第72話 一パーセント
寮部屋の鏡の前で、ノア・クロウは首元を見ていた。
夜明け前の部屋は、まだ薄暗い。窓の外では学院の塔が朝霧に沈み、魔力灯の青白い光だけが机と寝台の輪郭を照らしている。水差し、畳まれた制服、昨夜レオが整えた治癒用の布。どれも静かで、何も起きていない部屋の顔をしていた。
だが、鏡の中の首輪だけは違った。
伴侶首輪。
薄い赤い輪の内側に、黒い亀裂と白い花紋が残っている。その亀裂の縁に、昨夜から新しいものが浮かんでいた。
黒い数字。
一。
ただの数字に見える。
けれど、ノアには分かった。
照合率一パーセント。
魔導名簿の古い登録欄で、イリアス・ノクスヴェルトの状態が「死亡」から「照合中」へ変わった。その進行が、伴侶首輪に刻まれている。
ノアはしばらく鏡を見た。
それから、乾いた声で言った。
「俺の魂、進捗管理されてる?」
背後にいたレオ・アステルレインが、息を止めた。
彼は寝ていない。夜の間ずっと、ノアの喉と首輪、魂糸の状態を確認していた。水はもう三度替えられている。治癒魔法も、過剰にならないぎりぎりで何度も流された。髪も整えられている。寝具も替えられている。
ノアの身体は休まっているはずなのに、休まった気がしない。
なにしろ魂に数字を刻まれている。
人間、健康診断の結果でももう少し遠慮して出してくる。敵、通知のデザインが最悪だ。
レオは鏡の中の黒い数字を見た。
青い瞳から、温度が消える。
「消す」
「消せるならな」
言うより早く、レオの指先に白金の聖魔法が灯った。
ノアは眉を上げる。
「待て」
レオは止まらなかった。
いや、止まれなかったのだろう。
白金の光が、首輪の内側に浮かぶ黒い数字へ伸びる。昨夜までのレオなら、問答無用で封じただろう。最近は許可を取るようになっていた。触れる前に聞く。喉を癒す前に確認する。声を閉じる前に止まる。
それでも、数字を見た瞬間、理性より先に恐怖が動いた。
一パーセント。
その数字が、レオには死の秒読みに見えたのかもしれない。
白金の光が黒い数字へ触れた瞬間、首輪の奥で何かが軋んだ。
「っ……!」
ノアの喉が詰まる。
数字そのものは首輪の表面に浮かんでいるように見えた。だが実際には、魂名照合の進行を表示しているだけだった。表面を削っても意味がない。むしろ、数字へ触れる魔法が魂糸の奥へ逆流する。
胸の中心を細い刃で押されたような痛みが走った。
瞳孔が開く。
息が浅くなる。
ノアは片手で鏡台を掴んだ。
「っ……だから、力技すんなって……」
レオの魔法が、即座に止まった。
白金の光が消える。
レオの顔が、真っ青になっていた。
「ノア」
「今の、俺の首輪じゃなくて、魂糸の奥に来た」
ノアは喉を押さえ、息を整える。
声は出る。
だが、一瞬だけ、名前を呼ばれた時と同じ感覚があった。胸の奥を前世の死亡記録へ引かれるような、嫌な痛み。
レオは手を引いた。
完全に。
指先を握りしめ、動かさないようにしている。
「僕が、負荷をかけた」
「そうだな」
ノアはあえて否定しなかった。
ここで優しく誤魔化すと、レオはまた同じことをする。人間でも王子様でも、過保護は放置すると増える。湿気よりしつこい。
レオの喉が小さく動く。
「痛かった?」
「まあ、痛い」
「ごめん」
「謝罪は受け取る。次は考えろ」
ノアは鏡へ向き直る。
黒い数字は消えていない。
一パーセント。
腹立つほどはっきり残っている。
「ほらな。消えてない」
レオはその数字を見つめた。
その目の奥で、また何かが沈む。怒り。恐怖。自己嫌悪。全部が混ざっている。
「僕が触れたせいで、広がった?」
「広がってはない。たぶん。ただ、奥に響いた」
「それでも、僕が痛がらせた」
「そうだな」
ノアは首を少し回す。
首輪の熱はまだある。だが、激しい痛みは引いた。重度反応にはならない。中度。喉の詰まり、瞳孔の開き、胸の奥の圧。それだけで済んだ。
それだけで済んだ、という表現がもうだいぶ駄目だ。学園生活、もっと穏やかであれ。
レオは低く言った。
「手放せない」
「いきなり何」
「消そうとして、君を痛がらせた。それでも、見ているだけもできない」
「見てろとは言ってない。考えろって言った」
「うん」
「お前の保護が敵に利用されるって、もう何回かやってるだろ」
「分かっている」
「分かってても動くんだろ」
「……動いた」
「正直」
ノアは小さく息を吐いた。
「じゃあ次は、動く前に一回止まれ。深呼吸でもしろ。俺の名前でも呼べ」
「ノア」
「今じゃない」
「呼びたかった」
「そういうとこだぞ」
レオの指先はまだ震えている。
ノアは、それを見る。
昨夜、魔導名簿でイリアス・ノクスヴェルトの状態が「死亡」から「照合中」へ変わった。レオにとって、それはただの記録変更ではない。前世で腕の中に抱えた死が、現世のノアへ手を伸ばしている証拠だった。
だから焦る。
だから失敗する。
分かる。
分かるが、許すかは別だ。
ノアは鏡台に肘をつき、掠れた声で言った。
「レオ」
「何?」
「俺を守るなら、俺の痛みを増やすな」
レオは目を伏せた。
「うん」
「一パーセントくらいで焦るな」
「一パーセント進んだ」
「たった一パーセントだ」
「進んだことには変わらない」
「戻す方法を探せばいい。消しゴムで魂こするみたいな真似はやめろ」
「分かった」
「ほんとに?」
「……努力する」
「はい出た、便利なやつ」
ノアは呆れたように笑った。
その笑いに、レオの赤い糸が少しだけ緩む。
伴侶首輪の白い花紋が、黒い数字の周囲で淡く光った。
一パーセント。
数字は消えない。
けれど、それ以上進む気配もない。
少なくとも今は。
朝が来る頃、レオはようやくもう一度、ノアに近づいた。
今度は、急がなかった。
水杯を差し出し、低く聞く。
「飲める?」
「飲める」
「喉を診てもいい?」
「どうぞ」
「魂糸も」
「表面だけな。奥に触るな」
「うん」
レオの聖魔法は、さっきとは違って慎重だった。
白金の光が、喉の周囲を薄く包む。魂糸の発声経路を外側から整え、首輪の熱を少しずつ鎮める。数字には触れない。亀裂にも無理に干渉しない。ただ、ノアが呼吸しやすいように、声が出しやすいように、痛みが広がらないように調整していく。
ノアは目を細めた。
「昨日よりは学習してる」
レオの手が一瞬止まる。
「君を痛がらせた」
「それは事実」
「忘れない」
「重い」
「忘れたらまたやる」
「それもそう」
ノアは水を飲んだ。
喉が少し楽になる。
レオは、ノアの首元を見つめたまま言った。
「一パーセントの原因を調べる」
「セドリック先生に投げよう」
「僕も見る」
「また過保護」
「これは必要な方の過保護」
「過保護に種類を作るな」
レオは少しだけ、困ったように黙った。
そして、低く続ける。
「君の名、声、記憶、証言。全部を狙われている」
「そうだな」
「声では壊せた。名はまだ揺れている。記憶は何度も引かれている。証言は噂になっている」
「敵の作業表みたいに言うな。腹立つ」
「照合率が出たなら、仕組みがある」
ノアは頷く。
「名・声・記憶・証言の四要素で進む仕組み。今の一パーセントは、名の照合だけで進んだ分ってことか」
「たぶん」
「名だけで一パーセント。残り九十九。めんどくさ」
「進ませない」
「そこは同意」
ノアは椅子の背に寄りかかった。
身体は重い。
喉もまだ少し痛い。
だが、頭は動く。
数字が出たということは、敵の術式には進行条件がある。声。名。記憶。証言。四つを揃えることで、ノアを災厄として再指定する。逆に言えば、それぞれを潰せば止められる。
敵は親切にも進捗を表示してくれた。
腹立つが、利用できる。
ノアは口の端を上げた。
「一パーセントって出してくれるなら、逆にこっちも減らせるか試せるな」
レオがノアを見る。
「減らす?」
「進捗があるなら後退もあるだろ。なかったら作る」
「無茶をする声だ」
「天才の声ですー」
「喉を大事にして」
「はいはい」
レオがまた水を差し出す。
ノアは受け取った。
その後、二人はセドリックの研究室へ向かった。
学院の朝は、昨日よりもさらにざわついていた。廊下のあちこちで、生徒たちがノアを見ている。昨夜の全校放送、掲示板の前世名、そして今朝の部屋札と出席簿。噂はもう勝手に歩き回っている。足でも生えたのか。切りたい。
黒魔法科教師の研究室は、資料と魔法陣で埋もれていた。
セドリックは眠っていない顔で、机の上に何枚もの解析紙を広げていた。記録水晶の破片、魔導名簿の写し、部屋札の反応記録、白い儀礼花の花弁。まともな教師の机ではない。事件担当の机だ。教育はどこへ行った。
ノアが入ると、セドリックはすぐに首元を見た。
「出たか」
「出ました。一パーセント。魂の進捗バーです」
「見せろ」
「言い方が雑」
ノアは首元を少し見せた。
セドリックの黒魔法が、距離を取ったまま首輪の数字を読み取る。レオが隣でわずかに警戒したが、ノアが視線で止めると黙った。偉い。九点維持。
セドリックは解析紙へ数字を書き込んだ。
「照合率一パーセント。名の干渉後に進行。声の干渉では水晶破壊により不成立。証言干渉は未確定。記憶干渉は一部発生済みだが、本人の拒絶で不成立」
ノアは椅子に座る。
「先生、俺の魂を研究資料みたいにまとめないでください」
「実際、研究資料に近い」
「ひどい」
「安心しろ。本人同意なしに発表はしない」
「そこまで行ったら泣くぞ」
「お前が泣くとは思えん」
「泣いたら土が重くなるので」
言ってから、ノアは少しだけ黙った。
その言葉は、前世の原点に触れる。
レオの赤い糸が静かに震えた。
セドリックは見なかったふりをした。珍しく気が利く。教師にも良心があった。驚きである。
セドリックは解析紙を指で叩く。
「照合率を止める方法は一つではない。だが、今すぐできる対策がある」
「嫌な予感」
「お前の現世名を、複数人に強く認識させる」
ノアは瞬きした。
レオの顔が、一瞬で嫌そうになった。
セドリックは続ける。
「名は本人の認識だけでは安定しない。社会名としての強度が必要だ。お前がノア・クロウであると、周囲が強く認識し、呼び、記録することで、前世名への照合を押し返せる可能性がある」
ノアはゆっくりとレオを見た。
レオは、明らかに不機嫌だった。
白金の魔力が静かに沈んでいる。
ノアは笑った。
「独占欲、試練の時間だな」
レオは、何も言わなかった。
ただ、赤い糸だけが、ものすごく嫌そうに震えた。




