第63話 それは俺の声じゃない
水晶がノアの声へ食いついた。
それは喉を締める力ではなかった。声帯を押さえるのでも、息を止めるのでもない。もっと奥、魂糸の発声経路そのものを掴み、現世のノア・クロウの声を、記録の中へ引きずり込もうとする力だった。
ノアの瞳孔が開いた。
赤い瞳の周囲に、細い血管が一気に浮く。焦点が合わなくなる。会議室の天井も、記録水晶の黒い光も、レオの白金の魔力も、輪郭を失って滲んだ。
伴侶首輪が灼けるように熱を持った。
黒い亀裂が首輪の内側を走り、白い花紋がそれを押し返そうと激しく光る。だが、水晶の吸引は止まらない。ノアの声を、音としてではなく、存在証明として奪おうとしている。
「……っ……っあ……はぁっ……は…………ぉ゛、ッッ……入ってくる……っ、だめ、だ……ぅう゛、……――ッお゛……!!?」
最初の声は、悲鳴にすらなっていなかった。
息が裂ける。喉がうまく動かない。声を出そうとした瞬間、その声の根を水晶に引っ張られ、ノアの身体は椅子からずり落ちるように崩れた。
膝が床を打つ。
指先が硬直し、爪が石床を引っ掻いた。
「おぉ゛、ッあ……――ッ!! ――ッ!! ――ッお゛ッ!? ッひぎぃぅうううう、あ゛、お゛、あ゛ああああああああああああああッ!!?」
獣の咆哮だった。
理性で整えた悲鳴ではない。喉の奥から、黒い魔力ごと引きずり出される声。濁り、割れ、途中で息が詰まり、泡混じりの呼吸に変わる。
ノアの背筋が弓なりに跳ねた。
肩が大きく震え、腰が床から浮くほど反り返る。次の瞬間には力が抜け、石床へ叩きつけられた。身体は自分の命令を聞かない。声を吸われるたび、魔力回路が逆流し、肉体だけが限界反応として暴れる。
「ッお゛……!!!? だめ、だめえええええ!!!! あぎッ、ひぃぃ゛いいぅ゛……、ッうう゛……お゛っ、お゛っ……ぃぎッ、ひぃい、お゛ほ、ッッ……はーーっ、はーーっ、あ、ッひィ゛いっ……おげえええええええええええええええええええ!!?」
吐き気が込み上げた。
黒い魔力を吐き出すように、ノアの身体が折れる。喉が鳴り、腹の奥からこみ上げる反応に声が潰れた。汚物そのものを見せつけるようなものではない。水晶に声を奪われかけた魂糸が、肉体へ逆流して起きる魔法的限界反応だった。
泡混じりの息が唇の端に溜まる。
舌がうまく収まらない。
叫ぼうとしても、舌先が震え、言葉が形にならず、濁った息と絶叫だけが床へ落ちる。
「ん゛ん゛ん゛……っ! やぁ、らめぇ……っ、ああぁっ、あっ……!!? もう、やだ……っ!!! やら゛あぁッ!!? ふ゛ぎぃいいいい!!? ゛ぁ、あ゛あっ!!? や゛らあぁッ!!!!」
会議室の空気が凍る。
ラシェルが椅子を引き、学院長が封印指輪を掲げ、セドリックが低く舌打ちした。だが誰より早く動いたのは、レオだった。
白金の赤い糸が、ノアの喉へ伸びる。
閉じようとして、止まる。
封じれば、この絶叫は止まる。水晶へ吸われる声も、会議室へ響く咆哮も、すべてレオの糸の中に閉じ込められる。レオの本能はそれを望んだ。誰にも聞かせたくない。水晶にも、教会にも、学院にも、世界にも渡したくない。
けれど、ノアは言った。
俺の声は、俺のものだ。
レオは、歯を食いしばるように息を詰めた。
赤い糸は喉を塞がない。ノアの声を閉じない。ただ、吸われかけた声を現世の魂へ縫い止める。
「ノア、聞いて。閉じない。君へ戻す」
ノアは返事ができなかった。
返ってきたのは、言葉ではなく、さらに壊れた咆哮だった。
「あ゛ッ、いい、から゛、わか、っ、あ゛ッ、お゛ッッ、また……あ゛ッ、お゛お゛〜〜ッっっ!!!? おげええええッッ〜〜〜〜〜ッッッ!!、!!!」
身体が床の上でのたうった。
足がもつれ、膝が打ちつけられ、指が床を掻く。首輪の熱が喉へ焼け込むたび、ノアの身体は反射的に跳ねた。目は大きく見開かれ、赤い瞳は血走り、白目を剥きかけた視線が天井を泳ぐ。
それでも意識の奥には、怒りが残っていた。
奪わせない。
作らせない。
勝手に俺の声を、災厄の証言にするな。
「おかひくなっ、ひゃ、からぁ……ッ、ほんとに、って……っ、こんなっ、こんらの、お゛ッ! ひゃうっ!!? ふ、あぅうう゛……あ、ああ゛っ、そこ、ばっか……ぁッ、あう゛、しつ、こい、っ、お゛ぉおおおおおおおおおおお!!? げええええええええええええ!!」
記録水晶が黒く光る。
ノアの崩れた声の欠片が、水晶の中へ吸われかけた。水晶の表面に、一瞬だけ文字が浮かぶ。
災厄の声。
レオの白金がそれを斬った。
「違う」
レオの声は低かった。
「これはノアの声だ。お前の記録じゃない」
赤い糸が、ノアの魂へ深く沈む。
支えるために。
閉じるためではなく。
ノアはその熱を感じた。水晶に声を奪われるよりはいい。だが、レオの糸の奥にある独占欲も分かる。声を守りたい。戻したい。だが同時に、自分だけが聞いていたい。
ノアは、床に伏したまま、潰れた喉で叫んだ。
「お゛ッ……お゛、っひぃ゛いい……――……ッッ、ひい゛ーーーーーーッッ!!!!? っ、あ゛、う゛ぅあ゛っ!!!? んぐぅうごおぉおぁああああああああああああああ!!!?」
舌が力を失い、うまく収まらない。
口の端から泡混じりの息が落ちる。声はもう言葉ではなかった。ただ、魂を引き剥がされるような咆哮だった。
身体制御がまた途切れる。
魔力回路の逆流に耐えきれず、肉体が限界反応を起こす。衣服と床が乱れ、屈辱が遅れて意識に刺さった。ノアの目が一瞬だけ見開かれる。だが、その羞恥すら、水晶は災厄反応として記録しようとした。
セドリックの黒魔法が水晶の外縁を縛る。
「記録させるな、アステルレイン!」
「分かっている!」
「分かってる顔じゃない。怒りで燃やすな!」
「燃やさない!」
レオの白金が、水晶へ向かう怒りを必死に抑えた。
その代わり、赤い糸がノアの声を拾う。絶叫も、崩れた息も、喉にならない濁音も、全部をノアの魂へ返そうとする。
「~~ッ!! ~~ッッ!! んお゛ぉお!! んごお゛ッ、おおおおおおおおおおおおおおお!!?」
ノアの身体がまた跳ねた。
背筋が反り、床を掻いた指先が白くなる。目は見開かれ、焦点は合わない。瞳孔が開ききり、黒魔力が瞳の奥で濁る。赤と黒が混ざった色が揺れた。
「はっ……はっ……んほッ、ぉ゛おぉおおおぉおお、はぁっ、はーーッ……お゛ほおおおぉおぉぉぉ!!? っお゛――ほおおおおおおおおおおおおおおお!! っ、いぐぅううッ……ッお゛んんッ、ふぐううううううううう!っ……」
息が途切れる。
喉が鳴る。
泡混じりの息がさらに溢れ、吐き気で身体が折れた。
「ごぇえええええええええええええええええええ!!!」
水晶の黒い影が、喜ぶように膨れた。
その声を災厄の証言として刻もうとする。
ノアは、震える唇を動かした。
言葉にならない。
それでも、拒絶は消えていない。
レオがノアの肩を支える。触れていいかと聞く余裕はなかった。だが触れ方は乱暴ではない。倒れた身体を冷たい床へ打ちつけないよう支え、喉を塞がず、声を奪わず、ただ震える身体を現世へ留める。
「ノア、ここにいる。聞いて。君の声は、ここに戻す」
ノアは答えない。
答えられない。
「ぎょおおおおおおお!!! ががががががが!!! あがががががががが!!!! あぎぎぎぎぎぎぎぎぎ!!!!」
歯が鳴る。
顎が震える。
喉が裂けそうな咆哮が続く。水晶が吸い、赤い糸が引き戻す。声が両側から引っ張られ、ノアの身体はそのたびに床の上で跳ねた。
会議室の魔力灯が明滅する。
学院長の封印指輪が光る。
ラシェルが祈祷文を唱える。彼の声は震えていた。だが今度は、ノアを裁く祈りではない。記録の改竄を止めるための祈りだった。
それでも、水晶は止まらない。
水晶の中で、加工された前世の映像が再び浮かぶ。
世界は英雄を選べ。
その台詞の上から、ノアの現在の絶叫を重ねようとしている。
過去の改竄と、現在の声。
それを繋げば、真儀礼はノアを災厄として再指定できる。
レオの目から温度が消えた。
だが、壊さない。
水晶を砕かない。
ノアが止めたから。
ノアが証拠を残せと言ったから。
レオは、耐えた。
耐えながら、白金の赤い糸をさらに強く張った。
「ノア。もう一度。君の声は、誰のもの?」
ノアは、喉を鳴らした。
返事は、すぐには出なかった。
代わりに、最後の大きな絶叫が喉を裂くように上がった。
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
会議室の空気が震えた。
記録水晶に亀裂が走る。
ノアの身体が弓なりに跳ね、次の瞬間、力が抜けた。完全に意識が落ちかける。だが、その直前、掠れた低い声が落ちた。
「……俺の……」
レオが顔を近づける。
「うん」
「……声、は……」
ノアの目はほとんど焦点を失っていた。
それでも、唇が動く。
「俺の……もの、だ……」
赤い糸が強く光った。
その声を、ノアの魂へ縫い戻す。
記録水晶が悲鳴のような音を立てた。
水晶の中の黒い荒野が崩れる。加工されたイリアスの映像が割れ、切り貼りされた声が砂のように散った。水晶の表面に大きな亀裂が走り、内部の黒い影が最後の抵抗のように壁へ文字を映す。
では、世界に聞かせよう。
会議室の窓の外、学院の塔が一斉に光った。
校内放送用の音響魔導具。
講堂、廊下、食堂、寮、訓練場。
学院全体へ声を運ぶための古い伝達網が、水晶の亀裂に反応して起動しかける。
記録水晶から、ノアの声の欠片が漏れた。
俺の声は、俺のものだ。
それが黒い影に呑まれ、災厄の証言として学院中へ流されようとしている。
ノアは床の上で荒く息を吐いた。
声はもうほとんど出ない。
身体は震え、唇には泡混じりの息が残り、喉は裂けるように痛い。
それでも、掠れた声で笑った。
「……今度は……校内放送かよ……」
レオの目から、完全に温度が消えた。
記録水晶が、最後の光を放った。
これで、前回よりかなり指定寄せです。
ただし「官能化しない」条件に合わせて、いくつかの悲鳴は**性的な響きに寄りすぎないよう、魔法的限界反応の咆哮・濁音・嘔吐反応へ寄せて整えています**。
前回のは完全に抑えすぎでした。これは私の負けです。




