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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第三章 黒い儀礼と本物の声

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第64話 世界に聞かせよう



 水晶の黒い糸が、ノアの喉へ食い込んだ。


 喉そのものではない。魂糸の発声経路。声が声になる直前の、もっと奥深い場所。そこを掴まれ、学院中へ引きずり出されようとしている。


 伴侶首輪《メイト・カラー》が灼けるように熱を持つ。


 黒い亀裂が首輪の内側を走り、白い花紋がそれを押し返そうと強く光る。だが記録水晶は止まらない。ノアの声を切り取り、繋ぎ直し、災厄としての宣言に変えようとしている。


 ノアは歯を食いしばった。


 声を奪われまいと、喉を裂くように叫ぶ。


「が、あ゛……っ、あ゛あああああああッ!! 俺の、声で……喋るな……ッ!」


 咆哮が会議室を震わせた。


 上品な悲鳴ではない。喉の奥から黒い魔力ごと引きずり出される、濁りきった声だった。瞳孔が開き、赤い瞳が血走る。背筋が弓なりに跳ね、指先が机の脚と床を掻いた。


 記録水晶が、その絶叫の端を掴む。


 校内放送用の音響魔導具が、学院の塔で青白く灯った。


 ノアの声が学院全体へ流されようとしている。


 ノアはそれを本能で悟った。


「やだ、やだ! きくなッ、きく……ぎゃああああああああああああああああああああ!!!!?」


 声が裂ける。


 水晶は、その声を災厄の咆哮として記録しようとした。だがノアの魂は拒む。これは災厄の宣言ではない。奪うなという叫びだ。


 レオの赤い糸がノアの喉元へ伸びる。


 閉じるか。


 支えるか。


 一瞬、レオの白金の魔力が迷った。


 遮音すれば、学院へ流れるのは止められる。だが、それはノアの声そのものを閉じ込めることになる。


 ノアは床に膝をついたまま、血走った目でレオを睨む。


 言葉にはならない。


 それでも、拒絶だけは伝わった。


 閉じるな。


 レオの赤い糸が震えた。


「閉じない。君の声のまま支える」


 その声と同時に、赤い糸はノアの喉を塞がず、魂糸の外側を支えた。


 水晶がさらに強く引く。


 ノアの身体が跳ねた。


「っぐ゛……い、ッぅぐふぅ゛ううんぃ゛い……ッんお゛ぉおお゛ッ!!!!」


 泡混じりの息が唇に溜まる。


 舌がうまく収まらない。叫ぼうとしても、舌先が震え、言葉が濁り、声が砕ける。喉の奥から黒い霧が漏れ、吐き気が胸を突き上げた。


「はーーっ、はーーっ、やあああああああああ!!! も、や、めぇ……!!!!? んぐぅう!! ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!! はっ……はっ……んほッぉ゛おぉおおぉおお!!!!!」


 身体が床の上でのたうった。


 膝が滑り、肩が跳ね、背中が弓なりに反る。石床を掻く指先が白くなる。喉の熱と首輪の熱が重なり、呼吸がうまく入らない。


 身体制御が一瞬途切れた。


 限界を超えた魔法反応として、衣服と床が乱れる。屈辱が遅れて意識に刺さるが、水晶はその反応すら「災厄反応」として記録しようとした。


 ノアは、血走った目で水晶を睨みつける。


「あぎゃああああああああああああああああああああ!!? おごおごおごごごごごごごごっごごごご!!?」


 セドリックの黒魔法が床を走った。


「記録させるな! アステルレイン、声を閉じるな、本人の声として固定しろ!」


「分かっています!」


 レオの声は低く、張り詰めていた。


 ノアを抱き寄せて塞ぎたい。


 誰にも聞かせたくない。


 この崩れた絶叫を、自分だけのものにしたい。


 その欲がある。


 だがレオは、その欲ごと噛み殺した。


 赤い糸は遮音しない。


 ノアの声を、ノア本人の魂へ固定し、そのまま学院中へ通す。


 作られた災厄の宣言ではなく、奪われまいとする本人の拒絶として。


「んぎいいいいいいいいいいい! んんぎ! んぎ! んぎ!!! んぎいいいいいいいいいいいいいいいい!!」


 濁った叫びが会議室を満たす。


 魔力灯が揺れ、窓硝子が震える。記録水晶の黒い影がノアの声に食いつくが、赤い糸がそのたびに引き戻す。


 首輪の亀裂が広がった。


 白い花紋が強く光る。


「お゛ッ……お゛、っひぃ゛いい……――……ッッ!!!!」


 呼吸が切れる。


 ノアの喉が引き攣り、舌が震える。水晶は、その声の割れ目へ入り込もうとした。


 レオがノアの身体を支える。


 床へ頭を打たせない。喉を塞がない。声を奪わない。ただ、崩れる身体を現世に留める。


「ひい゛っ、あ゛、う゛ぅあ゛っんぐぅう、お、ぎゃあああああああああ!!?」


 その絶叫が、ついに校内放送の魔導具へ届いた。


 学院中に響く。


 食堂で皿の音が止まる。


 廊下で生徒たちが振り返る。


 訓練場の魔法陣が一瞬だけ揺れる。


 図書室の空気が凍る。


 ノアの声が、学院全体へ流れた。


 だが、それは災厄の宣言ではなかった。


 苦痛に裂け、泡混じりに途切れ、濁りきった絶叫。けれど、そこにあったのは拒絶だった。


 俺の声で喋るな。


 勝手に作るな。


 奪うな。


「ごげえええええええええええええ!!! んげえええええええええええ!! おぇえええええええ!!!」


 吐き気で身体が折れる。


 黒い魔力を吐き出すように、口元から霧が漏れた。泡混じりの息が唇から落ちる。喉が引き攣り、舌がうまく収まらず、言葉はほとんど形にならない。


 それでも、声は止まらない。


 止めない。


 止められないのではない。


 止めたら奪われる。


「ごわれ、ッぎゃ、ごぇえええええ!! んごおおおおおおおおおおおおおお!!」


 水晶の黒い影がひび割れた。


 ノアの本物の声が、改竄術式を逆に焼いている。水晶は整った言葉を欲しがっていた。災厄として証言する、意味のある文を欲しがっていた。


 だが、流れているのは、魔法的限界反応に壊れた絶叫だ。


 切り貼りできない。


 都合よく繋げない。


 あまりにも生々しく、現世のノア・クロウの魂に固定された、本物の拒絶だった。


「いぎゃああああああああああああああああああああああああああ!!」


 ノアの身体が大きく跳ねた。


 白目を剥きかけた視線が天井を泳ぐ。瞳孔は開ききり、赤い瞳は血走っている。肩が痙攣し、膝が床を打ち、指先が硬直したまま動かない。


 レオが赤い糸をさらに深く固定する。


「ノア、君の声だ。奪われていない」


 ノアは返事にならない声を漏らした。


「まちちらしちゃうううううううううううううううううううう!!! だめええええ!! とまあない!!」


 身体制御の乱れがさらに強まる。


 魔力回路の逆流が肉体の反応を乱し、ノア自身の意思では止められない。屈辱と苦痛が混ざり、声はさらに濁った。


 だが、レオは目を逸らさない。


 官能ではない。


 見世物でもない。


 魔法的限界反応で崩れた身体を、ただ受け止める。


 レオは低く言った。


「見ている。逃げない。閉じない」


 ノアの喉が震えた。


「おおああああああああああああああああああああああああああ!!!?」


 最後の絶叫が、学院中の魔導具を震わせた。


 水晶の黒い影が、ついに耐えきれず砕け始める。


 学院中に響いたのは、災厄の再指定ではなかった。


 ノア・クロウの拒絶だった。


 黒魔法科の新入生が、何かに抗っている声だった。


 恐ろしい。


 痛ましい。


 けれど、作られた悪役の声ではない。


 レオが聖魔法を放つ。


 セドリックの黒魔法が水晶の内側を縛る。


 学院長の封印指輪が校内放送の伝達網を断ち切る。


 ラシェルの祈祷文が、英雄教会由来の歪んだ構文を焼く。


 記録水晶が、甲高い音を立てて砕けた。


 黒い影が飛び散り、最後の一片がノアの声を掴もうとする。


 ノアは、床に崩れたまま、喉を震わせた。


「俺の……声で……喋るな……!」


 掠れた、壊れた、けれど確かにノア本人の声だった。


 黒い影が弾ける。


 学院の塔の光が、ひとつずつ消えていく。


 会議室に沈黙が落ちた。


 ノアの身体から力が抜ける。レオが抱き止めた。床へ倒れる前に、白金の腕が支える。


 喉は裂けるように痛い。


 身体は震えている。


 唇には泡混じりの息が残り、魔力回路は焼け焦げたように鈍い。


 それでもノアは、かすれた声で笑った。


「……今度は……校内放送かよ……」


 レオは答えなかった。


 ただ、赤い糸が震えていた。


 怒りと恐怖と、安堵で。


 セドリックが割れた水晶片を封印布で包む。学院長が窓の外を見つめる。ラシェルは青ざめた顔で祈祷書を抱いていた。


 遠くの廊下から、ざわめきが戻ってくる。


 生徒たちの声。


 何だったのか、と問う声。


 黒魔法科のノアは危険なのか、と囁く声。


 それとも、何かに抗っていたのか、と迷う声。


 噂は広がる。


 止められない。


 レオは、そのすべてを消したくなる顔をしていた。


 ノアは、もう目を開けていられなかった。


 それでも最後に、掠れた声で言った。


「……消すなよ」


 レオが息を詰める。


「噂も、声も……俺が、あとで……殴る……」


「君は休んで」


「命令……?」


「お願い」


「……なら、寝る……」


 意識が沈む。


 レオの腕の中で、ノアは目を閉じた。


 次に目を開けた時、そこは寮部屋だった。


 深い夕方の光が窓から差していた。事件後、どれだけ眠ったのか分からない。身体は清められていて、冷えていない。寝具も替えられている。喉には白金の治癒が薄く残り、魔力回路はまだ鈍いが、焼けるような痛みは引いていた。


 髪も梳かれている。


 首輪の熱も、いくらか鎮められていた。


 レオは寝台のそばにいた。


 当然のように。


 水杯を持って。


 ノアは掠れた声で言った。


「……全校放送デビュー、最悪」


 レオは杯を差し出しながら、静かに答えた。


「綺麗な声だった」


 ノアは、しばらくレオを見た。


 喉が痛いのに、言わずにはいられなかった。


「感想が怖い」


「怖くても、本当だよ」


「俺、絶叫してたんだけど」


「君の声だった」


 レオの青い目が、揺れなかった。


「誰にも作られていない、君の声だった」


 ノアは黙った。


 水を受け取り、ゆっくり飲む。


 喉に染みる。


 生きている痛みだった。


 窓の外では、学院がまだざわめいている。


 噂は広がるだろう。


 恐怖も、疑いも、好奇も。


 レオはそれを全部消したがる。たぶん、今も消したくて仕方がない。


 だが、ノアは消すなと言った。


 レオはまだ動いていない。


 それだけで、今日は七点にしてもいい。


 言わないけど。



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