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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
序章【過去の記憶】

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第5話 黒い災厄




 空から、黒い灰が降っていた。


 雪に似ていた。だが、冷たくはない。手のひらに落ちれば、湿った煤のように崩れ、皮膚に黒い跡を残す。風に舞うたび、焦げた紙と腐った光の匂いがした。かつて白く磨かれていた都市の石畳は、ひび割れ、黒い水を吸い、ところどころで鈍く沈んでいる。


 塔は倒れていた。


 王城の鐘楼だったものは、根元から折れ、広場を横切るように崩れている。鐘は地面に半分埋まり、鳴ることを忘れたように黙っていた。城壁には黒い蔓のような魔法痕が走り、国境結界の紋様は腐った葉脈のように崩れている。


 焼けた旗が、低い風に揺れた。


 どこの国の旗か、もう分からなかった。紋章は黒く焼け落ち、布の端は灰になって散っている。広場の隅には、小さな靴が片方だけ転がっていた。噴水には水がなく、代わりに黒く濁った魔力が底で揺れている。市場の石段には、誰かが落とした木彫りの馬があった。片方の脚が折れ、煤にまみれている。


 祈りの途中で止まった聖印が、壊れた扉にかかっていた。


 白金だったはずの光は、黒く腐っていた。


 その中心に、イリアス・ノクスヴェルトは立っていた。


 黒髪は乱れ、頬には乾いた血と灰がついている。赤黒い瞳は、かつてより深く濁っていた。瞳孔は開き気味で、光を受けても細くならない。そこに映る世界は、もう人の目が見ているものと同じではなかった。


 黒魔導書グリモワール・アビスの文字が、皮膚の下にあった。


 手首から喉へ、胸元から魔力核へ、時折うごめく黒い線が走る。動くたびに、内側から紙をめくるような音がした。誰もいないのに、頁の擦れる音が聞こえる。イリアスの声に、時々別の声が混じる。低く、掠れ、笑っているような声。


 かつて彼は、双星の英雄と呼ばれていた。


 今、その名を口にする者はいない。


 遠くの路地で、誰かが震える声で言った。


「あれはもう王子ではない」


 別の誰かが、祈るように呟いた。


「英雄でもない」


「災厄だ」


 沈黙のあと、幼い声が続いた。


「黒い災厄だ」


 その名が、壊れた都市を渡っていく。


 黒い災厄。


 イリアスは、少しだけ笑った。


 双星の英雄、よりは似合っているかもしれない。そう思った瞬間、雨上がりの丘が脳裏を掠めた。セラフィードが朝焼けの中で言った声。君と並ぶなら、悪くない。白金の光。水の入った杯。髪に触れた手。掠れた声を聞き逃さなかった碧い目。


 黒魔導書の頁が、頭蓋の奥で音を立てた。


 記憶が黒く濁る。


 白金の光が、刃の形へ変わる。父王の胸を貫いた偽りの聖印へ変わる。セラフィードの声が、遠くなる。代わりに、都市の悲鳴が重なる。


 イリアスは目を閉じた。


「……災厄でいい」


 声は低く、ざらついていた。


「そう呼ぶなら、それでいい」


 黒い霧が足元から広がった。


 路地の奥に残っていた兵たちが後ずさる。誰かが剣を落とした。誰かが祈りの言葉を噛んだ。イリアスは彼らを見なかった。見れば止まるかもしれない。見れば、十年以上前に埋めた名も知らない亡骸を思い出す。


 泣いたら、土が重くなる。


 なら、僕が半分持つ。


 もう半分など、誰にも持たせられない。


 黒い花が、石畳の割れ目から咲いた。


 その花弁は光を吸い、街の魔法陣を一つずつ腐らせていく。通信陣が壊れる。兵站を支える転送式が崩れる。王城の地下に眠る兵器庫の封印が、黒い霧に呑まれて沈む。戦争を続けるために組まれた仕組みが、根から食われていく。


 その道の途中で、人も倒れた。


 兵だけではない。逃げ遅れた商人も、祈りながら戸口に膝をついた女も、子を探していた老人も、かつてイリアスが救った町医者も。


 分かっていた。


 分かっていて、止まらなかった。


 黒魔導書だけのせいにできれば楽だった。自分は奪われたのだと、侵されたのだと、そう言えれば少しは眠れたかもしれない。だが、イリアスの奥には、まだ自分で選んでいる部分があった。


 戦争が好きなのだろう。


 王も、神官も、貴族も、議場で地図を広げる者たちも。自分の手を汚さず、国境の向こうへ若い兵を流し続ける者たちも。魔王戦争の名で人を使い潰し、死を美しい勲章に変える者たちも。


「なら、俺が全部終わらせてやる」


 黒い霧が、都市の鐘楼跡を呑んだ。


 鐘は最後まで鳴らなかった。


 噂は国境を越えた。


 黒い災厄が現れた。


 王都が沈んだ。


 結界都市が腐った。


 聖具庫が黒い花に呑まれた。


 戦場が一夜で墓になった。


 人々は地図の上に黒い染みを描くようになった。イリアスが通った土地は、そこだけ光を失う。魔法陣は使えなくなり、聖印は黒く濁り、土の底から死者の声に似た風が吹く。


 かつて共に戦った者たちも、彼を追った。


 その男は、双星の英雄と呼ばれていた頃、幾度もイリアスの背中を守った魔法士だった。名前はガレス。火の魔法を使う。豪快に笑い、戦場明けの野営で何度も焦げた肉を焼いた。イリアスが味のない携帯食ばかり食べていると、肉を押しつけてきた男だった。


 そのガレスが、焦土となった砦の門前でイリアスを待っていた。


 背後には数十人の兵がいた。だが、ガレスだけが前へ出た。剣を抜かなかった。火の魔法陣も展開しなかった。ただ、煤に汚れた顔で、イリアスを見た。


「戻ってこい」


 その声は、震えていなかった。


 イリアスは足を止めた。


 砦の門は崩れている。かつて二人で守った場所だった。敵ではなく魔物から村人を逃がすために、夜通し戦った。セラフィードが結界を張り、イリアスが黒魔法で足止めし、ガレスが火で道を作った。


 その火の匂いを、まだ覚えている。


「お前まで来たのか」


 イリアスの声は掠れていた。


「お前を止めに来た」


「止まると思うのか」


「思ってない」


 ガレスは苦く笑った。


「でも呼ぶくらいはできる。イリアス」


 名前を呼ばれた瞬間、黒魔導書の文字が喉元で疼いた。


 イリアスは眉を寄せる。


「その名で呼ぶな」


「呼ぶ。お前はイリアスだ」


「違うらしいぞ。世間では災厄だ」


「世間なんか知るか」


 ガレスは一歩近づいた。


「セラフィードもまだお前を探している」


 胸の奥が揺れた。


 黒い霧が、一瞬だけ薄くなる。


 イリアスの瞳に、昔の色が戻りかけた。戦場明けの朝。白金の光。水。喉へ触れる指。セラフィードの、君の声なら、という声。


 戻れない。


 戻りたい。


 戻ってはいけない。


 黒魔導書の頁が荒くめくれた。


 音が、記憶を食った。


 ガレスの声が遠ざかる。セラフィードの名が、黒い水へ沈む。足元に黒い花が咲いた。花弁は音もなく広がり、ガレスの足元へ絡む。


「イリアス」


 ガレスは、まだ呼んだ。


「戻ってこい。お前が本当に全部壊したいわけじゃないって、俺は」


 声が途中で途切れた。


 黒い霧が包んだ。


 火の魔法が一瞬だけ赤く光った。だが、黒い花の影に呑まれ、すぐに消えた。剣が石の床へ落ちる音がした。重い、乾いた音だった。呼びかけの残りが、喉の奥で止まるように消えた。


 黒い花弁が、赤く濡れていた。


 イリアスは表情を変えなかった。


 変えなかった。


 ただ、指先だけが震えていた。


 その震えを止めるように、彼は右手を握った。黒い文字が手首でうごめく。魔力核が冷たく軋む。


「……戻る場所なんて」


 声は誰にも届かなかった。


「もう俺が焼いた」


 次にイリアスが戻ったのは、ノクスヴェルト王国だった。


 故郷は、よく知っているはずの場所だった。


 黒い城壁。銀の塔。冬に強い針葉樹の森。王宮へ続く長い石橋。幼い頃に剣を振った中庭。父王に呼ばれ、背筋を伸ばして歩いた回廊。


 そのすべてが、今は遠かった。


 王宮の門は閉じられていた。


 内側に、母がいた。


 姉がいた。弟がいた。王族の生き残りと、黒い甲冑をまとった近衛兵たちがいた。彼らはイリアスを見て、顔色を変えた。恐怖。怒り。悲しみ。嫌悪。どれも正しかった。


 母は名を呼ばなかった。


 姉は剣を抜いた。


 弟だけが、小さく言った。


「兄上」


 その声が、一番痛かった。


 イリアスは足を止めた。


 門の上で、黒い旗が濡れた風に揺れている。父王の死後、王位を巡って争いが起きた。王族たちは互いを疑い、同盟破綻の責を押しつけ合い、ルミナリアへの報復を叫んだ。魔王戦争はまだ終わっていない。国境では兵が死に続けている。黒魔導書の噂に乗じて、王家の一部はさらなる禁忌に手を伸ばそうとしていた。


 壊すべきものが、ここにもある。


 そう思った。


 そう思わなければ、立てなかった。


「イリアス」


 姉が言った。


 声は怒っていた。けれど、奥に震えがあった。


「お前は何をしたのか分かっているの」


「分かってる」


「分かっていない。お前は父上の死を利用して、国を」


「父上の死を利用しているのは誰だ」


 イリアスの声が低くなる。


 姉の顔が歪んだ。


 母は何も言わなかった。ただ、弟の肩を抱いている。弟は震えていた。兄と呼んだ声はもう出てこない。恐怖が勝ったのだろう。それでいい。恐れられるべきものになったのだから。


 黒魔導書が囁く。


 王家。


 血。


 戦争。


 継承。


 腐った根。


 父王の血の温かさが手のひらに戻る。白い床に倒れた王冠。セラフィードの「助けてくれと言え!!」という声。ガレスの「戻ってこい」。弟の「兄上」。


 全部が混ざる。


 魔力核が膨れた。


 黒蝕が暴れ出す。


 イリアスは胸を押さえた。背筋が反射的に反る。指先が硬直し、黒い爪のように曲がった。赤黒い瞳の周囲に細い血管が浮き、瞳孔が開いたまま戻らない。


 姉が息を呑む。


 弟が母の後ろへ下がる。


 その反応すら、黒魔導書が食った。


 門前の石畳に、黒い魔法陣が開く。黒い水が文字の隙間から滲み、骨の鎖が王宮の門へ這い上がる。イリアスの喉が詰まった。黒い文字が胸から喉へ上がる。


「が、あ゛……っ、あ゛あああああああッ!!」


 叫びは、王宮の門を震わせた。


 整った悲鳴ではなかった。喉を裂き、空気を噛み砕くような、獣の咆哮に近い声だった。叫びの途中で息が詰まり、胸が大きく折れる。黒い魔力を吐き出すように身体が前へ倒れ、唇の端に泡混じりの息が滲んだ。舌がうまく収まらず、言葉を作ろうとしても濁った呼吸だけが漏れる。


 背筋が弓なりに跳ねた。


 膝が折れかけ、肩が不規則に震える。指先が石畳を掻き、黒い霧が爪の跡のように広がった。視界が白く剥けかける。赤黒い瞳が天を泳ぎ、焦点を失ったまま、誰の顔も映さない。


 身体の制御が一瞬、遠ざかった。


 屈辱は遅れて来た。


 それを感じる余裕すら、黒蝕が食った。


 黒い花が門の内側で咲いた。


 直接見ることはなかった。


 見れば手が止まるから。


 声だけが残った。


 母の息を呑む音。姉の剣が落ちる音。弟の、兄上、ともう一度呼びかけかけて消えた声。近衛兵たちの怒号。黒い霧がすべてを包み、王宮の銀の塔が低く鳴った。


 やがて、沈黙が来た。


 王宮の門は開いていた。


 中庭の黒い石に、灰が降っている。


 イリアスは膝をついたまま、しばらく動けなかった。喉が焼けている。魔力核は裂けそうだった。手足の感覚が遠い。舌先が震え、息が整わない。黒い魔導書の文字が、皮膚の下で満足そうにうごめいた。


 それでも、イリアスは顔を上げた。


 視線は揺れていた。


 だが、折れてはいなかった。


「……まだ、終わってない」


 低く言った。


 それが誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 数年の間に、セラフィードとは何度も衝突した。


 荒野で。


 燃えた王都で。


 黒く濁った川辺で。


 古い戦場跡で。


 そのたびに、セラフィードは同じことを言った。


 まだ戻れる。


 イリアスは同じように笑った。


 戻る場所なんて、もう俺が焼いた。


 その日、二人が対峙したのは、雨上がりの戦場跡に似た場所だった。


 黒い灰が降っていた。草は焼け、泥は黒く、折れた旗が遠くに倒れている。かつて二人で小さな亡骸を埋めた場所とは違う。けれど、空気が似ていた。焦げた草と鉄錆と、濡れた土の匂い。世界はどうして、何度も同じ場所へ戻そうとするのだろう。


 セラフィードは、白金の外套を灰に汚して立っていた。


 疲弊していた。


 顔は整っている。声も、ほとんど穏やかに戻っている。だが、その奥に焦りと怒りがあった。何度も届かず、何度も拒まれ、何度も黒蝕に奪われかけた者の声だった。


「まだ戻れる」


 セラフィードは言った。


 イリアスは笑った。


「戻る場所なんて、もう俺が焼いた」


「なら、僕のところへ戻れ」


「それが一番、無理だ」


 何度目の問答だろう。


 数えるのもやめていた。


 セラフィードの指先から、白金の魂糸が伸びた。イリアスは黒い霧でそれを弾こうとする。だが、魂糸は霧の隙間を縫い、黒魔導書へ伸びる魔法回路を正確に縛った。


 胸の奥へ、聖魔法の圧が沈む。


 魔力核が軋み、イリアスの膝がわずかに揺れた。


 屈辱に、口元が歪む。


「またそれか」


「黒蝕を押し返している」


「聞こえはいいな」


「君を壊したいわけじゃない」


「壊れてるだろ、もう」


「まだだ」


「しつこい」


「言うまで言う」


 セラフィードの白金の檻が、足元に広がった。


 透明な壁が、黒い霧を押し返す。イリアスが黒魔導書の気配へ視線を逃がそうとした瞬間、セラフィードの手が伸び、顎へ触れた。傷つける強さではない。だが、顔を上げさせるには足りる。


「僕を見ろ」


「嫌だ」


「イリアス」


「呼ぶな」


「助けてくれと言え」


「まだ言ってるのか」


「言うまで言う」


「しつこい男は嫌われるぞ」


「君に嫌われるのは、もう慣れた」


「嘘つけ。傷ついた顔してる」


 セラフィードは答えなかった。


 イリアスは笑った。


 軽口だった。かつての名残だった。戦場明けに水を受け取りながら、重いと文句を言った頃の残滓。礼拝堂跡の朝、声が掠れていると言われ、照れ隠しに茶化した頃の名残。


 まだ残っている。


 残っていることが、苦しかった。


 黒魔導書がその名残を嫌うように、胸の奥で荒く頁をめくった。


 痛みが来る。


 イリアスは分かった。


 分かって、耐えようとした。


 だが、セラフィードの指が顎に触れている。白金の魂糸が胸の奥を縛っている。黒蝕がその光を拒絶し、魔力核が裂けるように震える。


「セラ、フィ……っ、ぐ、ぁああああああッ!!」


 名前は、途中で潰れた。


 助けて、とは言わなかった。


 ただ名を呼びかけただけだった。だが、それすら黒蝕は許さなかった。喉が引き攣り、声が黒い霧に裂かれる。叫びは濁点混じりの咆哮へ落ち、息が途中で詰まった。


 瞳孔が開き、焦点が合わなくなる。


 赤黒い瞳の周囲に血管が浮き、白目が覗きかける。背筋が弓なりに跳ね、肩が不規則に震えた。指先が硬直し、爪が泥を掻く。黒い魔力を吐き出すように身体が大きく折れ、唇の端に泡混じりの息が滲んだ。


 舌がうまく収まらない。


 言葉を作ろうとしても、濁った息だけが漏れる。身体の制御がまた一瞬遠ざかり、屈辱が遅れて胸を刺した。イリアスは奥歯を噛もうとしたが、喉が言うことを聞かない。


 セラフィードの目が見開かれた。


 今、呼んだ。


 そう気づいた顔だった。


 その顔を見て、イリアスはさらに腹が立った。縋りそうになった自分にも、それを拾ったセラフィードにも、黒蝕にも、全部に。


 セラフィードは何も言わなかった。


 言えば、イリアスが拒むと分かっていたのだろう。


 代わりに、白金の光を喉へ流した。呼吸を整え、黒魔力に傷つけられた声の通り道をつなぐ。水を取り出す。戦場明けに何度も渡された水。あの朝の冷たさに似た水。


 イリアスは、震える手でそれを払った。


 水が泥に落ちる。


「……聞くな」


 掠れた声だった。


 セラフィードは静かに答えた。


「聞いた」


「忘れろ」


「忘れない」


「最悪だな、お前」


「君にだけは言われたくない」


 イリアスは笑った。


 喉が痛んだ。


 それでも笑った。


「本当に……嫌な男だ」


「知っている」


「嫌いだ」


「うん」


「……本当に、嫌いだ」


 セラフィードは何も言わなかった。


 言わないことが、いちばん苦しかった。


 やがて、イリアスの黒魔法は世界の骨へ届き始めた。


 国境結界が崩れた。


 聖王国が誇った七重の白い壁は、内側から黒く腐り、夜明けの光を通さなくなった。ノクスヴェルトの兵站魔法陣は、黒い花に根を張られ、戦場へ武器も食料も送れなくなった。東方の王国では、王城の塔が地面へ沈んだ。塔を支えていた魔力基盤が腐り、王族の紋章ごと崩落した。


 戦争を続けるための仕組みが、次々に死んでいく。


 だが、それは戦争だけを殺さなかった。


 結界都市が壊れれば、避難民も巻き込まれた。兵站が途切れれば、前線だけでなく救護所も飢えた。王城の塔が沈めば、王だけではなく、そこで働いていた従者も巻き添えになった。


 イリアスは知っていた。


 知らないふりはできなかった。


 黒い霧の中で、声が消えていくのを聞いた。自分を呼ぶ声も、災厄と罵る声も、助けを求める声も。どれも同じように黒く沈んでいく。


 完全な世界の死を望んでいるわけではない。


 それでも、死は積み上がった。


 イリアスは夜の丘に立ち、黒い空を見上げた。雲の向こうで星がいくつも沈んだように見えた。黒魔導書の文字が、胸の内側でざわめいている。


 世界を殺したいわけじゃない。


 ただ、このまま生かしておけば、もっと腐る。


 誰かが止めなければならない。


 誰かが全部、壊さなければならない。


 その誰かが自分なら、ちょうどいい。


 悪役なら、もう足りている。


 世界は、黒い災厄という名前を用意してくれた。


 イリアスは低く笑った。


「戦争が好きなんだろ。なら、俺が全部終わらせてやる」


 その声に、自分以外の声が混じっていた。


 黒魔導書が笑っている。


 世界中の残党、王族、聖職者、魔法士たちは、ついに一つの旗の下へ集められた。


 黒い災厄を討つために。


 北の要塞都市に、各国の旗が並んだ。半分は焼け、半分は喪章をつけている。王を失った国。王城を沈められた国。聖具を腐らされた教会。家族を奪われた魔法士。かつてイリアスに救われ、今はイリアスに町を奪われた者たち。


 広場の中心に、セラフィードが立っていた。


 白金の外套は整っていた。聖王国の王子として、双星の片割れとして、救国の英雄として、誰もが彼を見る。


「あなたなら、災厄を討てます」


 老いた聖職者が言った。


「救国の英雄よ」


 別の王族が膝をつく。


「黒い災厄を討てる唯一の男」


 人々の言葉が、セラフィードの周囲に積もっていく。


 祝福のように。


 呪いのように。


 セラフィードは答えなかった。


 手元には、杯があった。


 水の入った杯。


 何の変哲もないものだった。けれど、その透明な水面に、いくつもの朝が映る。戦場明けにイリアスへ渡した水。礼拝堂跡で掠れた声を癒した水。王城の部屋で渡そうとして、払いのけられた水。空の寝台の横で冷えきっていた杯。


 水面が小さく揺れる。


 セラフィードの手が、わずかに震えていた。


 周囲では祈りが始まっていた。


 聖職者たちが白金の香を焚き、兵たちが膝をつく。黒い災厄を討つための祈り。世界を救うための祈り。英雄へ勝利を願う祈り。


 セラフィードだけが、祈らなかった。


 祈れば、認めることになる。


 イリアスを殺す覚悟を。


 愛した男を、世界のために討つという役割を。


 彼は杯を見つめたまま、低く言った。


「まだ終わらせない」


 その声は、誰にも祈りとして届かなかった。


 けれど、遠くで空が裂けた。


 黒い魔力の柱が、地平の向こうに立ち上がる。雲が腐るように割れ、黒い灰が風に乗って要塞都市まで降ってきた。兵たちがざわめく。聖職者の祈りが一瞬止まる。


 空を裂くような咆哮が、遠くから響いた。


 獣の声ではなかった。


 人の声でも、もうなかった。


 だが、セラフィードには聞こえた。


 濁った咆哮の奥に、ほんの微かに、自分の名が混じっていた気がした。


 セラフィードは顔を上げた。


 祈らないまま、黒い空を見た。



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