第61話 災厄として証言せよ
学院会議室の空気は、朝のものとは思えないほど重かった。
長い楕円卓の中央には、透明な記録水晶が置かれている。水晶の内側には細い銀の文字が漂い、出席者の声を拾うたびに淡く光った。壁には学院の紋章が掛けられ、窓の外には中庭の白い花壇が見える。朝露を受けた花は何も知らない顔で揺れていた。世界は本当に、当事者の神経を逆撫でするのが上手い。
ノア・クロウは、椅子に浅く腰掛けていた。
喉はまだ本調子ではない。昨夜、真儀礼に記憶から声を引き出されかけた傷が残っている。声を出すたび、魂糸の発声経路が薄く擦れる。伴侶首輪の黒い亀裂と白い花紋も、制服の襟の下で冷たい熱を持っていた。
隣にはレオ・アステルレインがいる。
姿勢は美しい。金髪も制服の襟も乱れていない。だが、青い瞳は朝から冷えたままだった。ノアの前に置かれた水の杯は、レオが持ってきたものだ。学院会議室にまで給水係が同行している。過保護もここまで来ると職業である。
卓の向かい側には、学院長ミリアム・ヴェルハイトが座っていた。白髪を高く結い、指には古い魔法契約の指輪が光っている。その隣に黒魔法科教師セドリック・バロウズ。黒い外套の袖口を整えながら、記録水晶を睨んでいる。
英雄教会側からは、若い司祭ラシェル・オルブライトが出席していた。
白い法衣。胸元には英雄教会の聖印。整った顔立ちには疲労と緊張が浮かんでいる。露骨な敵意はない。だが、恐れはある。教義に従い、記録に従い、黒魔法を危険なものとして見てきた者の目だった。
ノアは、その視線を見慣れている。
黒魔法科。
平民。
赤い瞳。
黒い魔力。
そこに今は、災厄忌の異常と前世名の反応まで乗っている。人間はラベル貼りが好きだ。棚にしまえるものは安心できるらしい。しまわれる側の都合は知らない。迷惑な話である。
学院長が口を開いた。
「昨夜までに起きた一連の異常について、学院は正式な調査記録を作成します。大講堂の舞台術式、英雄像の影、地下礼拝堂の真儀礼、記憶干渉。すべてを別々の事故として扱うには、あまりに連続性が強い」
記録水晶が、学院長の声を拾って淡く光った。
セドリックが低く続ける。
「クロウの声、魂名、黒魔法、そしてアステルレインの聖魔法に反応している。対象は二名だ。だが、術式の方向性は一貫している。クロウを黒い災厄として再指定し、アステルレインを英雄側へ戻そうとしている」
会議室の空気が、さらに沈んだ。
ラシェルが、わずかに息を詰める。
ノアは水の杯へ視線を落とした。
「再指定って響き、役所の書類みたいで嫌だな。俺、分類変更される家畜じゃないんだけど」
声は軽くした。
軽くしすぎた。
レオの赤い糸が、微かに震える。魂糸がノアの声の軽さを拾ったのだろう。面倒な男だ。耳が良すぎる。いや、糸が良すぎる。どちらにしろ困る。
ラシェルが手元の儀礼書を開いた。
「英雄教会としても、真儀礼がこのような形で作動したことは重く受け止めています。ただ……災厄忌の儀礼そのものは、長年、災厄の残滓を世界から切り離すために守られてきたものです」
レオの目が細くなる。
ラシェルはそれに気づいたが、言葉を止めなかった。
「今回の異常が、外部術式による汚染である可能性は認めます。ですが同時に、黒魔法が儀礼に影響した可能性は否定できません」
記録水晶が、その言葉に強く光った。
黒魔法。
儀礼。
影響。
その三つが水晶の内側で絡み、銀の文字になりかける。
ノアの伴侶首輪が熱を持った。
レオの赤い糸が、鋭く張る。
ノアは先に口を開いた。
「便利だな黒魔法。天気悪いのも俺のせいにできそう」
ラシェルが眉を寄せる。
「茶化す場ではありません」
「真面目に言っても疑われるなら、茶化した方が声帯に優しいんですよ。今、俺の喉、営業時間短めなので」
セドリックが横から言った。
「短めなら黙っていろ」
「先生、味方なのに容赦ない」
「味方だからだ」
ノアは肩をすくめた。
それだけの動作でも、身体の奥に疲労が響く。まだ回路が重い。昨夜の重度反応の余韻は消えていない。けれど、ここで黙るわけにはいかなかった。
黙れば、他人がノアについて語る。
語られた言葉が、記録水晶に残る。
その記録が、儀礼の材料になる。
声を奪えないなら、周囲の証言を使う。セドリックがそう言った。なら、この場の言葉すら油断できない。
ラシェルは真剣な顔で続けた。
「クロウさん、あなた個人を責めているわけではありません。ただ、黒魔法の性質として、魂、記憶、死者の声、呪詛へ干渉する力があることは事実です。儀礼場の黒い水があなたの声に反応したことも、記録されています」
「反応したから俺が原因って、雑すぎる推理じゃない?」
「原因の一部である可能性はあります」
レオが、静かに口を開いた。
「ノアを、前世の罪で裁く場にしないでください」
その声は穏やかだった。
けれど、会議室の魔力灯がわずかに揺れた。
ノアは一瞬、呼吸を忘れた。
前世の罪。
レオは、そう言った。
なかったことにはしなかった。
イリアスが世界を壊したことも、一般人も、仲間も、家族も、国々も傷つけたことも、罪が本物であることも、レオは消さなかった。
それでも。
現世のノアを、周囲の証言で災厄へ戻すことは拒んだ。
その線引きが、ノアの胸の奥に静かに落ちた。
ラシェルはレオを見た。
「裁くつもりはありません」
「なら、言葉を選んでください」
「私は可能性を述べています」
「その可能性が、儀礼の材料になるかもしれない」
レオの青い目が冷えていた。
「あなたがここで『黒魔法が影響した』と証言すれば、それは記録される。記録水晶はただの議事録ではありません。先ほどから、ノアの声だけでなく、あなた方の言葉にも反応しています」
ラシェルが記録水晶へ視線を落とした。
水晶の内部で、銀の文字が渦を巻いている。黒魔法、儀礼、災厄、危険。出席者の声から拾われた概念が、まだ確定しないまま揺れていた。
学院長の表情が険しくなる。
「記録水晶を止めなさい」
補佐官が動きかけた。
だが、セドリックが手を上げて制した。
「止めるな。今止めれば、外部術式が別経路へ逃げる。観察する」
「危険では?」
「危険だ。だから見ている」
「嫌な教育方針だなあ」
ノアが呟くと、セドリックに睨まれた。
「お前は黙る努力をしろ」
「努力します」
「軽い」
「声が軽いのは仕様です」
レオの視線が刺さる。
ノアは小さく咳払いし、喉に手を当てた。伴侶首輪が熱い。ラシェルが黒魔法と言うたびに、赤い糸が張っていた。レオの防衛反応が首輪へ伝わり、ノアの喉をじわじわ焼く。理不尽極まりない。
ノアは横目でレオを見る。
「王子様、怒るたびに俺の首輪が熱い」
レオが一瞬、苦しそうな顔をした。
「ごめん」
「謝るなら冷やす」
「触れていい?」
「今はいい」
レオはすぐに白金の光を細く伸ばした。会議室の卓の下、他の者から見えにくい位置で、伴侶首輪の熱だけを鎮める。触れ方は丁寧だった。だが、レオの怒りは消えていない。
ラシェルがそのやり取りを見て、目を伏せた。
「……お二人の契約は、通常の伴侶契約とは違うのですか」
ノアは口を開きかけた。
レオが先に答える。
「あなたに説明する義務はありません」
「儀礼に影響するなら、確認が必要です」
「ノアを儀礼の道具にしないでください」
「道具とは言っていません」
「声、魂名、黒魔法、伴侶契約。あなた方はそれらを必要な要素として見ている」
レオの声は静かだった。
だが、静かすぎる。
「それを道具と呼ばずに何と呼びますか」
ラシェルは言葉を失った。
英雄教会の若い司祭は、悪人には見えなかった。むしろ、真面目すぎる。教義を信じ、救国の英雄を敬い、災厄を恐れ、世界を守る儀礼が正しいものだと教えられてきた顔だった。
その善意の形が、今はノアの喉を締める側に立っている。
人間社会、本当に面倒くさい。
悪意だけが敵なら、まだ殴れば済むのに。善意や恐怖や正義が混ざると、途端に処理が面倒になる。もう全部魔具工房に持っていって分解したい。
学院長が静かに言った。
「司祭オルブライト。学院は、ノア・クロウを黒い災厄として扱うつもりはありません」
ラシェルは顔を上げる。
「しかし、彼は」
「黒魔法科の新入生です」
学院長の声は揺れなかった。
「前世の問題が絡んでいる可能性は否定しません。ですが、この学院に在籍する現世の生徒を、過去の名で裁定することは認めません」
ノアは少しだけ瞬きした。
セドリックは当然のような顔をしている。
レオの赤い糸が、ほんの少しだけ緩んだ。
ラシェルは唇を引き結んだ。
「……では、災厄忌の異常について、教会はどのように報告すべきでしょうか」
セドリックが答える。
「外部術式による真儀礼の汚染。英雄教会の古い祈祷文と、黒魔導書封印式、そして出所不明の術式構文が混ざっていた。黒魔法科生徒ノア・クロウは対象にされた側。原因ではなく、鍵として利用されかけた」
記録水晶が、また光った。
今度は、先ほどとは違う形で。
対象。
鍵。
利用。
原因ではない。
水晶の中で銀の文字が組み変わる。
ノアはそれを見つめた。
「俺、鍵扱いもあんまり嬉しくないんだけど」
「災厄扱いよりましだろう」
セドリックが言う。
「比較対象が最悪すぎる」
「人生はだいたいそんなものだ」
「教師の人生観が暗い」
「お前に言われたくない」
会議室の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
だが、記録水晶はまだ完全には静まらない。
内部で黒い影がひとつ、ゆっくりと沈んでいく。
ラシェルはその影を見て、眉を寄せた。
「今の反応は……」
セドリックの顔つきが変わる。
「外部干渉だ」
その瞬間、記録水晶が勝手に強く光った。
会議室の壁に、黒い文字が映し出される。
魔力灯が一斉に瞬き、窓の外の白い花が風もないのに揺れた。卓の上の資料がざわめき、英雄教会の儀礼書がひとりでに開く。
黒い文字は、ゆっくりと形を結んだ。
災厄として証言せよ。
会議室が凍った。
ラシェルが息を呑む。
学院長が椅子から半ば立ち上がる。
セドリックの黒魔法が床を走る。
レオの赤い糸が、ノアの前に盾のように張る。
ノアは、その文字を見上げた。
喉が冷える。
伴侶首輪が熱を持つ。
けれど、声はまだ自分のものだった。
ノアは笑った。
「強制アンケート、怖すぎ」
その声に反応して、記録水晶の黒い影が、ゆっくりと目を開けるように光った。




