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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第四章 【仮の名と白い花】

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第76話 存在しない派閥



 医務室の床に落ちた白い花は、ゆっくりと黒く染まっていた。


 花弁の端から、墨を吸ったように色が変わっていく。中心だけはまだ白い。清らかなものが、汚れを隠したまま腐っていくような色だった。窓辺の治癒魔法灯が淡く揺れ、薬草と清潔な布の匂いの中に、かすかな焦げた祈祷紙の匂いが混ざる。


 ミロ・エーデンは寝台で意識を失ったままだった。


 右手首には、白い花の焼き印めいた魔法痕が封印紙越しに浮かんでいる。身体の傷ではない。魂糸の表層へ押し込まれた術式が、皮膚の上に影のように現れているのだとセドリックは言った。


 白花派。


 英雄教会の古い異端派。


 黒い災厄を完全に消すためには、災厄をもう一度世界へ呼び戻し、英雄に討たせなければならないと考えた派閥。


 その名を聞いた瞬間、若い司祭ラシェル・オルブライトの顔色は明らかに変わった。


 ほんの一瞬。


 だが、ノア・クロウも、レオ・アステルレインも、セドリック・バロウズも見逃さなかった。


 人間、顔に出さない訓練をするならもう少し頑張れ。いや、出してくれた方が助かる。矛盾? 人間の会話なんてだいたいそうだ。


 ラシェルはすぐに表情を整えた。


 白い司祭服の胸元にある英雄教会の正式聖印へ、指先が一瞬だけ触れる。無意識の動きだった。祈りというより、防御に見えた。


 セドリックが低く言った。


「白花派の印だ」


 ラシェルは息を吸う。


 その声は、整っていた。


「白花派は、とうに異端として断絶しました」


 ノアは、寝台脇の椅子に腰を預けたまま、軽く首を傾げた。


「断絶したわりに、手首に元気に咲いてたけど」


 ラシェルの唇がわずかに強張る。


 ノアは笑っている。


 けれど、首元の伴侶首輪《メイト・カラー》は冷たく熱を持っていた。白花派の名を聞くたび、首輪の白い花紋が反応する。白い花の魔法痕と、首輪の花紋がどこかで共鳴している。


 気持ちが悪い。


 花は好きでも嫌いでもなかったはずなのに、この数日で白い花を見るだけで喉が詰まりそうになる。迷惑な学習だ。脳と魂、余計なことを覚えすぎる。


 レオが、ノアのすぐ横へ立った。


 距離が近い。


 ラシェルが一歩でも近づけば、即座に遮る位置だった。


 ラシェルはそれに気づき、少しだけ眉を下げた。


「私は、ミロ君の状態を確認しに来ただけです」


 レオの声が、静かに落ちた。


「ノアの名を呼ばないでください」


 ラシェルが目を瞬かせる。


「私はまだ何も」


「呼ばないで」


 白金の魔力が、床を薄く撫でた。


 攻撃ではない。


 だが、明確な拒絶だった。


 ラシェルの呼吸が止まる。


 ノアは額を押さえた。


「王子様、会話の前に規制かけるな」


 レオはノアを見ない。


「必要だよ」


「何が」


「君の名を誰が呼ぶか」


「ついに名前の使用許可制にする気?」


「できるなら」


「できないので、諦めましょう」


「諦めたくない」


「正直で最悪」


 ノアはため息をつき、ラシェルへ視線を戻した。


「で、司祭様。白花派は存在しない。断絶した。英雄教会とは無関係。公式回答はそれでいい?」


 ラシェルは、一瞬だけ答えに詰まった。


 ノアの声が少し低くなる。


「公式じゃない方は?」


 レオの赤い糸が張る。


 ラシェルがノアを見るだけで、レオの警戒が跳ね上がる。ノアの名を呼ばせたくない。ノアに視線を向けさせたくない。ノアがラシェルと情報を交わすことすら、赤い糸の奥では嫌がっている。


 ノアは横目でレオを見た。


「レオ。今は情報を取る時間」


「分かっている」


「分かってる顔じゃない」


「嫌でも分かっている」


「そこまで言えるなら八点」


「低い?」


「今の殺気込みなら高い」


 レオは不満そうに黙った。


 ラシェルは、そのやり取りを見て、複雑な顔をした。驚き、警戒、そして少しの困惑。英雄教会の司祭として、聖魔法科の王子様が黒魔法科の平民にここまで執着している状況は、まあ、かなり理解不能だろう。理解しなくていい。現場もわりと困っている。


 セドリックが口を挟んだ。


「オルブライト司祭。あなたは白花派について知っているな」


 ラシェルは視線を落とした。


「教会史としては」


「教会史以上に、だ」


 沈黙が落ちる。


 ミロの呼吸音だけが、かすかに響いた。


 ラシェルはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。


「白花派は、英雄教会にとって恥部です」


 レオの目が細くなる。


 ノアは、軽口を挟まなかった。


 ラシェルは続ける。


「救国の英雄セラフィードを崇拝する中で、行き過ぎた者たちがいました。彼らは、英雄の救済を一度きりの出来事ではなく、世界を清め続ける儀礼と見なした。黒い災厄の死を、世界の浄化として固定しようとした」


 セドリックが問う。


「その結果が、白花派か」


「はい」


 ラシェルの声は硬かった。


「白花派は、黒い災厄の残滓を恐れました。彼らは、災厄が完全には消えていないと主張した。世界のどこかで転生し、再び災厄として目覚める可能性があると。そして、その時は英雄が再び災厄を討ち、世界を正しい形へ戻さなければならないと」


 ノアは喉の奥で笑った。


「正しい形、ね」


 レオの白金の魔力が、また冷える。


 ノアはそれに気づき、手だけで制した。


「まだ待て」


「……うん」


 レオは止まる。


 止まるが、怒りは消えない。


 ラシェルはそれを見て、苦しげに言った。


「現在の英雄教会は、その思想を認めていません。少なくとも、公式には」


「公式には」


 ノアが繰り返す。


 ラシェルは唇を引き結ぶ。


「白花派は断罪され、記録は封じられました。儀礼文、紋章、参加者名簿、すべて禁書庫へ移され、一般の司祭は閲覧できません」


 セドリックの目が鋭くなる。


「封じただけか」


 ラシェルは答えなかった。


 その沈黙が答えだった。


 ノアは椅子の背に寄りかかる。


「断絶って言いながら、記録は残した。儀礼文も残した。紋章も残した。禁書庫にしまった。つまり、使おうと思えば使える状態で保管したわけだ」


「封印です」


 ラシェルの声に、初めて少し感情が混じった。


「危険な思想を忘れないための封印です。繰り返さないために、記録を残すことは必要でした」


 ノアは静かに返す。


「その記録、誰かに使われてるけど」


 ラシェルは言葉を失った。


 レオが低く言う。


「あなたは知らなかったのですか」


「……少なくとも、今回の件は知りません」


「今回の件は」


 レオの声が冷える。


「白花派の記録が残っていることは知っていた」


 ラシェルは否定できなかった。


「若い司祭が、なぜそこまで知っている?」


 セドリックが問う。


 ラシェルは迷った。


 そして、ひどく小さな声で言った。


「私は、白花派を調べていました」


 医務室の空気がまた変わる。


 ノアは片眉を上げた。


「趣味で?」


「違います」


「じゃあ仕事で?」


「……教会内で、白花派に関する古い祈祷文が再閲覧された形跡があったからです」


 セドリックの表情が険しくなる。


「いつ」


「災厄忌の準備が始まる少し前」


 レオの赤い糸が鋭く張った。


 ノアの首輪も反応する。


 冷たい熱が首元を走り、喉が一瞬詰まった。


「っ……」


 レオがすぐ水を差し出す。


「ノア」


「大丈夫。喉がちょっと反応しただけ」


「飲んで」


「はいはい」


 水を飲むと、少し楽になる。


 ラシェルはその様子を見て、痛ましそうな顔をした。


 レオが即座に言った。


「その顔で見ないでください」


 ノアは咳き込みかけた。


「王子様、顔にも規制かけ始めた?」


「かけたい」


「こわ」


 ラシェルは視線を落とした。


「申し訳ありません」


「謝る相手と理由が渋滞してるな」


 ノアは水杯を置き、ラシェルを見る。


「で、司祭様。あなたは白花派を調べていた。でも今回の件は知らない。教会内で誰かが古い祈祷文を再閲覧した。そこまでは分かった」


「はい」


「その誰かは?」


「分かりません。閲覧記録は、途中で消されていました」


 セドリックが低く呟く。


「内部犯か、内部記録にアクセスできる外部干渉」


「どちらもあり得ます」


 ラシェルの声は苦かった。


「私が学院へ来たのは、災厄忌の儀礼監修だけが理由ではありません。白花派の痕跡が儀礼文に混じっていないか、確認するためでもありました」


 ノアは目を細める。


「それ、最初に言ってくれたら話が早かったのでは?」


 ラシェルは唇を噛む。


「英雄教会の内部問題です。学院へ不安を持ち込むべきではないと判断しました」


「持ち込まないうちに、うちの生徒の手首に花咲いてますけど」


「……判断を誤りました」


 レオの声が冷たい。


「誤りで済みません」


「分かっています」


 レオの白金の魔力が、ラシェルへ向きかけた。


 ノアがすぐに言った。


「レオ」


 レオは止まる。


 ノアは続けた。


「今ここで司祭様を責めても情報は増えない。あと、名を呼ばせたくないなら、会話を長引かせるな」


 レオは一瞬だけ黙った。


「……分かった」


「偉い。八点半」


「下がった?」


「さっき顔規制しようとしたから」


「努力する」


「便利」


 セドリックが、白花紋の封印紙を机に置いた。


「オルブライト司祭。白花派の記録を出せ」


 ラシェルは顔を上げる。


「それは教会の禁書です」


「学院の生徒が操られた。ノア・クロウの魂名照合にも関与している。禁書だろうが何だろうが、情報が必要だ」


 レオが付け加える。


「出さないなら、英雄教会そのものが白花派を庇っていると判断します」


 ラシェルの表情が揺れた。


 ノアは小さく言う。


「王子様、圧が強い」


「抑えている」


「これで?」


「かなり」


「じゃあ九点はまだ遠いな」


 ラシェルは深く息を吐いた。


「私の権限で全てを持ち出すことはできません」


 セドリックの目が冷える。


「では使えないな」


「ですが、一部の写しならあります」


 ラシェルは懐から、小さな銀の筒を取り出した。


 教会式の封印がかかっている。


「白花派の儀礼文ではありません。白花派について記した教会内の警告記録です。私が調査のために写したものです」


 ノアはそれを見た。


「持ってるじゃん」


「持っていること自体、本来は規則違反です」


「今さら規則の話する? こっちは魂を進捗管理されてるんだけど」


 ラシェルは返す言葉を失った。


 セドリックが銀筒を受け取り、封印を確認する。


「後で解析する」


 ラシェルは頷いた。


「ただし、白花派の記録には欠落があります。誰かが、重要な部分を意図的に抜き取っている」


「オルドレイス」


 ノアが低く言った。


 医務室の空気がまた揺れる。


 ラシェルが、その名に反応した。


「なぜ、その名を」


 ノアは目を細める。


「司祭様も知ってるんだ」


 ラシェルは、また失言に気づいた顔をした。


 実に分かりやすい。


 隠し事をするなら演技指導を受けてから来い。いや、受けられると困る。


 セドリックが低く問う。


「白花派の記録に、オルドレイスの名があるのか」


 ラシェルは答えない。


 だが、沈黙が長すぎた。


 レオの赤い糸が張る。


 ノアはその震えを感じながら、静かに言った。


「英雄教会全体が敵じゃない。それは分かった。でも、教会が隠してきたものの中に、今回の敵がいる。それも分かった」


 ラシェルは苦しげに目を伏せる。


「……私は、止めたいと思っています」


「なら情報を出して」


「出します。可能な範囲で」


「不可能な範囲は?」


「交渉します」


 ノアは軽く笑った。


「司祭様、ようやく話が通じてきた」


 レオが低く言う。


「ノアの名は呼ばないでください」


 ラシェルは一瞬困った顔をした。


「……分かりました」


 ノアは頭を抱えた。


「会話の締めがそれ?」


「重要だよ」


「重要だけどさぁ」


 セドリックが銀筒を机に置き、医務室の扉を見た。


「オルブライト司祭。今日はここまでだ。ミロ・エーデンについては学院が保護する。教会へは渡さない」


「承知しました」


「あなたも、今後単独行動は避けろ。白花派を探っていたなら、向こうからも見られている可能性がある」


 ラシェルは頷く。


 その顔は、さっきより少し青ざめていた。


 彼は一礼し、医務室を出ていった。


 扉が閉まる。


 医務室には、しばらく沈黙が残った。


 ノアは水杯を持ち上げる。


「存在しない派閥、だいぶ存在感あるな」


 レオは答えない。


 その代わり、ノアを見た。


「ノア」


「出た。点呼」


「ノア・クロウ」


「はいはい、います」


「君の名だ」


「知ってる」


「呼ばれたくない相手には呼ばせない」


「そこはまだ改善の余地あり」


「努力する」


「便利呪文」


 ノアは苦笑した。


 首輪の熱は、まだ少し残っている。


 だが、レオに名を呼ばれると、熱がわずかに引いた。嫌でも効果はある。悔しい。名前呼びセラピー、効くな。怖いけど。


 その日の夕方、ノアが自室へ戻ると、机の上に一冊の古い写しが置かれていた。


 扉には封印の破れた跡はない。


 窓も閉まっている。


 レオが即座に前へ出る。


「触らないで」


「言うと思った」


 ノアは机の前に立ち、写しの表紙を見る。


 羊皮紙の表紙。


 黒ずんだ白い花の紋。


 差出人はない。


 ただ、表紙に古い文字で一文が刻まれていた。


 災厄再臨儀礼。


 ノアは、喉の奥で笑った。


「存在しない派閥の資料、営業熱心すぎる」


 レオの白金の魔力が、静かに燃え上がった。




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