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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第四章 【仮の名と白い花】

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第73話 名前を呼ぶ授業



 セドリック・バロウズの研究室は、朝から紙と魔力の匂いで満ちていた。


 机の上には、魔導名簿の写し、部屋札の反応記録、出席簿の封印紙、白い儀礼花の花弁、記録水晶の破片が並んでいる。黒い糸で留められた解析紙の上には、複雑な円と矢印が走り、ところどころに赤い印が打たれていた。


 真面目な教師の研究室というより、事件現場をそのまま机に広げたような有様である。


 教育とは何か。


 少なくとも、朝から魂名照合率を見ながら水を飲むことではない。人類、学校の役割を盛りすぎだ。


 ノア・クロウは椅子に座り、首元に手を当てていた。


 伴侶首輪《メイト・カラー》の内側に浮かんだ黒い数字は、昨夜から消えていない。


 一。


 照合率一パーセント。


 たった一パーセント。


 だが、首輪に刻まれたその数字は、やたらと存在感があった。健康診断の異常値より腹立たしい。魂に進捗表示を出すな。仕様設計者を呼べ。たぶん性格が悪い。


 レオ・アステルレインは、ノアの隣に立っている。


 近い。


 昨日より近い。


 心配、警戒、独占欲、全部を煮込んで白金の魔力で飾ったような距離感だった。


 セドリックは、解析紙に目を落としたまま言った。


「照合率を止めるには、現世名の認識補強が必要だ」


 ノアは片眉を上げる。


「認識補強」


「お前が自分をノア・クロウだと認識するだけでは足りない。周囲が、お前をノア・クロウとして呼び、認識し、記録する必要がある」


「つまり、俺の名前をみんなで呼ぼうキャンペーン?」


「言い方は腹立たしいが、だいたいそうだ」


「先生、腹立たしいって言葉好きですね」


「お前がそういう言い方をするからだ」


 セドリックは黒い羽根ペンで紙を叩いた。


「真儀礼は声、名、記憶、証言を揃えようとしている。声は破壊できた。証言は記録水晶の改竄を止めた。記憶は本人の拒絶で押し返している。だが名だけは、学院の記録基盤へ深く食い込まれている」


 レオの赤い糸が、ぴんと張った。


「僕が呼びます」


 即答だった。


 セドリックは顔を上げた。


「お前だけでは足りない」


 レオの表情が、分かりやすく嫌そうになった。


 ノアは横で笑った。


「独占欲、試練の時間だな」


 レオはノアを見た。


「君の名を他人が呼ぶ必要がある?」


 セドリックが即答する。


「ある」


 レオは一拍置いた。


「……必要でも嫌です」


 ノアは肩をすくめる。


「正直でよろしい。最悪だけど」


「君の名だ」


「うん」


「僕が呼びたい」


「うん」


「他の人が呼ぶのは嫌だ」


「幼児?」


 レオは真顔で言った。


「もっと悪い」


「自覚があるなら少しは抑えろ」


「努力する」


「最近の便利呪文」


 セドリックは、二人の会話を容赦なく切った。


「黒魔法科の授業で名の固定訓練を行う。可能なら、魔具科と治癒魔法科からも数名呼ぶ。普段からお前と関わっている者の認識が強いほど効果は高い」


 ノアは目を瞬かせた。


「ルカとアイリス?」


「おそらくな」


 レオの赤い糸が、目に見えなくても分かるほど不機嫌に震えた。


 ノアは首元を押さえた。


「待て待て待て。お前の嫉妬で首輪が熱くなるの、名の固定訓練と相性最悪だろ」


「努力する」


「努力の過労死が見える」


「君の名を守るためなら耐える」


「すでに重い」


 セドリックが冷たく言った。


「耐えられなければ廊下に出ろ、アステルレイン」


 レオが静かに返す。


「見えない場所には行きません」


「なら黙っていろ」


「努力します」


「便利な言葉だな」


 ノアは小さく吹き出した。


「先生にも言われてるぞ」


「分かっている」


 授業は、黒魔法科の制御訓練室で行われることになった。


 黒い石で造られた広い部屋だった。壁には魔力の暴走を吸収する制御陣が刻まれ、床には六芒の観測魔法陣が薄く光っている。天井の魔力灯は、いつもより明るい。黒魔法科だけではなく、外部の生徒も入るため、結界が強化されていた。


 ノアは床の中央に立たされた。


 正面にはセドリック。


 少し離れて、ルカ・ハーシェルとアイリス・ベルがいる。二人とも、事情を聞かされたらしい。ルカは真剣な顔をしつつも、ノアを見ると片手を上げた。アイリスは心配そうに胸元で手を握っている。


 黒魔法科の同級生たちも数人、距離を取って立っていた。中には昨日の全校放送を聞いてから、ノアを見る目が変わった者もいる。好奇、恐れ、同情、少しの欲。厄介な混合物だ。


 レオは部屋の端にいた。


 セドリックに「邪魔をするなら外へ出す」と言われ、床の制御陣の外側に立たされている。


 ただし、目はノアから離れていない。


 赤い糸も、はっきり不機嫌だった。


 ノアはそれを感じ取り、笑う。


「王子様、見学態度が怖いぞ」


「黙っている」


「視線がうるさい」


「それは止められない」


「努力しろ」


「努力する」


 ルカが小声で言った。


「お前ら、努力って言葉の用途おかしくないか」


「最近だいぶ便利に使われています」


「駄目な便利さだな」


 アイリスが不安そうにノアを見た。


「本当に、私たちが名前を呼んでも大丈夫なんですか?」


「大丈夫。むしろ呼ばないと駄目らしい。俺、名前の社会的承認が必要な状態なので」


「言い方が軽いです」


「重く言ったら朝から胃もたれするだろ」


 セドリックが手を上げる。


「始める。これは単なる呼びかけではない。名前を呼ぶ側は、相手をその名の人物として認識しろ。黒い災厄でも、前世の王子でも、噂の対象でもない。今ここにいる、黒魔法科一年のノア・クロウとして呼べ」


 教室の空気が引き締まった。


 ノアの首輪に浮かぶ一パーセントの数字が、かすかに光る。


 セドリックが最初に言った。


「ノア・クロウ」


 その声は低く、明確だった。


 教師が生徒を呼ぶ声。


 教材でも、災厄でも、前世の記録でもない。


 いま自分の授業を受けている生徒を呼ぶ声だった。


 ノアは軽く手を上げる。


「はい。出席してます」


 伴侶首輪の熱が、ほんの少し引いた。


 黒い数字の輪郭が、わずかに薄れる。


 レオの赤い糸が震えた。


 安心と嫉妬が混ざった、非常に面倒な震え方だった。


 セドリックは記録紙に目を落とす。


「反応あり。次」


 ルカが一歩前へ出た。


 彼は少し照れたように後頭部を掻く。


「えーと。ノア・クロウ」


「はいはい、魔具科の友人一号」


「その呼び方やめろ。俺はルカだ」


「じゃあルカ。呼び直しどうぞ」


 ルカは少し笑って、今度ははっきり言った。


「ノア。お前はノア・クロウだろ」


 軽い声だった。


 友人の声。


 昨日の全校放送を聞いても、恐れだけで遠ざからなかった声。


 ノアの胸の奥で、引かれていた感覚が少し弱まった。


 首輪の熱が、さらに薄くなる。


 ノアは目を細める。


「そうですー。黒魔法科のノア・クロウですー」


 ルカが笑った。


「うん。知ってる」


 レオの赤い糸が、不機嫌に揺れた。


 ノアはすぐに横目で牽制する。


「レオ。今のは必要なやつ」


「分かっている」


「顔が分かってない」


「分かっているけど嫌だ」


「正直でよろしい。最悪だけど」


 アイリスが次に前へ出た。


 彼女は少し緊張している。治癒魔法科の白いリボンが肩の上で揺れ、手の中には小さな治癒符を握っていた。


「ノア・クロウさん」


 丁寧な声だった。


 少し怖がっている。


 けれど、それだけではない。


 アイリスはノアを見て、もう一度言った。


「あなたは、ノア・クロウさんです。黒魔法科の新入生で、私の……友達、です」


 最後の言葉は少し小さかった。


 ノアは一瞬だけ黙った。


 それから、わざと明るく笑う。


「友達認定いただきましたー。やったな、俺。社会性がある」


 アイリスはほっとしたように笑った。


 その瞬間、首輪の黒い数字がまた薄れた。


 完全には消えない。


 だが、確かに薄くなっている。


 セドリックの目が鋭くなる。


「効果がある。やはり、現世での関係性が強いほど名の固定に効く」


 レオが低く言った。


「友達」


 ノアがすぐ反応する。


「噛みつくな」


「噛みついていない」


「声が噛みついてる」


「……努力する」


 ルカが小声でアイリスへ囁く。


「聖魔法科の王子様、思ったより独占欲えぐいな」


「聞こえてますよ、たぶん」


「聞こえてほしくないな」


 レオは聞こえていた。


 だが黙っていた。


 かなり偉い。八点半維持。


 次に、黒魔法科の同級生たちが順番に名を呼んだ。


「ノア・クロウ」


「ノア」


「クロウ」


「ノア・クロウ、でいいんだよな」


 呼ばれるたび、ノアは軽く返す。


「はいはい」


「いますー」


「黒魔法科の問題児ですー」


「問題児じゃなくて天才ちゃんですー」


 声を返すたび、喉の掠れが少しずつ整っていくようだった。


 名前を呼ばれる。


 返事をする。


 ただそれだけの行為が、魂糸を現世へ結び直す。


 ノアは、その感覚を不思議に思った。


 自分一人で「ノア・クロウ」と名乗るのとは違う。


 レオが何度も呼ぶのとも違う。


 ルカが呼ぶ。アイリスが呼ぶ。セドリックが呼ぶ。黒魔法科の同級生たちが、少しぎこちなくても呼ぶ。


 そのたびに、ノア・クロウという名が、学院の中へ少しずつ沈んでいく。


 仮の名ではない。


 今ここで呼ばれる名。


 人が認識する名。


 自分が返事をする名。


 それが、敵の「照合中」を押し返している。


 ノアは、首輪へ触れた。


 一パーセントの黒い数字は、かなり薄くなっていた。


 完全には消えない。


 だが、輪郭がぼやけている。


 レオはそれを見て、ほっとした顔をしかけた。


 その直後、ルカがまた言った。


「ノア、顔色ましになったな」


 レオの赤い糸が不機嫌に震える。


 ノアは呆れた。


「お前、忙しいな。安心したり嫉妬したり」


「君の名を呼んだ」


「呼ぶ訓練です」


「分かっている」


「顔」


「嫌だ」


「口に出すな」


「我慢している」


「これで?」


「かなり」


 ノアは額を押さえた。


「放課後にまた面倒な名呼び大会する気だろ」


「する」


「張り合うな」


「張り合っている」


 即答だった。


 ノアは目を細める。


「認めた」


「君の名を他の人が呼ぶのは必要だ。でも、僕も呼びたい」


「子どもか」


「もっと悪い」


「さっきも言ったな、それ」


 セドリックが手を打った。


「続けるぞ。次、二巡目」


「二巡目あるの?」


「一度呼んだだけでは弱い。名前は反復で定着する」


 ノアは天井を見た。


「俺、今日一日で一生分名前呼ばれそう」


「贅沢言うな」


「これ、贅沢かなぁ」


 訓練は続いた。


 ノア。


 ノア・クロウ。


 クロウ君。


 黒魔法科のノア。


 名を呼ばれるたび、ノアは返事をした。


 ふざけて、茶化して、時々喉を押さえながら。


 けれど、声は少しずつ安定していった。


 黒い数字はさらに薄くなる。


 白い花紋の縁取りも少しだけ落ち着く。


 セドリックが記録紙を見て頷いた。


「効果は明確だ。現世名の認識補強は照合率を抑える」


 ノアは息を吐いた。


「じゃあ、今後は名前を呼ばれるイベント増量?」


「そうなる」


「人前で自己紹介しまくる人生か。陽キャの罰ゲームみたい」


「お前なら平気だろう」


「俺の社交性を過信しないでください」


 その時だった。


 部屋の端にいた黒魔法科の生徒の一人が、ふらりと前へ出た。


 名前はたしか、ミロ・エーデン。


 寡黙な少年で、普段はあまり喋らない。黒魔法科の中でも影の薄い方だった。訓練の間も、一度だけ小さく「ノア・クロウ」と呼んだきり、後ろに下がっていた。


 そのミロが、ゆっくりと口を開く。


 ノアの首輪が、先に反応した。


 冷たい熱が走る。


 レオが鋭く顔を上げる。


 セドリックも異変に気づいた。


「下がれ」


 だが、ミロの口は止まらなかった。


 彼の瞳が、白く濁っている。


 焦点が合っていない。


 誰かの声を、無理やり口の奥へ押し込まれているようだった。


 ミロの唇が動く。


「イリアス」


 その一言が、制御訓練室に落ちた。


 ノアの首輪が、灼けるように熱を持った。


 レオの赤い糸が、一気に張り詰める。


 ノアは、笑った。


 声は低かった。


「……呼び間違いにしては、趣味が悪いな」


 ミロの白く濁った瞳が、ノアだけを見ていた。




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