第69話 出席簿の前世名
黒魔法科の教室は、朝から妙に静かだった。
白い学院棟の一角にありながら、そこだけ少し空気が重い。壁は黒灰色の石で補強され、窓枠には魔力漏れを防ぐ細い銀線が埋め込まれている。天井から吊るされた魔力灯は、聖魔法科の教室にあるような眩しい白金ではなく、青黒い光を静かに落としていた。
机の数は少ない。
黒魔法科の新入生は多くない。偏見がある。危険視される。親が嫌がる。教師も嫌がる。本人も途中で嫌になる。だいたいそういう理由で減る。人間、黒いものを見るとすぐ不吉だの危険だの言う。夜空にも同じことを言ってみろ。たぶん星に怒られる。
ノア・クロウは、自分の席に肘をつきながら、正面の黒板をぼんやり見ていた。
喉はまだ少し痛む。
昨日までの声への干渉に比べればましだ。叫ばないで済むだけ世界は多少進歩している。いや、出席簿に前世名を浮かばせる敵がいる時点で進歩も何もない。文明は滅んでいい。できれば小テスト前に。
首元の伴侶首輪は、朝から薄く熱を持っていた。
部屋札の件から、ずっと名を引かれている感覚がある。喉ではない。胸の奥。魂糸のさらに内側。今の名が書かれた場所の下から、古い名が指先を伸ばしてくるような、嫌な感触。
ノア・クロウ。
イリアス・ノクスヴェルト。
どちらも音にすぎないはずなのに、魔法世界では音だけで済まないらしい。人間、名前に意味を持たせすぎだ。犬の名前を三回呼んだら来る程度で満足しておけばよかったのに。
教室の扉が開き、セドリック・バロウズが入ってきた。
黒い外套を肩にかけ、片手に出席簿を持っている。いつもの無愛想な顔。目元には徹夜明けの気配がある。たぶん、記録水晶の破片や部屋札の術式を調べていたのだろう。
セドリックは教壇へ立つと、出席簿を机へ置いた。
「授業前に確認する。昨日から学院内の名簿系統に干渉が出ている。自分の名札、部屋札、貸出カード、出席簿に異常を見つけた者は報告しろ」
数人の生徒が不安そうに顔を見合わせる。
ノアは片手を上げた。
「俺の名前だけ朝から退勤してました」
「お前は後で詳しく聞く」
「もう朝から詳しい人生なんですけど」
「黙れ」
「はい」
ノアは素直に黙った。
セドリックは疑わしそうに一瞬こちらを見た。素直すぎると疑われる。理不尽である。
彼は出席簿を開いた。
その瞬間、ノアの首輪がひやりと熱を持った。
冷たい熱。
氷の刃を首の内側へ差し込まれたような感覚。ノアは机の下で、指を軽く握った。
来る。
理由は分からないが、分かった。
セドリックの視線が出席簿の上を滑る。
「アレイン」
「はい」
「グレイス」
「はい」
「シルヴァ」
「はい」
名前が呼ばれるたび、生徒たちが返事をする。
ただの日常だ。
出席確認。
朝の黒魔法科の授業。
いつもの、つまらなくて安全な手続き。
そのはずだった。
セドリックの指が、ノアの欄で止まった。
教室の空気が、わずかに沈む。
出席簿の紙面に書かれているはずの文字が揺れていた。
ノア・クロウ。
その文字だけが薄くなっている。
紙の上で、墨が水に溶けるように輪郭を失い、その下から別の文字が浮かびかけた。
イリアス・ノクスヴェルト。
古い名。
黒い災厄の名。
セドリックは、まだ完全には気づいていない。
だが、出席簿の名を読み上げようとした彼の唇が、勝手に別の形を作った。
「イリ……」
首輪が熱を噴いた。
ノアの喉が詰まる。
胸の奥を強く引かれる。瞳孔が一瞬開き、視界の端が赤黒く滲んだ。机の木目が遠ざかる。自分が今、黒魔法科の教室に座っているのか、それとも黒い荒野に立っているのか、一瞬だけ境目が薄れる。
セドリックの声が、途中で止まった。
彼の眉が鋭く動く。
ノアは机に肘をついたまま、口の端を上げた。
「先生、俺の名前はノア・クロウです。出席簿、寝ぼけてる?」
教室がざわついた。
何人かは何が起きたか分かっていない。何人かは、セドリックが言いかけた音を聞いてしまった。イリ。その一音だけで、黒い災厄の名を連想する者もいる。
セドリックは、出席簿から視線を外さず低く言った。
「全員、黙れ」
教室が静まり返る。
セドリックの黒魔法が、出席簿の紙面へ細く伸びた。黒い線が文字の周囲を囲む。だが、紙面の異常は出席簿そのものから起きているのではなかった。もっと奥。学院の名簿管理術式。寮の部屋札、黒魔法科の在籍簿、授業登録記録、図書館の貸出記録、医務室の診療簿。学院内の「ノア・クロウ」を記録している基盤へ、外部干渉が入り込んでいる。
セドリックの目が細くなる。
「出席簿の問題じゃない。名簿管理術式に食い込まれている」
ノアは喉を押さえた。
「日常の記録から俺の名前を剥がしに来たってことですかね。陰湿すぎない? 敵、文房具に恨みでもある?」
「軽口を挟むな」
「挟まないと息が詰まるので」
「それは術式の影響だ」
「じゃあなおさら喋った方がいいな」
セドリックは苛立った顔をしたが、否定しなかった。
その時、胸の奥で赤い糸が鋭く震えた。
レオだ。
別教室にいるはずのレオ・アステルレインが、異常を察知した。
赤い糸を通じて、ノアの名が歪めて呼ばれかけたことが伝わったのだろう。伴侶首輪の熱、魂糸の震え、喉の詰まり。全部がレオへ届いたに違いない。
ノアは机に肘をついたまま、ため息をつく。
「あー、来るなこれ」
セドリックが顔を上げた。
「アステルレインか」
「たぶん今、聖魔法科の授業を無視してこっちに来ようとしてる」
「止めろ」
「俺に言われましても。王子様の情緒は基本、野生動物なので」
「飼い主だろう」
「失礼。俺は猛獣使いの資格持ってません」
赤い糸がさらに強く張る。
ノアの首輪が熱を持つ。
レオは来ようとしている。
授業中にもかかわらず。
ノアは胸元に手を当て、赤い糸へ向かって低く言った。
「来るな。授業受けてろ」
返事はない。
当然だ。赤い糸は通話魔具ではない。だが、感情の波だけは返ってくる。
嫌だ。
行く。
君の名を間違えられた。
耐えられない。
その感情が、白金の熱として流れ込む。
ノアは額を押さえた。
「重い。朝から重い」
セドリックが出席簿に封印線を引きながら言う。
「こちらの教室に来させるな。聖魔法科の授業中にアステルレインが乱入したら、それだけで噂が増える」
「知ってます」
「なら止めろ」
「だから猛獣使いじゃないんですけど」
ノアは目を閉じ、赤い糸へ意識を寄せた。
自分の名を呼ぶ。
現世の名を。
レオへ届くように。
「ノア・クロウ」
小さく言った。
教室の中で、数人がこちらを見た。
ノアは構わず続ける。
「俺はノア・クロウ。今、黒魔法科の教室にいる。出席簿が寝ぼけただけ。俺は座ってる。立ってない。倒れてない。来なくていい」
赤い糸が痛むように震えた。
来なくていい。
その言葉に、レオが傷ついた気配がした。
面倒くさい。
だが、ノアは続ける。
「来たら減点」
赤い糸が止まった。
教室の空気も止まった。
セドリックがこちらを見た。
「それで止まるのか」
「レオ更生ポイント制です」
「何をやっているんだ、お前たちは」
「俺にも分からないです」
数秒後、赤い糸の張りが少しだけ緩んだ。
レオは来ない。
たぶん。
少なくとも、今すぐ扉を開けて乱入はしない。
ノアは息を吐いた。
首輪の熱はまだある。だが、胸の奥を引かれる感覚は少し弱まった。
セドリックは、出席簿のノアの欄へ黒魔法の細い封印をかけた。その上から、はっきりと声に出す。
「ノア・クロウ」
名を呼ばれた瞬間、出席簿の薄れた文字が少しだけ戻る。
ノアは軽く手を上げた。
「はい。ちゃんといます。魂もたぶんいます」
「たぶんを付けるな」
「自信満々に言える状況じゃないので」
「出席扱いにしておく」
「ありがとうございます」
教室の何人かが、ようやく小さく息を吐いた。
だが、緊張は残っている。
見ていた者は分かっただろう。今起きたのは、ただの出席簿の誤記ではない。ノアの名が、別の名へ変わりかけた。黒い災厄の本名へ。
噂はまた増える。
嫌になるほど。
セドリックは出席簿を閉じた。
「授業内容を変更する」
生徒たちが顔を上げる。
「名に対する魔法干渉の基礎を扱う。ちょうど実例がある」
ノアは片手を上げた。
「先生、俺を教材にするのやめません?」
「生きた教材ほど分かりやすいものはない」
「言い方」
「安心しろ。解剖はしない」
「安心材料が怖い」
セドリックは黒板へ魔法陣を描き始めた。
「名は三層に分けられる。社会名、魂名、記録名。社会名は他者が呼ぶ名。魂名は魂の深層に刻まれる名。記録名は制度や魔法文書に残される名だ。通常、三つは緩やかに重なっている。だが転生者や、古い儀礼の対象者は重なりが歪むことがある」
ノアは頬杖をついた。
周囲がこちらを見る。
「俺を見るな。俺も初耳ですー」
セドリックは続ける。
「今回の干渉は記録名から入っている。出席簿、部屋札、名簿。日常の記録を通して社会名を揺らし、最終的に魂名の表層を書き換えようとしている」
ノアは、少しだけ声を低くした。
「俺の現世名を仮の名にして、前世名を本名として押し上げる」
「そうだ」
「陰湿」
「術式としては高度だ」
「褒めたくない」
「同感だ」
黒板に、セドリックが三つの円を描く。
社会名。
魂名。
記録名。
その重なりの中心に、黒い点が打たれた。
「敵は、お前の声を利用しようとした。失敗した。次に名を使う。名を変えれば、発言者の認識も変わる。周囲がノア・クロウではなくイリアス・ノクスヴェルトとしてお前を呼び始めれば、真儀礼はその認識を証言として使える」
「つまり、周囲の呼び間違いも燃料」
「そうだ」
「最悪。人間の口、全部塞ぎたいな」
言った瞬間、赤い糸が遠くで反応した。
レオが賛同しかけた気配がある。
ノアはすぐに胸元を押さえた。
「冗談。冗談だから。お前は乗るな」
セドリックが冷たく言う。
「授業中に伴侶へ私語を飛ばすな」
「飛ばしてないです。情緒が勝手に受信するんです」
「迷惑な契約だな」
「俺もそう思います」
教室の空気が少しだけ緩んだ。
しかし、セドリックの表情は険しいままだった。
「今日の放課後、学院名簿の原本を確認する。出席簿程度に干渉が出ているなら、原本にも何か残っている可能性が高い」
ノアは軽く笑った。
「原本って、事務室にあるやつですか」
「もっと奥だ。学院基盤の登録原簿。創設時の術式とも接続している」
「出た。学園の地下とか奥とか古い基盤とか。もう何でも出てくるな、この学校」
「歴史ある学院は、だいたいろくでもないものを抱える」
「先生の名言、また出た。額に入れます?」
「燃やすぞ」
「ひどい」
授業はそのまま、名への魔法干渉の基礎へ移った。
だが、ノアは半分しか聞けなかった。
喉の奥がずっと詰まっている。出席簿の文字が変わりかけた瞬間の感覚が、まだ胸に残っている。自分の名を他人の口から歪められかけるのは、声を奪われるのとは違う恐怖だった。
声は、自分で出す。
名は、誰かに呼ばれる。
だから厄介だ。
自分ひとりでは守りきれない。
ノアは、机の端を指で叩いた。
ノア・クロウ。
自分の名を、心の中で呼ぶ。
まだある。
消えていない。
授業が終わると、廊下にはレオがいた。
予想通りすぎて、ノアは笑った。
「早いな。授業終わりの出待ち?」
レオは笑わなかった。
青い目が、まっすぐノアの喉と首元を見る。
「大丈夫?」
「見ての通り生きてます」
「名を間違えられた」
「正確には間違えられかけた」
「同じだよ」
「だいぶ違う」
レオは近づき、低く聞いた。
「触れていい?」
「廊下で?」
「喉と首輪を確認したい」
「出席確認で喉ケアされる人生、濃すぎ」
「君の名を間違えられた」
「根に持ってる」
「持つ」
レオは否定しない。
ノアはため息をついた。
「少しだけな」
レオの指先が首元へ触れる。
白金の聖魔法が、伴侶首輪の熱を鎮める。喉の詰まりが少しずつ緩んだ。赤い糸が、現世名の輪郭を確かめるように震える。
「ノア・クロウ」
「また点呼」
「必要だから」
「出席済みです」
「何度でも確認する」
「名前監査官、勤務熱心」
レオの目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「君が減点と言ったから、行かなかった」
「偉い。八点半」
「上がった」
「授業中に乱入しなかったので」
「次も我慢する」
「次がないのが一番なんだけどな」
「そうだね」
だが、二人とも分かっていた。
次はある。
敵は止まらない。
放課後、セドリックはノアとレオを連れて、学院の登録原簿が保管された小室へ向かった。
事務棟の奥。学生が普段近づくことのない階段を下り、古い結界扉を三つ通る。そこは地下礼拝堂ほど深くはないが、空気が似ていた。紙と封印蝋、古い魔力の匂い。壁には学院創設時の紋章が刻まれ、床には淡い青の管理術式が走っている。
中央に、分厚い原簿が置かれていた。
ただの本ではない。
学院に在籍する者の名を、魔法的に記録する原本。
セドリックが封印を解き、黒魔法科一年の頁を開く。
ノアは、隣で息を止めた。
名前が並んでいる。
生徒の名。
登録日。
所属科。
魔力属性。
そして、ノア・クロウの欄。
そこだけに、黒い花の印が押されていた。
黒災忌会の黒い花に似ている。
だが、花弁の形が少し違う。
英雄教会の白い儀礼花を、黒く反転させたような形。
印の下には、薄い文字が浮かんでいた。
仮登録。
ノアは、それを見て笑った。
声は低かった。
「俺、入学手続きからやり直し?」
レオの赤い糸が、鋭く張った。




