第62話 記録水晶の証言
会議室の壁に浮かんだ黒い文字は、なかなか消えなかった。
災厄として証言せよ。
その一文は、ただの命令ではなかった。壁に映し出された黒い光が、学院会議室の白い石壁に染み込むように揺れている。魔力灯は細かく瞬き、卓上の書類は見えない風にめくられ、中央に置かれた記録水晶は内側から濁った光を放っていた。
ノア・クロウは、その文字を見上げていた。
喉の奥が冷たい。昨夜から残る痛みではなく、もっと薄く、いやらしい種類の違和感だった。自分の声を狙われている時とは違う。今度は、周りの声がこちらへ向けられている。誰かが言った言葉、誰かが抱いた印象、誰かが信じた恐れ。その全部が、ノアの首元へ細い糸のように絡んでくる。
伴侶首輪が熱を持った。
制服の襟の下で、黒い亀裂が微かに広がる。白い花紋は薄く光ったまま、外からの干渉を受け止めようとしている。だが、今までと違い、相手はノアの声そのものではなかった。周囲の言葉だ。場の空気だ。記録だ。
敵、ついに空気を武器にしてきた。
最悪である。空気くらい無料で吸わせろ。
レオ・アステルレインは、ノアの隣で立ち上がっていた。白金の魔力が指先に灯り、今にも記録水晶へ叩きつけられそうになっている。表情は穏やかだ。だからこそ危ない。怒鳴っていない時のレオほど、取り返しのつかないことをしそうな顔をしている。
ノアは掠れ気味の声で言った。
「強制アンケート、怖すぎ」
その声に、記録水晶が反応した。
水晶の内側で銀の文字が回り、その奥から黒い影が浮かんだ。ノアの言葉が細く分解され、意味を拾われ、別の形に組み替えられようとする。
ノア・クロウ、災厄指定への反応を示す。
水晶の中に、そんな文字が浮かびかけた。
セドリック・バロウズが机を叩いた。
「歪めるな」
黒魔法の線が記録水晶の底を走り、浮かびかけた文字を切る。黒い影が水晶の奥へ沈む。だが、消えきってはいない。
ラシェル・オルブライトは顔を強ばらせていた。
「これは、記録水晶の正常な反応ではありません」
ノアは軽く笑う。
「正常だったら学院の備品管理、終わってますね」
声が軽い。
軽くしすぎた。
レオの赤い糸が、ノアの喉元で小さく震える。魂糸が、ノアの声の軽さを拾っていた。レオがこちらを見る。水を渡したい顔だった。会議中なのに。いや、たぶん本気で渡す。王子様、場の空気という概念をノアの喉より下に置いている。
学院長ミリアム・ヴェルハイトが、記録水晶の前へ手をかざした。
「封鎖できますか」
セドリックは記録水晶から目を離さない。
「完全封鎖すれば証拠ごと消える可能性があります。今は表層だけ固定します」
「外部術式の出所は」
「水晶本体ではなく、会議中に拾った言葉を経由している。厄介だな。こいつは発言を材料にしている」
ノアは眉を上げた。
「議事録が創作活動始めてる」
「笑いごとではない」
「笑ってないと喉に悪い」
「黙っている方が喉にはいい」
「それはそう」
ノアは素直に認めた。
だが、黙る気はなかった。
黙ったら、他人の声だけが残る。
そしてその声が、ノアを災厄へ固定する材料になる。
ラシェルが先ほど言った「黒魔法が儀礼に影響した可能性は否定できません」という言葉が、水晶の内側で再生された。音そのものはラシェルの声だった。だが、そのすぐ後に、黒い文字が浮かぶ。
黒魔法が儀礼を乱した。
ラシェルの顔色が変わった。
「違います。私はそこまで断定していません」
記録水晶は答えない。
ただ、言葉を組み替えていく。
可能性は否定できない。
影響した。
乱した。
黒魔法が。
ノアの喉が詰まった。
伴侶首輪が熱い。
ラシェルの言葉そのものに悪意はなかった。疑いはあった。恐れもあった。だが、断定ではなかった。それを水晶は断定に変えた。曖昧な不安を、罪の形へ削った。
人間社会でよく見るやつだ。
紙と噂と記録が人を殺すやつ。
ファンタジー世界までそんな現代的な陰湿さを輸入しなくていい。誰が発注した。返品不可か。
別の教師が小さく言った。
「しかし、クロウ君が倒れていたのは事実です。大講堂でも、地下礼拝堂でも……」
記録水晶が光る。
ノアは目を細めた。
水晶の中の文字が変わる。
ノア・クロウは災厄反応を示した。
教師が息を呑んだ。
「違う、私はそんな意味で」
「意味を食ってる」
セドリックが低く言った。
「発言者の意図ではなく、儀礼に都合のいい意味へ変換している。可能性を断定に。状態を性質に。被害を証拠に。倒れた、を反応した、に変える」
ノアは笑った。
笑ったが、声は低かった。
「便利だな。俺が転んだら大地への敵対行為になりそう」
レオが記録水晶へ手を伸ばした。
白金の魔力が鋭く伸びる。
ノアはその腕を掴んだ。
「壊したら改竄の証拠も消える」
レオの青い目がノアを見る。
目が冷たい。
いや、冷たいのではない。怒りが強すぎて、温度がなくなっている。
「君を傷つけるものを置いておきたくない」
「証拠品を感情で燃やすな、王子様」
「これは証拠品じゃない。君を災厄に戻す道具だ」
「道具だから調べるんだろ」
「ノア」
「壊すな」
ノアの声が低くなった。
会議室の空気が動いた。
記録水晶が、その声に反応しかける。だがレオの赤い糸が鋭く震え、ノアの声を水晶へ届く前に薄く包んだ。閉じ込めるのではない。敵に食わせないための膜。レオはここでも、喉を塞がなかった。
進歩。
六点半から七点にしてもいいかもしれない。
今言うと余計重く受け止めるので、黙っておく。人間関係、採点タイミングも難しい。面倒だな本当に。
レオは、しばらくノアを見ていた。
そして、ゆっくり手を下ろした。
「……分かった」
「よろしい」
「でも、触れたら燃やす」
「交渉下手か」
「努力する」
「便利な言葉」
「本気だよ」
「知ってる」
ノアはレオの腕を放した。
赤い糸はまだ張っている。記録水晶へ向かって、今にも噛みつきそうなほど警戒していた。声だけではない。記録、証言、評価。そこまでノアから遠ざけたいのだろう。
レオの管理欲は、確実に広がっている。
けれど今回は、ノアが止めれば止まった。
そこだけは、覚えておいてやる。
セドリックが記録水晶の周囲へ黒い魔法陣を重ねた。薄い黒線が卓上に広がり、水晶を囲い込む。外部術式が逃げようとするたび、線がそれを引っかけ、形を浮き上がらせる。
ラシェルが息を潜めて見ていた。
「これは……英雄教会の祈祷文ではありません」
「祈祷文を真似ている」
セドリックが答える。
「もっと正確に言えば、祈祷文を記録変換用の術式へ加工している。発言を集め、意味を歪め、儀礼の材料にする。真儀礼と接続されているな」
学院長が低く尋ねる。
「目的は」
「クロウを災厄として固定すること。本人の声から死を認めさせることに失敗したから、周囲の証言で囲うつもりだ」
ノアは手元の水杯を見た。
喉が渇く。
ただし、今飲むとレオが百倍心配する。いや、もうしている。横から無言で水杯を押してきた。
ノアは半眼になる。
「会議中に給水、板につきすぎ」
「声が軽い」
「今日そんな喋ってないぞ」
「歪められた」
レオの返事は短かった。
ノアは少しだけ黙った。
歪められた。
ノア自身が長く喋ったわけではない。けれど、ノアについて語られた言葉が歪められた。ノアの名と黒魔法と倒れた事実が、災厄反応という文字へ変えられた。声を出していなくても喉が痛む。変な話だが、本当に痛い。
ノアは水を受け取った。
「支えは?」
レオが聞く。
「いらない。会議室でそこまで介護されたら俺の尊厳が迷子になる」
「分かった」
「ちょっと残念そうにするな」
「していない」
「嘘ついた」
「……少しした」
「正直」
ノアは水を飲んだ。
喉が少し楽になる。
ラシェルがこちらを見ている。彼の顔には、戸惑いと罪悪感が混ざっていた。自分の発言が歪められたことに、少なからず衝撃を受けているらしい。
ノアは杯を置いて言った。
「司祭様」
ラシェルが背筋を伸ばす。
「はい」
「今の見ただろ。あんたが疑ったことが、そのまま敵の飯になる。俺が黒魔法科だから疑うな、とは言わない。そこまで信用しろとも言わない。でも言葉を出す前に考えてくれ。あんたの恐怖が、俺を災厄にする材料になる」
ラシェルの顔が白くなった。
記録水晶が、ノアの言葉を拾って光る。
敵の飯。
恐怖。
災厄にする材料。
水晶の中で、黒い影が揺れる。
セドリックが即座に黒線を走らせ、改竄を抑え込んだ。
ラシェルは唇を引き結んだ。
「……申し訳ありません」
ノアは肩をすくめた。
「謝罪は受け取る。次は、議事録に餌やりしない方向で」
「はい」
レオが静かに言った。
「彼に近づきすぎないでください」
ノアは横目で見る。
「今いい流れだったのに何でそうなる」
「近づいたから」
「謝っただけ」
「それでも」
「努力は?」
「する」
「今すぐ」
レオは黙った。
そして、少しだけ息を吐いた。
「……近づきすぎないでください、は取り消します」
ノアはうなずく。
「よし」
「ただし、彼を儀礼の要素として見ないでください」
「それは正しい」
ラシェルは深く頭を下げた。
「誓います」
記録水晶が淡く光った。
だが、今度は黒い文字へ歪まなかった。
セドリックの黒魔法陣が、外部術式の動きを押さえている。けれど長くは持たないらしい。彼の額に薄く汗が浮いていた。
「長居はできない。だが、もうひとつ分かった」
「嫌な予感」
ノアが言うと、セドリックは容赦なく頷いた。
「正解だ」
「先生、たまには外して」
「努力する」
「流行ってるの、それ?」
セドリックは無視した。
「この記録水晶の術式は、単なる会議記録の改竄じゃない。歴史改竄の小型版だ」
会議室が静まる。
ノアの手が、水杯の縁で止まった。
セドリックは続ける。
「発言を拾い、意図を削り、都合のいい意味だけを固定する。これを何十年、何百年単位で繰り返せば、記録は別物になる。英雄譚が歪められた仕組みと似ている」
レオの顔が固まった。
ノアの喉も、静かに冷えた。
前世の音声封印。
切り貼りされた声。
「世界は英雄を選べ」と加工された言葉。
悪役の嘲笑として固定された最後の声。
それらは、ただ誰かが後から嘘を書いたのではない。言葉の意味を削り、断片を繋ぎ、周囲の証言を積み上げ、都合のいい物語へ変えたのだ。
声だけではない。
歴史そのものが、そうやって歪められた。
ノアは小さく笑った。
「うわ。議事録の罪が重い」
レオは笑わなかった。
記録水晶の奥で、黒い影がまた蠢いた。
今度は、文字ではなかった。
映像だった。
水晶の内側に、黒い荒野が映る。灰の空。折れた旗。白金の光。黒い魔導書の頁が舞い、誰かの腕の中で、黒髪の男が笑っている。
前世のイリアス。
だが、違う。
映像の中の口が、記憶にない形で動いた。
「世界は……英雄を……選べ」
切り貼りされた声。
加工された場面。
あたかもイリアスが、自ら英雄の選定を命じたかのように作られた記録。
レオの白金の魔力が揺らいだ。
ラシェルが息を失う。
セドリックが舌打ちをした。
ノアは、水晶の中の自分ではない自分を見た。
喉が痛い。
けれど、声は出た。
低く、はっきりと。
「だから、それは俺の声じゃない」
記録水晶の中で、黒い荒野がひび割れた。




