第71話 死亡から照合中へ
魔導名簿の頁は、勝手にめくれた。
誰も触れていない。
セドリック・バロウズの指も、レオ・アステルレインの白金の魔力も、ノア・クロウの黒魔法も、頁には届いていない。それなのに、古い登録欄を辿るように、青白い光の頁が風もない記録室で音もなく動いていく。
紙ではないはずなのに、紙の擦れる音がした。
それだけで、ノアは少し嫌な顔をした。
記録室の空気は冷えている。壁に埋め込まれた古い魔力灯は、青白く揺れていた。棚に並ぶ水晶板、金属筒、封印された記録函。そのすべてが、まるで息を潜めているように沈黙している。
中央の魔導名簿だけが、勝手に過去へ潜っていく。
学院の在籍者。
退学者。
死亡者。
転出者。
登録不全者。
古い戦時記録。
そして、学院創設以前から接続されていたらしい、外部の魂記録。
ノアは腕を組んで立っていた。
喉はまだ少し詰まっている。首元の伴侶首輪には黒い亀裂と白い花紋が残り、その内側がひやりと熱を持っていた。名を狙われるようになってから、この冷たい熱には慣れつつある。
慣れたくはない。
人間、慣れなくていいものに限って慣れる。最悪の生存本能である。
頁が止まった。
古い登録欄。
そこに、一つの名があった。
イリアス・ノクスヴェルト。
黒い文字ではない。
青白い魔導文字だった。
だが、その名だけが他の記録よりも暗く沈んで見えた。文字の縁に黒い灰のような影がまとわりつき、読んだ者の胸の奥へ冷たい針を入れてくる。
所属欄は空白。
魔法属性は黒。
状態欄には、はっきりと一語が刻まれていた。
死亡。
ノアはそれを見て、息を止めなかった。
止めたら負けのような気がした。
レオの方が先に息を詰めた。
隣に立つレオの白い指が、わずかに震える。青い瞳から血の気が引いていく。彼は、イリアス・ノクスヴェルトの死を誰より知っている。腕の中で冷えていった身体も、最後の笑みも、世界の歓声も、最後の言葉も。
だから、その状態欄を見ることは、古傷をもう一度開かれるようなものだった。
死亡。
その文字が、揺らいだ。
ノアの首輪が熱を持つ。
白い花紋がびり、と震え、黒い亀裂がわずかに広がった。
死亡の文字が滲む。
青白い光が、ゆっくり別の形へ組み替わっていく。
死亡。
照合中。
記録室の空気が、凍った。
ノアは、ほんの少し笑った。
「死亡確認、雑に取り消すな」
声は軽い。
だが、喉の奥がかすかに震えていた。
死亡から照合中へ。
それは、イリアスが生き返ったという意味ではない。
ノアにも分かった。
もっと嫌な意味だ。
この古い死亡記録と、現世のノア・クロウが照合されようとしている。敵は、ノアの現世名を剥がし、前世の死亡記録へ接続し、そこから「黒い災厄イリアス」を再び成立させようとしている。
過去が戻るのではない。
今のノアが、過去の名へ引きずり込まれようとしている。
レオの声が、低く落ちた。
「違う」
誰に言ったのか分からない。
名簿へか。
術式へか。
自分自身へか。
レオはさらに一歩、名簿へ近づいた。
「イリアスが戻るんじゃない。ノアを、そこへ合わせようとしている」
セドリックが表情を険しくした。
「その通りだ」
彼は黒魔法の細い線を頁へ走らせる。名簿の状態欄を囲むように封印円が浮かび上がった。だが、「照合中」の文字は消えない。むしろ、封印円に反応するように、青白く明滅した。
セドリックは舌打ちした。
「前世の死亡記録と、現在の登録情報を接続している。真儀礼の派生だ。声、名、記憶、証言を使って災厄を再指定するための準備段階だろう」
ノアは片手を上げた。
「俺の個人情報、勝手に過去と合体しようとしてる」
「冗談で済ませるな」
「笑ってないと、ちょっと腹立つ」
ノアの声が少し低くなった。
軽口の裏から、怒りがにじむ。
それを聞いたレオが、ノアの方を見る。
「ノア」
「呼ばなくてもいますー」
「ノア・クロウ」
「フルネーム点呼、再開早いな」
「必要だ」
「それ、最近の口癖?」
「君の名を戻されないためなら、何度でも言う」
レオの赤い糸が、ノアの胸の奥へ伸びる。
閉じ込める糸ではない。
今のところは。
現世のノア・クロウという輪郭を、前世の死亡記録から引き剥がすために、支えるような震え方だった。
それでも、重い。
レオの中にある独占欲は消えていない。むしろ、名を狙われるたびに強くなっている。ノアの名を自分の糸で包み、誰にも呼ばせず、誰にも触らせず、自分だけが呼び続けたい。そんな恐ろしい衝動が、赤い糸の奥で燻っていた。
ノアは横目で見た。
「今、俺の名前をお前の糸で囲い込もうとした?」
「支えようとした」
「言い換えで罪が軽くなると思ってる?」
「思ってない」
「正直」
レオは目を逸らさない。
「でも、囲い込みたいとも思った」
「そこまで言うな」
「嘘は言いたくない」
「最悪に正直」
セドリックが低く言った。
「痴話喧嘩は後にしろ」
「先生、これを痴話喧嘩扱いするの強くない?」
「そうでも思わないとやっていられん」
「お気持ち分かります」
「分かるな」
セドリックは名簿へ向き直った。
黒魔法の線を増やし、「照合中」の文字の周囲を解析していく。魔導名簿の頁には、三つの層が浮かんでいた。現世の登録情報。前世の死亡記録。そして、その二つを繋ぐ黒い線。
線は細い。
だが、深く食い込んでいる。
「照合が完了すれば、学院の術式上、ノア・クロウの登録は不安定化する。最悪の場合、学院基盤はお前をノア・クロウではなく、黒い災厄イリアス・ノクスヴェルトとして扱う」
ノアは眉を上げた。
「学内システムに災厄扱いされるってこと?」
「簡単に言えばな」
「最悪。購買でパン買う時も災厄名義?」
「冗談を言うな」
「冗談言ってないと腹立つって言っただろ」
ノアの首輪が熱を増した。
「照合中」の文字が明滅するたび、胸の奥が引かれる。膝の力がほんの少し抜けた。ノアはすぐに足に力を入れ直したが、レオは見逃さなかった。
白金の指が、ノアの背へ伸びかける。
「触れていい?」
「まだ立てる」
「膝が揺れた」
「観察力が嫌」
「君が倒れるよりいい」
「倒れませんー。天才ちゃんなので」
その瞬間、名簿の「照合中」が強く光った。
ノアの瞳孔が開く。
視界が一瞬、白く飛んだ。
死の記録。
黒い荒野。
世界の歓声。
レオではない、セラフィードの腕。
冷えていく身体。
最後の笑み。
戻るな。
ノアは奥歯を噛んだ。
「っ……」
短い呻きが漏れる。
身体が前へ傾きかけた。
レオがすぐに支えた。今度は、ノアも拒まなかった。拒む余裕がなかったとも言える。肩に添えられた手は丁寧で、乱暴ではない。それでもレオの指先は震えている。
「ノア」
レオが呼ぶ。
「ノア・クロウ」
赤い糸が強く光る。
魂糸が現世名へ縫い戻されるように震えた。
ノアは息を吸った。
喉が痛い。
だが、声は出る。
「俺は……ノア・クロウ」
名簿の「照合中」が揺れた。
ノアは、さらに言う。
「黒魔法科一年。寮はレオと相部屋。喉は営業短縮中。小テストはできれば延期希望。今の名前は、ノア・クロウ」
セドリックが低く呟いた。
「余計な情報が多い」
「自己紹介は個性が大事」
「黙れと言いたいが、今は名乗れ」
「命令が混線してる」
ノアは笑った。
今度の笑いには、怒りが混じっていた。
「俺を勝手に死亡記録と照合すんな。死んだのはイリアスだ。俺はここで面倒くさい授業受けて、面倒くさい王子様に名前連呼されて、面倒くさい敵に名札いじられてる現役学生だ。勝手に墓から出席取るな」
魔導名簿が震えた。
状態欄の「照合中」が一瞬、薄くなる。
しかし、消えはしない。
代わりに、黒い線が前世死亡記録とノアの登録欄をさらに結ぼうと伸びる。
レオの顔から血の気が引いた。
彼は、ノアを支えたまま、名簿を睨む。
「切り離せないのか」
セドリックは黒魔法陣を展開しながら答えた。
「無理に切れば逆流する。今の状態では、前世記録側からの引き込みが強い。照合を止めるには、接続元を特定する必要がある」
「接続元」
「前世死亡記録が保存されている場所だ。学院名簿とその記録が繋がっていること自体がおかしい。誰かが古代の魂記録を操作している」
ノアは顔をしかめた。
「また魂帳局?」
「その可能性が高い。少なくとも、魂帳局系の古い記録基盤と接続している」
「次から次へと部署が増えるな。敵、組織図作ってくれない?」
「作っても改竄されるだろうな」
「先生、たまに冗談きつい」
「事実だ」
セドリックは名簿に封印を重ねた。
黒魔法が頁の縁を縛り、状態欄の明滅を一時的に抑える。だが、「照合中」の文字は残ったままだった。
ノアの首輪の熱も消えない。
黒い亀裂が少し広がっている。
白い花紋がそれを支えているが、花弁の縁が黒く染まりかけていた。
レオはそれを見て、声を低くした。
「部屋に戻ろう」
「調査は?」
「セドリック先生が続ける」
「勝手に決めるな」
「君は今、膝が揺れている」
「それはそう」
「喉も詰まっている」
「それもそう」
「首輪の亀裂が広がっている」
「それもまあ、そう」
「戻ろう」
「……判断材料が多い」
ノアはため息をついた。
反論しきれないのが悔しい。身体が本当に重い。胸の奥をまだ古い名に引かれている。ここで意地を張ると、レオがさらに悪化する。つまり撤退した方がまし。なんだこの消極的合理性。
セドリックも頷いた。
「一度戻れ。これ以上ここにいると照合が進む」
「進むって言い方やめてください。進捗管理されてるみたいで嫌だ」
「実際されている」
「余計嫌」
ノアはレオに支えられながら、名簿から離れた。
離れると、胸の奥を引かれる感覚は少し弱くなった。だが完全には消えない。照合中の文字は、距離で切れるものではなかった。
記録室を出る直前、レオが振り返った。
魔導名簿は閉じられていない。
古い頁の上に、まだイリアス・ノクスヴェルトの名が光っている。
死亡から照合中へ。
その変化が、レオの前世の傷を深く抉っているのが分かった。
ノアは、掠れた声で言った。
「レオ」
レオがこちらを見る。
「俺は今、ここにいる」
レオの赤い糸が震えた。
「うん」
「死亡記録なんかに負けてやる気はない」
「うん」
「あと、名前連呼は一時間に十回まで」
「少ない」
「多い」
「足りない」
「交渉下手か」
レオは少しだけ目を伏せた。
「努力する」
「また便利な言葉」
夜。
寮部屋は静かだった。
レオはノアを寝台に座らせ、水を渡し、喉と首輪の熱を鎮めた。伴侶首輪の黒い亀裂は完全には戻らない。白い花紋が亀裂の周囲を守るように光っている。
レオは、ノアの首元へ聖魔法を流しながら、何度も名を呼んだ。
「ノア」
「一回目」
「ノア・クロウ」
「二回目」
「ノア」
「三回目」
「ノア・クロウ」
「名前呼びすぎ。恋人じゃなくて呪術師」
「伴侶だよ」
「余計重い」
「君を戻されないために呼んでいる」
「分かってるけど多い」
レオは手を止めなかった。
白金の光が喉を撫で、魂糸の震えを鎮めていく。声を封じるためではない。名を縛るためでもない。今夜のレオは、少なくともその境界を守ろうとしていた。
努力はしている。
しているから厄介だ。
ノアは水を飲んで、息をついた。
「俺も言う」
レオが顔を上げる。
ノアは、掠れた声で言った。
「ノア・クロウ」
首輪がわずかに光る。
「黒魔法科一年。現世の名前。仮登録じゃない。照合中でもない。死んでない。以上」
レオの目が揺れた。
「生きている」
「そこ、追加する?」
「して」
「はいはい。生きてます」
レオが、ようやく少しだけ息を吐いた。
その吐息の軽さに、ノアは気づく。
レオは、一日中息を詰めていたのだ。
イリアスの死亡記録。
照合中。
ノアがそこへ引かれるたび、レオはまた腕の中で死なれる感覚を見ていたのかもしれない。
ノアは、少しだけ声を柔らかくした。
「レオ」
「何?」
「俺はここ」
レオは、目を閉じる。
「うん」
「点呼終了」
「まだ足りない」
「足りろ」
「努力する」
「便利すぎる」
その時だった。
首元に、鋭い冷たさが走った。
ノアの身体がびくりと震える。
レオの赤い糸が一気に張った。
伴侶首輪の黒い亀裂の内側に、小さな文字が浮かび上がる。
黒い数字。
1%。
ノアは鏡へ顔を向けた。
首輪の内側、白い花紋の端に、黒く刻まれている。
照合進行率、一パーセント。
ノアは、しばらくそれを見ていた。
それから、低く笑った。
「進捗表示まで出た。親切設計、腹立つな」
レオの顔から、完全に血の気が引いていた。




