第6話 ざまぁみろ
昼のはずだった。
けれど空は、夜より暗かった。
太陽は黒い魔力に濁り、輪郭だけが空の奥で鈍く滲んでいる。光は地上へ届く前に腐り、灰の色に変わって落ちてきた。荒野には風が吹いていたが、その風に清さはない。焦土を撫で、崩れた塔の石粉を巻き上げ、焼けた旗の布を乾いた音で鳴らしている。
黒い灰が降っていた。
最初は雪のように見えた。けれど、兵の肩に落ちた灰は溶けず、白い布を汚し、指で払えば煤の跡を残した。灰の奥には、腐る光の匂いがあった。聖具が折れ、魔法陣が焼け、祈りが途中で途切れた場所に残る匂いだった。
最終討伐軍は、荒野の縁に並んでいた。
各国の残党。王を失った騎士。故郷を焼かれた魔法士。聖具を腐らされた聖職者。家族を奪われた者。町を沈められた者。かつて黒い災厄に救われ、後にすべてを壊された者。彼らは同じ旗の下にいたが、同じ希望を持っていたわけではない。
怒り。
恐怖。
復讐。
祈り。
絶望。
それらが、鈍い鉄の匂いのように広がっていた。
崩れた王城の塔が、遠くに見えた。
かつてどこの王国のものだったか、もう判別できなかった。黒い霧に底を食われ、上部は斜めに折れている。塔の周囲には、動かない魔導兵器がいくつも倒れていた。歯車は黒く固まり、砲身には骨の鎖のような魔法痕が絡みついている。
川もあった。
けれど水は流れていなかった。黒い魔力に固められ、硝子のような表面だけが鈍く光っている。川辺には折れた槍が刺さり、灰をかぶった旗が低く垂れていた。聖職者たちが運んできた祈りの輪は、白金の輝きを保とうとしているが、黒い空の下ではひどく小さく見えた。
セラフィード・ルミナリアは、その列の先頭に立っていた。
白金の外套は、灰に汚れていた。髪も、肩も、手袋も。だが姿勢は崩れていない。誰もが彼を見ていた。救国の英雄。双星の片割れ。黒い災厄を討てる唯一の男。
その呼び名が、今日ほど重かったことはなかった。
聖職者たちが祈っている。
黒い災厄を討てますように。
世界を救えますように。
英雄に勝利を。
セラフィードは祈らなかった。
祈れば、認めることになる。
これから自分がすることを、正しいと。愛した男を討つことを、世界の救済だと。イリアスを殺すために聖魔法を振るうことを、祝福として受け入れたのだと。
そんな祈りはできなかった。
隣にいた老いた聖職者が、震える声で言った。
「セラフィード殿下。あなたなら、黒い災厄を討てます」
セラフィードは答えなかった。
手の中には、聖剣があった。
ルミナリア聖王国に伝わる浄化の刃。白金の光を宿し、黒蝕を裂き、魔導書に侵された魂へ届くとされる剣。聖職者たちは、それを救いの剣と呼んだ。世界を守るための剣と呼んだ。
セラフィードには、そうは見えなかった。
これは、イリアスを殺すための刃だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
聖剣の柄を握る手が、わずかに冷えていた。
思い出すのは、水の杯だった。
戦場明け、イリアスの掠れた喉へ渡した水。礼拝堂跡の朝、眠りから覚めた彼が「声、変じゃないか」と聞いた時の水。王城の一室で、何度も拒まれ、それでも用意し続けた水。空の寝台の横で冷えきっていた杯。
水を渡す手だった。
喉を癒す手だった。
髪を整える手だった。
今は、剣を握っている。
人間は、同じ手でどれほど違うことをさせるのだろう。最低な作りだ。神がいるなら、設計が雑すぎる。
遠くで、黒い魔力が動いた。
討伐軍の列がざわめく。
聖職者の祈りが揺れ、騎士たちが槍を構え、魔法士たちが陣を展開する。白金、赤、青、緑、紫。各国の魔法が荒野に浮かび上がった。だが、その色のすべてが黒い空の下でくすんで見えた。
荒野の中心に、彼は立っていた。
イリアス・ノクスヴェルト。
黒い災厄。
二十五歳の、もう戻れない男。
黒髪は乱れ、黒い灰に濡れていた。赤黒い瞳は黒魔導書に深く侵され、瞳孔は開いたまま光を受けない。皮膚の下には黒い文字が走り、時折、影の中に頁のような薄い断片が浮かぶ。足元から黒い霧が広がり、黒い花が咲いていた。花弁は風もないのに震え、触れた魔法陣を腐らせていく。
イリアスは美しかった。
その美しさが、ひどく痛かった。
人の形を保っていること自体が奇跡のようだった。黒魔導書が内側から膨れ上がり、魔法回路を引き裂こうとしている。魔力核は軋み、魂の縁は黒い水に浸かっている。それでも彼は立っていた。折れず、泣かず、助けを求めず、笑っていた。
セラフィードは、息を吸った。
荒野の空気は鉄錆と灰の味がした。
「イリアス」
声は、届いた。
黒い霧の中心で、イリアスがわずかに目を動かした。
それだけで、セラフィードの胸が痛んだ。
まだ、届く。
まだ、呼べば振り向く。
それなのに、世界は彼を殺せと言っている。
討伐軍が動いた。
最初に放たれたのは、聖職者たちの浄化陣だった。白金の輪が幾重にも重なり、空からイリアスへ降り注ぐ。続いて各国の魔法士が属性陣を展開する。炎の槍。氷の鎖。雷の網。大地を裂く魔法式。祈りの矢。
すべてが黒い霧に触れた。
そして、崩れた。
魔法陣が次々に消える。白金の輪は黒い花に絡め取られ、炎の槍は空中で腐った光へ変わり、雷の網は骨の鎖に噛まれて砕けた。聖印が兵の胸から落ち、灰の上で黒く濁る。誰かの祈りが途中で途切れた。叫びは霧に呑まれ、長く響かなかった。
旗が折れる。
槍が落ちる。
魔導兵器の砲身が内側から黒く割れる。
恐怖が討伐軍の列を走った。
それでも彼らは進んだ。進むしかなかった。背後に帰る場所など、もうほとんど残っていない。黒い災厄を討てなければ、世界は終わる。そう信じている者たちの足は、恐怖で止まっても、絶望でまた動いた。
イリアスの足元で、影の棺が開いた。
何人もの魔法士が同時に結界を張る。だが、棺は人だけを呑むのではない。魔法そのものの根を沈めた。陣が腐り、詠唱が喉で詰まり、祈りの言葉が黒く濁る。
討伐軍は、崩れていった。
セラフィードは動かなかった。
動けなかったのではない。
見ていた。
世界がイリアスを殺すために集めた力が、彼に届かないことを。イリアスがどれほど遠くへ行ってしまったのかを。自分以外に、もう誰も彼へ近づけないことを。
やがて、荒野には静寂が落ちた。
完全な沈黙ではない。負傷者の呻き。折れた旗の布が擦れる音。どこかで魔導兵器の残骸が軋む音。聖職者が祈りを続けようとして、声にならない息だけを漏らす音。
それでも、戦える者はもうほとんどいなかった。
世界は、セラフィード一人を残した。
なんて残酷な整え方だろう。
セラフィードは、聖剣を抜いた。
白金の光が、黒い空の下で初めてまっすぐ立った。
イリアスが笑った。
「結局、お前か」
声は掠れていた。
黒魔導書のざわめきが混じっている。けれど、セラフィードには分かった。奥にあるのはイリアスの声だった。何度も聞いた声。水を求める前に茶化す声。重いと文句を言う声。戦場で名を呼ぶ声。
「僕は、まだ諦めていない」
「しつこいな」
「言うまで言う」
「まだそれか」
イリアスは肩を揺らした。
笑ったのだ。
ほんの一瞬、かつての軽口に戻ったように見えた。
荒野は、昔の戦場跡に似ていた。
雨上がりではない。泥ではなく、黒い魔力で固まった土が広がっている。白い小石のようなものが、灰の中に半分埋もれていた。その隣には黒く焦げた木片に似た欠片があった。偶然かもしれない。世界が残酷な形で、同じ記号を繰り返しているだけかもしれない。
セラフィードの胸が痛んだ。
あの日、半分持つと言った。
だがイリアスは、最後まで一人で持ってここへ来た。
「助けを求めろ!!」
セラフィードの声が荒野へ響いた。
祈りではなかった。
叫びだった。
「今度こそ言え!! 僕に縋れ、イリアス!! 助けてくれと、言え!!」
イリアスの笑みが薄くなった。
「……まだ、間に合うと思ってるのか」
「まだ間に合う」
「間に合わない」
「僕が間に合わせる」
「そういう顔、嫌いだったよ」
「嘘だ」
イリアスは、少しだけ目を細めた。
「嘘だな」
セラフィードの喉が震えた。
こんな時に。
こんな場所で。
世界がほとんど壊れ、討伐軍が倒れ、空が黒く濁っている中で、二人はまだこんな会話ができる。できてしまう。それが、救いではなく傷になる。
黒魔導書が暴れた。
イリアスの足元から黒い花が一斉に開く。影の棺が空へ向かって口を開け、骨の鎖が黒い柱のように立ち上がった。イリアスの身体がわずかに傾く。セラフィードはその変化を見逃さなかった。
限界が近い。
いや、もうとっくに超えている。
イリアスは立っているのではない。黒魔導書に崩されながら、意志だけで人の形に留まっている。
黒い文字が皮膚の下で暴れ、喉へ駆け上がった。イリアスの背筋が大きく跳ねる。指先が硬直し、黒く固まった地面を掻いた。爪の先から黒い霧が散る。
瞳孔がさらに開いた。
赤黒い瞳の周囲に細い血管が浮き、焦点の合わない視線が空を泳いだ。白目を剥きかける。だが、イリアスは歯を食いしばり、無理やりこちらを見た。
その意志が、セラフィードを裂いた。
「が、あ゛……っ、あ゛あああああああッ!!」
叫びは、もはや人の悲鳴ではなかった。
喉が裂けるような濁った咆哮。黒魔導書の頁を内側から破る音が混じり、空気そのものが震えた。叫びは途中で呼吸を失い、ひゅ、と細く引き攣ってから、また荒い音へ落ちる。
イリアスの身体が前へ折れた。
黒い魔力を吐き出すように胸が沈み、唇の端に泡混じりの息が滲む。舌がうまく収まらず、声にならない濁った呼吸が漏れた。膝が折れかけ、身体の制御が一瞬抜ける。屈辱に気づく余地すら、黒蝕が食い荒らしていた。
セラフィードは踏み出した。
手を伸ばしかけた。
喉を癒したい。
水を渡したい。
髪を整えたい。
けれど、戦場ではもう追いつかない。
白金の治癒光を伸ばすと、黒魔導書の影がそれを噛み砕いた。喉へ届く前に、光は黒く腐る。セラフィードの指が震えた。
「イリアス、聞こえるか」
イリアスは、かすかに笑った。
笑ったのだと、セラフィードには分かった。
折れていない。
あれほど身体が壊れても、声が崩れても、黒魔導書に侵されても、イリアスはまだ折れていない。
「聞こえてるよ」
掠れた声だった。
「最悪なくらいにな」
セラフィードは息を呑んだ。
イリアスは黒い霧の中で、ゆっくりと顔を上げた。髪が頬に貼りつき、灰と血で汚れている。けれど、その表情は奇妙に澄んでいた。
「セラ」
名を呼ばれて、セラフィードの心臓が止まりかけた。
「……頼んだぞ」
荒野の音が遠ざかった。
セラフィードは、意味を悟りかけた。
この男は、最初から。
いや、どこかの時点から。
自分に殺されるつもりだったのではないか。
世界を完全に死なせないために。黒魔導書を止めるために。自分だけが悪役になり、すべての罪を背負い、最後にセラフィードを英雄として残すために。
怒りが込み上げた。
悲しみでは足りない。
絶望でも足りない。
愛でも、憎しみでも、もう名前がつかなかった。
「君は、何をどこまで計算していたんだ」
イリアスは答えなかった。
答えれば、セラフィードが殺せなくなる。
それを分かっている顔だった。
セラフィードは聖剣を握りしめた。
「答えろ」
「嫌だ」
「イリアス」
「呼ぶなって、何回言わせるんだよ」
「君が返事をするまで」
「しつこい男は嫌われるぞ」
「もう慣れた」
「嘘つけ」
イリアスは笑った。
懐かしい笑い方だった。
ほんの少しだけ、礼拝堂跡の朝が戻ってきた。掠れた声で水を飲み、髪を整えられて照れ隠しをした、あの朝。世界がまだ、壊れきっていなかった朝。
すぐに黒魔導書がそれを裂いた。
黒い柱が空へ伸びる。空の黒がさらに濃くなり、討伐軍の残った者たちがうめいた。世界の端が軋んでいる。これ以上長引けば、本当に世界が死ぬ。
イリアスは、それを知っていた。
セラフィードも知ってしまった。
「半分持つと言っただろう!!」
セラフィードは叫んだ。
幼い日の泥が、胸の奥でよみがえる。
雨上がりの戦場跡。名も知らない亡骸。白い小石。黒い木片。泣いたら土が重くなると言った小さなイリアス。なら、僕が半分持つと返した自分。
あの日、そう言った。
なのに、イリアスは全部を一人でここまで運んだ。
イリアスは、黒い霧の中で笑った。
声はほとんど壊れていた。
「……だから、持てよ」
その意味を、セラフィードは理解した。
助けを求める言葉ではない。
殺す役目を持て。
英雄になる呪いを持て。
真意に気づく苦しみを持て。
自分を忘れられない傷を持て。
世界を救ったと称えられながら、何を殺したのか知っている者として残れ。
セラフィードの視界が滲んだ。
泣くな。
イリアスの声が、どこかで聞こえた気がした。
泣いたら、土が重くなる。
セラフィードは聖剣を構えた。
白金の光が広がる。
本来は治癒の光だった。結界の光だった。魂を守る光だった。だが今、その光は刃になった。透明な檻が荒野に開き、白金の魂糸が黒い柱を縛る。黒蝕を裂く光が、イリアスへ伸びる。
イリアスは逃げなかった。
むしろ、一歩だけ前へ出た。
それでセラフィードは確信した。
彼は、殺されに来ている。
聖剣が黒い霧を裂いた。
骨の鎖が砕ける。影の棺が閉じる。黒い花が一斉に枯れ始めた。空の黒がひび割れ、そこから遠い光が漏れる。黒魔導書の頁が裂ける音がした。紙ではない。魂の奥に貼りついた何かが剥がれる音だった。
イリアスの身体が揺れた。
白金の光が、胸を貫いたわけではない。肉を裂く刃ではなかった。黒魔導書と、魔力核を結びつけていた最後の黒い回路を裂いた。だが、その回路はイリアスの魂とあまりにも深く絡んでいた。
切れば、彼も終わる。
イリアスは息を吐いた。
黒い霧が、彼の身体から抜けていく。黒い文字が皮膚の下でほどけ、空へ散る。赤黒い瞳の濁りが少しだけ薄くなる。瞳孔はまだ開いていたが、その奥に、かつての色が戻った。
セラフィードは剣を落としそうになった。
だが、イリアスの身体が崩れる方が早かった。
セラフィードは走った。
灰を踏み、折れた槍を越え、黒く固まった土に膝をつく。倒れかけたイリアスを腕の中で受け止めた。
軽かった。
あまりにも軽かった。
礼拝堂跡の朝、彼はこんなに軽くなかった。戦場で肩を貸した時、こんなに冷たくなかった。水を飲ませた時、喉を癒した時、髪を整えた時、イリアスは確かに生きていた。
今、腕の中で冷えていく。
「イリアス」
返事はなかった。
「イリアス」
セラフィードは彼の髪に触れた。
黒髪は灰と血で汚れていた。かつて朝に整えた髪。指で梳けば、すぐに文句が返ってきた髪。今は、指先が震えてうまく整えられない。
白金の光を喉へ流そうとした。
できなかった。
癒すべき喉は、もう声を戻すために待ってはいない。
水もない。
杯もない。
渡す相手は、腕の中で息を失おうとしている。
「答えて」
セラフィードの声が壊れかけた。
「イリアス。答えて」
イリアスの唇が、わずかに動いた。
セラフィードは息を止めた。
助けて、とは言わない。
愛している、とも言わない。
謝罪もない。
涙もない。
イリアスは最後まで、泣かなかった。
ただ、薄く笑った。
美しい笑みだった。
かつて戦場で勝った時の笑みでも、礼拝堂跡の朝の照れ隠しでもない。すべてを背負い、すべてを押しつけ、すべてを隠して、それでも最後に相手の魂へ傷を刻む笑みだった。
イリアスは、掠れた声で言った。
「ざまぁみろ」
その直後、息が途切れた。
世界が、遅れて音を取り戻した。
遠くで鐘が鳴った。
誰かが叫んだ。
災厄が倒れた、と。
世界は救われた、と。
歓声が、荒野の端から波のように広がっていく。生き残った兵たちが泣き、聖職者が祈り、魔法士が膝をつく。黒い空のひびから光が落ち、腐っていた聖印に白金の色が戻り始める。
誰かがセラフィードを呼んだ。
「救国の英雄」
その声は、遠かった。
ひどく遠かった。
セラフィードは動けなかった。
腕の中で、イリアスはもう何も言わない。黒い霧は抜け、黒い花は枯れ、空の黒は割れていく。世界は確かに、完全な死を免れたのだろう。
その代わりに、イリアスは死んだ。
誰も知らない。
彼が本当に世界を完全に殺したかったわけではないことを。
誰も知らない。
最後に何を託したのかを。
誰も知らない。
セラフィードが、いま何を殺したのかを。
人々の歓声は、祝福のように降ってくる。
けれど、セラフィードの耳には一つの声しか残らなかった。
ざまぁみろ。
その声は、祝福よりも深く、聖魔法よりも強く、魂へ刻まれた。




