かる。
そこにある。
自分の魂が、勝手に進捗管理されている。
実に不愉快だ。進捗という言葉は課題と仕事だけで十分である。魂に持ち込むな。人類、管理項目を増やしすぎだ。
レオ・アステルレインは、ノアのすぐ隣に立っていた。
昨日、照合率を消そうとしてノアの魂糸に負荷をかけてしまったため、今日はいつもより慎重だった。近いが、触れない。見ているが、封じない。赤い糸は張りつめているが、無理に絡めない。
努力している。
努力の気配がうるさい。
ノアは横目で見た。
「王子様、見守り圧が強い」
「触っていない」
「視線が触ってる」
「それは止められない」
「努力しろ」
「努力する」
「便利」
セドリックが、机の向こうで低く言った。
「軽口を叩けるなら聞け」
「先生、軽口を健康状態の目安にするのやめません?」
「有効だからな」
「医学が雑」
「これは魔法理論だ」
「もっと雑」
セドリックは一枚の古い紙を机に広げた。
紙には、三重の円が描かれている。
中心に魂。
その周囲に名。
さらに外側に、記録と他者認識。
ノアはそれを見て、眉を上げた。
「また名前の話?」
「照合率を止めるには避けられない」
「俺、ここ数日で一生分名前について考えてるんだけど」
「足りないから一パーセント進んだ」
「事実で刺すな」
セドリックは無視して、紙に指を置いた。
「魂名理論では、人の名前は三層に分かれる」
ノアは軽く手を上げた。
「先生。授業なら単位出ます?」
「出ない」
「やる気が消えました」
「お前の名前も消えかけている」
「やる気戻りました」
レオが少しだけノアを見る。
心配している。
ノアはそれを見て、口角を上げた。
「冗談だって」
「冗談でも嫌だ」
「最近、お前の嫌なものリスト長すぎない?」
「君に関するものは、だいたい嫌になる」
「情緒が末期」
セドリックが咳払いをした。
「一層目は出生名。出生時、血縁、役所、地域共同体、あるいは家族によって与えられる名だ。肉体と社会記録を結ぶ最初の名になる」
紙の外側に、出生名と記される。
「二層目は認識名。他者から繰り返し呼ばれ、その者として認識される名だ。友人、教師、同級生、生活圏の者が呼ぶことで強化される。昨日の名の固定訓練はここに効いた」
ノアは頷いた。
「みんなで俺の名前呼ぶやつね。レオの独占欲試練コース」
レオは静かに言った。
「試練だった」
「認めるな」
「嫌だった」
「正直でよろしい。最悪だけど」
セドリックは三つ目の円を指で叩いた。
「三層目が、選び直す名だ」
ノアの軽い表情が、少し止まった。
レオの赤い糸が、静かに震える。
セドリックは続けた。
「他者から与えられ、呼ばれ、記録された名であっても、本人が自分の名として選び直さなければ、魂への定着は弱い。特に転生者や前世名の残響を持つ者は、出生名と魂深層の名がずれる。だから最終的には、本人がその名を自分だと選ぶ必要がある」
研究室が静かになった。
ノアは、机の上の三重円を見つめていた。
出生名。
認識名。
選び直す名。
ノア・クロウ。
イリアス・ノクスヴェルト。
自分はどちらなのか。
いや、そうではない。
どちらか一方だけに押し込められるのが嫌なのだ。
前世名を否定すればいいわけではない。イリアスを完全に無関係なものとして切り捨てるには、あまりにも記憶も痛みも残りすぎている。だが、だからといって現世のノア・クロウを仮の名にされるのは、もっと嫌だった。
ノアは笑った。
声は少し軽かった。
「自己紹介が世界救済に関わるの、重すぎない?」
レオが静かに言う。
「君が選ぶ名なら、僕は何度でも呼ぶ」
ノアはレオを見る。
「重い。採点不能」
「不能」
「重すぎて点数の秤が壊れた」
「壊したくはなかった」
「そういうところだぞ」
レオは少しだけ目を伏せた。
けれど、赤い糸は先ほどより静かだった。
ノアが選ぶ名。
その言葉が、レオにとっても重いのだろう。
レオが呼ぶだけでは足りない。
セドリックが呼ぶだけでも、ルカやアイリスや同級生が呼ぶだけでも足りない。
ノア本人が、選び直さなければならない。
レオには、それが怖い。
ノアが選ばなかったら。
ノアが、まだ決められなかったら。
それを、赤い糸が不安として伝えてくる。
ノアは机に肘をついた。
「第六十六……じゃない、前に掲示板で俺が言ったやつ。俺はノア・クロウだって。あれが効いてた理由はこれ?」
セドリックが頷く。
「あれは単なる発声ではない。お前自身が、ノア・クロウという名を現世の自分として言った。まだ完全な選び直しではないが、敵の前世名干渉を押し返すには十分な力があった」
「完全ではないんだ」
「お前がまだ揺れているからな」
ノアは口を閉じた。
セドリックは、容赦がない。
ただ、正しい。
ノアはまだ揺れている。
自分はノアだと何度も言った。
それは嘘ではない。
けれど、イリアスではないと言い切るたび、胸の奥で何かが引っかかる。
前世の荒野。
セラフィードの声。
黒魔導書の痛み。
最後の笑み。
頼んだぞ。
ざまぁみろ。
そういうものが全部、自分の中にある。
だから、ノアは現世名を選びたいのに、まだ選びきれない。
選んだ瞬間、イリアスを裏切る気がする。
選ばなければ、ノアを奪われる。
面倒くさい。
本当に面倒くさい。
前世の自分、もう少し後処理をきれいにしてから死んでほしかった。いや、あの状況でそんな余裕があるわけがない。分かっている。分かっているが、文句くらい言わせろ。自分相手でも腹は立つ。
レオが低く言った。
「ノア」
ノアはすぐに顔を上げた。
「呼びすぎ禁止」
レオは止まった。
口を閉じる。
ノアは瞬きした。
「……今、止まった?」
「君が、自分で選ぶ必要があるなら」
レオの声は、少し苦しかった。
「僕が呼びすぎるのも、縛りになるかもしれない」
ノアは、レオを見た。
レオが自分から呼ぶのを止めた。
信じられないものを見た気分だった。
雪が下から降るくらいの珍事である。
ノアはわざと軽く言った。
「黙ると逆に怖い」
レオは真面目に返す。
「どうしたらいいか分からない」
「そこまで正直だと、ちょっと困るな」
「呼びたい」
「うん」
「でも、縛りたくない」
「うん」
「けど、呼ばないと不安になる」
「重いな」
「うん」
ノアは少し笑った。
その笑いは、さっきより柔らかかった。
「じゃあ、一回だけ」
レオが目を上げる。
「一回?」
「今は一回だけ呼んでいい。それ以上は禁止」
レオは、ひどく慎重に息を吸った。
まるで、名前一つ呼ぶことが儀式みたいに。
そして、静かに言った。
「ノア・クロウ」
首輪の熱が、少し引いた。
赤い糸は震えたが、絡まなかった。
ノアは短く息を吐いた。
「はい。います」
その返事に、魂糸がかすかに安定する。
セドリックが記録紙に何かを書き込んだ。
「今の反応は良い。呼ぶ側の意志と、本人の返答が噛み合った。だが、やはり根はまだ浅い」
「根が浅い名前って、園芸みたいですね」
「名は魂に根を張る。比喩としては間違っていない」
「やっぱり根菜要素あるじゃん」
「根菜ではない」
ノアは軽口を叩きながらも、内心では考えていた。
現世名の根。
それは、出生名だけでは足りない。
他人に呼ばれる認識名だけでも足りない。
本人が選び直す名。
その三つが揃って、初めて根になる。
なら、ノア・クロウという名の根はどこにあるのか。
自分が生まれた時か。
初めてノアと呼ばれた時か。
黒魔法科に入った時か。
レオに見つけられた時か。
いや。
もっと前かもしれない。
もっと単純な場所かもしれない。
ノアは、セドリックに尋ねた。
「出生名を確認する必要がある?」
「ある。まずは出生簿だ。お前がこの世界でノア・クロウとして登録された最初の記録を確認する。そこが改竄されていれば、現世名の根はさらに弱い」
「平民街の出生簿?」
「そうだ」
ノアは嫌そうに顔をしかめた。
「役所かぁ」
「行くぞ」
「先生、役所に行くみたいな顔してないですね。戦場に行く顔」
「今の状況では大差ない」
「嫌な真実」
レオが静かに言った。
「僕も行く」
「だろうな」
「離れない」
「それもだろうな」
「でも、呼びすぎないようにする」
「そこは偉い」
ノアは立ち上がった。
その瞬間、首輪の一パーセントがかすかに光る。
現世名の根。
それを探しに行く。
出生簿。
平民街。
自分がノア・クロウとして最初に書かれた記録。
そこに何があるのか。
胸の奥が、少しだけざわついた。
嫌な予感は、もう日常になりすぎている。できれば日常にはもっとパンとスープと昼寝を採用してほしい。予感ばかり採用するな。
平民街の記録保管所は、学院の白い石造りとはまるで違っていた。
古い煉瓦の建物。
狭い窓。
黄ばんだ書類の匂い。
乾いた木の棚が何列も並び、出生簿、婚姻簿、死亡簿、居住記録が分厚い束になって収められている。魔法式は最低限しか使われていない。学院の魔導名簿のような派手さはないが、その分、生活の匂いがあった。
人が生まれ、名をつけられ、どこかで暮らし、死んでいく。
そういう記録。
ノアは少しだけ黙った。
レオはその横顔を見る。
名前を呼ぼうとして、止めた。
ノアは気づいたが、何も言わなかった。
セドリックが保管所の管理人と短く話し、古い出生簿を出させた。
クロウ姓。
平民街南区。
該当年。
分厚い台帳が机に置かれる。
古い紙の匂いが広がった。
セドリックが頁をめくる。
ノアの胸が、ゆっくり締めつけられる。
ここにあるはずだ。
ノア・クロウ。
自分の出生記録。
現世名の一番古い根。
頁が止まった。
クロウ姓の欄。
そこに、破れた跡があった。
紙が一枚、乱暴に抜き取られている。
切り口は古くない。
最近破られたものだ。
周囲の記録は残っている。
前後の出生名も、親の記録も、住所も、日付も残っている。
ノア・クロウの欄だけがない。
ノアはしばらく、それを見つめた。
それから、喉の奥で笑った。
「俺の出生記録、家出してる」
レオの赤い糸が、静かに張り詰めた。
セドリックは破れた頁の端を指で押さえ、低く言った。
「抜き取られている」
ノアは、軽口を返そうとした。
けれど、声が少しだけ出なかった。
現世名の根。
その最初の記録が、破り取られていた。




