↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第四章 【仮の名と白い花】

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

72/134

第70話 仮登録の生徒



 学院記録室は、学生が普段踏み込む場所ではなかった。


 事務棟のさらに奥。廊下の突き当たりに、古い青銅の扉がある。扉には学院創設時の紋章が刻まれ、白い石壁には細い管理術式が枝のように走っていた。書類をしまうだけの部屋にしては、結界が重すぎる。ここまで来ると、学院というより古代の秘密機関である。教育機関、裏側に物を抱えすぎだ。人間は収納が下手なのか。


 セドリック・バロウズが黒い外套の袖を払うと、扉の封印が静かに開いた。


 中は暗く、冷えていた。


 紙の匂いは薄い。代わりに、封印蝋と古い魔力の匂いがする。壁一面に棚が並んでいるが、そこに納められているのは紙束ではなく、薄い石板、金属筒、水晶板、魔力で閉じられた記録函だった。部屋の中央には、一冊の巨大な名簿が置かれている。


 本ではない。


 紙の頁を持っているように見えるが、表紙も頁も魔力でできていた。黒い革に似た表面の下で青白い文字が流れ、開かれてもいないのに、いくつもの名前が星のように浮かんでは沈んでいる。


 ノア・クロウは、記録室の入口で軽く眉を上げた。


「うわ、思ったより本格的。入学名簿ってもっと紙とインクで地味にやるものじゃないの?」


 セドリックが淡々と言った。


「これは学院の登録原簿だ。一般事務用の紙名簿ではない。魂名、入学契約、魔法属性、所属科、在籍状態を管理している」


「学生管理、魂まで見るの重すぎない?」


「魔法学院だからな」


「便利な言葉だなぁ」


 レオ・アステルレインは、ノアの隣に立っていた。


 いつもより距離が近い。


 というより、近すぎる。


 肩が触れる寸前だ。昨夜から続く名への干渉で、レオは明らかに警戒を強めている。部屋札、出席簿、そして今は登録原簿。ノアの名が記録から削られるたびに、赤い糸が反応する。そのたびにレオの表情から温度が消える。ノアの名前に触るもの全部を燃やしたくて仕方ない顔だ。王子様、危険物取扱注意。


 ノアは横目でレオを見た。


「近い」


「離れたくない」


「せめて取り繕え」


「取り繕う余裕がない」


「正直で怖い」


 セドリックが名簿の前に立ち、指先で表紙の中央に触れた。


 青白い光が走る。


 名簿が開いた。


 頁が勝手にめくられていく。学院創設時の生徒名、百年前の卒業生、消えた科の記録、閉鎖された実験棟の登録。膨大な名が、光の層になって流れた。


 やがて、現在の在籍者欄へたどり着く。


 黒魔法科一年。


 数少ない名前が並ぶ。


 その中に、ノア・クロウの名があった。


 いや、あるはずだった。


 ノア・クロウ。


 文字は表示されている。


 しかし、横に不自然な黒い印が押されていた。黒い花のような印。黒災忌会の花にも似ているが、花弁の形がわずかに違う。英雄教会の白い儀礼花を裏返し、黒く染めたような形だった。


 そして、その下に状態欄がある。


 仮登録。


 ノアは、しばらくそれを見つめた。


 それから、軽く笑う。


「俺、入学手続きまだ終わってなかった?」


 セドリックは笑わない。


「普通は、魂名が不安定な者に出る表示だ」


「魂名が不安定」


「現世の名と魂の奥に残る名が一致せず、登録原簿が判断を保留している状態だ。新生児や転移者、強い記憶障害を持つ者、あるいは転生の残響が濃すぎる者に稀に出る」


 レオが即座に言った。


「ノアはノアです」


 ノアは片手を上げる。


「本人より先に断言するな」


「断言する」


「そこは譲る気ないんだ」


「ない」


 レオの声は静かだった。


 静かなのに、痛いくらい強い。


 ノアは肩をすくめようとして、首輪の熱に顔をしかめた。


 登録原簿の「仮登録」という表示を見た瞬間から、伴侶首輪がじわじわと熱を持っている。白い花紋が黒く縁取られ、胸の奥を細い糸で引かれるような感覚がある。


 ノア・クロウは仮の名。


 その言葉が、扉にも部屋札にも出席簿にも現れた。


 今度は原簿にまで、仮登録。


 冗談にしては、手が込んでいる。


 嫌がらせにしては、的確すぎる。


 ノアは名簿へ一歩近づいた。


 レオの赤い糸が鋭く張る。


「触らないで」


「見ないと分からない」


「触れたら引かれる」


「知ってる」


「なら」


「だから慎重に触る」


「そういう問題じゃない」


「そういう問題でもある」


 ノアは、原簿の上に手をかざした。


 触れてはいない。


 だが、名簿の魔力がこちらへ吸い寄せられるように震える。ノア・クロウの欄が、青白く光った。黒い花の印がゆっくりと回転し、仮登録の文字が濃くなる。


 その瞬間、胸の奥を強く引かれた。


「っ……」


 喉が詰まる。


 瞳孔がわずかに開き、視界の奥で黒い荒野がちらついた。見たくない。けれど、見えた。前世の空。黒い灰。血に濡れた魔法陣。イリアス・ノクスヴェルトという名前が、自分の内側から浮かび上がろうとする。


 レオがすぐに腕を伸ばした。


「ノア」


 ノアは片手で制する。


「大丈夫。中度未満」


「自分で分類しないで」


「便利だろ」


「便利じゃない」


 レオの指が震えている。


 触れたい。


 引き戻したい。


 原簿からノアを引き剥がしたい。


 いや、もっと奥。


 学院の名簿からも、記録からも、契約からもノアを外して、自分の赤い糸の中だけに置きたい。


 その衝動が、赤い糸を通じて流れてきた。


 ノアはゆっくりとレオを見た。


「今、俺を学院から剥がして自分の契約の中にしまいたいって思ったな」


 レオは否定しなかった。


「思った」


「正直でよろしい。最悪だけど」


「学院そのものが信用できない」


「分かる。でも俺をお前の個人所有登録にするな」


「個人所有ではない」


「じゃあ何」


「伴侶契約」


「言葉を飾っただけでだいぶ怖い」


 レオは、ほんの少しだけ目を伏せた。


「君が記録から消えるのを見たくない」


「消えない」


「根拠は?」


「俺が嫌だから」


 ノアは名簿へ目を戻した。


「それで十分だろ」


 セドリックが短く息を吐いた。


「十分ではないが、重要ではある」


「先生、珍しく優しい」


「事実を言っただけだ。名への干渉は、本人の認識と周囲の認識、記録の三つが噛み合って強くなる。本人が拒否しているなら、完全な上書きはまだできない」


「まだ、か」


「まだ、だ」


 セドリックは原簿の横へ黒魔法陣を展開した。


 名簿の頁に、三つの円が浮かぶ。


 社会名。


 魂名。


 記録名。


 前にも黒板で見た図だったが、原簿に浮かぶそれはもっと生々しい。三つの円の中心に、ノア・クロウの名が青白く揺れている。その下、影のようにイリアス・ノクスヴェルトの名が眠っていた。


 セドリックが言う。


「魔導名簿は、生まれつき魂に刻まれた魔法属性と、入学時に登録した名前を結びつける。お前は今世でも黒魔法適性が極めて高い。そこに前世名の残響がある。敵はそこを突き、ノア・クロウは仮の名だと原簿に扱わせようとしている」


 ノアは乾いた笑みを浮かべた。


「俺の黒魔法才能まで前世名の証拠扱い?」


「そうされかけている」


「才能あるって大変だなぁ、天才ちゃんつらい」


 軽口は出た。


 だが声の奥に、不快感が混じる。


 才能まで利用される。


 黒魔法の適性も、魂の残響も、名前も。


 ノア・クロウとして積み上げてきたものを、イリアス・ノクスヴェルトの証拠として逆向きに繋げられる。


 それは腹立たしかった。


 怖いより先に、腹立たしい。


 ノアは、原簿へ向かって低く言った。


「俺は今世でも黒魔法の天才です。そこは認める。でも、それは俺がノア・クロウじゃない証拠にはならない」


 原簿の頁が震えた。


 仮登録の文字が一瞬薄くなる。


 レオがすぐに続けた。


「ノア・クロウ」


 赤い糸が名に呼応して震える。


 伴侶首輪の白い花紋が、黒い縁取りを押し返すように光った。


 ノアは横目でレオを見る。


「また点呼」


「必要だから」


「はいはい」


 レオは静かに続けた。


「ノア・クロウ。黒魔法科一年。今の名。今の魂。今の君」


 ノアは少しだけ目を細める。


「最後の一つ、重い」


「軽くは言えない」


「まあ、軽く言われても腹立つか」


「うん」


 セドリックは二人のやり取りを見て、呆れたように眉を寄せた。


「惚気ている場合ではない」


「どこが惚気ですか」


「十分だ」


「先生の判定が雑」


 セドリックは無視した。


 原簿の頁をさらに調べる。黒魔法の線が、黒い花の印の周囲をなぞった。印は抵抗するように震えるが、完全には隠れない。


「この印は外部から直接押されたものではない。学院基盤の古い接続を通っている」


 レオの目が冷える。


「学院内部?」


「内部か、あるいは学院の創設以前から繋がっている古い機関だ」


 ノアが言う。


「魂帳局?」


 セドリックはわずかに頷いた。


「可能性はある。魂名管理は、古い魂帳局の系譜と繋がっている。現代では独立機関としてはほとんど機能していないが、学院や教会の古い登録術式に残骸が組み込まれていることがある」


「残骸って言い方」


「事実だ。だが、敵がその残骸を使っているなら厄介だ」


「先生の厄介、毎回重いな」


「軽い厄介なら口に出さない」


「でしょうね」


 原簿の頁が、急に震えた。


 ノアの欄の黒い花印が光る。


 仮登録の文字が一度消え、次に濃く浮かび直した。


 胸の奥が、また引かれる。


「っ……」


 ノアは喉を押さえた。


 レオが即座に水を差し出す。


 いつ用意した。怖い。


「書類見ただけで水分補給」


「君の存在を紙切れに揺らされたくない」


「紙切れっていうにはだいぶ魔力強いけどな」


「それでも」


 レオの声が低くなる。


「君を揺らしていいものじゃない」


 ノアは水を受け取った。


 喉に少しずつ流し込む。冷たすぎない温度が、詰まった喉を緩めた。


 セドリックが原簿へ封印をかける。


「現時点でノア・クロウの登録を完全に回復させるのは難しい。下手に上書きすると、敵の術式に利用される」


 レオの手が強く握られる。


「ではどうする」


「根を調べる。学院基盤、英雄教会、魂帳局系の接続。どこから仮登録表示が発生しているかを突き止める」


「その間、ノアの名は?」


「本人、周囲、記録の三方向で支える。本人が名乗る。周囲が正しく呼ぶ。記録は封印で保留する」


 ノアは肩をすくめた。


「また点呼祭り?」


「そうなる」


「えぇ……」


 レオは真顔で言った。


「僕は何度でも呼ぶ」


「お前は嬉しそうにするな」


「嬉しくはない。必要だ」


「ちょっと嬉しいだろ」


「……少し」


「正直」


 レオは目を逸らさなかった。


「君の名を呼べるのは、嬉しい」


 ノアは黙った。


 その言い方は、少しだけ反則だった。


 前世で最後に失った名。


 現世でやっと呼べる名。


 それを敵に奪われかけているなら、レオが執着するのも分かる。


 分かるが、怖いものは怖い。


 ノアは水杯を返しながら言った。


「呼ぶのはいい。ただし、俺をお前の契約内にしまう方向へ行ったら減点」


「分かった」


「即答できたな」


「そこは分かった」


「九点」


 レオの目がわずかに明るくなる。


 セドリックが低く呟いた。


「採点制、まだ続いていたのか」


「教育です」


「何の」


「王子様の」


「難事業だな」


「先生も手伝います?」


「断る」


 その時、魔導名簿が勝手に頁をめくり始めた。


 セドリックの顔色が変わる。


「触るな」


 誰も触れていない。


 頁は風もないのにめくられていく。現在の在籍欄を離れ、過去の卒業生、退学者、失踪者、死亡者、創設以前の連携記録へ遡っていく。


 ノアの首輪が強く熱を持った。


 レオの赤い糸が鋭く張る。


 頁が止まった。


 古い登録欄。


 そこに、一つの名があった。


 イリアス・ノクスヴェルト。


 所属欄は空白。


 魔法属性は黒。


 状態欄には、もともと一語が刻まれていた。


 死亡。


 その文字が、青白い光を帯びて揺れる。


 そして、ゆっくりと書き換わった。


 照合中。


 ノアは、喉の奥で笑った。


 声は出なかった。


 レオの赤い糸が、痛むほど強く張った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。