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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第四章 【仮の名と白い花】

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第77話 災厄再臨儀礼


 夜の寮部屋は、いつもより静かだった。


 窓の外では学院の塔が月明かりに沈み、遠くの中庭に残った白い花飾りが風に揺れている。昼間はあれほど騒がしかった廊下も、今は足音ひとつない。魔力灯の淡い光だけが、机の上を照らしていた。


 その机の上に、古い写しが置かれている。


 誰が置いたのかは分からない。


 扉の封印は破れていない。窓も閉まっていた。レオ・アステルレインが張った結界にも、外部侵入の反応はない。なのに、それは最初からそこにあったような顔で、ノア・クロウの机に置かれていた。


 羊皮紙の表紙。


 黒ずんだ白い花の紋。


 古い教会文字で刻まれた題名。


 災厄再臨儀礼。


 ノアは椅子に座り、表紙を眺めていた。


「タイトルからして最悪。もう少し隠す努力しろ」


 声は軽い。


 けれど、首元の伴侶首輪《メイト・カラー》はすでに熱を持ち始めている。白い花紋の縁が黒く浮き、亀裂の奥に残った一パーセントの数字が、じわりと疼くように反応していた。


 レオはノアの隣に立っている。


 立っている、というより、ほとんど影のように張りついている。白金の魔力が指先で静かに灯り、いつでも写しを焼き払える状態だった。顔は穏やかだ。だからこそ怖い。


「読まないで」


 ノアは表紙から目を離さない。


「読む」


「罠だよ」


「だろうな」


「なら」


「罠の中身を知らないまま避け続ける方が面倒だろ」


 レオの赤い糸が強く張る。


「君を傷つける」


「もうだいぶ傷ついてる。今さら資料一冊増えても誤差」


「誤差じゃない」


「はいはい。なら、痛くなったら止める」


「本当に?」


「たぶん」


「ノア」


「分かった。ちゃんと止める。だから、その顔で紙を焼こうとするな」


 レオは答えなかった。


 ノアは横目で見た。


「レオ」


「……燃やさない」


「偉い」


「でも、いつでも燃やせるようにする」


「点数が伸びない理由、そういうとこだぞ」


 レオは黙ってしまった。


 ノアは小さく息を吐き、写しへ手を伸ばした。


 触れた瞬間、古い紙の匂いが広がった。


 乾いた羊皮紙。


 封印蝋。


 古いインク。


 そして、祈祷紙を焦がしたような匂い。


 ページの端は少し黒ずんでいる。火に炙られたのか、あるいは黒魔法に侵されたのか。文字は教会古語で書かれているが、ところどころに別の構文が混ざっていた。英雄教会の祈祷文に似ている。だが、行間に黒い糸のような文字が入り込んでいる。


 ノアは最初の頁を開いた。


 白花派。


 その文字が、最初に目に入った。


 首輪が冷たく熱を持つ。


 レオの赤い糸が反応する。


 ノアは喉を鳴らし、低く読み上げた。


「白花派は、救国の英雄の勝利を一度きりの歴史ではなく、世界を清め続けるための反復儀礼と定める……」


 レオの表情が冷える。


 ノアは続けた。


「黒い災厄は、死んだだけでは不完全。肉体が滅び、名が記録され、英雄譚が歌われても、魂の残滓が世界に残る限り、災厄は完全には消えない」


 部屋の空気が重くなる。


 窓の外の風が、ひどく遠く感じた。


 ノアは笑おうとした。


 だが、声が低くなる。


「ずいぶん俺に未練あるじゃん。怖いな、宗教」


 レオは、写しを見ない。


 見れば怒りで燃やしかねないと、自分で分かっているのだろう。


 代わりに、ノアの顔を見ている。


 声が変わらないか。


 喉が詰まらないか。


 首輪の熱が強くならないか。


 ひとつひとつ確認している。


 ノアは次の頁をめくった。


 かさり、と古い紙が鳴る。


 その音に混じって、首輪の奥で黒い数字が疼いた。


 頁には、儀礼の流れが書かれていた。


 ノアは目で追い、声に出す。


「災厄の魂が転生すれば、その者は現世の名と肉体を得る。だが、現世名は仮初めであり、魂の底に眠る災厄名こそが真名である」


 レオが低く言った。


「違う」


 ノアは、少しだけ口角を上げた。


「早いな、反論」


「違うから」


「まあ、俺も今の一文は嫌い」


 ノアは指先でその行を叩いた。


「現世名は仮初め。ここ、部屋札と出席簿と同じだな。俺をノア・クロウから剥がして、イリアス・ノクスヴェルトに戻す。まず名前から」


 レオの白金の魔力が揺れる。


「戻させない」


「うん」


「ノア・クロウは仮の名じゃない」


「知ってる」


「君の今の名だ」


「知ってるって」


「何度でも言う」


「そこは知ってる」


 ノアは苦笑して、次の行を読んだ。


「現世名を剥がすには、四つを揃えるべし。本人の声、魂に刻まれた名、前世の記憶、周囲の証言」


 伴侶首輪が、強く熱を持った。


 声。


 名。


 記憶。


 証言。


 それぞれの文字に、魂糸が震える。


 ノアは息を詰めた。


 喉が急に狭くなる。


「っ……」


 短い呻きが漏れる。


 レオがすぐに水杯を取った。


「飲んで」


「まだ平気」


「平気な声じゃない」


「読書中に給水係、相変わらず過保護」


「君が読んだものが君を傷つけた」


「本ってたまにそういうもんだろ」


「これは違う」


 レオの声は硬かった。


 ノアは結局、水を受け取った。


 喉に優しい温度だった。


 腹立つほど的確だ。過保護にも技術がある。人類、そんなところを磨くな。


 水を飲んで、ノアは続きを読んだ。


「本人の声は、災厄が自ら世界へ戻ることを認める鍵である。名は、現世の殻を破り、真の災厄名へ魂を照合する道である。記憶は、魂に前世の罪を思い出させる。証言は、周囲の者がその者を災厄と認めるために必要である」


 レオの赤い糸が、ノアの周囲を包むように震えた。


 包みたい。


 隠したい。


 外へ出したくない。


 ノアにはそれが分かった。


 レオの管理範囲が、また広がろうとしている。


 声。


 名。


 記憶。


 証言。


 レオは、その全てを守ろうとするだろう。守るという言葉で、全部を閉じようとするだろう。


 ノアは写しから目を離さずに言った。


「レオ。今、俺を外に出したくないって思っただろ」


「思った」


「今後、俺が誰と話すか、誰に名前呼ばせるか、何を読むか、何を思い出すか、全部管理しようとしただろ」


「……したいと思った」


「正直でよろしい。最悪だけど」


 レオは黙った。


 ノアは頁を押さえたまま、静かに続ける。


「でも、それやると白花派と発想が近くなるぞ。俺を災厄から守るために、俺の声も名も記憶も証言も閉じる。相手は殺すために揃える。お前は守るために閉じる。方向は違うけど、俺のものを俺から遠ざけるところは似てる」


 レオの息が止まった。


 ノアは、やや掠れた声で言う。


「俺を守るなら、俺のものを俺に戻す方で頼む」


 レオはしばらく沈黙した。


 そして、低く言った。


「努力する」


「出た」


「でも、閉じたい」


「それも知ってる」


「外へ出したくない」


「知ってる」


「君をもう一度殺す儀礼だと分かって、それでも外へ出すのは怖い」


 ノアは少しだけ笑った。


 その笑いは、軽口より静かだった。


「俺も怖くないわけじゃない」


 レオが顔を上げる。


 ノアは、写しの頁を見つめたまま続けた。


「でも、部屋にいても名簿に出る。扉にも出る。出席簿にも出る。声も盗られる。つまり、閉じこもっても来る。だったら、こっちから読むし、調べるし、潰す」


 レオは何も言わない。


 ただ、赤い糸が強く震えた。


 ノアは次の頁をめくった。


 そこには、英雄についての記述があった。


 救国の英雄。


 災厄の討伐者。


 世界が選ぶ再臨の刃。


 ノアは、喉の奥が冷えるのを感じた。


「英雄の再来が再び災厄を討つことで、世界は完全に救われる……だってさ」


 レオの顔から、温度が消えた。


 ノアは写しを見つめたまま言った。


「俺を呼び戻して、もう一回殺す気か」


 声は低かった。


 軽口ではなかった。


 静かな怒りだった。


 レオが即座に答える。


「させない」


「うん」


「絶対に」


「うん」


「君を災厄として殺させない」


「……その後に、ノアとして閉じ込めない、も追加で」


 レオは一拍置いた。


「努力する」


「即答で分かったって言えないところ、正直」


「嘘は言いたくない」


「最悪に正直」


 ノアは息を吐いた。


 胸の奥が重い。


 白花派の思想は、最悪だった。


 だが、今まで起きたことと綺麗に繋がりすぎる。


 声を奪う。


 名を戻す。


 記憶を引き出す。


 周囲に証言させる。


 真儀礼。


 災厄忌。


 記録水晶。


 部屋札。


 出席簿。


 操られた生徒の口。


 全部が、同じ儀礼へ向かっている。


 ノアは写しの欄外へ目を留めた。


 そこには、本文とは違う筆跡で細かい文字が足されていた。


 黒い。


 教会古語ではない。


 魔導書系の構文。


 ノアは、指先でそこをなぞらず、目だけで追った。


 レオがすぐ気づく。


「何?」


「欄外。これ、白花派の本文じゃない」


「読める?」


「一部だけ」


 ノアは低く読んだ。


「声、名、記憶、証言は個別では弱い。四つを連結し、魂名照合へ流し込むことで、災厄再指定は安定する……」


 セドリックがいれば顔をしかめただろう。


 レオは、それ以上に冷たい顔をした。


「オルドレイス」


「たぶんな」


 ノアは欄外の文字を見た。


「白花派の儀礼に、後から誰かが術式を足してる。白花派も利用されてる可能性がある。いや、白花派の思想が最悪なのは変わらないけど」


 レオが言う。


「白花派の思想を土台に、オルドレイスが真儀礼へ加工した」


「たぶんそう。災厄をもう一度殺す、っていう宗教的願望に、魂名照合とか記録改竄とか、やけに技術的な術式が足されてる」


「だから学院名簿にも侵入できる」


「魂帳局系の構文も混ざってるしな。悪役、複数部署横断プロジェクトやめろ」


 レオは笑わなかった。


 笑える内容ではない。


 ノアも、もうあまり笑えなかった。


 けれど、笑えないまま黙ると、胸の奥の吐き気が濃くなる。


 だから頁をめくる。


 古い紙が鳴る。


 最後の頁に近づくほど、首輪の熱が強くなる。


 レオが言った。


「もうやめよう」


「あと少し」


「声が低い」


「低くもなる」


「首輪が熱い」


「それも知ってる」


「ノア」


「読む」


 レオは、唇を引き結んだ。


 止めたいのだろう。


 写しを閉じたいのだろう。


 だが、止めなかった。


 その代わり、ノアの隣へ椅子を引き寄せて座った。


 珍しく、立って覆いかぶさるのではなく、隣に座った。


 ノアは少しだけ目を細める。


「九点」


 レオがこちらを見る。


「上がった?」


「立って圧かけなかったので」


「座った」


「偉い」


「でも、閉じたい」


「それは減点候補」


「努力する」


 ノアは写しの最後の頁を開いた。


 そこには、短い文があった。


 他の頁よりも、インクが濃い。


 まるで、この部分だけ何度もなぞられたように。


 ノアは声に出した。


「儀礼を止めるには、現世名の根を見つけよ」


 静寂が落ちた。


 ノアはもう一度その行を見た。


 現世名の根。


 意味が分からない。


 ノアは首を傾げた。


「現世名の根って何だよ。名前に根菜要素あった?」


 レオは答えなかった。


 彼は写しの最後の文をじっと見つめている。


 青い瞳が、深く考え込む色へ変わっていた。


 ノアはその横顔を見る。


 レオは、ノアを閉じ込める以外の守り方を探している。


 まだ下手だ。


 まだ危うい。


 けれど、今は考えている。


 現世名の根。


 ノア・クロウという名が、ただ登録された文字ではなく、本当に今のノアへ根づいた場所。


 それを見つけなければならない。


 首輪の熱が、まだ消えない。


 白い花紋が淡く光る。


 机の上の古い写しは、沈黙したまま月明かりを浴びていた。


 レオがようやく口を開く。


「君が、ノア・クロウになった場所」


 ノアは瞬きした。


 レオはまだ写しを見ている。


「名前を与えられただけじゃない。君がその名で呼ばれ、自分で返事をして、この世界に根を張った場所」


 ノアは笑おうとした。


 けれど、うまく笑えなかった。


「……なにそれ。急に詩人?」


 レオは真面目に答えた。


「考えている」


「うん。珍しくまとも」


「閉じ込めるより、難しい」


「そりゃそうだろ」


 ノアは写しを閉じた。


 表紙の「災厄再臨儀礼」の文字が、月明かりの中で黒く沈む。


 レオは手を伸ばす前に、ちゃんと聞いた。


「喉と首輪を診てもいい?」


「読書後ケア、多い」


「君が読んだものが君を傷つけた」


「言い方が重い」


「本当だから」


「はいはい。どうぞ」


 白金の聖魔法が、喉と首輪を包んだ。


 今夜は、写しを燃やさなかった。


 声を閉じなかった。


 名を縛らなかった。


 ただ、熱を鎮める。


 それだけだった。


 ノアは、少しだけ目を閉じた。


「レオ」


「何?」


「俺をもう一回殺す儀礼なんて、絶対失敗させるぞ」


 レオの赤い糸が静かに震えた。


「うん」


「あと、俺を閉じ込める案も却下」


「……努力する」


「そこはまだ努力なんだな」


「嘘は言いたくない」


「最悪に正直」


 それでも、ノアは少しだけ笑った。


 机の上では、古い写しの最後の頁が、風もないのにかすかに揺れていた。


 現世名の根を見つけよ。


 その一文だけが、月明かりの下で薄く光っていた。




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