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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第三章 黒い儀礼と本物の声

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第66話 名を戻す



 学院の掲示板に、黒い文字が浮かんでいた。


 イリアス・ノクスヴェルト。


 白い掲示紙の上に、その名だけが墨を落としたように滲んでいる。災厄忌の残り香をまとった花飾りも、学院からの通達も、授業予定表も、その文字の前ではすべて薄く見えた。


 朝の中庭は、妙な静けさに包まれていた。


 誰も大声を出さない。だが、誰も見ないふりもできない。生徒たちは掲示板の前で足を止め、互いに顔を見合わせ、囁き合っていた。昨日、記録水晶から学院中に響いたノア・クロウの絶叫は、まだ耳に残っている。そこへ今度は、黒い災厄の本名が現れた。


 人間の噂話に、燃料を与えてはいけない。


 そんな簡単なことを、敵は実に丁寧に破ってくる。薪をくべるどころか油を撒いている。勤勉な悪意ほど迷惑なものはない。


 ノアは掲示板を見上げ、喉の奥で小さく息を吐いた。


「落書き多すぎ。清掃係に同情する」


 声は軽い。


 いつも通りに聞こえるよう、わざと上へ跳ねさせた声だった。


 けれど、伴侶首輪《メイト・カラー》はそれを許さなかった。首元に残る黒い亀裂が、前世名の文字に反応してじわりと熱を持つ。白い花紋が光り、赤い糸がわずかに張る。


 ノアは喉元に手を当てた。


 声を狙われていた時とは違う。


 今度は、名前そのものが魂へ触れてくる。


 イリアス・ノクスヴェルト。


 その名が、現世のノア・クロウの奥にある何かを引っ張る。喉ではなく、胸の奥。心臓より少し深い場所。魂の表面に刻まれた現在の名へ、古い名が爪を立てる。


 ノアの瞳孔が、わずかに開いた。


 視界の端で、掲示板の文字が一瞬だけ赤黒く滲む。


 レオ・アステルレインが、すぐにノアの前へ立った。


 金髪が朝の光を受け、白金の魔力が静かに揺れる。背が高いせいで、ノアの視界から掲示板がほとんど消えた。周囲の生徒たちの視線も、レオの背中に遮られる。


 ノアは半眼になった。


「隠すな」


 レオは振り返らない。


「見せたくないんだ。僕が」


「俺が見えない」


「見なくていい」


「見ないと分からない」


「分からなくていい」


 ノアはレオの横へ出た。


 その瞬間、レオの赤い糸がきつく張る。止めようとしたのだろう。だが、前のように魂ごと縫い止めることはしなかった。レオの指先が震えただけで、糸はぎりぎりで緩む。


 ノアは横目で見る。


「七点維持」


「上がらない?」


「今のところは」


「努力する」


「努力の方向を間違えるなよ、王子様」


 レオはようやくノアを見る。


 その青い瞳には、昨夜から続く不眠と怒りと、どうしようもない独占欲が沈んでいた。ノアに向けられる視線。ノアの声に群がる欲。ノアを災厄として語る噂。そして今度は、ノアの名前そのものを奪おうとする文字。


 レオは、静かに言った。


「僕だけのものにしたい」


 周囲の空気がぴしりと固まる。


 ノアは眉を上げた。


 レオは穏やかな声のまま続ける。


「君を隠したい。誰にも見せたくない。君の声も、名も、傷も、怖がる顔も、怒る声も、全部。君自身のものでもないくらいに、僕だけのものにしたい」


 周囲から小さな息が漏れた。


 ノアは片手を上げた。


「はい、そこはまあ、おいといて」


 レオが少しだけ不満そうに目を伏せる。


「置かれるんだ」


「全部拾ったら朝の中庭で会話が終わる。で、俺は名前に負けるほど軽くないんですけどー。だって俺天才ちゃんだし♡」


 わざと明るく言った。


 語尾まで跳ねさせた。喉は痛い。伴侶首輪は熱い。胸の奥を古い名前が引いている。それでも、ノアは笑った。


 周囲の生徒たちが呆気に取られる。


 黒い災厄の本名が掲示板に浮かんでいる。その前で、当人らしき少年が「天才ちゃん」と笑っている。状況が追いつかないのだろう。正しい。追いつかなくていい。追いついたら多分ろくな理解にならない。


 掲示板の黒い文字が、強く光った。


 イリアス・ノクスヴェルト。


 その名が、今度は掲示板だけでなく、廊下の壁へも浮かび上がった。白い石壁の影に、同じ文字がじわりと滲む。魔力灯の足元の影にも、水場の水面にも、窓ガラスの内側にも、黒い筆跡が走る。


 イリアス・ノクスヴェルト。


 イリアス・ノクスヴェルト。


 イリアス・ノクスヴェルト。


 学院中が、前世名で満たされていく。


 生徒たちが悲鳴を上げた。


 誰かが後ずさる。


 誰かがノアを見る。


 誰かが「黒い災厄」と囁く。


 その囁きに、レオの聖魔法が反応した。


 白金の光が床を走り、周囲の空気を冷やす。攻撃ではない。だが、圧は明確だった。ノアをその名で呼ぶな。ノアをその目で見るな。ノアを過去へ戻すな。


 ノアの首輪が熱くなる。


「っ……」


 短く呻きが漏れた。


 前世名が魂の奥へ爪を立てた。胸の奥が引かれ、呼吸が詰まる。瞳孔がまた少し開く。自分の身体が、古い名の方へ傾きかける感覚。声を奪われるのとは違う。名前に、存在の中心を掴まれる。


 レオが即座に手を伸ばした。


「触れていい?」


 こんな時でも許可を取った。


 ノアは、痛みの中で少し笑った。


「今はいい」


 レオの指が、ノアの首元へ触れる。


 白金の聖魔法が首輪の熱を包み、赤い糸が胸の奥へ伸びる。古い名へ引かれかけた魂糸を、現世の名へ戻すように震えた。


 レオが低く言う。


「ノア・クロウ」


 その名に、赤い糸が応えた。


 ノアの身体の奥で、引かれていた感覚がわずかに緩む。


 レオはもう一度呼んだ。


「ノア・クロウ」


 ノアは眉を寄せる。


「点呼かよ」


「君の名を、戻されないように」


「名前の出席確認、過保護が新段階に入ったな」


「何度でも呼ぶ」


「ほんとに呼びそうで怖い」


 レオの声は静かだった。


「ノア・クロウ。君の今の名だ」


 ノアは、その言葉を聞いた。


 君の今の名。


 前世を消す言葉ではない。


 イリアスをなかったことにする言葉でもない。


 けれど、現世のノアを奪わせないための言葉だった。


 ノアは掲示板を見上げた。


 黒い文字はまだ消えない。むしろ、強く光っている。敵は怒っているのか、喜んでいるのか分からない。名を呼ばれたことで、儀礼線が反応している。前世名はノアを引き続けている。


 完全な勝利ではない。


 むしろ、敵の次の狙いがはっきりしただけだ。


 声。


 名。


 記憶。


 周囲の証言。


 それらを揃えて、ノアを災厄として再指定する。


 面倒くさいにも程がある。悪役ならもう少し単純に黒いローブで笑っていてほしい。書類と儀礼と掲示板を使ってくるな。事務能力の高い敵は嫌われるぞ。いや、もう嫌っている。


 ノアは、喉の痛みを押し込めて息を吸った。


 そして、掲示板の前に立った。


 周囲の視線が集まる。


 レオが一歩近づく。


 ノアは片手で制した。


 声は掠れている。


 けれど、逃げる声ではなかった。


「そうそう。俺はノア・クロウですよー」


 掲示板の黒い文字が、震えた。


 ノアは笑う。


 軽く。


 少しふざけて。


 けれど、魂の奥を踏みしめるように。


「俺はノア・クロウだしなぁ、いまは」


 その「いまは」に、レオの赤い糸が微かに痛む。


 前世を完全に否定してはいない。


 だが、現世を明け渡してもいない。


 ノアは前世を抱えたまま、現世の名を言っている。


 イリアス・ノクスヴェルトだったことを、まだ認めきってはいない。認めたくない部分もある。だが、敵がその名で自分を縛ろうとするなら、少なくとも言える。


 今の自分は、その名だけではない。


 ノアは喉に手を当て、さらに言った。


「黒い災厄の名前で呼びたいなら、順番待ちしろ。俺、今は学院の新入生で、黒魔法科で、朝食まだ途中で、喉も営業短縮中なんだよ。忙しいんですー」


 誰かが、緊張の中で小さく噴き出した。


 その笑いが、空気を少しだけ割った。


 掲示板の文字が強く光る。


 消えない。


 ノアの宣言で消えたわけではない。


 だが、黒い文字の輪郭がわずかに乱れた。


 レオがノアの隣に立つ。


 今度は前を塞がない。


 ただ隣に。


「ノア・クロウ」


「何回目?」


「必要なだけ」


「点呼係、執念深い」


「君の名を、戻されないように」


 ノアは小さく息を吐いた。


「戻されるって言い方、嫌だな」


「うん」


「俺はどこかから借りた名前を使ってるわけじゃない。ノア・クロウも俺だ」


「うん」


「イリアスを認めるかは別として」


「うん」


「全部うんって言うな。怖いな王子様」


「聞いている」


 レオの声は、穏やかだった。


 穏やかすぎるほどに。


 けれど、今回はその穏やかさが少しだけ違った。閉じ込めるための静けさではない。ノアの言葉を聞くために、自分の衝動を押し殺している静けさだった。


 七点半、維持。


 いや、八点に近い。


 言わない。


 言うと調子に乗る。人間の教育も王子様の更生も、加点の扱いが面倒だ。


 セドリックが中庭へやって来たのは、その直後だった。


 黒い外套を翻し、掲示板の文字を見て眉をひそめる。


「派手にやったな」


「俺じゃないですー」


「お前がやったとは言っていない」


「疑われ慣れしすぎて先回りしました」


「悪い癖だ」


 セドリックは掲示板の黒い文字へ手をかざした。


 黒魔法の細い線が文字へ触れる。だが、文字は消えない。むしろ、反発するように濃くなる。


 セドリックの目が細くなった。


「名前を術式の錨にしている。声の次は魂名か」


 レオの表情が冷える。


「魂名ではありません」


 セドリックがちらりと見る。


「お前の気持ちはどうでもいい。術式上の分類だ」


「ノアはノアです」


「それも事実だ。だから厄介なんだろう」


 ノアは肩をすくめた。


「先生、厄介って言葉好きですね」


「お前に関わる案件はだいたい厄介だ」


「失礼」


「事実だ」


「否定がない」


 セドリックは掲示板の文字を見たまま、低く言った。


「真儀礼は、声、名、記憶、周囲の証言を揃えようとしている。声は失敗した。証言も記録水晶の破壊で一度止まった。だから今度は名だ。学院中に前世名を晒し、周囲に認識させる。お前はノアではなくイリアスだ、と」


 周囲の生徒たちが、またざわつく。


 ノアは、わざと軽く言った。


「本人確認が多段階すぎる。役所かよ」


「笑っている場合か」


「笑ってないと喉がもたないんですよ」


 セドリックはため息をついた。


「今日はもう授業に出るな」


「欠席扱い?」


「公欠だ」


「やった」


 レオが即座に言う。


「部屋で休もう」


「王子様、目が輝いてるぞ」


「休ませたい」


「閉じ込めたいの間違いでは?」


「両方」


「正直で最悪」


 レオは否定しなかった。


 代わりに、もう一度ノアの名を呼ぶ。


「ノア・クロウ」


「はいはい」


「ノア」


「略した」


「君の名だ」


「分かってる」


「何度でも呼ぶ」


「出席確認過多で先生に怒られるぞ」


 セドリックが冷ややかに言った。


「もう怒っている」


「先生まで点呼参加しないでくださいね」


「しない。面倒だ」


「安心した」


 だが、セドリックの表情は険しかった。


 掲示板だけではない。


 廊下の壁。窓ガラス。中庭の噴水。魔力灯の影。学院のあちこちに、前世名が浮かび始めている。消そうとしても消えない。見た者の記憶に残る。囁かれる。噂になる。


 黒い災厄の名。


 イリアス・ノクスヴェルト。


 その名を学院中が知るほど、術式は強くなる。


 名前とは、ただの音ではない。


 呼ばれ、記録され、認識されることで、魂へ届く。


 敵はそれを利用している。


 ノアは空を見上げた。


 朝の青空は腹立つほど綺麗だった。


 世界が陰湿な儀礼を進めている時くらい、空も少しは曇ればいいのに。そういう気遣いはないらしい。自然界、空気が読めない。まあ、読まれても困る。


 放課後という言葉が似合わないほど、長い一日になった。


 授業は休まされた。正確には、レオとセドリックと学院長の三者から休めと言われた。ノアは一応抗議したが、喉と首輪の熱が限界だったため、負けた。人体、また敗北。悔しい。


 寮部屋に戻ると、レオはすぐ水を用意し、喉と首輪の熱を鎮めた。


 ノアは椅子に座り、首元を押さえながら呟く。


「名前呼ばれすぎて出席確認みたいだな」


「何度でも呼ぶ」


「ほんとに言った」


「ノア・クロウ」


「はい」


「ノア」


「はいはい」


「ノア・クロウ」


「点呼係、しつこい」


「君の名だから」


「分かってるって」


「戻されないように」


 レオの指先が、首輪の熱を鎮める。


 触れ方は丁寧だった。許可を取ってから触れた。そこは成長。だが、名を呼ぶたびに赤い糸が強く震える。レオの執着は、今度は声だけでなく名前にも絡み始めている。


 ノアは半眼で見た。


「今度は名前フェチになるつもり?」


「君の名が好きなだけだよ」


「言い方がもう怖い」


「怖くても、呼ぶ」


「せめてほどほどにしろ」


「努力する」


「便利な言葉」


 ノアは水を飲んだ。


 喉にしみる。


 現世の身体の痛みだった。


 それが、少しだけ安心する。


 夜。


 寮部屋の灯りを落とす頃、扉が黒く滲んだ。


 ノアは寝台に腰掛けたまま、すぐ気づいた。レオも同時に振り返る。赤い糸が静かに張る。伴侶首輪の白い花紋が、ぴり、と熱を持つ。


 古い木の扉に、黒い文字が浮かんだ。


 ノア・クロウは仮の名。


 その下に、白い花が一輪落ちた。


 英雄教会の儀礼花。


 白い花弁は床へ触れた瞬間、黒い縁取りを持った。清らかさを装ったまま腐るような、嫌な色だった。


 レオが足を踏み出す。


 踏み潰すつもりだ。


 ノアはすぐ手を伸ばした。


「待て」


 レオの足が止まる。


「燃やすのも踏むのも禁止。証拠」


「これが君の名前を否定した」


「だから調べるんだろ」


「君を傷つける」


「もう傷ついてる。今さら花一輪増えても誤差」


「誤差じゃない」


 レオの声が低い。


 ノアは立ち上がり、白い花を見下ろした。


 ノア・クロウは仮の名。


 黒い文字は、扉の木目に染み込むように浮かんでいる。


 ノアはしばらくそれを見て、ふっと笑った。


「次は、名前取り戻し合戦か」


 レオが隣に立つ。


 今度は前を塞がない。


 ただ、隣に。


 赤い糸が静かに震えた。


 ノアは扉の文字へ向かって、掠れた声で言った。


「残念。俺、けっこう今の名前、気に入ってるんだよ」


 白い花が、音もなく黒く染まった。



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