第75話 白花異端派
学院医務室は、いつもより静かだった。
白い石壁に、治癒魔法の淡い光が揺れている。薬草の匂いと、清潔な布の匂い。窓辺には小さな白い花が飾られていたが、今はその花すら不穏に見えた。花に罪はない。だが、ここ数日で白い花というものへの信頼度は地に落ちた。花も迷惑だろう。人間の儀礼に使われると、だいたいろくなことにならない。
寝台には、ミロ・エーデンが眠っていた。
黒魔法科一年。
つい先ほど、名の固定訓練中にノア・クロウを「イリアス」と呼んだ生徒。
今は意識を失っている。呼吸は落ち着いていた。アイリスの治癒魔法とセドリックの封印で、魂糸の乱れは抑えられているらしい。だが右手首には、まだ白い花の魔法痕が残っていた。
焼き印のような痕だった。
皮膚を焼いたわけではない。肉体そのものに傷を刻んだ痕ではなく、魂糸の表層へ押された魔法痕が、皮膚の上に浮かび出ている。薄く白く、けれど縁だけが黒い。
五枚の花弁。
中心には、英雄教会の聖印に似た小さな点。
だが、形が違う。
ノアは寝台の脇に立ち、それを見下ろしていた。
首元の伴侶首輪が、冷たく熱を持っている。
さっき、前世名で呼ばれた瞬間から、熱が引ききらない。喉の奥にも違和感が残っている。重度反応ではない。倒れるほどでもない。だが、ずっと小さな棘を飲み込んだような不快感がある。
ノアは軽く笑った。
「花モチーフ、もうお腹いっぱいなんだけど」
レオ・アステルレインは、隣で笑わなかった。
当然だ。
彼の青い瞳は、ミロの手首ではなく、その白い花の魔法痕を射抜いている。白金の魔力が静かに揺れていた。怒りを抑えている時の揺れ方だ。
セドリック・バロウズは、医務室の机に封印紙と解析紙を広げていた。アイリスは少し離れた場所で、ミロの呼吸と魔力の流れを見守っている。ルカも壁際に立っていた。彼は落ち着かない様子で腕を組み、何度もミロの方を見ている。
セドリックが、白い花の痕を黒魔法の線でなぞった。
魔法痕が、わずかに反応する。
白い花弁の縁が黒く滲んだ。
セドリックの顔が険しくなる。
「英雄教会の正式紋章ではない」
レオが低く言う。
「似せているだけですか」
「似せているというより、古い。現在の英雄教会が使っている清浄紋より前の形式だ」
ノアは首を傾げた。
「古い白い花。だいぶ嫌な響き」
「白花派」
セドリックが言った。
医務室の空気が一段冷えた。
アイリスが小さく息を呑む。
ルカが眉を寄せる。
「白花派?」
セドリックは頷いた。
「英雄教会の古い異端派だ。表向きは百年以上前に解体されたことになっている。教会正史では、過激な儀礼主義者の小派閥として処理されている」
ノアは顔をしかめる。
「異端派って、だいたい処理されたことになってるよな。処理できてないから今ここで花が咲いてるんだろうけど」
「その通りだ」
「嫌な同意」
セドリックは解析紙に、五枚花弁の図を描いた。
「白花派は、黒い災厄を完全に消すには、災厄をもう一度世界へ呼び戻し、救国の英雄に討たせる必要があると考えていた」
その言葉が落ちた瞬間、レオの魔力が凍った。
白金の光が、医務室の床を薄く走る。
攻撃ではない。
だが、空気が痛い。
ノアの首輪がそれに反応し、冷たい熱を増した。
「っ……」
喉の奥が詰まる。
ノアは首元に手を当てた。
レオがすぐにこちらを見る。
「ノア」
「大丈夫。まだ軽い」
「軽くない」
「俺基準だと軽い」
「その基準を捨てて」
「最近、基準が仕事してないんだよ」
ノアは無理に笑い、セドリックへ視線を戻した。
「で? わざわざ呼び戻して殺すとか、効率悪い宗教だな」
レオの声が、低く落ちる。
「笑えない」
ノアは唇の端を上げたまま答えた。
「笑ってないと吐き気する」
実際、胸の奥が気持ち悪かった。
災厄をもう一度呼び戻す。
英雄に討たせる。
その言葉は、レオだけでなくノアにも刺さった。前世の死を儀礼として繰り返す。イリアス・ノクスヴェルトを再び舞台に上げ、セラフィード・ルミナリアに相当する存在へ討たせる。現世では、それがノアとレオになる。
吐き気がする。
当たり前だ。
人の死を世界の掃除みたいに扱うな。しかも再演するな。そんなに舞台が好きなら、自分たちで踊っていればいい。巻き込むな。
レオが水を差し出した。
いつ用意したのか分からない。
「飲んで」
ノアは水杯を見た。
「顔に出てた?」
「声に出ていた」
「便利すぎるな、お前の声診断」
「君の吐き気は分かる」
「そこまで分からなくていい」
ノアは水を受け取った。
喉に優しい温度。
腹立つほど的確だ。
飲むと、喉の詰まりが少しだけ和らいだ。
セドリックは話を続ける。
「白花派の思想では、黒い災厄の死は一度きりでは不完全だった。災厄が転生する可能性、残響として世界に残る可能性を恐れ、もし再来した場合は、再び英雄の手で討つことで完全消滅させるべきだと主張していた」
ノアは乾いた声で言う。
「復活させてから消す。害虫駆除のために害虫を培養するタイプ?」
「喩えは悪いが、方向性は近い」
「先生もそこ認めるんだ」
レオの白金の魔力が、さらに冷えた。
「僕を英雄役に戻すつもりか」
その声に、医務室の誰もすぐ答えられなかった。
レオは静かに続ける。
「ノアを災厄として呼び戻し、僕に討たせる。世界はそれで安心する。英雄教会は儀礼を完成させる。白花派は自分たちの正しさを証明する」
レオの青い瞳が、氷のように冷たくなる。
「ふざけるな」
怒鳴ってはいない。
むしろ、声は低く静かだった。
だからこそ、医務室全体が震えるようだった。
ノアは横目でレオを見る。
レオの怒りは、ノアを守るためだけではない。
自分をまた英雄役に押し戻そうとする世界への怒りだ。
愛した相手を殺した傷を、救国の英雄という名で祀られた怒り。現世でようやくノアを見つけたのに、また「英雄」と「災厄」の構図へ押し込められそうになる恐怖。
レオの赤い糸が、痛むように張っている。
ノアは静かに言った。
「レオ」
レオの視線がこちらへ向く。
「俺は、今ここで寝台に寝てるミロを焼けって言ってない」
「分かっている」
「白花派ってやつがいるとして、怒る相手を間違えるなよ」
「分かっている」
「ほんとに?」
レオは少しだけ黙った。
「……努力する」
「出た。便利呪文」
ノアは、わざと軽く言った。
レオの魔力が、ほんの少しだけ落ち着く。
セドリックがノアを見る。
「お前も反応が出ている。無理に喋るな」
「喋らないと空気が終わるんで」
「もう終わっている」
「追い打ちしないでください」
アイリスがミロの手首を見つめ、震える声で言った。
「あの、白花派って……今も英雄教会の中にいるんですか」
セドリックは少しだけ間を置いた。
「断定はできない。公式には存在しない。白花派の教義も儀礼も、現在の英雄教会では禁じられているはずだ」
「はず」
ルカが低く呟く。
「その“はず”ってやつ、最近だいたい外れてる気がするんだけど」
「否定はできない」
「嫌な返事だな」
セドリックは封印紙に白花紋の写しを取った。
「英雄教会全体が敵とは限らない。むしろ、現在の教会本体も利用されている可能性がある。ラシェル・オルブライト司祭がどこまで知っているかも不明だ」
ノアは椅子の背に寄りかかった。
「知らないか、知ってて隠してるか」
「どちらもあり得る」
「司祭様、顔に出やすそうだけどな」
「見た目で判断するな」
「先生、俺の軽口に真面目に返しすぎ」
「お前の軽口は時々核心を突く」
「それ褒めてます?」
「注意している」
「ひどい」
レオは、まだ白花紋を見ていた。
ノアはその横顔を見て、少しだけ声を静かにした。
「笑ってないと吐き気するって言ったけどさ」
レオがノアを見る。
「俺も嫌だよ。もう一回災厄にして、もう一回殺すとか。そんな儀礼、趣味悪いどころじゃない」
喉が詰まる。
首輪が白花紋に共鳴して冷たく熱を持つ。
それでもノアは言った。
「だから、こっちから潰す。俺を呼び戻すとか、勝手に舞台へ上げるとか、名前も声も記憶も使うとか。全部、料金未払いの迷惑行為として処理する」
ルカがぽつりと言った。
「料金未払いなんだ」
「大事だろ」
「そこか?」
「無断利用は駄目ですー」
アイリスが少しだけ笑った。
その笑いで、医務室の空気がわずかに緩む。
レオの赤い糸も、ほんの少しだけ緩んだ。
セドリックが封印紙を畳む。
「ラシェルを呼ぶ。白花派の名を出して反応を見る」
「尋問?」
「事情聴取だ」
「言い方」
「黙っていろ」
「はいはい」
ラシェル・オルブライトが医務室へ来たのは、それからほどなくしてだった。
白い司祭服に、英雄教会の正式な聖印。若く、整った顔には疲れが滲んでいる。災厄忌の事件以来、彼も眠れていないのだろう。ノアたちを見た瞬間、彼は深く頭を下げた。
「ミロ・エーデン君の容体は」
「命に別状はない」
セドリックが答える。
「だが、手首に魔法痕がある」
ラシェルの視線が、ミロの手首へ向いた。
封印紙の隙間から、白い花の痕がわずかに見える。
ラシェルの顔色が変わった。
ほんの一瞬。
だが、確かに変わった。
ノアはそれを見逃さなかった。
レオも見逃さなかった。
セドリックが低く言う。
「白花派の印だ」
ラシェルは、息を呑んだ。
そして、すぐに表情を整えた。
「そんな派閥はもう存在しません」
声は落ち着いている。
だが、完全ではない。
指先がわずかに震えていた。
ノアは軽く首を傾げる。
「存在しない派閥の印が、今朝、生徒の手首に咲いてたんですけどね。花って勝手に咲くんだ。便利」
ラシェルは唇を引き結ぶ。
「白花派は、教会史の中で断罪され、解体された異端です。現在の英雄教会とは関係ありません」
レオの声が冷えた。
「では、なぜその印を見て顔色を変えたのですか」
ラシェルは答えなかった。
沈黙が落ちる。
医務室の白い花が、窓辺で揺れた。
その時だった。
ラシェルの背後。
医務室の床に、いつの間にか白い花が一輪落ちていた。
誰も置いていない。
誰も持ち込んでいない。
その花弁が、端からゆっくり黒く染まっていく。
ノアの伴侶首輪が、冷たく熱を持った。
レオの赤い糸が、鋭く張った。
ラシェルは振り返り、その花を見た。
今度こそ、隠しきれないほど顔色を失った。




