第64話 世界に聞かせよう
水晶の黒い糸が、ノアの喉へ食い込んだ。
喉そのものではない。魂糸の発声経路。声が声になる直前の、もっと奥深い場所。そこを掴まれ、学院中へ引きずり出されようとしている。
伴侶首輪が灼けるように熱を持つ。
黒い亀裂が首輪の内側を走り、白い花紋がそれを押し返そうと強く光る。だが記録水晶は止まらない。ノアの声を切り取り、繋ぎ直し、災厄としての宣言に変えようとしている。
ノアは歯を食いしばった。
声を奪われまいと、喉を裂くように叫ぶ。
「が、あ゛……っ、あ゛あああああああッ!! 俺の、声で……喋るな……ッ!」
咆哮が会議室を震わせた。
上品な悲鳴ではない。喉の奥から黒い魔力ごと引きずり出される、濁りきった声だった。瞳孔が開き、赤い瞳が血走る。背筋が弓なりに跳ね、指先が机の脚と床を掻いた。
記録水晶が、その絶叫の端を掴む。
校内放送用の音響魔導具が、学院の塔で青白く灯った。
ノアの声が学院全体へ流されようとしている。
ノアはそれを本能で悟った。
「やだ、やだ! きくなッ、きく……ぎゃああああああああああああああああああああ!!!!?」
声が裂ける。
水晶は、その声を災厄の咆哮として記録しようとした。だがノアの魂は拒む。これは災厄の宣言ではない。奪うなという叫びだ。
レオの赤い糸がノアの喉元へ伸びる。
閉じるか。
支えるか。
一瞬、レオの白金の魔力が迷った。
遮音すれば、学院へ流れるのは止められる。だが、それはノアの声そのものを閉じ込めることになる。
ノアは床に膝をついたまま、血走った目でレオを睨む。
言葉にはならない。
それでも、拒絶だけは伝わった。
閉じるな。
レオの赤い糸が震えた。
「閉じない。君の声のまま支える」
その声と同時に、赤い糸はノアの喉を塞がず、魂糸の外側を支えた。
水晶がさらに強く引く。
ノアの身体が跳ねた。
「っぐ゛……い、ッぅぐふぅ゛ううんぃ゛い……ッんお゛ぉおお゛ッ!!!!」
泡混じりの息が唇に溜まる。
舌がうまく収まらない。叫ぼうとしても、舌先が震え、言葉が濁り、声が砕ける。喉の奥から黒い霧が漏れ、吐き気が胸を突き上げた。
「はーーっ、はーーっ、やあああああああああ!!! も、や、めぇ……!!!!? んぐぅう!! ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!! はっ……はっ……んほッぉ゛おぉおおぉおお!!!!!」
身体が床の上でのたうった。
膝が滑り、肩が跳ね、背中が弓なりに反る。石床を掻く指先が白くなる。喉の熱と首輪の熱が重なり、呼吸がうまく入らない。
身体制御が一瞬途切れた。
限界を超えた魔法反応として、衣服と床が乱れる。屈辱が遅れて意識に刺さるが、水晶はその反応すら「災厄反応」として記録しようとした。
ノアは、血走った目で水晶を睨みつける。
「あぎゃああああああああああああああああああああ!!? おごおごおごごごごごごごごっごごごご!!?」
セドリックの黒魔法が床を走った。
「記録させるな! アステルレイン、声を閉じるな、本人の声として固定しろ!」
「分かっています!」
レオの声は低く、張り詰めていた。
ノアを抱き寄せて塞ぎたい。
誰にも聞かせたくない。
この崩れた絶叫を、自分だけのものにしたい。
その欲がある。
だがレオは、その欲ごと噛み殺した。
赤い糸は遮音しない。
ノアの声を、ノア本人の魂へ固定し、そのまま学院中へ通す。
作られた災厄の宣言ではなく、奪われまいとする本人の拒絶として。
「んぎいいいいいいいいいいい! んんぎ! んぎ! んぎ!!! んぎいいいいいいいいいいいいいいいい!!」
濁った叫びが会議室を満たす。
魔力灯が揺れ、窓硝子が震える。記録水晶の黒い影がノアの声に食いつくが、赤い糸がそのたびに引き戻す。
首輪の亀裂が広がった。
白い花紋が強く光る。
「お゛ッ……お゛、っひぃ゛いい……――……ッッ!!!!」
呼吸が切れる。
ノアの喉が引き攣り、舌が震える。水晶は、その声の割れ目へ入り込もうとした。
レオがノアの身体を支える。
床へ頭を打たせない。喉を塞がない。声を奪わない。ただ、崩れる身体を現世に留める。
「ひい゛っ、あ゛、う゛ぅあ゛っんぐぅう、お、ぎゃあああああああああ!!?」
その絶叫が、ついに校内放送の魔導具へ届いた。
学院中に響く。
食堂で皿の音が止まる。
廊下で生徒たちが振り返る。
訓練場の魔法陣が一瞬だけ揺れる。
図書室の空気が凍る。
ノアの声が、学院全体へ流れた。
だが、それは災厄の宣言ではなかった。
苦痛に裂け、泡混じりに途切れ、濁りきった絶叫。けれど、そこにあったのは拒絶だった。
俺の声で喋るな。
勝手に作るな。
奪うな。
「ごげえええええええええええええ!!! んげえええええええええええ!! おぇえええええええ!!!」
吐き気で身体が折れる。
黒い魔力を吐き出すように、口元から霧が漏れた。泡混じりの息が唇から落ちる。喉が引き攣り、舌がうまく収まらず、言葉はほとんど形にならない。
それでも、声は止まらない。
止めない。
止められないのではない。
止めたら奪われる。
「ごわれ、ッぎゃ、ごぇえええええ!! んごおおおおおおおおおおおおおお!!」
水晶の黒い影がひび割れた。
ノアの本物の声が、改竄術式を逆に焼いている。水晶は整った言葉を欲しがっていた。災厄として証言する、意味のある文を欲しがっていた。
だが、流れているのは、魔法的限界反応に壊れた絶叫だ。
切り貼りできない。
都合よく繋げない。
あまりにも生々しく、現世のノア・クロウの魂に固定された、本物の拒絶だった。
「いぎゃああああああああああああああああああああああああああ!!」
ノアの身体が大きく跳ねた。
白目を剥きかけた視線が天井を泳ぐ。瞳孔は開ききり、赤い瞳は血走っている。肩が痙攣し、膝が床を打ち、指先が硬直したまま動かない。
レオが赤い糸をさらに深く固定する。
「ノア、君の声だ。奪われていない」
ノアは返事にならない声を漏らした。
「まちちらしちゃうううううううううううううううううううう!!! だめええええ!! とまあない!!」
身体制御の乱れがさらに強まる。
魔力回路の逆流が肉体の反応を乱し、ノア自身の意思では止められない。屈辱と苦痛が混ざり、声はさらに濁った。
だが、レオは目を逸らさない。
官能ではない。
見世物でもない。
魔法的限界反応で崩れた身体を、ただ受け止める。
レオは低く言った。
「見ている。逃げない。閉じない」
ノアの喉が震えた。
「おおああああああああああああああああああああああああああ!!!?」
最後の絶叫が、学院中の魔導具を震わせた。
水晶の黒い影が、ついに耐えきれず砕け始める。
学院中に響いたのは、災厄の再指定ではなかった。
ノア・クロウの拒絶だった。
黒魔法科の新入生が、何かに抗っている声だった。
恐ろしい。
痛ましい。
けれど、作られた悪役の声ではない。
レオが聖魔法を放つ。
セドリックの黒魔法が水晶の内側を縛る。
学院長の封印指輪が校内放送の伝達網を断ち切る。
ラシェルの祈祷文が、英雄教会由来の歪んだ構文を焼く。
記録水晶が、甲高い音を立てて砕けた。
黒い影が飛び散り、最後の一片がノアの声を掴もうとする。
ノアは、床に崩れたまま、喉を震わせた。
「俺の……声で……喋るな……!」
掠れた、壊れた、けれど確かにノア本人の声だった。
黒い影が弾ける。
学院の塔の光が、ひとつずつ消えていく。
会議室に沈黙が落ちた。
ノアの身体から力が抜ける。レオが抱き止めた。床へ倒れる前に、白金の腕が支える。
喉は裂けるように痛い。
身体は震えている。
唇には泡混じりの息が残り、魔力回路は焼け焦げたように鈍い。
それでもノアは、かすれた声で笑った。
「……今度は……校内放送かよ……」
レオは答えなかった。
ただ、赤い糸が震えていた。
怒りと恐怖と、安堵で。
セドリックが割れた水晶片を封印布で包む。学院長が窓の外を見つめる。ラシェルは青ざめた顔で祈祷書を抱いていた。
遠くの廊下から、ざわめきが戻ってくる。
生徒たちの声。
何だったのか、と問う声。
黒魔法科のノアは危険なのか、と囁く声。
それとも、何かに抗っていたのか、と迷う声。
噂は広がる。
止められない。
レオは、そのすべてを消したくなる顔をしていた。
ノアは、もう目を開けていられなかった。
それでも最後に、掠れた声で言った。
「……消すなよ」
レオが息を詰める。
「噂も、声も……俺が、あとで……殴る……」
「君は休んで」
「命令……?」
「お願い」
「……なら、寝る……」
意識が沈む。
レオの腕の中で、ノアは目を閉じた。
次に目を開けた時、そこは寮部屋だった。
深い夕方の光が窓から差していた。事件後、どれだけ眠ったのか分からない。身体は清められていて、冷えていない。寝具も替えられている。喉には白金の治癒が薄く残り、魔力回路はまだ鈍いが、焼けるような痛みは引いていた。
髪も梳かれている。
首輪の熱も、いくらか鎮められていた。
レオは寝台のそばにいた。
当然のように。
水杯を持って。
ノアは掠れた声で言った。
「……全校放送デビュー、最悪」
レオは杯を差し出しながら、静かに答えた。
「綺麗な声だった」
ノアは、しばらくレオを見た。
喉が痛いのに、言わずにはいられなかった。
「感想が怖い」
「怖くても、本当だよ」
「俺、絶叫してたんだけど」
「君の声だった」
レオの青い目が、揺れなかった。
「誰にも作られていない、君の声だった」
ノアは黙った。
水を受け取り、ゆっくり飲む。
喉に染みる。
生きている痛みだった。
窓の外では、学院がまだざわめいている。
噂は広がるだろう。
恐怖も、疑いも、好奇も。
レオはそれを全部消したがる。たぶん、今も消したくて仕方がない。
だが、ノアは消すなと言った。
レオはまだ動いていない。
それだけで、今日は七点にしてもいい。
言わないけど。




