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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第四章 【仮の名と白い花】

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第75話 白花異端派

 学院医務室は、いつもより静かだった。


 白い石壁に、治癒魔法の淡い光が揺れている。薬草の匂いと、清潔な布の匂い。窓辺には小さな白い花が飾られていたが、今はその花すら不穏に見えた。花に罪はない。だが、ここ数日で白い花というものへの信頼度は地に落ちた。花も迷惑だろう。人間の儀礼に使われると、だいたいろくなことにならない。


 寝台には、ミロ・エーデンが眠っていた。


 黒魔法科一年。


 つい先ほど、名の固定訓練中にノア・クロウを「イリアス」と呼んだ生徒。


 今は意識を失っている。呼吸は落ち着いていた。アイリスの治癒魔法とセドリックの封印で、魂糸の乱れは抑えられているらしい。だが右手首には、まだ白い花の魔法痕が残っていた。


 焼き印のような痕だった。


 皮膚を焼いたわけではない。肉体そのものに傷を刻んだ痕ではなく、魂糸の表層へ押された魔法痕が、皮膚の上に浮かび出ている。薄く白く、けれど縁だけが黒い。


 五枚の花弁。


 中心には、英雄教会の聖印に似た小さな点。


 だが、形が違う。


 ノアは寝台の脇に立ち、それを見下ろしていた。


 首元の伴侶首輪《メイト・カラー》が、冷たく熱を持っている。


 さっき、前世名で呼ばれた瞬間から、熱が引ききらない。喉の奥にも違和感が残っている。重度反応ではない。倒れるほどでもない。だが、ずっと小さな棘を飲み込んだような不快感がある。


 ノアは軽く笑った。


「花モチーフ、もうお腹いっぱいなんだけど」


 レオ・アステルレインは、隣で笑わなかった。


 当然だ。


 彼の青い瞳は、ミロの手首ではなく、その白い花の魔法痕を射抜いている。白金の魔力が静かに揺れていた。怒りを抑えている時の揺れ方だ。


 セドリック・バロウズは、医務室の机に封印紙と解析紙を広げていた。アイリスは少し離れた場所で、ミロの呼吸と魔力の流れを見守っている。ルカも壁際に立っていた。彼は落ち着かない様子で腕を組み、何度もミロの方を見ている。


 セドリックが、白い花の痕を黒魔法の線でなぞった。


 魔法痕が、わずかに反応する。


 白い花弁の縁が黒く滲んだ。


 セドリックの顔が険しくなる。


「英雄教会の正式紋章ではない」


 レオが低く言う。


「似せているだけですか」


「似せているというより、古い。現在の英雄教会が使っている清浄紋より前の形式だ」


 ノアは首を傾げた。


「古い白い花。だいぶ嫌な響き」


「白花派」


 セドリックが言った。


 医務室の空気が一段冷えた。


 アイリスが小さく息を呑む。


 ルカが眉を寄せる。


「白花派?」


 セドリックは頷いた。


「英雄教会の古い異端派だ。表向きは百年以上前に解体されたことになっている。教会正史では、過激な儀礼主義者の小派閥として処理されている」


 ノアは顔をしかめる。


「異端派って、だいたい処理されたことになってるよな。処理できてないから今ここで花が咲いてるんだろうけど」


「その通りだ」


「嫌な同意」


 セドリックは解析紙に、五枚花弁の図を描いた。


「白花派は、黒い災厄を完全に消すには、災厄をもう一度世界へ呼び戻し、救国の英雄に討たせる必要があると考えていた」


 その言葉が落ちた瞬間、レオの魔力が凍った。


 白金の光が、医務室の床を薄く走る。


 攻撃ではない。


 だが、空気が痛い。


 ノアの首輪がそれに反応し、冷たい熱を増した。


「っ……」


 喉の奥が詰まる。


 ノアは首元に手を当てた。


 レオがすぐにこちらを見る。


「ノア」


「大丈夫。まだ軽い」


「軽くない」


「俺基準だと軽い」


「その基準を捨てて」


「最近、基準が仕事してないんだよ」


 ノアは無理に笑い、セドリックへ視線を戻した。


「で? わざわざ呼び戻して殺すとか、効率悪い宗教だな」


 レオの声が、低く落ちる。


「笑えない」


 ノアは唇の端を上げたまま答えた。


「笑ってないと吐き気する」


 実際、胸の奥が気持ち悪かった。


 災厄をもう一度呼び戻す。


 英雄に討たせる。


 その言葉は、レオだけでなくノアにも刺さった。前世の死を儀礼として繰り返す。イリアス・ノクスヴェルトを再び舞台に上げ、セラフィード・ルミナリアに相当する存在へ討たせる。現世では、それがノアとレオになる。


 吐き気がする。


 当たり前だ。


 人の死を世界の掃除みたいに扱うな。しかも再演するな。そんなに舞台が好きなら、自分たちで踊っていればいい。巻き込むな。


 レオが水を差し出した。


 いつ用意したのか分からない。


「飲んで」


 ノアは水杯を見た。


「顔に出てた?」


「声に出ていた」


「便利すぎるな、お前の声診断」


「君の吐き気は分かる」


「そこまで分からなくていい」


 ノアは水を受け取った。


 喉に優しい温度。


 腹立つほど的確だ。


 飲むと、喉の詰まりが少しだけ和らいだ。


 セドリックは話を続ける。


「白花派の思想では、黒い災厄の死は一度きりでは不完全だった。災厄が転生する可能性、残響として世界に残る可能性を恐れ、もし再来した場合は、再び英雄の手で討つことで完全消滅させるべきだと主張していた」


 ノアは乾いた声で言う。


「復活させてから消す。害虫駆除のために害虫を培養するタイプ?」


「喩えは悪いが、方向性は近い」


「先生もそこ認めるんだ」


 レオの白金の魔力が、さらに冷えた。


「僕を英雄役に戻すつもりか」


 その声に、医務室の誰もすぐ答えられなかった。


 レオは静かに続ける。


「ノアを災厄として呼び戻し、僕に討たせる。世界はそれで安心する。英雄教会は儀礼を完成させる。白花派は自分たちの正しさを証明する」


 レオの青い瞳が、氷のように冷たくなる。


「ふざけるな」


 怒鳴ってはいない。


 むしろ、声は低く静かだった。


 だからこそ、医務室全体が震えるようだった。


 ノアは横目でレオを見る。


 レオの怒りは、ノアを守るためだけではない。


 自分をまた英雄役に押し戻そうとする世界への怒りだ。


 愛した相手を殺した傷を、救国の英雄という名で祀られた怒り。現世でようやくノアを見つけたのに、また「英雄」と「災厄」の構図へ押し込められそうになる恐怖。


 レオの赤い糸が、痛むように張っている。


 ノアは静かに言った。


「レオ」


 レオの視線がこちらへ向く。


「俺は、今ここで寝台に寝てるミロを焼けって言ってない」


「分かっている」


「白花派ってやつがいるとして、怒る相手を間違えるなよ」


「分かっている」


「ほんとに?」


 レオは少しだけ黙った。


「……努力する」


「出た。便利呪文」


 ノアは、わざと軽く言った。


 レオの魔力が、ほんの少しだけ落ち着く。


 セドリックがノアを見る。


「お前も反応が出ている。無理に喋るな」


「喋らないと空気が終わるんで」


「もう終わっている」


「追い打ちしないでください」


 アイリスがミロの手首を見つめ、震える声で言った。


「あの、白花派って……今も英雄教会の中にいるんですか」


 セドリックは少しだけ間を置いた。


「断定はできない。公式には存在しない。白花派の教義も儀礼も、現在の英雄教会では禁じられているはずだ」


「はず」


 ルカが低く呟く。


「その“はず”ってやつ、最近だいたい外れてる気がするんだけど」


「否定はできない」


「嫌な返事だな」


 セドリックは封印紙に白花紋の写しを取った。


「英雄教会全体が敵とは限らない。むしろ、現在の教会本体も利用されている可能性がある。ラシェル・オルブライト司祭がどこまで知っているかも不明だ」


 ノアは椅子の背に寄りかかった。


「知らないか、知ってて隠してるか」


「どちらもあり得る」


「司祭様、顔に出やすそうだけどな」


「見た目で判断するな」


「先生、俺の軽口に真面目に返しすぎ」


「お前の軽口は時々核心を突く」


「それ褒めてます?」


「注意している」


「ひどい」


 レオは、まだ白花紋を見ていた。


 ノアはその横顔を見て、少しだけ声を静かにした。


「笑ってないと吐き気するって言ったけどさ」


 レオがノアを見る。


「俺も嫌だよ。もう一回災厄にして、もう一回殺すとか。そんな儀礼、趣味悪いどころじゃない」


 喉が詰まる。


 首輪が白花紋に共鳴して冷たく熱を持つ。


 それでもノアは言った。


「だから、こっちから潰す。俺を呼び戻すとか、勝手に舞台へ上げるとか、名前も声も記憶も使うとか。全部、料金未払いの迷惑行為として処理する」


 ルカがぽつりと言った。


「料金未払いなんだ」


「大事だろ」


「そこか?」


「無断利用は駄目ですー」


 アイリスが少しだけ笑った。


 その笑いで、医務室の空気がわずかに緩む。


 レオの赤い糸も、ほんの少しだけ緩んだ。


 セドリックが封印紙を畳む。


「ラシェルを呼ぶ。白花派の名を出して反応を見る」


「尋問?」


「事情聴取だ」


「言い方」


「黙っていろ」


「はいはい」


 ラシェル・オルブライトが医務室へ来たのは、それからほどなくしてだった。


 白い司祭服に、英雄教会の正式な聖印。若く、整った顔には疲れが滲んでいる。災厄忌の事件以来、彼も眠れていないのだろう。ノアたちを見た瞬間、彼は深く頭を下げた。


「ミロ・エーデン君の容体は」


「命に別状はない」


 セドリックが答える。


「だが、手首に魔法痕がある」


 ラシェルの視線が、ミロの手首へ向いた。


 封印紙の隙間から、白い花の痕がわずかに見える。


 ラシェルの顔色が変わった。


 ほんの一瞬。


 だが、確かに変わった。


 ノアはそれを見逃さなかった。


 レオも見逃さなかった。


 セドリックが低く言う。


「白花派の印だ」


 ラシェルは、息を呑んだ。


 そして、すぐに表情を整えた。


「そんな派閥はもう存在しません」


 声は落ち着いている。


 だが、完全ではない。


 指先がわずかに震えていた。


 ノアは軽く首を傾げる。


「存在しない派閥の印が、今朝、生徒の手首に咲いてたんですけどね。花って勝手に咲くんだ。便利」


 ラシェルは唇を引き結ぶ。


「白花派は、教会史の中で断罪され、解体された異端です。現在の英雄教会とは関係ありません」


 レオの声が冷えた。


「では、なぜその印を見て顔色を変えたのですか」


 ラシェルは答えなかった。


 沈黙が落ちる。


 医務室の白い花が、窓辺で揺れた。


 その時だった。


 ラシェルの背後。


 医務室の床に、いつの間にか白い花が一輪落ちていた。


 誰も置いていない。


 誰も持ち込んでいない。


 その花弁が、端からゆっくり黒く染まっていく。


 ノアの伴侶首輪が、冷たく熱を持った。


 レオの赤い糸が、鋭く張った。


 ラシェルは振り返り、その花を見た。


 今度こそ、隠しきれないほど顔色を失った。




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