第77話 災厄再臨儀礼
夜の寮部屋は、いつもより静かだった。
窓の外では学院の塔が月明かりに沈み、遠くの中庭に残った白い花飾りが風に揺れている。昼間はあれほど騒がしかった廊下も、今は足音ひとつない。魔力灯の淡い光だけが、机の上を照らしていた。
その机の上に、古い写しが置かれている。
誰が置いたのかは分からない。
扉の封印は破れていない。窓も閉まっていた。レオ・アステルレインが張った結界にも、外部侵入の反応はない。なのに、それは最初からそこにあったような顔で、ノア・クロウの机に置かれていた。
羊皮紙の表紙。
黒ずんだ白い花の紋。
古い教会文字で刻まれた題名。
災厄再臨儀礼。
ノアは椅子に座り、表紙を眺めていた。
「タイトルからして最悪。もう少し隠す努力しろ」
声は軽い。
けれど、首元の伴侶首輪はすでに熱を持ち始めている。白い花紋の縁が黒く浮き、亀裂の奥に残った一パーセントの数字が、じわりと疼くように反応していた。
レオはノアの隣に立っている。
立っている、というより、ほとんど影のように張りついている。白金の魔力が指先で静かに灯り、いつでも写しを焼き払える状態だった。顔は穏やかだ。だからこそ怖い。
「読まないで」
ノアは表紙から目を離さない。
「読む」
「罠だよ」
「だろうな」
「なら」
「罠の中身を知らないまま避け続ける方が面倒だろ」
レオの赤い糸が強く張る。
「君を傷つける」
「もうだいぶ傷ついてる。今さら資料一冊増えても誤差」
「誤差じゃない」
「はいはい。なら、痛くなったら止める」
「本当に?」
「たぶん」
「ノア」
「分かった。ちゃんと止める。だから、その顔で紙を焼こうとするな」
レオは答えなかった。
ノアは横目で見た。
「レオ」
「……燃やさない」
「偉い」
「でも、いつでも燃やせるようにする」
「点数が伸びない理由、そういうとこだぞ」
レオは黙ってしまった。
ノアは小さく息を吐き、写しへ手を伸ばした。
触れた瞬間、古い紙の匂いが広がった。
乾いた羊皮紙。
封印蝋。
古いインク。
そして、祈祷紙を焦がしたような匂い。
ページの端は少し黒ずんでいる。火に炙られたのか、あるいは黒魔法に侵されたのか。文字は教会古語で書かれているが、ところどころに別の構文が混ざっていた。英雄教会の祈祷文に似ている。だが、行間に黒い糸のような文字が入り込んでいる。
ノアは最初の頁を開いた。
白花派。
その文字が、最初に目に入った。
首輪が冷たく熱を持つ。
レオの赤い糸が反応する。
ノアは喉を鳴らし、低く読み上げた。
「白花派は、救国の英雄の勝利を一度きりの歴史ではなく、世界を清め続けるための反復儀礼と定める……」
レオの表情が冷える。
ノアは続けた。
「黒い災厄は、死んだだけでは不完全。肉体が滅び、名が記録され、英雄譚が歌われても、魂の残滓が世界に残る限り、災厄は完全には消えない」
部屋の空気が重くなる。
窓の外の風が、ひどく遠く感じた。
ノアは笑おうとした。
だが、声が低くなる。
「ずいぶん俺に未練あるじゃん。怖いな、宗教」
レオは、写しを見ない。
見れば怒りで燃やしかねないと、自分で分かっているのだろう。
代わりに、ノアの顔を見ている。
声が変わらないか。
喉が詰まらないか。
首輪の熱が強くならないか。
ひとつひとつ確認している。
ノアは次の頁をめくった。
かさり、と古い紙が鳴る。
その音に混じって、首輪の奥で黒い数字が疼いた。
頁には、儀礼の流れが書かれていた。
ノアは目で追い、声に出す。
「災厄の魂が転生すれば、その者は現世の名と肉体を得る。だが、現世名は仮初めであり、魂の底に眠る災厄名こそが真名である」
レオが低く言った。
「違う」
ノアは、少しだけ口角を上げた。
「早いな、反論」
「違うから」
「まあ、俺も今の一文は嫌い」
ノアは指先でその行を叩いた。
「現世名は仮初め。ここ、部屋札と出席簿と同じだな。俺をノア・クロウから剥がして、イリアス・ノクスヴェルトに戻す。まず名前から」
レオの白金の魔力が揺れる。
「戻させない」
「うん」
「ノア・クロウは仮の名じゃない」
「知ってる」
「君の今の名だ」
「知ってるって」
「何度でも言う」
「そこは知ってる」
ノアは苦笑して、次の行を読んだ。
「現世名を剥がすには、四つを揃えるべし。本人の声、魂に刻まれた名、前世の記憶、周囲の証言」
伴侶首輪が、強く熱を持った。
声。
名。
記憶。
証言。
それぞれの文字に、魂糸が震える。
ノアは息を詰めた。
喉が急に狭くなる。
「っ……」
短い呻きが漏れる。
レオがすぐに水杯を取った。
「飲んで」
「まだ平気」
「平気な声じゃない」
「読書中に給水係、相変わらず過保護」
「君が読んだものが君を傷つけた」
「本ってたまにそういうもんだろ」
「これは違う」
レオの声は硬かった。
ノアは結局、水を受け取った。
喉に優しい温度だった。
腹立つほど的確だ。過保護にも技術がある。人類、そんなところを磨くな。
水を飲んで、ノアは続きを読んだ。
「本人の声は、災厄が自ら世界へ戻ることを認める鍵である。名は、現世の殻を破り、真の災厄名へ魂を照合する道である。記憶は、魂に前世の罪を思い出させる。証言は、周囲の者がその者を災厄と認めるために必要である」
レオの赤い糸が、ノアの周囲を包むように震えた。
包みたい。
隠したい。
外へ出したくない。
ノアにはそれが分かった。
レオの管理範囲が、また広がろうとしている。
声。
名。
記憶。
証言。
レオは、その全てを守ろうとするだろう。守るという言葉で、全部を閉じようとするだろう。
ノアは写しから目を離さずに言った。
「レオ。今、俺を外に出したくないって思っただろ」
「思った」
「今後、俺が誰と話すか、誰に名前呼ばせるか、何を読むか、何を思い出すか、全部管理しようとしただろ」
「……したいと思った」
「正直でよろしい。最悪だけど」
レオは黙った。
ノアは頁を押さえたまま、静かに続ける。
「でも、それやると白花派と発想が近くなるぞ。俺を災厄から守るために、俺の声も名も記憶も証言も閉じる。相手は殺すために揃える。お前は守るために閉じる。方向は違うけど、俺のものを俺から遠ざけるところは似てる」
レオの息が止まった。
ノアは、やや掠れた声で言う。
「俺を守るなら、俺のものを俺に戻す方で頼む」
レオはしばらく沈黙した。
そして、低く言った。
「努力する」
「出た」
「でも、閉じたい」
「それも知ってる」
「外へ出したくない」
「知ってる」
「君をもう一度殺す儀礼だと分かって、それでも外へ出すのは怖い」
ノアは少しだけ笑った。
その笑いは、軽口より静かだった。
「俺も怖くないわけじゃない」
レオが顔を上げる。
ノアは、写しの頁を見つめたまま続けた。
「でも、部屋にいても名簿に出る。扉にも出る。出席簿にも出る。声も盗られる。つまり、閉じこもっても来る。だったら、こっちから読むし、調べるし、潰す」
レオは何も言わない。
ただ、赤い糸が強く震えた。
ノアは次の頁をめくった。
そこには、英雄についての記述があった。
救国の英雄。
災厄の討伐者。
世界が選ぶ再臨の刃。
ノアは、喉の奥が冷えるのを感じた。
「英雄の再来が再び災厄を討つことで、世界は完全に救われる……だってさ」
レオの顔から、温度が消えた。
ノアは写しを見つめたまま言った。
「俺を呼び戻して、もう一回殺す気か」
声は低かった。
軽口ではなかった。
静かな怒りだった。
レオが即座に答える。
「させない」
「うん」
「絶対に」
「うん」
「君を災厄として殺させない」
「……その後に、ノアとして閉じ込めない、も追加で」
レオは一拍置いた。
「努力する」
「即答で分かったって言えないところ、正直」
「嘘は言いたくない」
「最悪に正直」
ノアは息を吐いた。
胸の奥が重い。
白花派の思想は、最悪だった。
だが、今まで起きたことと綺麗に繋がりすぎる。
声を奪う。
名を戻す。
記憶を引き出す。
周囲に証言させる。
真儀礼。
災厄忌。
記録水晶。
部屋札。
出席簿。
操られた生徒の口。
全部が、同じ儀礼へ向かっている。
ノアは写しの欄外へ目を留めた。
そこには、本文とは違う筆跡で細かい文字が足されていた。
黒い。
教会古語ではない。
魔導書系の構文。
ノアは、指先でそこをなぞらず、目だけで追った。
レオがすぐ気づく。
「何?」
「欄外。これ、白花派の本文じゃない」
「読める?」
「一部だけ」
ノアは低く読んだ。
「声、名、記憶、証言は個別では弱い。四つを連結し、魂名照合へ流し込むことで、災厄再指定は安定する……」
セドリックがいれば顔をしかめただろう。
レオは、それ以上に冷たい顔をした。
「オルドレイス」
「たぶんな」
ノアは欄外の文字を見た。
「白花派の儀礼に、後から誰かが術式を足してる。白花派も利用されてる可能性がある。いや、白花派の思想が最悪なのは変わらないけど」
レオが言う。
「白花派の思想を土台に、オルドレイスが真儀礼へ加工した」
「たぶんそう。災厄をもう一度殺す、っていう宗教的願望に、魂名照合とか記録改竄とか、やけに技術的な術式が足されてる」
「だから学院名簿にも侵入できる」
「魂帳局系の構文も混ざってるしな。悪役、複数部署横断プロジェクトやめろ」
レオは笑わなかった。
笑える内容ではない。
ノアも、もうあまり笑えなかった。
けれど、笑えないまま黙ると、胸の奥の吐き気が濃くなる。
だから頁をめくる。
古い紙が鳴る。
最後の頁に近づくほど、首輪の熱が強くなる。
レオが言った。
「もうやめよう」
「あと少し」
「声が低い」
「低くもなる」
「首輪が熱い」
「それも知ってる」
「ノア」
「読む」
レオは、唇を引き結んだ。
止めたいのだろう。
写しを閉じたいのだろう。
だが、止めなかった。
その代わり、ノアの隣へ椅子を引き寄せて座った。
珍しく、立って覆いかぶさるのではなく、隣に座った。
ノアは少しだけ目を細める。
「九点」
レオがこちらを見る。
「上がった?」
「立って圧かけなかったので」
「座った」
「偉い」
「でも、閉じたい」
「それは減点候補」
「努力する」
ノアは写しの最後の頁を開いた。
そこには、短い文があった。
他の頁よりも、インクが濃い。
まるで、この部分だけ何度もなぞられたように。
ノアは声に出した。
「儀礼を止めるには、現世名の根を見つけよ」
静寂が落ちた。
ノアはもう一度その行を見た。
現世名の根。
意味が分からない。
ノアは首を傾げた。
「現世名の根って何だよ。名前に根菜要素あった?」
レオは答えなかった。
彼は写しの最後の文をじっと見つめている。
青い瞳が、深く考え込む色へ変わっていた。
ノアはその横顔を見る。
レオは、ノアを閉じ込める以外の守り方を探している。
まだ下手だ。
まだ危うい。
けれど、今は考えている。
現世名の根。
ノア・クロウという名が、ただ登録された文字ではなく、本当に今のノアへ根づいた場所。
それを見つけなければならない。
首輪の熱が、まだ消えない。
白い花紋が淡く光る。
机の上の古い写しは、沈黙したまま月明かりを浴びていた。
レオがようやく口を開く。
「君が、ノア・クロウになった場所」
ノアは瞬きした。
レオはまだ写しを見ている。
「名前を与えられただけじゃない。君がその名で呼ばれ、自分で返事をして、この世界に根を張った場所」
ノアは笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「……なにそれ。急に詩人?」
レオは真面目に答えた。
「考えている」
「うん。珍しくまとも」
「閉じ込めるより、難しい」
「そりゃそうだろ」
ノアは写しを閉じた。
表紙の「災厄再臨儀礼」の文字が、月明かりの中で黒く沈む。
レオは手を伸ばす前に、ちゃんと聞いた。
「喉と首輪を診てもいい?」
「読書後ケア、多い」
「君が読んだものが君を傷つけた」
「言い方が重い」
「本当だから」
「はいはい。どうぞ」
白金の聖魔法が、喉と首輪を包んだ。
今夜は、写しを燃やさなかった。
声を閉じなかった。
名を縛らなかった。
ただ、熱を鎮める。
それだけだった。
ノアは、少しだけ目を閉じた。
「レオ」
「何?」
「俺をもう一回殺す儀礼なんて、絶対失敗させるぞ」
レオの赤い糸が静かに震えた。
「うん」
「あと、俺を閉じ込める案も却下」
「……努力する」
「そこはまだ努力なんだな」
「嘘は言いたくない」
「最悪に正直」
それでも、ノアは少しだけ笑った。
机の上では、古い写しの最後の頁が、風もないのにかすかに揺れていた。
現世名の根を見つけよ。
その一文だけが、月明かりの下で薄く光っていた。




