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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第一章【赤い糸は檻になる】

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第7話 黒魔法科の新入生



 黒い霧が、喉の奥に絡んでいた。


 空は割れていた。灰が降っている。遠くで鐘が鳴り、人々の歓声が波のように広がっていく。救われた、と誰かが叫んでいた。英雄、と誰かが叫んでいた。


 その声はひどく遠かった。


 白金の光が胸の奥を裂いている。黒魔導書の頁が、内側から剥がれていく。黒い花が枯れ、影の棺が閉じ、骨の鎖が空へほどけていく。身体が冷えていくのが分かる。指先から。足先から。血の流れが遠くなる。


 それでも、腕は温かかった。


 セラフィードの腕だった。


 白金の外套は灰に汚れ、指は震えていた。かつて水を渡した手。喉を癒した手。髪を整えた手。その手が、今は何も救えず、ただ冷えていく身体を抱いている。


 黒い霧の向こうで、黒魔導書の頁が一枚だけめくれた。


 頁の端に、見慣れない紋章が浮かんでいる。三つの線が絡み、中央に目のような歪みを持つ形。泥の中で見た。儀式場で見た。封印庫の文字の中で見た。


 それが黒く滲む。


 白金の光が揺れる。


 セラフィードが名を呼ぶ。


 声が近い。


 近すぎる。


 もう返せない。


 けれど、最後に笑った。


 世界中の歓声よりも近く、聖魔法よりも深く、呪いのような言葉を残した。


 そこで、ノア・クロウは目を覚ました。


 天井があった。


 灰色ではない。黒い空でもない。木の梁と白い漆喰でできた、安宿の天井だった。朝の光が薄いカーテン越しに差し込み、埃がゆっくり浮いている。遠くで馬車の車輪が石畳を叩く音がした。階下からは、焼いたパンと薄いスープの匂いが上がってくる。


 世界は、滅びていなかった。


 ノアはしばらく天井を見ていた。


 胸の奥が冷えている。喉が詰まっていた。叫んだ覚えはないのに、声帯の奥がざらついている。首元に、見えない熱がほんの少し残っていた。誰かの手が触れたような。何か細い糸が、魂の表面をなぞって消えたような。


「……寝起きから重すぎ。俺の脳みそ、朝食前に劇場開くのやめろよ」


 掠れた声が出た。


 自分の声に、ノアは顔をしかめた。


「うわ。声まで最悪。昨日の俺、寝ながら黒魔法の授業でも受けた?」


 軽口にして、起き上がった。


 そうしなければ、夢の中の冷たさが部屋に残り続ける気がした。認めるつもりはない。あれが記憶だなんて。自分が黒い災厄だったなんて。白金の光に討たれて、誰かの腕の中で冷えていったなんて。


 そんなもの、知ったことか。


 ノアは寝台の脇に置いていた水差しを取った。


 安宿の水は少しぬるかった。銀の杯ではない。浄化された聖水でもない。ただの水だ。それでも喉を通ると、ざらついた痛みが少し引いた。ノアは一口飲み、もう一口飲み、最後に杯の縁へ額を軽く当てた。


「はいはい、水は偉大。人類の発明に拍手。魔法学院より先に水に入学したい」


 声はまだ少し掠れていた。


 ノアは指で首元をなぞった。


 何もない。


 痕も、首輪も、糸もない。


 あるわけがない。


 そう思った瞬間、首の奥が小さく熱を持った。まるで、否定されたことに何かが抗議するように。


 ノアは手を離した。


「……気のせい。はい解散」


 誰に言っているのか分からない言葉を吐き、寝台から降りる。


 今日は、アルカディア魔法学院の入学式だった。


 現世の魔法学園。王族ではなく、貴族でもなく、平民出身の黒魔法科新入生として入る場所。馬鹿みたいに大きな門と、馬鹿みたいに古い校舎と、馬鹿みたいに格式張った制服があると聞いている。


 ノアは椅子にかけていた制服を見た。


 黒魔法科の制服は、学院全体の濃紺を基調にしつつ、襟元と袖に黒い縁取りがある。胸元には学院の校章。円の中に三つの線が絡み、中央に小さな星のような意匠がある。


 ノアの指が、そこで止まった。


 夢の中の黒い頁。


 三つの線。


 中央に目のような歪み。


 似ている。


 そう思った直後、ノアは制服を掴んで広げた。


「校章まで夢に似てるとか、学院側も俺に喧嘩売るの上手いな。入学祝いに不吉を添えるな」


 わざと大きめの声で言った。


 自分の声が部屋に響くと、少しだけ現実へ戻れた。制服に腕を通す。きっちり着る気はなかった。襟は少し開ける。タイは緩める。上着の前は閉めない。鏡の前で襟足長めの黒髪を指で整え、適当に跳ねたところはそのままにした。


 赤い瞳が鏡の中でこちらを見る。


 小柄な身体。細い肩。女顔とからかわれ慣れた顔立ち。睫毛が長く、唇は薄く色づいて見える。人に見られる容姿だという自覚はあった。好奇も欲望も偏見も、向けられ慣れている。


 慣れているから、うんざりする。


 ノアは鏡の中の自分へ笑った。


「今日から平民黒魔法士の新生活。拍手喝采、投げ銭歓迎。できれば石は投げない方向で」


 笑った顔は、いつもの顔になった。


 喉の奥の冷たさは、まだ消えていなかった。


 アルカディア魔法学院は、古い城塞を改修したような校舎だった。


 高い尖塔。白灰色の石壁。黒鉄の門。門の上には校章が掲げられ、朝日を受けて鈍く光っている。広い中庭には春の花が植えられ、噴水の周りでは新入生たちがそれぞれの科ごとに集まっていた。


 聖魔法科は白と金の縁取り。


 火魔法科は赤。


 水魔法科は青。


 風魔法科は緑。


 魔具科は銀。


 黒魔法科は、黒。


 分かりやすい。分かりやすすぎて、もう少し工夫しろと言いたくなる。人間は分類が好きだ。色をつけ、名前をつけ、安心して距離を取る。親切なふりをした隔離、というやつである。最悪の整理整頓だ。


 ノアが門をくぐると、視線が集まった。


 黒い縁取りの制服。


 平民用の簡素な鞄。


 着崩した襟。


 小柄な身体。


 赤い目。


 そして、黒魔法科。


 好奇の視線が最初に来た。次に、顔への欲望。最後に、黒魔法への偏見。だいたい順番が同じなので分かりやすい。単純な人間社会で助かる。いや、別に助かってはいない。


 ノアは片手を上げた。


「はいはい、黒魔法科の平民ですよー。珍獣コーナーじゃないから、見るなら拍手もつけてくれ」


 ざわめきが広がった。


 何人かが気まずそうに目を逸らす。何人かは面白がるように笑う。貴族らしい男子生徒が眉をひそめ、隣の女子生徒が扇で口元を隠した。


 ノアは気にしない。


 気にしていたら、黒魔法科などやっていられない。


 中庭の奥では、黒魔法科の新入生が少数だけ集まっていた。他の科に比べると、明らかに人数が少ない。黒魔法そのものが忌避されやすい上に、扱いが難しく、暴走すれば精神や魂へ干渉する危険がある。便利な闇属性、などという可愛らしいものではない。黒魔法は、人が隠したがる底へ触れる。


 だから怖がられる。


 ノアは黒魔法科の列に入り、周囲を見た。


 一人は背の高い少年で、眼鏡をかけ、緊張で肩が固まっていた。もう一人は褐色の肌をした少女で、周囲の視線に噛みつきそうな目をしている。その隣には、眠そうな顔の少年が魔具の部品をいじっていた。黒魔法科の生徒ではなく、魔具科の友人を待っているのかもしれない。


 ノアが立つと、眼鏡の少年がちらりと見た。


「君も、黒魔法科?」


「この制服で聖魔法科だったら学院の管理体制やばいだろ」


「そ、そうだね」


「緊張してる?」


「してないように見える?」


「見えない。安心しろ、正直者は長生きするかもしれない。たぶん」


 少年は困ったように笑った。


 ノアも笑った。


 その時、横から別の視線を感じた。


 好奇ではない。


 値踏みでもない。


 もっと静かな、観察する視線。


 ノアが振り向くと、白と金の制服を着た貴族らしい男子生徒たちがいた。聖魔法科だろう。その中心にいる少年だけ、周囲のざわめきから少し浮いていた。


 金髪。


 碧い目。


 背が高い。


 遠目でも分かる、整いすぎた立ち姿。


 ノアの呼吸が、ほんのわずか浅くなった。


 金髪碧眼など、別に珍しくない。貴族ならいくらでもいる。白と金の制服も学院のものだ。目の前にいるのは前世の誰かではない。そんなものは認めない。認める義理もない。墓場から学園へ出張してくるな。労働基準法が泣くぞ。


 それでも、指先が冷えた。


 首元が、少し熱い。


 少年は、まだこちらを見ていなかった。


 周囲の生徒に何かを尋ねられ、穏やかに答えている。声は遠くて聞こえない。それなのに、ノアの喉が詰まった。夢の中の白金の光が、一瞬だけ視界の端を横切る。


 胸の奥が冷える。


 ノアは笑った。


 大きく、わざと軽く。


「制服、首詰まりすぎ。学院って生徒を育てる前に窒息させる趣味でもあるの?」


 隣の眼鏡の少年が、ぎょっとした。


「それ、先生に聞かれたらまずいよ」


「先生も窒息しながら教えてるなら仲間だろ」


「仲間かな……」


「たぶん違うな」


 軽口は便利だ。


 喉の詰まりを隠せる。首元の熱を冗談で押し流せる。夢の中で冷えていった身体など、今ここにないことにできる。


 入学式の鐘が鳴った。


 生徒たちは大講堂へ移動を始めた。


 アルカディア魔法学院の大講堂は、古い聖堂に似ていた。


 高い天井には魔法灯が吊るされ、透明な結晶の内側で淡い光が揺れている。壁には歴代の学院長の肖像画が並び、窓には各科を象徴する色硝子が嵌め込まれていた。黒魔法科の窓だけは、深い黒ではなく、夜明け前の青黒い色をしている。


 ノアはその窓を見上げた。


 綺麗だと思った。


 思ってから、少し嫌になった。


 席は科ごとに分けられていた。黒魔法科の列は端に近い。分かりやすい隔離だ。どうもありがとう、学院。配慮の皮をかぶった距離感、実に人類らしい。


 ノアは椅子に腰を下ろし、足を組みかけてやめた。式典中に教師に怒られるのは面倒だ。初日から目立つのは構わないが、説教は長い。長い説教は魔物より厄介である。


 周囲の視線はまだ続いていた。


 ノアは片手を頬に当て、にこりと笑う。


「俺、入学初日からそんなに人気者? 照れるなー」


 近くの女子生徒が慌てて目を逸らした。


 扇の向こうで誰かが小さく笑った。


 講堂の前方で、学院長らしき女性が壇上へ上がる。銀髪を高く結い、深紫のローブをまとっていた。声は穏やかだが、講堂の隅々まで届く強さがある。歓迎の言葉。学院の歴史。魔法を学ぶ責任。力と倫理。よくある美しい言葉が続いた。


 ノアは半分聞き流した。


 いや、聞いてはいた。内容も理解している。だが、こういう式典の言葉は大抵、綺麗に磨かれた箱だ。中身があるかどうかは、開けてみないと分からない。


 学院長の言葉が終わると、新入生代表の挨拶が告げられた。


 ざわめきが起きる。


「レオ・アステルレイン様よ」


「聖魔法科の首席でしょう」


「アステルレイン家の」


「本当に王子様みたい」


 名前が、講堂の空気を変えた。


 ノアは、指先を膝の上で軽く握った。


 レオ・アステルレイン。


 壇上へ上がった少年は、さきほど中庭で見た金髪碧眼の生徒だった。


 近くで見ると、さらに整っていた。身長は周囲の教師たちと並んでも高く、姿勢が美しい。白と金の制服を寸分の乱れもなく着こなし、襟元も袖口も完璧に整っている。金髪は朝の光を受けて柔らかく輝き、碧い目は静かだった。


 王子様。


 誰かがそう囁いた。


 否定する方が難しい姿だった。


 レオは壇上の中央に立ち、講堂を見渡した。


 その視線が、黒魔法科の列へ来た。


 一瞬。


 本当に一瞬だけ、言葉が止まった。


 ノアは気づいた。


 レオの表情は変わらない。穏やかなまま。完璧な新入生代表の顔のまま。だが、碧い目の奥だけが、ほんのわずかに揺れた。


 見つけた。


 そう言われた気がした。


 ノアは笑った。


 知らないふりの笑みだった。


 どうも、初対面です。


 そう顔で言ってやった。


 レオの指先に、白金の魔力がほんの一瞬だけ灯った。


 誰も気づかないほど小さな光。


 だがノアには見えた。


 首元が熱くなる。


 見えない糸の先で、誰かが息を吸ったような感覚がした。ノアは喉を鳴らさないように唾を飲み込む。夢の中の白金の刃が、胸の奥を一瞬だけかすめた。


 レオは挨拶を続けた。


 声は穏やかだった。


 聞きやすく、品があり、余計な力がない。魔法を学ぶ者としての責任。学院で共に過ごす仲間への敬意。身分や科の違いを越え、力を正しく扱うことへの誓い。


 綺麗な言葉だった。


 ひどく綺麗で、少し苦しい。


 ノアは目を伏せた。


 夢の中で、同じ色の光が世界を裂いていた。自分の胸を裂いていた。腕の中で冷えていく身体。遠くの歓声。最後の笑み。黒魔導書の頁の端に浮かんだ紋章。


 ノアは膝の上で指を開いた。


 指先は冷たい。


 今は学院の講堂だ。血の匂いはない。黒い灰も降っていない。自分はノア・クロウ。平民出身の黒魔法科新入生。前世など知らない。知らないことにする。


 壇上のレオが、最後に軽く礼をした。


 講堂に拍手が広がる。


 ノアも拍手をした。


 乾いた音だった。


 入学式のあとは、科ごとの説明と寮の案内が続いた。


 黒魔法科の担当教師は、セドリック・バロウズという男だった。痩せた長身で、黒いローブを着ている。目つきは鋭いが、声は落ち着いていた。


「黒魔法は便利な道具ではない。扱う者の精神、記憶、魂の端に触れる。恐れる必要はある。侮る必要はない」


 ノアは少しだけ教師を見直した。


 怖がるな、とだけ言わないところがいい。黒魔法は怖い。怖いものは怖いと認めた方が、まだ事故が少ない。人間、なぜか危険物を気合いで解決しようとする。愚かさが標準装備すぎる。


 説明を聞きながら、ノアは配られた寮の資料をめくった。


 アルカディア魔法学院は全寮制。


 科や身分に関係なく、成績、適性、魔力相性などをもとに部屋割りが決まるらしい。平民と貴族、黒魔法科と聖魔法科が同室になる場合もあると書かれている。


 ノアは嫌な予感がした。


 こういう時の嫌な予感は、だいたい当たる。


 人間の不幸にだけは精度が高い。最悪の占いだ。


 掲示板の前に、新入生たちが集まった。


 寮棟の配置図と、部屋割りの一覧が魔法で浮かんでいる。生徒たちが名前を探し、歓声や悲鳴を上げる。知り合いと同室になった者は喜び、知らない貴族と同室になった平民は顔を青くし、魔具科の少年は部屋番号より設備欄を見ていた。


 ノアは人混みの後ろから、ゆっくり近づいた。


 自分の名前はすぐに見つかった。


 ノア・クロウ。


 東寮三階。


 部屋番号、三〇七。


 その隣に、同室者の名前が浮かんでいた。


 レオ・アステルレイン。


 ノアは、しばらく無言で見た。


 見間違いではない。


 文字はきらきらと無駄に美しく光っている。学院の魔法掲示は性能がいいらしい。どうでもいいところで技術力を見せるな。


 背後で誰かが息を呑んだ。


「アステルレイン様と同室?」


「黒魔法科の平民が?」


「どういう組み合わせだ」


 ノアは掲示板を見上げたまま、笑った。


「……学院、初日から冗談がきついな」


 声は軽かった。


 けれど喉の奥は、ほんの少し詰まっていた。


 その時、遠くから視線を感じた。


 ノアは振り返る。


 人混みの向こう、白と金の制服の中心で、レオ・アステルレインが立っていた。


 穏やかに笑っている。


 周囲の生徒に囲まれ、祝福のような視線を浴びながら、彼だけがまっすぐノアを見ていた。


 その笑みは、完璧だった。


 だからこそ、怖かった。


 ノアの首元に、また見えない熱が走った。



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