第65話 噂退治
学院は、朝からざわめいていた。
廊下の白い石壁に、声が反響している。食堂の長卓では銀食器が触れ合い、魔力灯の下で生徒たちが身を寄せ合って囁いていた。中庭には白い花が揺れ、講堂へ向かう渡り廊下では、制服の袖や外套の裾が朝の風を含んで流れている。
いつもなら、入学して間もない新入生たちの話題は単純だった。
どの授業が厳しいか。
どの教師が怖いか。
どの寮の朝食が一番ましか。
聖魔法科のレオ・アステルレインがどれほど眩しいか。
魔具工房の新しい実験がまた爆発したか。
人類、話題の幅が狭いようで広い。いや、広いようでだいたいくだらない。平和で結構である。
だが今日だけは、どの場所でも同じ名前が囁かれていた。
ノア・クロウ。
黒魔法科の平民。
赤い瞳の新入生。
災厄忌の最中に、学院中へ声を響かせた少年。
昨夜の全校放送のような絶叫は、誰の耳にも残っていた。講堂にいた者も、寮で寝ていた者も、図書室で本を読んでいた者も、訓練場で剣を握っていた者も、魔具工房で歯車を磨いていた者も、全員が聞いた。
喉が裂けるような声。
苦痛と拒絶に濁った声。
作られた災厄の宣言などではない。けれど、ただの悲鳴でもなかった。
あれは、誰かに声を奪われまいとして、全身を壊しながら抗った声だった。
だからこそ、余計に始末が悪かった。
恐怖だけでは済まなかったのだ。
ノアの声は、耳に残った。
喉の奥に引っかかった。
夢の中にまで入り込んだ。
美しいというには壊れすぎていて、可哀想というには強すぎて、怖いというには生々しすぎた。聞いた者の中には、あの声を思い出して顔を赤くする者もいた。手を伸ばしたくなる者もいた。守りたいと勝手に思う者も、壊れた声をもう一度聞きたいと考えてしまい、そんな自分に青ざめる者もいた。
全員が、何かしらを耐えていた。
欲望。
好奇。
恐怖。
憐憫。
支配したい衝動。
救いたいという名をつけた所有欲。
人間の感情というものは、本当にろくでもない鍋である。全部入れて煮込むな。匂いが濃すぎる。
ノアは、そのすべての視線を浴びながら、食堂の入口に立っていた。
黒髪はいつもより少しだけ丁寧に整えられている。襟足の長いウルフカットが首筋へかかり、制服の襟元からは、伴侶首輪の気配が微かに熱を持っていた。薄い赤い輪は他人には見えない。だがノアとレオには分かる。黒い亀裂は昨夜より少し落ち着いたが、完全には消えていなかった。
喉はまだ掠れている。
声を出すと、魂糸の発声経路に少しだけ痛みが走る。
それでもノアは、いつものように片手を上げた。
「はいはい、朝から視線が多い。俺、展示品じゃないぞー。見るなら拝観料を取るからな」
食堂の空気が揺れた。
何人かがぱっと目を逸らす。何人かは逸らせない。何人かは、ノアの掠れた声を聞いた瞬間、頬を赤らめた。別の席では、誰かが小さく息を呑む。
ノアはそれを見て、薄く笑った。
「なに。全校放送デビューがそんなに珍しかった? 俺も二度とやりたくないので、握手会はありません」
声は軽い。
だが、喉の奥は痛む。
レオが隣で水杯を差し出した。
「飲んで」
「食堂入口で給水係。もう職業名乗れるぞ」
「君の声は消耗品じゃない」
「重い。朝食前に聞く台詞じゃない」
ノアは文句を言いながら水を受け取った。
水は温すぎず冷たすぎない。喉を刺激しないよう整えられている。レオが朝から何度も調整したものだ。過保護、ここに極まれり。人間がやったら面倒くさいが、レオがやると切実すぎて怒るタイミングを失う。ずるい。
食堂の奥から、ルカが手を振った。
「ノア! こっち空いてるぞ!」
その声に、ノアの表情が少しだけ柔らかくなった。
「お、救世主。席取りの英雄様」
「その呼び方、隣の王子様が怖いからやめろ」
ルカの視線がレオへ向く。
レオは穏やかに微笑んでいた。
完璧な微笑だった。
完璧すぎて怖い。
アイリスもルカの隣で小さく手を上げている。彼女はノアを見た瞬間、心配そうに眉を寄せた。
「喉、大丈夫ですか?」
「営業短縮中。長話すると店じまいします」
「それ、大丈夫じゃないって言うんです」
「治癒魔法科の指摘、正論で殴ってくるな」
アイリスは少し笑った。
その笑いに、周囲の生徒がまたざわめく。ノアが友人へ向ける声は、会議室での低い拒絶とは違う。少し明るく、少し柔らかい。昨夜の絶叫を聞いた者ほど、その差に息を呑んだ。
レオの赤い糸が、微かに張った。
ノアはすぐ横を見る。
「王子様」
「何?」
「今、何か思っただろ」
「思った」
「正直でよろしい。内容は聞きたくない」
「君の声を、彼らが聞いていると思った」
「食堂だからな。音は広がる」
「広がらなくていい」
「物理法則に喧嘩売るな」
ノアは呆れながら席へ向かった。
周囲の視線が追ってくる。
好奇だけではない。
欲望が混じっている。
ノア自身にも分かった。昨日の声を聞いてから、学院の空気が変わった。黒魔法科の危険な平民という見方だけではない。恐怖と欲が混ざった、もっと面倒な視線。壊れた声に触れたい者。自分だけが慰められると思っている者。あの絶叫をもう一度聞きたいと、心の奥で考えてしまった者。
ファム・ファタール。
そんな言葉が浮かぶ。
笑える。
笑えない。
声を奪われかけて床を這った結果、周囲が勝手に魅了されている。世界の倫理、どこに置いてきた。落とし物なら拾ってこい。
ルカが声を潜めた。
「お前、平気か」
「平気に見える?」
「見えない」
「じゃあ正解」
ルカは顔をしかめた。
「笑ってる場合じゃないだろ」
「笑ってないと面倒な顔されるからな。ほら、周りとか」
ノアが軽く顎を動かすと、周囲の生徒たちは一斉に視線を逸らした。
下手すぎる。
人類、盗み見が下手。やるならもう少し鍛錬しろ。いや、しなくていい。
アイリスが小さく言った。
「あの、昨日の声……怖かったです。でも」
彼女は言葉を選ぶように、胸元で手を握った。
「ノアさんが、何かに負けないようにしてる声に聞こえました」
ノアは一瞬、黙った。
軽口が喉元まで上がったが、出なかった。
代わりに、少しだけ掠れた声で言う。
「いい耳してるな、アイリス」
アイリスの顔が赤くなった。
その瞬間、食堂の数人が息を呑んだ。
レオの白金の魔力が、静かに灯る。
ノアは額を押さえた。
「待て。今のは駄目な流れだ」
レオは微笑んだままだった。
その微笑みのまま、周囲を見た。
食堂の空気が一段冷える。
「その声、その目、その気持ち、誰に向けているの?」
穏やかな声だった。
だから余計に鋭かった。
食堂にいた生徒たちが固まる。
レオは続ける。
「何を想像してるのかな」
白金の魔力が、床を淡く撫でた。攻撃ではない。威圧でも、直接の拘束でもない。だが、場の魔力が一瞬でレオの支配下に置かれる。食器の音が止まり、呼吸すら遠慮するような沈黙が降りた。
レオの青い目が、柔らかく細められる。
「ノアは僕のだよ」
ノアは、椅子に座る前に立ち止まった。
「はい、退場」
レオがこちらを見る。
「まだ何もしていない」
「した。だいぶした。噂退治で学院制圧するな」
「制圧していない」
「食堂が凍っただろ」
「静かになっただけだよ」
「それを制圧って言うんだよ、王子様」
ノアはレオの腕を掴んで引っ張った。
その指先に、わずかに力が入らない。昨夜の重度反応の余韻が残っている。それでも止める。ここで止めないと、レオは食堂中の視線をひとつずつ焼き払いかねない。聖魔法で。穏やかに。丁寧に。人間、丁寧に狂うな。
レオは、ノアを見下ろした。
「君は僕のだ。僕だけのものだ」
食堂の沈黙がさらに深くなる。
ノアの眉が跳ねた。
レオは穏やかに続けた。
「君自身のものでもないくらいに、僕は手放せない」
ノアは、ゆっくり息を吐いた。
「なんかもう全部がおかしい」
「知っている」
「知ってて言うな」
「知らないふりはできない」
「いや、まず内容が駄目。俺は俺のもの。ここは前から言ってる」
ノアの声が低くなった。
掠れているが、芯がある。
「俺を守るなら、俺の声も身体も人生も俺に返せ。お前の所有物にするな」
レオの赤い糸が痛むように震えた。
伴侶首輪が熱を持つ。
ノアは短く呻きかけ、奥歯を噛んだ。
「っ……お前の情緒で首輪熱くなる仕様、まだ直ってないぞ」
「ごめん」
「謝るより冷やせ」
「触れていい?」
「今は駄目。食堂の真ん中で首輪メンテするな」
レオは一拍黙った。
「分かった」
「偉い。七点」
「上がった」
「下げるぞ」
「黙る」
ルカが、恐る恐る手を上げた。
「なあ、今の会話、俺たち聞いてていいやつか?」
「駄目なやつ」
ノアは即答した。
「全員、朝食に戻れー。黒魔法科の平民と聖魔法科の王子様による情緒事故現場は見世物じゃありません。見世物料金取るぞ」
誰かが小さく笑った。
空気が少しだけ緩む。
だが、視線は完全には消えない。
むしろ、ノアがレオを止めたことで、また別の熱が生まれていた。あれだけのレオ・アステルレインを止める黒魔法科の平民。掠れた声で言い返す赤い瞳の少年。噂の燃料が増えた。最悪である。火消しに行ったら油田を掘り当てた気分だ。
ノアは椅子に座り、深く息を吐いた。
「噂退治、失敗」
ルカがパンをちぎりながら言う。
「失敗どころか増えたぞ」
「知ってる」
「どうすんだ」
「あとで殴る」
「誰を」
「噂」
「概念を殴るな」
「黒魔法ならいけそうじゃない?」
アイリスが小さく笑う。
レオは笑わない。
その代わり、ノアの前にスープを置いた。いつの間に取ってきたのか分からない。喉に優しい温度で、香草の刺激も弱い。過保護の速度が怖い。
ノアは匙を持ちながら、横目でレオを見た。
「なあ、さすがに情緒が暴走集団だろー。周囲の声まで全部消したい顔してる」
「消したい」
「即答」
「でも、消さない」
ノアの手が止まった。
レオは、食堂のざわめきへ目を向けた。
「君が消すなと言ったから」
その声は、まだ重い。
まだ危うい。
けれど、昨日までなら即座に結界で閉じ、噂の出所を全部潰そうとしただろう。今もそうしたいに決まっている。レオの青い目には、視線ひとつ、囁きひとつ、欲望の気配ひとつまで殺したいほどの独占欲が残っている。
だが、まだ動いていない。
ノアはスープを口へ運んだ。
喉に優しい。
腹立つほど気が利いている。
「七点半」
レオがこちらを見る。
「上がった?」
「黙ってたから」
「もっと黙る」
「それはそれで怖い」
ルカがぼそりと言った。
「お前ら、採点制なのか」
ノアは即答した。
「レオ更生ポイント」
「更生する気あるのか?」
レオは静かに答えた。
「ノアが望む形には」
「怖いなその条件」
「分かる」
ルカは頭を抱えた。
アイリスは困ったように笑った。
食堂のざわめきは、少しずつ戻っていった。だが、完全には元に戻らない。誰かがノアを見ている。誰かがレオを見ている。誰かが二人を並べて見ている。
黒い災厄が戻った。
そんな囁きが、食堂の端で微かに聞こえた。
ノアの匙が止まる。
レオの赤い糸が張る。
伴侶首輪が、冷たい熱を持った。
声はすぐに他の声に紛れた。誰が言ったのか分からない。恐怖からか、面白半分か、真儀礼の残滓に引っ張られたのかも分からない。
だが、言葉は生まれた。
黒い災厄が戻った。
その噂は、きっと広がる。
真儀礼は、本人の声を使えなかった。
記録水晶も砕けた。
だが、周囲の証言や噂を材料にできるなら、この囁きは危険だった。
ノアはスープを飲み込む。
喉が痛む。
けれど、笑った。
「戻ったのは新入生ですー。災厄さんは欠席ですー」
わざと明るく言った。
食堂の空気が少し揺れる。
それでも、噂は消えない。
レオは、微笑んでいた。
完璧な微笑み。
その奥で、学院中の噂を一つ残らず消したい衝動が、白金の光となって沈んでいる。
ノアは小さく言った。
「消すなよ」
「まだ何もしていない」
「する顔だった」
「……努力する」
「よろしい」
朝食後、ノアは一度寮部屋へ戻された。
戻った、ではない。戻された。レオが「喉の確認」と称して半ば当然のように連れていった。ノアも、身体の重さと喉の痛みが限界に近かったので反論しきれなかった。悔しい。人体、もう少し根性を見せろ。
部屋に入ると、レオは水を用意し、喉に聖魔法を流し、伴侶首輪の熱を鎮めた。
昨夜は、ひどかった。
放送の後、ノアの身体は長く震え続けた。喉の治癒、魔力回路の調整、首輪の亀裂の保護、身体を冷やさないための布、髪を梳く手。レオは一晩中ほとんど眠らず、淡々とケアを続けた。
その夜は濃かった。
甘い意味ではない。
命に近いところで引き戻され続ける、死ぬほど重い夜だった。
朝になっても、その余韻は残っていた。
ノアは椅子に座り、水を受け取った。
「全校放送後の喉メンテ、芸能人かよ」
「君の声は消耗品じゃない」
「その台詞、二回目」
「何度でも言う」
「重い」
「知っている」
レオの指が喉元へ近づく。
「触れていい?」
「許可制、継続中。どうぞ」
白金の光が喉へ流れる。
痛みが少しずつ引いていく。
ノアは、窓の外を見た。
掲示板のある中庭が見える。生徒たちが行き交い、白い花の飾りが風に揺れている。朝の噂はもう形を変えているだろう。黒魔法科のノア。全校放送の声。災厄。レオの所有発言。食堂の威圧。全部が混ざって、もっと厄介な話になる。
噂は退治するより増える。
害虫か。いや、害虫に失礼かもしれない。
その時、机の上の封印箱が小さく鳴った。
セドリックが預けていった記録水晶の破片。
昨日の会議室で砕けた水晶片の一部だ。封印布と黒魔法の鎖で包まれているはずなのに、箱の隙間から黒い光が漏れた。
レオの手が止まる。
ノアも顔を上げる。
封印箱の蓋の上に、黒い文字が浮かんだ。
声は戻った。次は名を戻す。
部屋の空気が冷えた。
ノアの喉の奥が、ひやりと震える。
「次から次へと、忙しい敵だな。残業代出てる?」
軽口を叩いた瞬間、窓の外でざわめきが起こった。
中庭の掲示板。
そこに貼られていた災厄忌の残り紙が、黒く染まっていく。
文字が浮かぶ。
古代語ではない。
誰にでも読める、現代の学院共通語。
イリアス・ノクスヴェルト。
ノアの前世名が、学院の掲示板に浮かび始めていた。
レオの赤い糸が、痛むように張った。




