↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第四章 【仮の名と白い花】

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

69/134

第67話 ノア・クロウは仮の名



 扉に浮かんだ黒い文字は、灯りを落とした寮部屋の中で、ひどくはっきりと見えた。


 ノア・クロウは仮の名。


 古い木の扉の木目に、墨を流し込んだような黒い文字が滲んでいる。その下には、白い花が一輪落ちていた。薄い花弁は月明かりを受けて淡く光り、いかにも清らかそうな顔をしている。


 その清らかさが、もう胡散臭い。


 白い花は英雄教会の儀礼花だった。祈りの場に敷かれ、祝福や鎮魂の儀式で使われる花。だが、花弁の縁は黒く染まっている。真っ白な顔をしたまま、内側から腐っているように見えた。


 レオ・アステルレインが、一歩踏み出した。


 静かな動きだった。


 けれど、ノアには分かった。


 踏み潰す気だ。


 ノアは反射的に手を伸ばした。


「証拠を踏むな、王子様」


 レオの靴先が、花のすぐ手前で止まる。


 彼はノアを見ずに言った。


「君を呼ぶ名に触った」


「俺の名前はそんなに柔じゃない」


「柔じゃないなら、なぜ首輪が熱を持っているの」


「それは首輪側の情緒が不安定だから」


「僕のせい?」


「八割くらい」


 レオが沈黙した。


 真面目に受け止めるな、と思ったが、たぶん少し当たっているのでノアはそれ以上言わなかった。伴侶首輪《メイト・カラー》は確かに熱を持っていた。首元の薄い赤い輪。その内側に残る黒い亀裂と白い花紋が、扉の文字と白い花へ反応している。


 名前を狙う術式。


 声を奪う術式とは違う。


 もっと静かで、もっと嫌な手触りだ。


 ノアは、扉の文字を見た。


 ノア・クロウは仮の名。


 馬鹿にするには、少しだけ刺さる言葉だった。


 仮の名。


 借り物。


 本当ではないもの。


 いま身につけている制服のように、いつか脱がされるもの。


 そう言われている気がした。


 ノアは、息を吐いた。


「名前取り戻し合戦、開幕って感じ?」


 声は軽い。


 だが、胸の奥が引かれている。


 イリアス・ノクスヴェルト。


 その名はまだ扉には浮かんでいない。けれど、白い花の奥からその気配がする。現世名を仮と呼び、前世名を本来の名として浮かび上がらせる。そういう術式だ。


 レオは、ようやくノアを見た。


「ノア」


「はいはい、出席してます」


「ノア・クロウ」


「フルネーム点呼やめろ。重い」


「必要だから」


「名前呼ぶだけで儀式感出すな」


 レオの声は穏やかだった。


 だが、穏やかだからこそ重い。


「ノア・クロウ」


 もう一度呼ばれる。


 伴侶首輪が震えた。


 同時に、赤い糸がノアの胸の奥へそっと触れる。押さえつけるのではない。結ぶのでもない。名前の周囲を確かめるように、魂糸の表面をなぞっている。


 ノアは眉を寄せた。


「今、何した」


「君の名を確かめた」


「本人確認しすぎ。役所でもそこまで聞かない」


「役所は君を失ったことがない」


 ノアは口を閉じた。


 ずるい言い方をする。


 レオは、ノアの現世名を呼ぶたびに、前世の喪失を縫い直そうとしている。イリアスを殺した記憶。イリアスが最後まで助けを求めず、最後の言葉だけを残して死んだ記憶。そのすべてが、レオにとっては名前と声へ結びついている。


 今度は声を奪われた。


 次は名を戻されようとしている。


 だから、レオは呼ぶ。


 ノア。


 ノア・クロウ。


 現世の名を、何度でも。


 その執着は、怖い。


 けれど、扉の黒い文字よりは温度があった。


 ノアは扉へ近づいた。


 レオがすぐ横へ出る。


「近づきすぎないで」


「調べられない」


「僕が調べる」


「俺の名前の話だろ」


「だから嫌なんだ」


「嫌でも俺が見る」


 ノアが花へ手を伸ばすと、レオの赤い糸がびくりと張った。


 止めようとしている。


 だが、止めない。


 糸は震えただけで、ノアの腕を縛らなかった。


 ノアは一瞬だけレオを見上げた。


「八点」


「上がった」


「今のは我慢したから」


「もっと我慢する」


「我慢しすぎて爆発するなよ」


「努力する」


「便利な呪文みたいに使うな」


 ノアは屈み、白い花を拾った。


 その瞬間、首輪が熱を持つ。


「っ……」


 喉が詰まった。


 声ではない。名前の奥を掴まれる感覚。胸の中心から、古い何かが引き上げられようとする。瞳孔がわずかに開き、視界が黒く滲む。


 レオが手を伸ばす。


「触れていい?」


「待て。まだ、大丈夫」


 ノアは花弁を裏返した。


 そこには、黒い古代文字が細く刻まれていた。英雄教会式の祈祷文ではない。聖印でもない。花弁の葉脈のように見える線が、よく見ると文字になっている。


 ノアは低く息を吐いた。


「……これ、教会式じゃないな」


 軽口の温度が落ちる。


 レオが隣に膝をついた。


「読める?」


「全部は無理。でも構文は分かる。現世名を仮名として剥がして、魂の深い方にある古い名を表へ出す。そういう感じ」


「剥がす」


 レオの声が冷えた。


「君の名前を」


「怒るな。花が燃える」


「燃やしたい」


「証拠だって言った」


「分かっている」


 レオの白金の魔力が、指先で震えている。


 ノアは花弁の文字をさらに読む。


「英雄教会の儀礼花を使ってるけど、混ざってる術式が違う。黒災忌会の黒い花とも違う。もっと古い……帳簿っぽい」


「帳簿?」


「魂帳局系、かもな」


 レオの目が細くなる。


 魂帳局。


 魂名、転生記録、死亡記録、名の管理。


 古い時代には、魂の名と現世の名を別々に記録する機関があったと聞いたことがある。いまではほとんど伝説扱いだが、真儀礼が声や名や記憶を扱えるなら、そこに似た構文を使っていてもおかしくない。


 いや、おかしくない時点でおかしい。


 学院生活にそんな古代機関名を持ち込むな。学生に優しくない。


 ノアは白い花を封印用の紙片へ包んだ。


 すると扉の文字が、また黒く光る。


 ノア・クロウは仮の名。


 その文字の下へ、さらに一行が滲みかけた。


 本来の名へ戻れ。


 レオがノアの名を呼んだ。


「ノア」


 黒い文字が揺らぐ。


 レオは続ける。


「ノア・クロウ」


 赤い糸がノアの胸の奥へ絡むように震えた。


 現世名へ結び直すような感覚。


 ノアは、少しだけ眉を寄せる。


「お前、俺の名前を糸で縛ろうとしてない?」


「固定しようとしている」


「言い換えで罪が軽くなると思ってる?」


「思っていない」


「正直」


「君の名を、これに剥がさせたくない」


 レオは扉の文字を見た。


 青い目が、静かに冷える。


「ノア・クロウは仮の名じゃない」


 ノアは横目で見る。


 レオは、こちらを見ないまま言った。


「君の今の名だ。君が今、生きている名だ」


 ノアは黙った。


 その言い方は、少しずるい。


 前世を否定するのではない。


 現世を守る言い方だった。


 ノアは、肩をすくめる。


「そ。俺は今、ノア・クロウです。黒魔法科の新入生で、制服の首元が窮屈で、喉が営業短縮中で、明日の小テスト範囲をまだ見てない天才ちゃんです」


「小テストは休んでいい」


「そこは休ませるんだ」


「声と名が狙われている時に小テストを受ける必要はない」


「先生に言ってくれ」


「言う」


「ほんとに言うな」


 レオは真面目に頷いた。


 ノアは頭を抱えたくなった。


 翌朝。


 レオは、本当にノアの名を何度も呼んだ。


 夜のうちに扉の文字は封印され、白い花もセドリックへ渡すことになった。だが、伴侶首輪の熱は完全には引いていない。眠っている間も、胸の奥を古い名に引かれるような感覚が残っていた。


 ノアは浅い眠りから目を覚ました瞬間、まず喉の痛みを確認した。


 ひどくはない。


 次に首元。


 熱はある。


 次に、ベッド横のレオ。


 当然のようにいる。


 もう驚くのも飽きた。人間、慣れとは恐ろしい。いや、慣れていい状況ではない。


 レオは水を差し出した。


「ノア」


「朝から名前連呼、呪文かよ」


「ノア・クロウ」


「増えた」


「君を戻されないため」


「俺、まだ寝起きなんだけど」


「寝起きでも君はノアだ」


「哲学を朝食前に持ち込むな」


 ノアは水を受け取った。


 喉に優しい温度だった。


 また完璧に調整してある。


 腹立つくらい過保護だ。


 レオは、ノアが水を飲むのを見届けてから、そっと首元へ視線を落とした。


「熱は?」


「ちょっと」


「触れていい?」


「どうぞ」


 白金の聖魔法が首輪へ触れる。


 熱が少しずつ引いていく。


 ノアは目を細めた。


「お前さ、今後俺の名簿とか部屋札とか、全部確認し始めるだろ」


「する」


「否定しろ」


「嘘は言いたくない」


「最悪に正直」


「君の名が書かれる場所は、全部確認したい」


「出席簿まで?」


「見る」


「図書館の貸出カードは?」


「見る」


「食堂の席札は?」


「見る」


「怖いな名前監査官」


「監査ではない」


「何」


「保護」


「その言葉もだいぶ怪しくなってきた」


 レオは否定しなかった。


 代わりに、もう一度呼ぶ。


「ノア」


 ノアはため息をつく。


「はいはい」


「ノア・クロウ」


「出席してます」


「君の名だ」


「分かってる」


「敵にも、記録にも、儀礼にも、譲らない」


「それは俺が言う台詞では?」


 レオがノアを見る。


「君が言うなら、僕も言う」


「張り合うな」


「張り合っていない。並んでいる」


 ノアは、返事に少し詰まった。


 並んでいる。


 その言葉だけは、前よりも少しまともだった。


 閉じ込めるでもなく、隠すでもなく、奪うでもなく。


 並ぶ。


 レオにしてはかなり努力している。九点、と言いかけて、ノアは黙った。言うとたぶん一日中嬉しそうにする。面倒だ。王子様の情緒まで管理したくない。


 朝食へ向かう前、ノアは寮の廊下へ出た。


 白い石造りの廊下には、朝の魔力灯が淡く灯っている。新入生たちの足音、遠くの寮監の声、誰かが寝坊したと叫ぶ声。いつもの朝のはずだった。


 だが、部屋の扉の横にある小さな札を見て、ノアは足を止めた。


 二人部屋の部屋札。


 そこには、二人の名前が刻まれている。


 レオ・アステルレイン。


 ノア・クロウ。


 そのはずだった。


 だが、ノア・クロウの文字だけが、薄くなっていた。


 まるで石の表面から削られ、最初から存在しなかったことにされるように。


 代わりに、目に見えない筆跡が浮かびかける。


 黒い魔力をまとった、古い名前。


 イリアス。


 まだ完全には読めない。


 けれど、ノアにもレオにも分かった。


 名が、上書きされようとしている。


 レオの赤い糸が鋭く張った。


 ノアは部屋札を見つめ、喉の奥で笑った。


「……部屋札まで来たか。敵、名札係に転職した?」


 軽口は出た。


 けれど声は少し低かった。


 レオが隣で、静かに言った。


「ノア・クロウ」


 部屋札の薄れかけた文字が、かすかに光った。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。