第70話 仮登録の生徒
学院記録室は、学生が普段踏み込む場所ではなかった。
事務棟のさらに奥。廊下の突き当たりに、古い青銅の扉がある。扉には学院創設時の紋章が刻まれ、白い石壁には細い管理術式が枝のように走っていた。書類をしまうだけの部屋にしては、結界が重すぎる。ここまで来ると、学院というより古代の秘密機関である。教育機関、裏側に物を抱えすぎだ。人間は収納が下手なのか。
セドリック・バロウズが黒い外套の袖を払うと、扉の封印が静かに開いた。
中は暗く、冷えていた。
紙の匂いは薄い。代わりに、封印蝋と古い魔力の匂いがする。壁一面に棚が並んでいるが、そこに納められているのは紙束ではなく、薄い石板、金属筒、水晶板、魔力で閉じられた記録函だった。部屋の中央には、一冊の巨大な名簿が置かれている。
本ではない。
紙の頁を持っているように見えるが、表紙も頁も魔力でできていた。黒い革に似た表面の下で青白い文字が流れ、開かれてもいないのに、いくつもの名前が星のように浮かんでは沈んでいる。
ノア・クロウは、記録室の入口で軽く眉を上げた。
「うわ、思ったより本格的。入学名簿ってもっと紙とインクで地味にやるものじゃないの?」
セドリックが淡々と言った。
「これは学院の登録原簿だ。一般事務用の紙名簿ではない。魂名、入学契約、魔法属性、所属科、在籍状態を管理している」
「学生管理、魂まで見るの重すぎない?」
「魔法学院だからな」
「便利な言葉だなぁ」
レオ・アステルレインは、ノアの隣に立っていた。
いつもより距離が近い。
というより、近すぎる。
肩が触れる寸前だ。昨夜から続く名への干渉で、レオは明らかに警戒を強めている。部屋札、出席簿、そして今は登録原簿。ノアの名が記録から削られるたびに、赤い糸が反応する。そのたびにレオの表情から温度が消える。ノアの名前に触るもの全部を燃やしたくて仕方ない顔だ。王子様、危険物取扱注意。
ノアは横目でレオを見た。
「近い」
「離れたくない」
「せめて取り繕え」
「取り繕う余裕がない」
「正直で怖い」
セドリックが名簿の前に立ち、指先で表紙の中央に触れた。
青白い光が走る。
名簿が開いた。
頁が勝手にめくられていく。学院創設時の生徒名、百年前の卒業生、消えた科の記録、閉鎖された実験棟の登録。膨大な名が、光の層になって流れた。
やがて、現在の在籍者欄へたどり着く。
黒魔法科一年。
数少ない名前が並ぶ。
その中に、ノア・クロウの名があった。
いや、あるはずだった。
ノア・クロウ。
文字は表示されている。
しかし、横に不自然な黒い印が押されていた。黒い花のような印。黒災忌会の花にも似ているが、花弁の形がわずかに違う。英雄教会の白い儀礼花を裏返し、黒く染めたような形だった。
そして、その下に状態欄がある。
仮登録。
ノアは、しばらくそれを見つめた。
それから、軽く笑う。
「俺、入学手続きまだ終わってなかった?」
セドリックは笑わない。
「普通は、魂名が不安定な者に出る表示だ」
「魂名が不安定」
「現世の名と魂の奥に残る名が一致せず、登録原簿が判断を保留している状態だ。新生児や転移者、強い記憶障害を持つ者、あるいは転生の残響が濃すぎる者に稀に出る」
レオが即座に言った。
「ノアはノアです」
ノアは片手を上げる。
「本人より先に断言するな」
「断言する」
「そこは譲る気ないんだ」
「ない」
レオの声は静かだった。
静かなのに、痛いくらい強い。
ノアは肩をすくめようとして、首輪の熱に顔をしかめた。
登録原簿の「仮登録」という表示を見た瞬間から、伴侶首輪がじわじわと熱を持っている。白い花紋が黒く縁取られ、胸の奥を細い糸で引かれるような感覚がある。
ノア・クロウは仮の名。
その言葉が、扉にも部屋札にも出席簿にも現れた。
今度は原簿にまで、仮登録。
冗談にしては、手が込んでいる。
嫌がらせにしては、的確すぎる。
ノアは名簿へ一歩近づいた。
レオの赤い糸が鋭く張る。
「触らないで」
「見ないと分からない」
「触れたら引かれる」
「知ってる」
「なら」
「だから慎重に触る」
「そういう問題じゃない」
「そういう問題でもある」
ノアは、原簿の上に手をかざした。
触れてはいない。
だが、名簿の魔力がこちらへ吸い寄せられるように震える。ノア・クロウの欄が、青白く光った。黒い花の印がゆっくりと回転し、仮登録の文字が濃くなる。
その瞬間、胸の奥を強く引かれた。
「っ……」
喉が詰まる。
瞳孔がわずかに開き、視界の奥で黒い荒野がちらついた。見たくない。けれど、見えた。前世の空。黒い灰。血に濡れた魔法陣。イリアス・ノクスヴェルトという名前が、自分の内側から浮かび上がろうとする。
レオがすぐに腕を伸ばした。
「ノア」
ノアは片手で制する。
「大丈夫。中度未満」
「自分で分類しないで」
「便利だろ」
「便利じゃない」
レオの指が震えている。
触れたい。
引き戻したい。
原簿からノアを引き剥がしたい。
いや、もっと奥。
学院の名簿からも、記録からも、契約からもノアを外して、自分の赤い糸の中だけに置きたい。
その衝動が、赤い糸を通じて流れてきた。
ノアはゆっくりとレオを見た。
「今、俺を学院から剥がして自分の契約の中にしまいたいって思ったな」
レオは否定しなかった。
「思った」
「正直でよろしい。最悪だけど」
「学院そのものが信用できない」
「分かる。でも俺をお前の個人所有登録にするな」
「個人所有ではない」
「じゃあ何」
「伴侶契約」
「言葉を飾っただけでだいぶ怖い」
レオは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「君が記録から消えるのを見たくない」
「消えない」
「根拠は?」
「俺が嫌だから」
ノアは名簿へ目を戻した。
「それで十分だろ」
セドリックが短く息を吐いた。
「十分ではないが、重要ではある」
「先生、珍しく優しい」
「事実を言っただけだ。名への干渉は、本人の認識と周囲の認識、記録の三つが噛み合って強くなる。本人が拒否しているなら、完全な上書きはまだできない」
「まだ、か」
「まだ、だ」
セドリックは原簿の横へ黒魔法陣を展開した。
名簿の頁に、三つの円が浮かぶ。
社会名。
魂名。
記録名。
前にも黒板で見た図だったが、原簿に浮かぶそれはもっと生々しい。三つの円の中心に、ノア・クロウの名が青白く揺れている。その下、影のようにイリアス・ノクスヴェルトの名が眠っていた。
セドリックが言う。
「魔導名簿は、生まれつき魂に刻まれた魔法属性と、入学時に登録した名前を結びつける。お前は今世でも黒魔法適性が極めて高い。そこに前世名の残響がある。敵はそこを突き、ノア・クロウは仮の名だと原簿に扱わせようとしている」
ノアは乾いた笑みを浮かべた。
「俺の黒魔法才能まで前世名の証拠扱い?」
「そうされかけている」
「才能あるって大変だなぁ、天才ちゃんつらい」
軽口は出た。
だが声の奥に、不快感が混じる。
才能まで利用される。
黒魔法の適性も、魂の残響も、名前も。
ノア・クロウとして積み上げてきたものを、イリアス・ノクスヴェルトの証拠として逆向きに繋げられる。
それは腹立たしかった。
怖いより先に、腹立たしい。
ノアは、原簿へ向かって低く言った。
「俺は今世でも黒魔法の天才です。そこは認める。でも、それは俺がノア・クロウじゃない証拠にはならない」
原簿の頁が震えた。
仮登録の文字が一瞬薄くなる。
レオがすぐに続けた。
「ノア・クロウ」
赤い糸が名に呼応して震える。
伴侶首輪の白い花紋が、黒い縁取りを押し返すように光った。
ノアは横目でレオを見る。
「また点呼」
「必要だから」
「はいはい」
レオは静かに続けた。
「ノア・クロウ。黒魔法科一年。今の名。今の魂。今の君」
ノアは少しだけ目を細める。
「最後の一つ、重い」
「軽くは言えない」
「まあ、軽く言われても腹立つか」
「うん」
セドリックは二人のやり取りを見て、呆れたように眉を寄せた。
「惚気ている場合ではない」
「どこが惚気ですか」
「十分だ」
「先生の判定が雑」
セドリックは無視した。
原簿の頁をさらに調べる。黒魔法の線が、黒い花の印の周囲をなぞった。印は抵抗するように震えるが、完全には隠れない。
「この印は外部から直接押されたものではない。学院基盤の古い接続を通っている」
レオの目が冷える。
「学院内部?」
「内部か、あるいは学院の創設以前から繋がっている古い機関だ」
ノアが言う。
「魂帳局?」
セドリックはわずかに頷いた。
「可能性はある。魂名管理は、古い魂帳局の系譜と繋がっている。現代では独立機関としてはほとんど機能していないが、学院や教会の古い登録術式に残骸が組み込まれていることがある」
「残骸って言い方」
「事実だ。だが、敵がその残骸を使っているなら厄介だ」
「先生の厄介、毎回重いな」
「軽い厄介なら口に出さない」
「でしょうね」
原簿の頁が、急に震えた。
ノアの欄の黒い花印が光る。
仮登録の文字が一度消え、次に濃く浮かび直した。
胸の奥が、また引かれる。
「っ……」
ノアは喉を押さえた。
レオが即座に水を差し出す。
いつ用意した。怖い。
「書類見ただけで水分補給」
「君の存在を紙切れに揺らされたくない」
「紙切れっていうにはだいぶ魔力強いけどな」
「それでも」
レオの声が低くなる。
「君を揺らしていいものじゃない」
ノアは水を受け取った。
喉に少しずつ流し込む。冷たすぎない温度が、詰まった喉を緩めた。
セドリックが原簿へ封印をかける。
「現時点でノア・クロウの登録を完全に回復させるのは難しい。下手に上書きすると、敵の術式に利用される」
レオの手が強く握られる。
「ではどうする」
「根を調べる。学院基盤、英雄教会、魂帳局系の接続。どこから仮登録表示が発生しているかを突き止める」
「その間、ノアの名は?」
「本人、周囲、記録の三方向で支える。本人が名乗る。周囲が正しく呼ぶ。記録は封印で保留する」
ノアは肩をすくめた。
「また点呼祭り?」
「そうなる」
「えぇ……」
レオは真顔で言った。
「僕は何度でも呼ぶ」
「お前は嬉しそうにするな」
「嬉しくはない。必要だ」
「ちょっと嬉しいだろ」
「……少し」
「正直」
レオは目を逸らさなかった。
「君の名を呼べるのは、嬉しい」
ノアは黙った。
その言い方は、少しだけ反則だった。
前世で最後に失った名。
現世でやっと呼べる名。
それを敵に奪われかけているなら、レオが執着するのも分かる。
分かるが、怖いものは怖い。
ノアは水杯を返しながら言った。
「呼ぶのはいい。ただし、俺をお前の契約内にしまう方向へ行ったら減点」
「分かった」
「即答できたな」
「そこは分かった」
「九点」
レオの目がわずかに明るくなる。
セドリックが低く呟いた。
「採点制、まだ続いていたのか」
「教育です」
「何の」
「王子様の」
「難事業だな」
「先生も手伝います?」
「断る」
その時、魔導名簿が勝手に頁をめくり始めた。
セドリックの顔色が変わる。
「触るな」
誰も触れていない。
頁は風もないのにめくられていく。現在の在籍欄を離れ、過去の卒業生、退学者、失踪者、死亡者、創設以前の連携記録へ遡っていく。
ノアの首輪が強く熱を持った。
レオの赤い糸が鋭く張る。
頁が止まった。
古い登録欄。
そこに、一つの名があった。
イリアス・ノクスヴェルト。
所属欄は空白。
魔法属性は黒。
状態欄には、もともと一語が刻まれていた。
死亡。
その文字が、青白い光を帯びて揺れる。
そして、ゆっくりと書き換わった。
照合中。
ノアは、喉の奥で笑った。
声は出なかった。
レオの赤い糸が、痛むほど強く張った。




