第68話 消えかけた部屋札
朝の寮は、いつも通りに騒がしかった。
白い石造りの廊下に、新入生たちの足音が重なる。誰かが寝坊したらしく、奥の部屋で慌ただしく扉が開いた。別の誰かは制服の釦を留めながら走って、寮監に叱られている。魔力灯は朝の光を受けて弱く揺れ、窓辺には薄い金色の陽が差していた。
その普通さが、かえって腹立たしい。
世界がこちらの事情に合わせて陰鬱になってくれることはない。実に不親切である。せめて危険な儀礼が名札にまで侵食している朝くらい、廊下の一つでも不穏に軋んでほしい。いや、実際に軋まれても困る。人間の要求は面倒くさい。
ノア・クロウは、寮部屋の扉の前で足を止めていた。
扉に掛かった小さな部屋札。
そこには、本来なら二人の名が刻まれている。
レオ・アステルレイン。
ノア・クロウ。
けれど、今朝は違った。
レオの名は、白い石板の上にくっきりと残っている。金の細い縁取りまで綺麗に光っていた。学院の部屋札らしい、品のいい魔法刻印だ。
その下にあるはずの「ノア・クロウ」だけが、薄く霞んでいた。
文字の輪郭が失われ、石に染み込むように消えかけている。消しゴムで擦ったのではない。表面から削られたのでもない。もっと嫌な消え方だった。誰かが、記録の奥から名前だけを抜き取ろうとしているような。
そして、その薄れた名の下に、見えないはずの古代文字が浮かびかけていた。
イリアス。
まだ完全な文字ではない。
しかし、ノアにもレオにも読めた。
前世名が、現世名の下から這い上がろうとしている。
ノアはしばらくそれを眺め、喉の奥で笑った。
「俺の名前、朝から退勤してる」
声は掠れていた。
昨夜から続く名への干渉で、喉というより魂糸の発声経路が疲れている。声そのものを奪われた時ほどではない。だが、名前を呼ばれるたび、胸の奥を古い鎖で引かれるような違和感が残っていた。
隣に立つレオは、笑わなかった。
「笑わないで」
「笑わないと気持ち悪いだろ」
「気持ち悪くても笑わなくていい」
「それだと空気が最悪になる」
「もう最悪だよ」
「朝から正論で殴るな」
ノアは部屋札へ手を伸ばしかけた。
その瞬間、伴侶首輪が冷たく熱を持った。
熱いのに冷たい。
奇妙な感覚だった。炎ではなく、氷の刃を内側から押し当てられるような熱。首元に残る黒い亀裂が、部屋札の薄れた名前に反応している。白い花紋がわずかに浮かび、赤い糸が胸の奥で震えた。
ノアは短く息を詰める。
「っ……」
喉が塞がる。
名前が消えるだけで、息が一瞬、詰まった。
名とは、呼び名でしかないはずなのに。
魂に干渉する術式の前では、ただの文字では済まないらしい。まったく、人生は学びに満ちている。こんな学びは要らない。返品したい。
レオの手が、すぐにノアの首元へ伸びかけた。
「触れていい?」
「まだ平気。部屋札見てから」
「平気な声じゃない」
「俺の声診断、朝から営業中?」
「ずっと」
「定休日作れ」
ノアは部屋札へ顔を近づけた。
廊下を通り過ぎる生徒が、ちらりとこちらを見る。だが、部屋札の異常には気づいていないようだった。寝癖のついた男子生徒が「おはようございます、アステルレイン様」と慌てて会釈し、その隣にいた生徒はノアを見て少しだけ視線を揺らした。
昨日の全校放送以来、その視線は増えた。
好奇。
恐怖。
欲望。
憐れみ。
全部混ざっている。
それでも彼らは、部屋札を見ても何も反応しなかった。
ノア・クロウの名が消えかけていることも。
その下にイリアスの古代文字が浮かびかけていることも。
見えていない。
ノアは小さく言った。
「寮監も生徒も気づいてないな」
ちょうど廊下の奥から寮監が歩いてきた。
灰色の外套を着た年配の女性で、朝の点検帳を片手に持っている。彼女はノアとレオの前で足を止めたが、部屋札ではなく二人の顔を見た。
「クロウ君、体調はどうですか。昨日は大変だったと聞いています」
「絶賛営業短縮中です」
「無理はしないように」
「はい。無理と仲良く距離を取ります」
寮監は困ったように笑い、次の部屋へ向かった。
やはり、見えていない。
レオが低く言った。
「現実の名札ではない」
「魂名に干渉してるってことか」
「うん」
「最悪。名前の裏口入学じゃん」
レオは部屋札を見つめた。
その青い瞳から、温度がすっと消える。
「刻み直す」
「待て」
ノアが言う前に、レオの白金の聖魔法が指先に灯った。
細い光が部屋札へ伸びる。レオ・アステルレインの聖魔法は、本来なら治癒と保護と結界のためのものだ。名を守るために使えば、失われかけた刻印を補強し、魂糸を現世名へ結び直すこともできる。
普通なら。
だが、今回は普通ではなかった。
白金の光が部屋札へ触れた瞬間、薄れかけていた「ノア・クロウ」の文字が一度だけ明るく浮かぶ。
レオの魔法が、名を刻み直そうとした。
その直後、部屋札の奥から黒い古代文字が広がった。
イリアス。
その文字が、レオの白金を飲み込むように絡みつく。
ノアの首輪が強く熱を持つ。
「っ、待て。お前の魔法、利用されてる」
レオの指が止まる。
だが、聖魔法はすでに部屋札へ触れていた。
黒い術式が、白金の光を逆手に取る。レオがノアの名を守るために刻もうとした力を、「レオがノアの名を縛っている」という形へ変換しようとしている。
白金の光が赤い糸へ繋がる。
赤い糸が、ノア・クロウという名へ絡みつきかける。
守るための糸が、名を縛る檻へ変えられようとしていた。
ノアはすぐにレオの手首を掴んだ。
「止めろ」
「それでも放っておけない」
「放っておくんじゃなくて、考えろ」
レオの手首が震えている。
怒りではない。
恐怖だ。
ノアの名が消えていく。それを見て、レオは即座に救おうとした。声の時もそうだった。喉を閉じようとし、声を赤い糸に預けさせようとし、守るために囲おうとした。
そして敵は、そこを突いてきた。
レオの保護を、檻に変える。
赤い糸反転。
嫌な手だ。
敵の性格が悪い。もうだいぶ知っていたが、改めて悪い。嫌がらせの才能だけで職に就ける。就くな。
ノアはレオの手首を掴んだまま、部屋札を睨んだ。
「これ、お前の魔法を待ってたな」
「僕が刻み直すことを?」
「たぶん。お前が俺の名を守ろうとする。そこに乗っかって、お前が俺の名を縛った形にする」
レオの顔が強張る。
「僕が」
「敵が利用しただけだ」
「でも、僕の魔法だ」
「だから止めた」
「……ノア」
「俺を守るなら、まず俺ごと箱にしまう癖をやめろ。敵がそれを踏み台にしてる」
レオは黙った。
黙って、手を下ろした。
白金の光が消える。
部屋札の文字は、まだ薄いままだった。ノア・クロウの輪郭は頼りなく、イリアスの古代文字はその下に浮かびかけている。だが、レオの魔法を使った反転は止まった。
ノアは息を吐いた。
その吐息が震える。
胸の奥が、まだ引かれている。
レオは、その震えを見逃さなかった。
「首輪が熱い」
「まあ、熱い」
「触れていい?」
「今はいい。ちょっとだけ」
レオの指が、今度は部屋札ではなくノアの首元へ触れた。
白金の聖魔法は、名を刻まない。
ただ、首輪の熱を鎮める。
喉の詰まりを和らげる。
魂糸の震えを整える。
ノアは目を閉じた。
冷たい熱が少しずつ引いていく。胸の奥を引く感覚も、完全ではないが弱くなった。レオの魔法は相変わらず丁寧で、腹立つくらい正確だ。
「名前の健康診断、初体験」
ノアが掠れた声で言うと、レオが静かに答えた。
「異常あり」
「診断名が雑」
「君の名が削られている」
「急に深刻に戻るな」
「深刻だよ」
「知ってる」
ノアは部屋札へ向き直った。
自分の名前が消えかけている。
それは思った以上に気持ちが悪かった。
声を奪われかけた時とは別の恐怖だ。声は出すもの。奪われれば苦しいし、怒れる。けれど名は、いつもそこにあるものだ。呼ばれ、自分が自分だと分かるための、地面のようなもの。
その地面を薄く削られている。
足元がなくなるような感覚だった。
ノアは、部屋札へ向かって言った。
「ノア・クロウ」
薄れた文字が、わずかに光った。
レオが隣で続ける。
「ノア・クロウ」
赤い糸が静かに震える。
今度は絡め取るためではない。ノアの声に合わせて、現世名の輪郭をなぞるように震えた。
ノアは横目で見る。
「真似するな」
「必要だから」
「なんでも必要って言えば通ると思ってる?」
「思っていない。通したいとは思っている」
「正直すぎて最悪」
レオは部屋札を見つめたまま、もう一度呼んだ。
「ノア」
薄れた文字が少しだけ戻る。
だが、完全ではない。
その下のイリアスの文字も、完全には消えなかった。
ノアは唇を曲げる。
「しぶといな」
「うん」
「こっちも地味にやるしかないか」
「どうする?」
「お前の魔法は使われる。俺の黒魔法も、たぶん直接当てたら引っかかる。なら、名前に魔法をかけるんじゃなくて、記録側を調べる」
「記録」
「部屋札って、寮の管理記録と繋がってるだろ。そこから黒魔法科の名簿、学院の在籍簿、魂帳局っぽい構文。順番に辿る」
「危険だ」
「知ってる」
「止めたい」
「知ってる」
「……止めない努力をする」
ノアは少し笑った。
「八点維持」
「上がらない?」
「まだ」
「努力する」
「そればっかり」
廊下の奥で、授業開始前の鐘が鳴った。
生徒たちが一斉に動き始める。ノアは部屋札から目を離し、制服の襟を直した。喉はまだ少し痛むが、歩けないほどではない。
レオがすぐに水筒を差し出す。
「持って」
「遠足かよ」
「喉が詰まったら飲んで」
「授業に水筒持参する黒魔法科新入生、なんか幼くない?」
「必要だから」
「はいはい」
ノアは水筒を受け取った。
扉の部屋札をもう一度見る。
ノア・クロウの文字は、薄い。
だが、消えてはいない。
「行くか」
レオが隣に並ぶ。
今度も前を塞がない。
それだけで、少しだけ歩きやすい。
黒魔法科の教室へ向かう廊下は、朝のざわめきに満ちていた。昨日の全校放送の噂はまだ消えていない。すれ違う生徒が、ノアを見て小声で何かを言う。中には「イリアス」と言いかけて口を噤む者もいた。
そのたびに、レオの赤い糸が鋭く張る。
ノアは横目で牽制した。
「噂を首根っこから絞めるなよ」
「まだ絞めていない」
「“まだ”が怖いんだよ」
「努力する」
「便利」
教室に着くと、黒魔法科の生徒たちはいつもより静かだった。
少数の机。黒い石板。壁に刻まれた制御陣。朝の魔力灯は少し暗く、窓から入る光も冷たい。セドリックはすでに教壇に立っており、出席簿を開いていた。
ノアは自分の席へ向かう。
その瞬間、首輪がひやりと熱を持った。
嫌な予感がした。
セドリックも、出席簿を見下ろして眉を動かした。
紙面の文字が、揺れている。
黒魔法科一年。
そこに並ぶ新入生の名前。
ルカではない。
アイリスでもない。
他の生徒でもない。
ノア・クロウの名だけが、薄くなっていた。
セドリックが名を読み上げようとして、声を止める。
その唇が、ほんの一瞬だけ、別の名の形を作った。
「イリ……」
教室の空気が凍った。
レオの白金の魔力が、廊下側から鋭く灯る。
ノアは席の前で立ち止まり、乾いた笑みを浮かべた。
「先生。出席簿まで退勤してるんですけど」
セドリックは、出席簿を閉じなかった。
ただ低く言った。
「座れ、ノア・クロウ」
その名に、薄れかけた出席簿の文字が、かすかに光った。




