↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第四章 【仮の名と白い花】

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

71/134

第69話 出席簿の前世名


 黒魔法科の教室は、朝から妙に静かだった。


 白い学院棟の一角にありながら、そこだけ少し空気が重い。壁は黒灰色の石で補強され、窓枠には魔力漏れを防ぐ細い銀線が埋め込まれている。天井から吊るされた魔力灯は、聖魔法科の教室にあるような眩しい白金ではなく、青黒い光を静かに落としていた。


 机の数は少ない。


 黒魔法科の新入生は多くない。偏見がある。危険視される。親が嫌がる。教師も嫌がる。本人も途中で嫌になる。だいたいそういう理由で減る。人間、黒いものを見るとすぐ不吉だの危険だの言う。夜空にも同じことを言ってみろ。たぶん星に怒られる。


 ノア・クロウは、自分の席に肘をつきながら、正面の黒板をぼんやり見ていた。


 喉はまだ少し痛む。


 昨日までの声への干渉に比べればましだ。叫ばないで済むだけ世界は多少進歩している。いや、出席簿に前世名を浮かばせる敵がいる時点で進歩も何もない。文明は滅んでいい。できれば小テスト前に。


 首元の伴侶首輪《メイト・カラー》は、朝から薄く熱を持っていた。


 部屋札の件から、ずっと名を引かれている感覚がある。喉ではない。胸の奥。魂糸のさらに内側。今の名が書かれた場所の下から、古い名が指先を伸ばしてくるような、嫌な感触。


 ノア・クロウ。


 イリアス・ノクスヴェルト。


 どちらも音にすぎないはずなのに、魔法世界では音だけで済まないらしい。人間、名前に意味を持たせすぎだ。犬の名前を三回呼んだら来る程度で満足しておけばよかったのに。


 教室の扉が開き、セドリック・バロウズが入ってきた。


 黒い外套を肩にかけ、片手に出席簿を持っている。いつもの無愛想な顔。目元には徹夜明けの気配がある。たぶん、記録水晶の破片や部屋札の術式を調べていたのだろう。


 セドリックは教壇へ立つと、出席簿を机へ置いた。


「授業前に確認する。昨日から学院内の名簿系統に干渉が出ている。自分の名札、部屋札、貸出カード、出席簿に異常を見つけた者は報告しろ」


 数人の生徒が不安そうに顔を見合わせる。


 ノアは片手を上げた。


「俺の名前だけ朝から退勤してました」


「お前は後で詳しく聞く」


「もう朝から詳しい人生なんですけど」


「黙れ」


「はい」


 ノアは素直に黙った。


 セドリックは疑わしそうに一瞬こちらを見た。素直すぎると疑われる。理不尽である。


 彼は出席簿を開いた。


 その瞬間、ノアの首輪がひやりと熱を持った。


 冷たい熱。


 氷の刃を首の内側へ差し込まれたような感覚。ノアは机の下で、指を軽く握った。


 来る。


 理由は分からないが、分かった。


 セドリックの視線が出席簿の上を滑る。


「アレイン」


「はい」


「グレイス」


「はい」


「シルヴァ」


「はい」


 名前が呼ばれるたび、生徒たちが返事をする。


 ただの日常だ。


 出席確認。


 朝の黒魔法科の授業。


 いつもの、つまらなくて安全な手続き。


 そのはずだった。


 セドリックの指が、ノアの欄で止まった。


 教室の空気が、わずかに沈む。


 出席簿の紙面に書かれているはずの文字が揺れていた。


 ノア・クロウ。


 その文字だけが薄くなっている。


 紙の上で、墨が水に溶けるように輪郭を失い、その下から別の文字が浮かびかけた。


 イリアス・ノクスヴェルト。


 古い名。


 黒い災厄の名。


 セドリックは、まだ完全には気づいていない。


 だが、出席簿の名を読み上げようとした彼の唇が、勝手に別の形を作った。


「イリ……」


 首輪が熱を噴いた。


 ノアの喉が詰まる。


 胸の奥を強く引かれる。瞳孔が一瞬開き、視界の端が赤黒く滲んだ。机の木目が遠ざかる。自分が今、黒魔法科の教室に座っているのか、それとも黒い荒野に立っているのか、一瞬だけ境目が薄れる。


 セドリックの声が、途中で止まった。


 彼の眉が鋭く動く。


 ノアは机に肘をついたまま、口の端を上げた。


「先生、俺の名前はノア・クロウです。出席簿、寝ぼけてる?」


 教室がざわついた。


 何人かは何が起きたか分かっていない。何人かは、セドリックが言いかけた音を聞いてしまった。イリ。その一音だけで、黒い災厄の名を連想する者もいる。


 セドリックは、出席簿から視線を外さず低く言った。


「全員、黙れ」


 教室が静まり返る。


 セドリックの黒魔法が、出席簿の紙面へ細く伸びた。黒い線が文字の周囲を囲む。だが、紙面の異常は出席簿そのものから起きているのではなかった。もっと奥。学院の名簿管理術式。寮の部屋札、黒魔法科の在籍簿、授業登録記録、図書館の貸出記録、医務室の診療簿。学院内の「ノア・クロウ」を記録している基盤へ、外部干渉が入り込んでいる。


 セドリックの目が細くなる。


「出席簿の問題じゃない。名簿管理術式に食い込まれている」


 ノアは喉を押さえた。


「日常の記録から俺の名前を剥がしに来たってことですかね。陰湿すぎない? 敵、文房具に恨みでもある?」


「軽口を挟むな」


「挟まないと息が詰まるので」


「それは術式の影響だ」


「じゃあなおさら喋った方がいいな」


 セドリックは苛立った顔をしたが、否定しなかった。


 その時、胸の奥で赤い糸が鋭く震えた。


 レオだ。


 別教室にいるはずのレオ・アステルレインが、異常を察知した。


 赤い糸を通じて、ノアの名が歪めて呼ばれかけたことが伝わったのだろう。伴侶首輪の熱、魂糸の震え、喉の詰まり。全部がレオへ届いたに違いない。


 ノアは机に肘をついたまま、ため息をつく。


「あー、来るなこれ」


 セドリックが顔を上げた。


「アステルレインか」


「たぶん今、聖魔法科の授業を無視してこっちに来ようとしてる」


「止めろ」


「俺に言われましても。王子様の情緒は基本、野生動物なので」


「飼い主だろう」


「失礼。俺は猛獣使いの資格持ってません」


 赤い糸がさらに強く張る。


 ノアの首輪が熱を持つ。


 レオは来ようとしている。


 授業中にもかかわらず。


 ノアは胸元に手を当て、赤い糸へ向かって低く言った。


「来るな。授業受けてろ」


 返事はない。


 当然だ。赤い糸は通話魔具ではない。だが、感情の波だけは返ってくる。


 嫌だ。


 行く。


 君の名を間違えられた。


 耐えられない。


 その感情が、白金の熱として流れ込む。


 ノアは額を押さえた。


「重い。朝から重い」


 セドリックが出席簿に封印線を引きながら言う。


「こちらの教室に来させるな。聖魔法科の授業中にアステルレインが乱入したら、それだけで噂が増える」


「知ってます」


「なら止めろ」


「だから猛獣使いじゃないんですけど」


 ノアは目を閉じ、赤い糸へ意識を寄せた。


 自分の名を呼ぶ。


 現世の名を。


 レオへ届くように。


「ノア・クロウ」


 小さく言った。


 教室の中で、数人がこちらを見た。


 ノアは構わず続ける。


「俺はノア・クロウ。今、黒魔法科の教室にいる。出席簿が寝ぼけただけ。俺は座ってる。立ってない。倒れてない。来なくていい」


 赤い糸が痛むように震えた。


 来なくていい。


 その言葉に、レオが傷ついた気配がした。


 面倒くさい。


 だが、ノアは続ける。


「来たら減点」


 赤い糸が止まった。


 教室の空気も止まった。


 セドリックがこちらを見た。


「それで止まるのか」


「レオ更生ポイント制です」


「何をやっているんだ、お前たちは」


「俺にも分からないです」


 数秒後、赤い糸の張りが少しだけ緩んだ。


 レオは来ない。


 たぶん。


 少なくとも、今すぐ扉を開けて乱入はしない。


 ノアは息を吐いた。


 首輪の熱はまだある。だが、胸の奥を引かれる感覚は少し弱まった。


 セドリックは、出席簿のノアの欄へ黒魔法の細い封印をかけた。その上から、はっきりと声に出す。


「ノア・クロウ」


 名を呼ばれた瞬間、出席簿の薄れた文字が少しだけ戻る。


 ノアは軽く手を上げた。


「はい。ちゃんといます。魂もたぶんいます」


「たぶんを付けるな」


「自信満々に言える状況じゃないので」


「出席扱いにしておく」


「ありがとうございます」


 教室の何人かが、ようやく小さく息を吐いた。


 だが、緊張は残っている。


 見ていた者は分かっただろう。今起きたのは、ただの出席簿の誤記ではない。ノアの名が、別の名へ変わりかけた。黒い災厄の本名へ。


 噂はまた増える。


 嫌になるほど。


 セドリックは出席簿を閉じた。


「授業内容を変更する」


 生徒たちが顔を上げる。


「名に対する魔法干渉の基礎を扱う。ちょうど実例がある」


 ノアは片手を上げた。


「先生、俺を教材にするのやめません?」


「生きた教材ほど分かりやすいものはない」


「言い方」


「安心しろ。解剖はしない」


「安心材料が怖い」


 セドリックは黒板へ魔法陣を描き始めた。


「名は三層に分けられる。社会名、魂名、記録名。社会名は他者が呼ぶ名。魂名は魂の深層に刻まれる名。記録名は制度や魔法文書に残される名だ。通常、三つは緩やかに重なっている。だが転生者や、古い儀礼の対象者は重なりが歪むことがある」


 ノアは頬杖をついた。


 周囲がこちらを見る。


「俺を見るな。俺も初耳ですー」


 セドリックは続ける。


「今回の干渉は記録名から入っている。出席簿、部屋札、名簿。日常の記録を通して社会名を揺らし、最終的に魂名の表層を書き換えようとしている」


 ノアは、少しだけ声を低くした。


「俺の現世名を仮の名にして、前世名を本名として押し上げる」


「そうだ」


「陰湿」


「術式としては高度だ」


「褒めたくない」


「同感だ」


 黒板に、セドリックが三つの円を描く。


 社会名。


 魂名。


 記録名。


 その重なりの中心に、黒い点が打たれた。


「敵は、お前の声を利用しようとした。失敗した。次に名を使う。名を変えれば、発言者の認識も変わる。周囲がノア・クロウではなくイリアス・ノクスヴェルトとしてお前を呼び始めれば、真儀礼はその認識を証言として使える」


「つまり、周囲の呼び間違いも燃料」


「そうだ」


「最悪。人間の口、全部塞ぎたいな」


 言った瞬間、赤い糸が遠くで反応した。


 レオが賛同しかけた気配がある。


 ノアはすぐに胸元を押さえた。


「冗談。冗談だから。お前は乗るな」


 セドリックが冷たく言う。


「授業中に伴侶へ私語を飛ばすな」


「飛ばしてないです。情緒が勝手に受信するんです」


「迷惑な契約だな」


「俺もそう思います」


 教室の空気が少しだけ緩んだ。


 しかし、セドリックの表情は険しいままだった。


「今日の放課後、学院名簿の原本を確認する。出席簿程度に干渉が出ているなら、原本にも何か残っている可能性が高い」


 ノアは軽く笑った。


「原本って、事務室にあるやつですか」


「もっと奥だ。学院基盤の登録原簿。創設時の術式とも接続している」


「出た。学園の地下とか奥とか古い基盤とか。もう何でも出てくるな、この学校」


「歴史ある学院は、だいたいろくでもないものを抱える」


「先生の名言、また出た。額に入れます?」


「燃やすぞ」


「ひどい」


 授業はそのまま、名への魔法干渉の基礎へ移った。


 だが、ノアは半分しか聞けなかった。


 喉の奥がずっと詰まっている。出席簿の文字が変わりかけた瞬間の感覚が、まだ胸に残っている。自分の名を他人の口から歪められかけるのは、声を奪われるのとは違う恐怖だった。


 声は、自分で出す。


 名は、誰かに呼ばれる。


 だから厄介だ。


 自分ひとりでは守りきれない。


 ノアは、机の端を指で叩いた。


 ノア・クロウ。


 自分の名を、心の中で呼ぶ。


 まだある。


 消えていない。


 授業が終わると、廊下にはレオがいた。


 予想通りすぎて、ノアは笑った。


「早いな。授業終わりの出待ち?」


 レオは笑わなかった。


 青い目が、まっすぐノアの喉と首元を見る。


「大丈夫?」


「見ての通り生きてます」


「名を間違えられた」


「正確には間違えられかけた」


「同じだよ」


「だいぶ違う」


 レオは近づき、低く聞いた。


「触れていい?」


「廊下で?」


「喉と首輪を確認したい」


「出席確認で喉ケアされる人生、濃すぎ」


「君の名を間違えられた」


「根に持ってる」


「持つ」


 レオは否定しない。


 ノアはため息をついた。


「少しだけな」


 レオの指先が首元へ触れる。


 白金の聖魔法が、伴侶首輪の熱を鎮める。喉の詰まりが少しずつ緩んだ。赤い糸が、現世名の輪郭を確かめるように震える。


「ノア・クロウ」


「また点呼」


「必要だから」


「出席済みです」


「何度でも確認する」


「名前監査官、勤務熱心」


 レオの目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


「君が減点と言ったから、行かなかった」


「偉い。八点半」


「上がった」


「授業中に乱入しなかったので」


「次も我慢する」


「次がないのが一番なんだけどな」


「そうだね」


 だが、二人とも分かっていた。


 次はある。


 敵は止まらない。


 放課後、セドリックはノアとレオを連れて、学院の登録原簿が保管された小室へ向かった。


 事務棟の奥。学生が普段近づくことのない階段を下り、古い結界扉を三つ通る。そこは地下礼拝堂ほど深くはないが、空気が似ていた。紙と封印蝋、古い魔力の匂い。壁には学院創設時の紋章が刻まれ、床には淡い青の管理術式が走っている。


 中央に、分厚い原簿が置かれていた。


 ただの本ではない。


 学院に在籍する者の名を、魔法的に記録する原本。


 セドリックが封印を解き、黒魔法科一年の頁を開く。


 ノアは、隣で息を止めた。


 名前が並んでいる。


 生徒の名。


 登録日。


 所属科。


 魔力属性。


 そして、ノア・クロウの欄。


 そこだけに、黒い花の印が押されていた。


 黒災忌会の黒い花に似ている。


 だが、花弁の形が少し違う。


 英雄教会の白い儀礼花を、黒く反転させたような形。


 印の下には、薄い文字が浮かんでいた。


 仮登録。


 ノアは、それを見て笑った。


 声は低かった。


「俺、入学手続きからやり直し?」


 レオの赤い糸が、鋭く張った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。