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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第三章 黒い儀礼と本物の声

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第62話 記録水晶の証言



 会議室の壁に浮かんだ黒い文字は、なかなか消えなかった。


 災厄として証言せよ。


 その一文は、ただの命令ではなかった。壁に映し出された黒い光が、学院会議室の白い石壁に染み込むように揺れている。魔力灯は細かく瞬き、卓上の書類は見えない風にめくられ、中央に置かれた記録水晶は内側から濁った光を放っていた。


 ノア・クロウは、その文字を見上げていた。


 喉の奥が冷たい。昨夜から残る痛みではなく、もっと薄く、いやらしい種類の違和感だった。自分の声を狙われている時とは違う。今度は、周りの声がこちらへ向けられている。誰かが言った言葉、誰かが抱いた印象、誰かが信じた恐れ。その全部が、ノアの首元へ細い糸のように絡んでくる。


 伴侶首輪《メイト・カラー》が熱を持った。


 制服の襟の下で、黒い亀裂が微かに広がる。白い花紋は薄く光ったまま、外からの干渉を受け止めようとしている。だが、今までと違い、相手はノアの声そのものではなかった。周囲の言葉だ。場の空気だ。記録だ。


 敵、ついに空気を武器にしてきた。


 最悪である。空気くらい無料で吸わせろ。


 レオ・アステルレインは、ノアの隣で立ち上がっていた。白金の魔力が指先に灯り、今にも記録水晶へ叩きつけられそうになっている。表情は穏やかだ。だからこそ危ない。怒鳴っていない時のレオほど、取り返しのつかないことをしそうな顔をしている。


 ノアは掠れ気味の声で言った。


「強制アンケート、怖すぎ」


 その声に、記録水晶が反応した。


 水晶の内側で銀の文字が回り、その奥から黒い影が浮かんだ。ノアの言葉が細く分解され、意味を拾われ、別の形に組み替えられようとする。


 ノア・クロウ、災厄指定への反応を示す。


 水晶の中に、そんな文字が浮かびかけた。


 セドリック・バロウズが机を叩いた。


「歪めるな」


 黒魔法の線が記録水晶の底を走り、浮かびかけた文字を切る。黒い影が水晶の奥へ沈む。だが、消えきってはいない。


 ラシェル・オルブライトは顔を強ばらせていた。


「これは、記録水晶の正常な反応ではありません」


 ノアは軽く笑う。


「正常だったら学院の備品管理、終わってますね」


 声が軽い。


 軽くしすぎた。


 レオの赤い糸が、ノアの喉元で小さく震える。魂糸が、ノアの声の軽さを拾っていた。レオがこちらを見る。水を渡したい顔だった。会議中なのに。いや、たぶん本気で渡す。王子様、場の空気という概念をノアの喉より下に置いている。


 学院長ミリアム・ヴェルハイトが、記録水晶の前へ手をかざした。


「封鎖できますか」


 セドリックは記録水晶から目を離さない。


「完全封鎖すれば証拠ごと消える可能性があります。今は表層だけ固定します」


「外部術式の出所は」


「水晶本体ではなく、会議中に拾った言葉を経由している。厄介だな。こいつは発言を材料にしている」


 ノアは眉を上げた。


「議事録が創作活動始めてる」


「笑いごとではない」


「笑ってないと喉に悪い」


「黙っている方が喉にはいい」


「それはそう」


 ノアは素直に認めた。


 だが、黙る気はなかった。


 黙ったら、他人の声だけが残る。


 そしてその声が、ノアを災厄へ固定する材料になる。


 ラシェルが先ほど言った「黒魔法が儀礼に影響した可能性は否定できません」という言葉が、水晶の内側で再生された。音そのものはラシェルの声だった。だが、そのすぐ後に、黒い文字が浮かぶ。


 黒魔法が儀礼を乱した。


 ラシェルの顔色が変わった。


「違います。私はそこまで断定していません」


 記録水晶は答えない。


 ただ、言葉を組み替えていく。


 可能性は否定できない。


 影響した。


 乱した。


 黒魔法が。


 ノアの喉が詰まった。


 伴侶首輪が熱い。


 ラシェルの言葉そのものに悪意はなかった。疑いはあった。恐れもあった。だが、断定ではなかった。それを水晶は断定に変えた。曖昧な不安を、罪の形へ削った。


 人間社会でよく見るやつだ。


 紙と噂と記録が人を殺すやつ。


 ファンタジー世界までそんな現代的な陰湿さを輸入しなくていい。誰が発注した。返品不可か。


 別の教師が小さく言った。


「しかし、クロウ君が倒れていたのは事実です。大講堂でも、地下礼拝堂でも……」


 記録水晶が光る。


 ノアは目を細めた。


 水晶の中の文字が変わる。


 ノア・クロウは災厄反応を示した。


 教師が息を呑んだ。


「違う、私はそんな意味で」


「意味を食ってる」


 セドリックが低く言った。


「発言者の意図ではなく、儀礼に都合のいい意味へ変換している。可能性を断定に。状態を性質に。被害を証拠に。倒れた、を反応した、に変える」


 ノアは笑った。


 笑ったが、声は低かった。


「便利だな。俺が転んだら大地への敵対行為になりそう」


 レオが記録水晶へ手を伸ばした。


 白金の魔力が鋭く伸びる。


 ノアはその腕を掴んだ。


「壊したら改竄の証拠も消える」


 レオの青い目がノアを見る。


 目が冷たい。


 いや、冷たいのではない。怒りが強すぎて、温度がなくなっている。


「君を傷つけるものを置いておきたくない」


「証拠品を感情で燃やすな、王子様」


「これは証拠品じゃない。君を災厄に戻す道具だ」


「道具だから調べるんだろ」


「ノア」


「壊すな」


 ノアの声が低くなった。


 会議室の空気が動いた。


 記録水晶が、その声に反応しかける。だがレオの赤い糸が鋭く震え、ノアの声を水晶へ届く前に薄く包んだ。閉じ込めるのではない。敵に食わせないための膜。レオはここでも、喉を塞がなかった。


 進歩。


 六点半から七点にしてもいいかもしれない。


 今言うと余計重く受け止めるので、黙っておく。人間関係、採点タイミングも難しい。面倒だな本当に。


 レオは、しばらくノアを見ていた。


 そして、ゆっくり手を下ろした。


「……分かった」


「よろしい」


「でも、触れたら燃やす」


「交渉下手か」


「努力する」


「便利な言葉」


「本気だよ」


「知ってる」


 ノアはレオの腕を放した。


 赤い糸はまだ張っている。記録水晶へ向かって、今にも噛みつきそうなほど警戒していた。声だけではない。記録、証言、評価。そこまでノアから遠ざけたいのだろう。


 レオの管理欲は、確実に広がっている。


 けれど今回は、ノアが止めれば止まった。


 そこだけは、覚えておいてやる。


 セドリックが記録水晶の周囲へ黒い魔法陣を重ねた。薄い黒線が卓上に広がり、水晶を囲い込む。外部術式が逃げようとするたび、線がそれを引っかけ、形を浮き上がらせる。


 ラシェルが息を潜めて見ていた。


「これは……英雄教会の祈祷文ではありません」


「祈祷文を真似ている」


 セドリックが答える。


「もっと正確に言えば、祈祷文を記録変換用の術式へ加工している。発言を集め、意味を歪め、儀礼の材料にする。真儀礼と接続されているな」


 学院長が低く尋ねる。


「目的は」


「クロウを災厄として固定すること。本人の声から死を認めさせることに失敗したから、周囲の証言で囲うつもりだ」


 ノアは手元の水杯を見た。


 喉が渇く。


 ただし、今飲むとレオが百倍心配する。いや、もうしている。横から無言で水杯を押してきた。


 ノアは半眼になる。


「会議中に給水、板につきすぎ」


「声が軽い」


「今日そんな喋ってないぞ」


「歪められた」


 レオの返事は短かった。


 ノアは少しだけ黙った。


 歪められた。


 ノア自身が長く喋ったわけではない。けれど、ノアについて語られた言葉が歪められた。ノアの名と黒魔法と倒れた事実が、災厄反応という文字へ変えられた。声を出していなくても喉が痛む。変な話だが、本当に痛い。


 ノアは水を受け取った。


「支えは?」


 レオが聞く。


「いらない。会議室でそこまで介護されたら俺の尊厳が迷子になる」


「分かった」


「ちょっと残念そうにするな」


「していない」


「嘘ついた」


「……少しした」


「正直」


 ノアは水を飲んだ。


 喉が少し楽になる。


 ラシェルがこちらを見ている。彼の顔には、戸惑いと罪悪感が混ざっていた。自分の発言が歪められたことに、少なからず衝撃を受けているらしい。


 ノアは杯を置いて言った。


「司祭様」


 ラシェルが背筋を伸ばす。


「はい」


「今の見ただろ。あんたが疑ったことが、そのまま敵の飯になる。俺が黒魔法科だから疑うな、とは言わない。そこまで信用しろとも言わない。でも言葉を出す前に考えてくれ。あんたの恐怖が、俺を災厄にする材料になる」


 ラシェルの顔が白くなった。


 記録水晶が、ノアの言葉を拾って光る。


 敵の飯。


 恐怖。


 災厄にする材料。


 水晶の中で、黒い影が揺れる。


 セドリックが即座に黒線を走らせ、改竄を抑え込んだ。


 ラシェルは唇を引き結んだ。


「……申し訳ありません」


 ノアは肩をすくめた。


「謝罪は受け取る。次は、議事録に餌やりしない方向で」


「はい」


 レオが静かに言った。


「彼に近づきすぎないでください」


 ノアは横目で見る。


「今いい流れだったのに何でそうなる」


「近づいたから」


「謝っただけ」


「それでも」


「努力は?」


「する」


「今すぐ」


 レオは黙った。


 そして、少しだけ息を吐いた。


「……近づきすぎないでください、は取り消します」


 ノアはうなずく。


「よし」


「ただし、彼を儀礼の要素として見ないでください」


「それは正しい」


 ラシェルは深く頭を下げた。


「誓います」


 記録水晶が淡く光った。


 だが、今度は黒い文字へ歪まなかった。


 セドリックの黒魔法陣が、外部術式の動きを押さえている。けれど長くは持たないらしい。彼の額に薄く汗が浮いていた。


「長居はできない。だが、もうひとつ分かった」


「嫌な予感」


 ノアが言うと、セドリックは容赦なく頷いた。


「正解だ」


「先生、たまには外して」


「努力する」


「流行ってるの、それ?」


 セドリックは無視した。


「この記録水晶の術式は、単なる会議記録の改竄じゃない。歴史改竄の小型版だ」


 会議室が静まる。


 ノアの手が、水杯の縁で止まった。


 セドリックは続ける。


「発言を拾い、意図を削り、都合のいい意味だけを固定する。これを何十年、何百年単位で繰り返せば、記録は別物になる。英雄譚が歪められた仕組みと似ている」


 レオの顔が固まった。


 ノアの喉も、静かに冷えた。


 前世の音声封印。


 切り貼りされた声。


 「世界は英雄を選べ」と加工された言葉。


 悪役の嘲笑として固定された最後の声。


 それらは、ただ誰かが後から嘘を書いたのではない。言葉の意味を削り、断片を繋ぎ、周囲の証言を積み上げ、都合のいい物語へ変えたのだ。


 声だけではない。


 歴史そのものが、そうやって歪められた。


 ノアは小さく笑った。


「うわ。議事録の罪が重い」


 レオは笑わなかった。


 記録水晶の奥で、黒い影がまた蠢いた。


 今度は、文字ではなかった。


 映像だった。


 水晶の内側に、黒い荒野が映る。灰の空。折れた旗。白金の光。黒い魔導書の頁が舞い、誰かの腕の中で、黒髪の男が笑っている。


 前世のイリアス。


 だが、違う。


 映像の中の口が、記憶にない形で動いた。


「世界は……英雄を……選べ」


 切り貼りされた声。


 加工された場面。


 あたかもイリアスが、自ら英雄の選定を命じたかのように作られた記録。


 レオの白金の魔力が揺らいだ。


 ラシェルが息を失う。


 セドリックが舌打ちをした。


 ノアは、水晶の中の自分ではない自分を見た。


 喉が痛い。


 けれど、声は出た。


 低く、はっきりと。


「だから、それは俺の声じゃない」


 記録水晶の中で、黒い荒野がひび割れた。



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