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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第四章 【仮の名と白い花】

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第74話 イリアスと呼んだ生徒


 黒魔法科の制御訓練室に、その一言が落ちた。


「イリアス」


 声は大きくなかった。


 むしろ、かすれていた。喉の奥から無理やり引きずり出されたような、薄い声だった。


 それなのに、部屋中の空気が凍った。


 さっきまで、何度も呼ばれていた。


 ノア。


 ノア・クロウ。


 黒魔法科のノア。


 教師が呼び、友人が呼び、同級生たちがぎこちなく呼ぶたびに、伴侶首輪《メイト・カラー》の熱は少しずつ引いていた。首輪の内側に浮かんでいた黒い数字、一パーセントの輪郭も、ほんの少しだけ薄れていた。


 名を呼ばれる。


 返事をする。


 ただそれだけの授業が、今のノアには魂を現世へ縫い止める作業になっていた。


 それを、たった一言が引き裂いた。


 イリアス。


 前世名。


 黒い災厄の名。


 ノア・クロウではない名。


 ノアの首元が、灼けるように熱を持った。


「っ……」


 喉が詰まる。


 胸の奥を強く引かれる。目の焦点が一瞬だけ遠のき、瞳孔が開く。視界の端で、制御訓練室の黒い石壁が、前世の黒い荒野の色に滲んだ。


 ノアは机も椅子もない訓練室の中央で、半歩だけ足を引いた。


 膝が揺れる。


 だが崩れない。


 奥歯を噛み、首元に手を添える。熱い。けれど、まだ耐えられる。重度ではない。中度。胸の奥の引き込み、喉の詰まり、短い呻き。まだ、自分の足で立っている。


 ノアは、白く濁った目の生徒を見た。


 ミロ・エーデン。


 黒魔法科一年。


 普段は目立たない。授業では静かで、必要以上に人と話さない。さっきも、一度だけ小さく「ノア・クロウ」と呼んだだけだった。その時の声には、恐れも迷いもあったが、悪意はなかった。


 今の彼の瞳には、何もない。


 白く濁っている。


 焦点が合っていない。


 まるで、誰かが彼の口だけを借りているようだった。


 ノアは笑った。


 唇の端だけを上げる。


「違うな。惜しくもない」


 声は低かった。


 教室の空気が、さらに張り詰める。


 ミロの唇が、また動こうとした。


 その瞬間、制御訓練室の外で白金の魔力が爆ぜた。


 扉が開く。


 いや、開いたというより、押し開けられた。


 レオ・アステルレインが飛び込んできた。


 聖魔法科の制服を乱さず、息すら乱していない。だが、その青い瞳には明確な殺気があった。白金の魔力が背後で静かに燃え、赤い糸が鋭く張り詰めている。


 制御訓練室にいた生徒たちが、息を呑んだ。


 ルカが反射的に一歩退く。


 アイリスが口元を押さえる。


 セドリックが低く叫んだ。


「アステルレイン、止まれ」


 レオは止まらなかった。


 まっすぐ、ミロへ向かう。


 足音は静かだった。


 だから余計に怖い。


 怒鳴らない。荒げない。唇には、かすかな微笑すら残っている。それなのに、白金の魔力は今にもミロの魂ごと焼き切りそうな冷たさを帯びていた。


 ノアは即座に動いた。


 首輪が熱い。


 喉が詰まる。


 胸の奥をイリアスの名に引かれながら、それでもレオの前へ出る。


「操られてるだけだ。殺すな」


 レオの足が止まった。


 ほんのわずか。


 だが止まった。


 青い瞳がノアを見る。


「君を呼んだ」


「俺じゃない名前でな」


「それでも、君に向けた」


「向けさせられたんだろ」


 レオの赤い糸が、激しく震えた。


 殺したい。


 消したい。


 ノアをその名で呼んだ口を、声を、記録ごと消したい。


 そんな感情が流れ込んでくる。


 ノアは首元を押さえながら、レオを睨んだ。


「レオ。見る場所を間違えるな」


「僕は」


「ミロじゃない。あいつを使ってる術式だ」


 レオの視線が、ようやくミロの手元へ落ちた。


 ミロの右手首。


 制服の袖口から、薄い光が漏れている。


 白い花のような紋。


 花弁が五枚。中心には小さな聖印に似た点がある。だが、英雄教会の正式な紋章とは違う。線が古い。祈祷文の流れが歪んでいる。清らかな花を装いながら、輪郭に黒い棘が混ざっていた。


 セドリックが黒魔法で床へ制御陣を走らせた。


「全員、下がれ。エーデンに近づくな」


 ミロの身体が、びくりと震える。


 白く濁った目がノアを向いたまま、唇がまた動く。


「イリ……」


 ノアの首輪がさらに熱を持った。


 黒い数字が、首輪の内側でちらつく。


 一パーセント。


 それが、一瞬だけ濃くなる。


 照合率が進みかけている。


 前世名を他人の口から呼ばれる。


 それだけで、魂糸が引っ張られる。


 ノアは息を詰めた。


「ぐ……っ」


 短い呻きが漏れる。


 レオの白金の魔力が、一気に高まった。


 ノアは振り返らずに言う。


「殺すなって言った」


「苦しんでいる」


「だからって相手を焼くな。俺の名前を間違えたやつ全員焼いてたら学院が更地になる」


「構わない」


「構え」


 ノアは低く言い切った。


「俺が構う」


 レオが息を止める。


 その隙に、セドリックの黒魔法がミロの足元を囲んだ。黒い糸のような魔法陣が床から立ち上がり、ミロの身体を縛るのではなく、彼の手首に刻まれた白い花紋を隔離する。


 ミロの背筋が跳ねた。


 白く濁った瞳から、涙のような光が一筋落ちる。


 アイリスが小さく悲鳴を上げかけ、口を押さえた。


 ルカが歯を食いしばる。


「操られてるって、どういうことだよ」


 セドリックが答える。


「口を使われている。本人の意識は奥へ押し込まれている状態だ。声帯と魂糸の表層だけを動かされている」


「そんなことできるのか」


「できているから厄介なんだ」


 セドリックの声は冷静だった。


 だが、目は怒っていた。


 ノアはミロを見た。


 操られている。


 名前の固定訓練が、逆に攻撃へ転用された。


 周囲がノアの名を呼ぶことで現世名を補強できる。なら、敵は周囲の口を奪い、前世名を呼ばせればいい。単純で、最悪で、よくできている。


 敵の発想がいちいち陰湿だ。


 人の口まで道具にするな。口は飯を食うためと、くだらない軽口を叩くためにある。儀礼の道具にするな。まったく、世界はどうしてこう丁寧に嫌な方向へ発展するのか。


 ミロの唇が震えた。


 また、前世名を呼ぼうとしている。


 ノアは一歩前へ出た。


 レオがすぐ腕を伸ばしかける。


「ノア」


「止めるな」


「近づかないで」


「俺に向けられてる術式だ。俺が拒否した方が早い」


「危険だ」


「分かってる」


「なら」


「レオ」


 ノアは振り返った。


 声は掠れている。


 けれど、低く強かった。


「俺の名前は?」


 レオの喉が動く。


 ほんの一瞬、彼の青い目が揺れた。


 そして、答える。


「ノア・クロウ」


 赤い糸が震える。


 ノアは頷いた。


「よし」


 前へ出る。


 首輪が灼けるように熱い。瞳孔が少し開く。喉が詰まる。胸の奥で、イリアスという名前が鎖のように引く。


 それでも、ノアはミロの前に立った。


 白く濁った瞳が、ノアを見る。


 ミロの口が開く。


「イリアス」


 ノアは、真っ直ぐ返した。


「違う」


 その声は、軽くなかった。


「俺はノア・クロウだ」


 制御訓練室の床が、淡く震える。


 伴侶首輪の白い花紋が光った。


 黒い数字が薄れる。


 ミロの手首の白い花紋が、ぴしりと軋んだ。


 ノアは続ける。


「黒魔法科一年、ノア・クロウ。天才ちゃんで、入学初月から事件に巻き込まれすぎて、出席簿にも部屋札にも嫌がらせされてる、かなり可哀想な新入生ですー」


 ルカが小さく吹き出しかけ、すぐ口を押さえた。


 アイリスの目が少し潤んだ。


 セドリックは眉間に皺を寄せる。


「余計な情報が多い」


「自己紹介は個性が大事って言ったじゃないですか」


「言っていない」


「心の中で」


「捏造するな」


 ミロの唇が震える。


 白い花紋が、ノアの言葉に反発するように光った。


 今度は、ミロ自身の声ではないものが混じる。


「黒い災厄……」


 レオの白金の魔力が、また膨れ上がった。


 ノアは片手を後ろへ出して制する。


「レオ」


「……分かっている」


「分かってる顔じゃない」


「努力している」


「なら待て」


 ノアはミロへ向き直る。


「黒い災厄じゃない。いや、百歩譲って前世のあれこれを持ち出すにしても、今ここで授業受けてる俺はノア・クロウだ。残念でしたー」


 白い花紋がひび割れた。


 セドリックがその瞬間を逃さなかった。


「今だ」


 黒魔法の封印線がミロの手首へ絡む。


 縛るのではない。


 花紋だけを囲う。


 白い花紋がじゅ、と音を立てた。焼ける音ではなく、古い紙に水が染み込むような音だった。花弁の形が崩れ、黒い棘のような線が浮き上がる。


 ミロの身体が大きく震えた。


 白く濁った瞳が、一瞬だけ元の色を取り戻す。


「え……?」


 彼の声は、か細かった。


 何も分かっていない声だった。


 ノアはすぐに言った。


「ミロ。自分の名前言えるか」


 ミロはぼんやりと瞬きする。


「ミロ……エーデン」


「よし。自分の名前は?」


「ミロ・エーデン」


「俺の名前は?」


 ミロは唇を震わせた。


 白い花紋の残滓が、まだ手首で光っている。


 だが、今度は彼自身の声だった。


「ノア……クロウ」


 首輪の熱が少し引いた。


 ノアは息を吐く。


「正解。百点」


 ミロはその場に崩れ落ちそうになり、セドリックの黒魔法に支えられた。


 アイリスがすぐに駆け寄りかけ、セドリックが止める。


「まだ触るな。術式の残滓がある」


「でも」


「治癒は私の封印後だ」


 アイリスは唇を噛んで頷いた。


 レオは、まだ動かない。


 動かないようにしている。


 白金の魔力が、彼の周囲で静かに揺れている。ミロを焼きたくて仕方がないのではない。ミロを使った術式そのものを、学院ごと抉り出したいのだろう。ノアには分かる。


 だが、レオは踏みとどまっている。


 ノアに止められたから。


 操られているだけだと、言われたから。


 ノアは振り返った。


「レオ」


 レオの視線がノアへ戻る。


「殺さなかったな」


「殺したくはなった」


「正直」


「でも、殺さなかった」


「九点」


 レオの目が、ほんの少しだけ揺れた。


 今この状況で点数を気にするな。いや、気にしてくれた方がまだ安全かもしれない。面倒な男である。


 セドリックは、ミロの手首へ封印紙を巻きつけた。


 白い花紋が浮かび上がる。


 正式な英雄教会の紋章ではない。


 それに似せているが、違う。


 花弁は五枚。中心の聖印は逆向きに捻じれ、古い祈祷文の線が棘のように曲がっている。英雄教会が現在使う清浄紋ではなく、もっと古い、異端に近い系統。


 セドリックの表情が険しくなる。


「英雄教会の正式紋章ではない」


 ラシェルの名を出す者はいなかった。


 けれど、全員が思い浮かべた。


 英雄教会。


 災厄忌。


 真儀礼。


 白い花。


 そして、古い異端派。


 ノアはミロの手首を見下ろした。


 喉はまだ痛む。


 首輪も熱い。


 照合率は、ほんの一瞬上がりかけたが、レオと周囲の呼び直しで抑え込めたようだった。黒い数字は濃くならず、薄いままだ。


 それでも、敵の手は分かった。


 他者の口を使える。


 名前の認識補強は、防御になる。


 同時に、攻撃にもなる。


 ノアは、低く笑った。


「口を借りるなら、せめて使用料払えって話だな」


 セドリックが呆れたように見る。


「その軽口が出るなら倒れはしないな」


「倒れたら王子様が暴走するので」


「それは困る」


「俺も困ります」


 レオが静かに言った。


「暴走はしない」


 ノアは横目で見た。


「今の言い方、説得力三点」


「低い」


「殺気出してたからな」


「君を呼んだ」


「俺じゃない名前でな」


「それでも、嫌だった」


「知ってる」


 ノアは首元を押さえながら、ミロの手首に残る白い花の焼き印のような魔法痕を見た。


 その紋章は、封印紙の下でまだ微かに光っている。


 白い花。


 英雄教会に似ていて、英雄教会ではない。


 古い異端派の紋章。


 敵の根は、また一つ深くなった。




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