第73話 名前を呼ぶ授業
セドリック・バロウズの研究室は、朝から紙と魔力の匂いで満ちていた。
机の上には、魔導名簿の写し、部屋札の反応記録、出席簿の封印紙、白い儀礼花の花弁、記録水晶の破片が並んでいる。黒い糸で留められた解析紙の上には、複雑な円と矢印が走り、ところどころに赤い印が打たれていた。
真面目な教師の研究室というより、事件現場をそのまま机に広げたような有様である。
教育とは何か。
少なくとも、朝から魂名照合率を見ながら水を飲むことではない。人類、学校の役割を盛りすぎだ。
ノア・クロウは椅子に座り、首元に手を当てていた。
伴侶首輪の内側に浮かんだ黒い数字は、昨夜から消えていない。
一。
照合率一パーセント。
たった一パーセント。
だが、首輪に刻まれたその数字は、やたらと存在感があった。健康診断の異常値より腹立たしい。魂に進捗表示を出すな。仕様設計者を呼べ。たぶん性格が悪い。
レオ・アステルレインは、ノアの隣に立っている。
近い。
昨日より近い。
心配、警戒、独占欲、全部を煮込んで白金の魔力で飾ったような距離感だった。
セドリックは、解析紙に目を落としたまま言った。
「照合率を止めるには、現世名の認識補強が必要だ」
ノアは片眉を上げる。
「認識補強」
「お前が自分をノア・クロウだと認識するだけでは足りない。周囲が、お前をノア・クロウとして呼び、認識し、記録する必要がある」
「つまり、俺の名前をみんなで呼ぼうキャンペーン?」
「言い方は腹立たしいが、だいたいそうだ」
「先生、腹立たしいって言葉好きですね」
「お前がそういう言い方をするからだ」
セドリックは黒い羽根ペンで紙を叩いた。
「真儀礼は声、名、記憶、証言を揃えようとしている。声は破壊できた。証言は記録水晶の改竄を止めた。記憶は本人の拒絶で押し返している。だが名だけは、学院の記録基盤へ深く食い込まれている」
レオの赤い糸が、ぴんと張った。
「僕が呼びます」
即答だった。
セドリックは顔を上げた。
「お前だけでは足りない」
レオの表情が、分かりやすく嫌そうになった。
ノアは横で笑った。
「独占欲、試練の時間だな」
レオはノアを見た。
「君の名を他人が呼ぶ必要がある?」
セドリックが即答する。
「ある」
レオは一拍置いた。
「……必要でも嫌です」
ノアは肩をすくめる。
「正直でよろしい。最悪だけど」
「君の名だ」
「うん」
「僕が呼びたい」
「うん」
「他の人が呼ぶのは嫌だ」
「幼児?」
レオは真顔で言った。
「もっと悪い」
「自覚があるなら少しは抑えろ」
「努力する」
「最近の便利呪文」
セドリックは、二人の会話を容赦なく切った。
「黒魔法科の授業で名の固定訓練を行う。可能なら、魔具科と治癒魔法科からも数名呼ぶ。普段からお前と関わっている者の認識が強いほど効果は高い」
ノアは目を瞬かせた。
「ルカとアイリス?」
「おそらくな」
レオの赤い糸が、目に見えなくても分かるほど不機嫌に震えた。
ノアは首元を押さえた。
「待て待て待て。お前の嫉妬で首輪が熱くなるの、名の固定訓練と相性最悪だろ」
「努力する」
「努力の過労死が見える」
「君の名を守るためなら耐える」
「すでに重い」
セドリックが冷たく言った。
「耐えられなければ廊下に出ろ、アステルレイン」
レオが静かに返す。
「見えない場所には行きません」
「なら黙っていろ」
「努力します」
「便利な言葉だな」
ノアは小さく吹き出した。
「先生にも言われてるぞ」
「分かっている」
授業は、黒魔法科の制御訓練室で行われることになった。
黒い石で造られた広い部屋だった。壁には魔力の暴走を吸収する制御陣が刻まれ、床には六芒の観測魔法陣が薄く光っている。天井の魔力灯は、いつもより明るい。黒魔法科だけではなく、外部の生徒も入るため、結界が強化されていた。
ノアは床の中央に立たされた。
正面にはセドリック。
少し離れて、ルカ・ハーシェルとアイリス・ベルがいる。二人とも、事情を聞かされたらしい。ルカは真剣な顔をしつつも、ノアを見ると片手を上げた。アイリスは心配そうに胸元で手を握っている。
黒魔法科の同級生たちも数人、距離を取って立っていた。中には昨日の全校放送を聞いてから、ノアを見る目が変わった者もいる。好奇、恐れ、同情、少しの欲。厄介な混合物だ。
レオは部屋の端にいた。
セドリックに「邪魔をするなら外へ出す」と言われ、床の制御陣の外側に立たされている。
ただし、目はノアから離れていない。
赤い糸も、はっきり不機嫌だった。
ノアはそれを感じ取り、笑う。
「王子様、見学態度が怖いぞ」
「黙っている」
「視線がうるさい」
「それは止められない」
「努力しろ」
「努力する」
ルカが小声で言った。
「お前ら、努力って言葉の用途おかしくないか」
「最近だいぶ便利に使われています」
「駄目な便利さだな」
アイリスが不安そうにノアを見た。
「本当に、私たちが名前を呼んでも大丈夫なんですか?」
「大丈夫。むしろ呼ばないと駄目らしい。俺、名前の社会的承認が必要な状態なので」
「言い方が軽いです」
「重く言ったら朝から胃もたれするだろ」
セドリックが手を上げる。
「始める。これは単なる呼びかけではない。名前を呼ぶ側は、相手をその名の人物として認識しろ。黒い災厄でも、前世の王子でも、噂の対象でもない。今ここにいる、黒魔法科一年のノア・クロウとして呼べ」
教室の空気が引き締まった。
ノアの首輪に浮かぶ一パーセントの数字が、かすかに光る。
セドリックが最初に言った。
「ノア・クロウ」
その声は低く、明確だった。
教師が生徒を呼ぶ声。
教材でも、災厄でも、前世の記録でもない。
いま自分の授業を受けている生徒を呼ぶ声だった。
ノアは軽く手を上げる。
「はい。出席してます」
伴侶首輪の熱が、ほんの少し引いた。
黒い数字の輪郭が、わずかに薄れる。
レオの赤い糸が震えた。
安心と嫉妬が混ざった、非常に面倒な震え方だった。
セドリックは記録紙に目を落とす。
「反応あり。次」
ルカが一歩前へ出た。
彼は少し照れたように後頭部を掻く。
「えーと。ノア・クロウ」
「はいはい、魔具科の友人一号」
「その呼び方やめろ。俺はルカだ」
「じゃあルカ。呼び直しどうぞ」
ルカは少し笑って、今度ははっきり言った。
「ノア。お前はノア・クロウだろ」
軽い声だった。
友人の声。
昨日の全校放送を聞いても、恐れだけで遠ざからなかった声。
ノアの胸の奥で、引かれていた感覚が少し弱まった。
首輪の熱が、さらに薄くなる。
ノアは目を細める。
「そうですー。黒魔法科のノア・クロウですー」
ルカが笑った。
「うん。知ってる」
レオの赤い糸が、不機嫌に揺れた。
ノアはすぐに横目で牽制する。
「レオ。今のは必要なやつ」
「分かっている」
「顔が分かってない」
「分かっているけど嫌だ」
「正直でよろしい。最悪だけど」
アイリスが次に前へ出た。
彼女は少し緊張している。治癒魔法科の白いリボンが肩の上で揺れ、手の中には小さな治癒符を握っていた。
「ノア・クロウさん」
丁寧な声だった。
少し怖がっている。
けれど、それだけではない。
アイリスはノアを見て、もう一度言った。
「あなたは、ノア・クロウさんです。黒魔法科の新入生で、私の……友達、です」
最後の言葉は少し小さかった。
ノアは一瞬だけ黙った。
それから、わざと明るく笑う。
「友達認定いただきましたー。やったな、俺。社会性がある」
アイリスはほっとしたように笑った。
その瞬間、首輪の黒い数字がまた薄れた。
完全には消えない。
だが、確かに薄くなっている。
セドリックの目が鋭くなる。
「効果がある。やはり、現世での関係性が強いほど名の固定に効く」
レオが低く言った。
「友達」
ノアがすぐ反応する。
「噛みつくな」
「噛みついていない」
「声が噛みついてる」
「……努力する」
ルカが小声でアイリスへ囁く。
「聖魔法科の王子様、思ったより独占欲えぐいな」
「聞こえてますよ、たぶん」
「聞こえてほしくないな」
レオは聞こえていた。
だが黙っていた。
かなり偉い。八点半維持。
次に、黒魔法科の同級生たちが順番に名を呼んだ。
「ノア・クロウ」
「ノア」
「クロウ」
「ノア・クロウ、でいいんだよな」
呼ばれるたび、ノアは軽く返す。
「はいはい」
「いますー」
「黒魔法科の問題児ですー」
「問題児じゃなくて天才ちゃんですー」
声を返すたび、喉の掠れが少しずつ整っていくようだった。
名前を呼ばれる。
返事をする。
ただそれだけの行為が、魂糸を現世へ結び直す。
ノアは、その感覚を不思議に思った。
自分一人で「ノア・クロウ」と名乗るのとは違う。
レオが何度も呼ぶのとも違う。
ルカが呼ぶ。アイリスが呼ぶ。セドリックが呼ぶ。黒魔法科の同級生たちが、少しぎこちなくても呼ぶ。
そのたびに、ノア・クロウという名が、学院の中へ少しずつ沈んでいく。
仮の名ではない。
今ここで呼ばれる名。
人が認識する名。
自分が返事をする名。
それが、敵の「照合中」を押し返している。
ノアは、首輪へ触れた。
一パーセントの黒い数字は、かなり薄くなっていた。
完全には消えない。
だが、輪郭がぼやけている。
レオはそれを見て、ほっとした顔をしかけた。
その直後、ルカがまた言った。
「ノア、顔色ましになったな」
レオの赤い糸が不機嫌に震える。
ノアは呆れた。
「お前、忙しいな。安心したり嫉妬したり」
「君の名を呼んだ」
「呼ぶ訓練です」
「分かっている」
「顔」
「嫌だ」
「口に出すな」
「我慢している」
「これで?」
「かなり」
ノアは額を押さえた。
「放課後にまた面倒な名呼び大会する気だろ」
「する」
「張り合うな」
「張り合っている」
即答だった。
ノアは目を細める。
「認めた」
「君の名を他の人が呼ぶのは必要だ。でも、僕も呼びたい」
「子どもか」
「もっと悪い」
「さっきも言ったな、それ」
セドリックが手を打った。
「続けるぞ。次、二巡目」
「二巡目あるの?」
「一度呼んだだけでは弱い。名前は反復で定着する」
ノアは天井を見た。
「俺、今日一日で一生分名前呼ばれそう」
「贅沢言うな」
「これ、贅沢かなぁ」
訓練は続いた。
ノア。
ノア・クロウ。
クロウ君。
黒魔法科のノア。
名を呼ばれるたび、ノアは返事をした。
ふざけて、茶化して、時々喉を押さえながら。
けれど、声は少しずつ安定していった。
黒い数字はさらに薄くなる。
白い花紋の縁取りも少しだけ落ち着く。
セドリックが記録紙を見て頷いた。
「効果は明確だ。現世名の認識補強は照合率を抑える」
ノアは息を吐いた。
「じゃあ、今後は名前を呼ばれるイベント増量?」
「そうなる」
「人前で自己紹介しまくる人生か。陽キャの罰ゲームみたい」
「お前なら平気だろう」
「俺の社交性を過信しないでください」
その時だった。
部屋の端にいた黒魔法科の生徒の一人が、ふらりと前へ出た。
名前はたしか、ミロ・エーデン。
寡黙な少年で、普段はあまり喋らない。黒魔法科の中でも影の薄い方だった。訓練の間も、一度だけ小さく「ノア・クロウ」と呼んだきり、後ろに下がっていた。
そのミロが、ゆっくりと口を開く。
ノアの首輪が、先に反応した。
冷たい熱が走る。
レオが鋭く顔を上げる。
セドリックも異変に気づいた。
「下がれ」
だが、ミロの口は止まらなかった。
彼の瞳が、白く濁っている。
焦点が合っていない。
誰かの声を、無理やり口の奥へ押し込まれているようだった。
ミロの唇が動く。
「イリアス」
その一言が、制御訓練室に落ちた。
ノアの首輪が、灼けるように熱を持った。
レオの赤い糸が、一気に張り詰める。
ノアは、笑った。
声は低かった。
「……呼び間違いにしては、趣味が悪いな」
ミロの白く濁った瞳が、ノアだけを見ていた。




