第66話 名を戻す
学院の掲示板に、黒い文字が浮かんでいた。
イリアス・ノクスヴェルト。
白い掲示紙の上に、その名だけが墨を落としたように滲んでいる。災厄忌の残り香をまとった花飾りも、学院からの通達も、授業予定表も、その文字の前ではすべて薄く見えた。
朝の中庭は、妙な静けさに包まれていた。
誰も大声を出さない。だが、誰も見ないふりもできない。生徒たちは掲示板の前で足を止め、互いに顔を見合わせ、囁き合っていた。昨日、記録水晶から学院中に響いたノア・クロウの絶叫は、まだ耳に残っている。そこへ今度は、黒い災厄の本名が現れた。
人間の噂話に、燃料を与えてはいけない。
そんな簡単なことを、敵は実に丁寧に破ってくる。薪をくべるどころか油を撒いている。勤勉な悪意ほど迷惑なものはない。
ノアは掲示板を見上げ、喉の奥で小さく息を吐いた。
「落書き多すぎ。清掃係に同情する」
声は軽い。
いつも通りに聞こえるよう、わざと上へ跳ねさせた声だった。
けれど、伴侶首輪はそれを許さなかった。首元に残る黒い亀裂が、前世名の文字に反応してじわりと熱を持つ。白い花紋が光り、赤い糸がわずかに張る。
ノアは喉元に手を当てた。
声を狙われていた時とは違う。
今度は、名前そのものが魂へ触れてくる。
イリアス・ノクスヴェルト。
その名が、現世のノア・クロウの奥にある何かを引っ張る。喉ではなく、胸の奥。心臓より少し深い場所。魂の表面に刻まれた現在の名へ、古い名が爪を立てる。
ノアの瞳孔が、わずかに開いた。
視界の端で、掲示板の文字が一瞬だけ赤黒く滲む。
レオ・アステルレインが、すぐにノアの前へ立った。
金髪が朝の光を受け、白金の魔力が静かに揺れる。背が高いせいで、ノアの視界から掲示板がほとんど消えた。周囲の生徒たちの視線も、レオの背中に遮られる。
ノアは半眼になった。
「隠すな」
レオは振り返らない。
「見せたくないんだ。僕が」
「俺が見えない」
「見なくていい」
「見ないと分からない」
「分からなくていい」
ノアはレオの横へ出た。
その瞬間、レオの赤い糸がきつく張る。止めようとしたのだろう。だが、前のように魂ごと縫い止めることはしなかった。レオの指先が震えただけで、糸はぎりぎりで緩む。
ノアは横目で見る。
「七点維持」
「上がらない?」
「今のところは」
「努力する」
「努力の方向を間違えるなよ、王子様」
レオはようやくノアを見る。
その青い瞳には、昨夜から続く不眠と怒りと、どうしようもない独占欲が沈んでいた。ノアに向けられる視線。ノアの声に群がる欲。ノアを災厄として語る噂。そして今度は、ノアの名前そのものを奪おうとする文字。
レオは、静かに言った。
「僕だけのものにしたい」
周囲の空気がぴしりと固まる。
ノアは眉を上げた。
レオは穏やかな声のまま続ける。
「君を隠したい。誰にも見せたくない。君の声も、名も、傷も、怖がる顔も、怒る声も、全部。君自身のものでもないくらいに、僕だけのものにしたい」
周囲から小さな息が漏れた。
ノアは片手を上げた。
「はい、そこはまあ、おいといて」
レオが少しだけ不満そうに目を伏せる。
「置かれるんだ」
「全部拾ったら朝の中庭で会話が終わる。で、俺は名前に負けるほど軽くないんですけどー。だって俺天才ちゃんだし♡」
わざと明るく言った。
語尾まで跳ねさせた。喉は痛い。伴侶首輪は熱い。胸の奥を古い名前が引いている。それでも、ノアは笑った。
周囲の生徒たちが呆気に取られる。
黒い災厄の本名が掲示板に浮かんでいる。その前で、当人らしき少年が「天才ちゃん」と笑っている。状況が追いつかないのだろう。正しい。追いつかなくていい。追いついたら多分ろくな理解にならない。
掲示板の黒い文字が、強く光った。
イリアス・ノクスヴェルト。
その名が、今度は掲示板だけでなく、廊下の壁へも浮かび上がった。白い石壁の影に、同じ文字がじわりと滲む。魔力灯の足元の影にも、水場の水面にも、窓ガラスの内側にも、黒い筆跡が走る。
イリアス・ノクスヴェルト。
イリアス・ノクスヴェルト。
イリアス・ノクスヴェルト。
学院中が、前世名で満たされていく。
生徒たちが悲鳴を上げた。
誰かが後ずさる。
誰かがノアを見る。
誰かが「黒い災厄」と囁く。
その囁きに、レオの聖魔法が反応した。
白金の光が床を走り、周囲の空気を冷やす。攻撃ではない。だが、圧は明確だった。ノアをその名で呼ぶな。ノアをその目で見るな。ノアを過去へ戻すな。
ノアの首輪が熱くなる。
「っ……」
短く呻きが漏れた。
前世名が魂の奥へ爪を立てた。胸の奥が引かれ、呼吸が詰まる。瞳孔がまた少し開く。自分の身体が、古い名の方へ傾きかける感覚。声を奪われるのとは違う。名前に、存在の中心を掴まれる。
レオが即座に手を伸ばした。
「触れていい?」
こんな時でも許可を取った。
ノアは、痛みの中で少し笑った。
「今はいい」
レオの指が、ノアの首元へ触れる。
白金の聖魔法が首輪の熱を包み、赤い糸が胸の奥へ伸びる。古い名へ引かれかけた魂糸を、現世の名へ戻すように震えた。
レオが低く言う。
「ノア・クロウ」
その名に、赤い糸が応えた。
ノアの身体の奥で、引かれていた感覚がわずかに緩む。
レオはもう一度呼んだ。
「ノア・クロウ」
ノアは眉を寄せる。
「点呼かよ」
「君の名を、戻されないように」
「名前の出席確認、過保護が新段階に入ったな」
「何度でも呼ぶ」
「ほんとに呼びそうで怖い」
レオの声は静かだった。
「ノア・クロウ。君の今の名だ」
ノアは、その言葉を聞いた。
君の今の名。
前世を消す言葉ではない。
イリアスをなかったことにする言葉でもない。
けれど、現世のノアを奪わせないための言葉だった。
ノアは掲示板を見上げた。
黒い文字はまだ消えない。むしろ、強く光っている。敵は怒っているのか、喜んでいるのか分からない。名を呼ばれたことで、儀礼線が反応している。前世名はノアを引き続けている。
完全な勝利ではない。
むしろ、敵の次の狙いがはっきりしただけだ。
声。
名。
記憶。
周囲の証言。
それらを揃えて、ノアを災厄として再指定する。
面倒くさいにも程がある。悪役ならもう少し単純に黒いローブで笑っていてほしい。書類と儀礼と掲示板を使ってくるな。事務能力の高い敵は嫌われるぞ。いや、もう嫌っている。
ノアは、喉の痛みを押し込めて息を吸った。
そして、掲示板の前に立った。
周囲の視線が集まる。
レオが一歩近づく。
ノアは片手で制した。
声は掠れている。
けれど、逃げる声ではなかった。
「そうそう。俺はノア・クロウですよー」
掲示板の黒い文字が、震えた。
ノアは笑う。
軽く。
少しふざけて。
けれど、魂の奥を踏みしめるように。
「俺はノア・クロウだしなぁ、いまは」
その「いまは」に、レオの赤い糸が微かに痛む。
前世を完全に否定してはいない。
だが、現世を明け渡してもいない。
ノアは前世を抱えたまま、現世の名を言っている。
イリアス・ノクスヴェルトだったことを、まだ認めきってはいない。認めたくない部分もある。だが、敵がその名で自分を縛ろうとするなら、少なくとも言える。
今の自分は、その名だけではない。
ノアは喉に手を当て、さらに言った。
「黒い災厄の名前で呼びたいなら、順番待ちしろ。俺、今は学院の新入生で、黒魔法科で、朝食まだ途中で、喉も営業短縮中なんだよ。忙しいんですー」
誰かが、緊張の中で小さく噴き出した。
その笑いが、空気を少しだけ割った。
掲示板の文字が強く光る。
消えない。
ノアの宣言で消えたわけではない。
だが、黒い文字の輪郭がわずかに乱れた。
レオがノアの隣に立つ。
今度は前を塞がない。
ただ隣に。
「ノア・クロウ」
「何回目?」
「必要なだけ」
「点呼係、執念深い」
「君の名を、戻されないように」
ノアは小さく息を吐いた。
「戻されるって言い方、嫌だな」
「うん」
「俺はどこかから借りた名前を使ってるわけじゃない。ノア・クロウも俺だ」
「うん」
「イリアスを認めるかは別として」
「うん」
「全部うんって言うな。怖いな王子様」
「聞いている」
レオの声は、穏やかだった。
穏やかすぎるほどに。
けれど、今回はその穏やかさが少しだけ違った。閉じ込めるための静けさではない。ノアの言葉を聞くために、自分の衝動を押し殺している静けさだった。
七点半、維持。
いや、八点に近い。
言わない。
言うと調子に乗る。人間の教育も王子様の更生も、加点の扱いが面倒だ。
セドリックが中庭へやって来たのは、その直後だった。
黒い外套を翻し、掲示板の文字を見て眉をひそめる。
「派手にやったな」
「俺じゃないですー」
「お前がやったとは言っていない」
「疑われ慣れしすぎて先回りしました」
「悪い癖だ」
セドリックは掲示板の黒い文字へ手をかざした。
黒魔法の細い線が文字へ触れる。だが、文字は消えない。むしろ、反発するように濃くなる。
セドリックの目が細くなった。
「名前を術式の錨にしている。声の次は魂名か」
レオの表情が冷える。
「魂名ではありません」
セドリックがちらりと見る。
「お前の気持ちはどうでもいい。術式上の分類だ」
「ノアはノアです」
「それも事実だ。だから厄介なんだろう」
ノアは肩をすくめた。
「先生、厄介って言葉好きですね」
「お前に関わる案件はだいたい厄介だ」
「失礼」
「事実だ」
「否定がない」
セドリックは掲示板の文字を見たまま、低く言った。
「真儀礼は、声、名、記憶、周囲の証言を揃えようとしている。声は失敗した。証言も記録水晶の破壊で一度止まった。だから今度は名だ。学院中に前世名を晒し、周囲に認識させる。お前はノアではなくイリアスだ、と」
周囲の生徒たちが、またざわつく。
ノアは、わざと軽く言った。
「本人確認が多段階すぎる。役所かよ」
「笑っている場合か」
「笑ってないと喉がもたないんですよ」
セドリックはため息をついた。
「今日はもう授業に出るな」
「欠席扱い?」
「公欠だ」
「やった」
レオが即座に言う。
「部屋で休もう」
「王子様、目が輝いてるぞ」
「休ませたい」
「閉じ込めたいの間違いでは?」
「両方」
「正直で最悪」
レオは否定しなかった。
代わりに、もう一度ノアの名を呼ぶ。
「ノア・クロウ」
「はいはい」
「ノア」
「略した」
「君の名だ」
「分かってる」
「何度でも呼ぶ」
「出席確認過多で先生に怒られるぞ」
セドリックが冷ややかに言った。
「もう怒っている」
「先生まで点呼参加しないでくださいね」
「しない。面倒だ」
「安心した」
だが、セドリックの表情は険しかった。
掲示板だけではない。
廊下の壁。窓ガラス。中庭の噴水。魔力灯の影。学院のあちこちに、前世名が浮かび始めている。消そうとしても消えない。見た者の記憶に残る。囁かれる。噂になる。
黒い災厄の名。
イリアス・ノクスヴェルト。
その名を学院中が知るほど、術式は強くなる。
名前とは、ただの音ではない。
呼ばれ、記録され、認識されることで、魂へ届く。
敵はそれを利用している。
ノアは空を見上げた。
朝の青空は腹立つほど綺麗だった。
世界が陰湿な儀礼を進めている時くらい、空も少しは曇ればいいのに。そういう気遣いはないらしい。自然界、空気が読めない。まあ、読まれても困る。
放課後という言葉が似合わないほど、長い一日になった。
授業は休まされた。正確には、レオとセドリックと学院長の三者から休めと言われた。ノアは一応抗議したが、喉と首輪の熱が限界だったため、負けた。人体、また敗北。悔しい。
寮部屋に戻ると、レオはすぐ水を用意し、喉と首輪の熱を鎮めた。
ノアは椅子に座り、首元を押さえながら呟く。
「名前呼ばれすぎて出席確認みたいだな」
「何度でも呼ぶ」
「ほんとに言った」
「ノア・クロウ」
「はい」
「ノア」
「はいはい」
「ノア・クロウ」
「点呼係、しつこい」
「君の名だから」
「分かってるって」
「戻されないように」
レオの指先が、首輪の熱を鎮める。
触れ方は丁寧だった。許可を取ってから触れた。そこは成長。だが、名を呼ぶたびに赤い糸が強く震える。レオの執着は、今度は声だけでなく名前にも絡み始めている。
ノアは半眼で見た。
「今度は名前フェチになるつもり?」
「君の名が好きなだけだよ」
「言い方がもう怖い」
「怖くても、呼ぶ」
「せめてほどほどにしろ」
「努力する」
「便利な言葉」
ノアは水を飲んだ。
喉にしみる。
現世の身体の痛みだった。
それが、少しだけ安心する。
夜。
寮部屋の灯りを落とす頃、扉が黒く滲んだ。
ノアは寝台に腰掛けたまま、すぐ気づいた。レオも同時に振り返る。赤い糸が静かに張る。伴侶首輪の白い花紋が、ぴり、と熱を持つ。
古い木の扉に、黒い文字が浮かんだ。
ノア・クロウは仮の名。
その下に、白い花が一輪落ちた。
英雄教会の儀礼花。
白い花弁は床へ触れた瞬間、黒い縁取りを持った。清らかさを装ったまま腐るような、嫌な色だった。
レオが足を踏み出す。
踏み潰すつもりだ。
ノアはすぐ手を伸ばした。
「待て」
レオの足が止まる。
「燃やすのも踏むのも禁止。証拠」
「これが君の名前を否定した」
「だから調べるんだろ」
「君を傷つける」
「もう傷ついてる。今さら花一輪増えても誤差」
「誤差じゃない」
レオの声が低い。
ノアは立ち上がり、白い花を見下ろした。
ノア・クロウは仮の名。
黒い文字は、扉の木目に染み込むように浮かんでいる。
ノアはしばらくそれを見て、ふっと笑った。
「次は、名前取り戻し合戦か」
レオが隣に立つ。
今度は前を塞がない。
ただ、隣に。
赤い糸が静かに震えた。
ノアは扉の文字へ向かって、掠れた声で言った。
「残念。俺、けっこう今の名前、気に入ってるんだよ」
白い花が、音もなく黒く染まった。




