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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
序章【過去の記憶】

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第4話 助けてくれと言え



 封印庫の奥は、息をする場所ではなかった。


 王宮地下のさらに深く。古い石段を幾度も降りた先に、その部屋はあった。壁は冷えきった黒灰色の石で組まれ、石目の隙間には乾いた血のような赤黒い魔法陣が細く走っている。天井から垂れる鎖は何重にも絡み、古びた封印布がその間に巻きついていた。布には王家の印と、もう読めないほど古い文字が刺繍されている。湿気はない。空気は乾いているのに、喉の奥へ入ると底冷えした水のように重かった。


 床の中央に、黒い台座があった。


 その上に、黒魔導書グリモワール・アビスは置かれていた。


 書物、と呼ぶにはあまりにも静かに生きていた。表紙は黒い革のように見える。だが、光を受けるたびに肌の内側を血が巡るような鈍い艶が走った。背の部分には鎖が巻かれ、銀の封印釘がいくつも打ち込まれている。頁の縁は黒く、焼け焦げた紙にも、乾いた花弁にも見えた。


 誰も触れていないのに、頁が震えた。


 かすかな音がした。


 紙が擦れる音ではない。喉の奥で笑う音に似ていた。


 イリアス・ノクスヴェルトは、その前に立っていた。


 儀式用の黒い礼装は、もう礼装ではなかった。襟元は乱れ、銀糸の刺繍には赤黒い染みが飛び、手袋は父王の血で重くなっている。朝、セラフィードが整えた襟だけが、まだ歪みきらずに首元へ残っていた。それが滑稽で、吐き気がした。


 父王の血は、冷え始めていた。


 けれど手のひらには、まだ温かさの記憶が残っている。倒れた身体。床に落ちた王冠。白い石床に広がった赤。セラフィードの声。来るな。呼ぶな。俺の名前を、お前の声で呼ぶな。


 言ったのは自分だ。


 それなのに、背後のどこかでまだ聞こえる気がした。


 イリアス。


 聞いて。


 違う。


 僕じゃない。


 イリアスは唇を噛んだ。


 聞けば終わる。


 セラフィードの声を聞けば、まだ信じたい自分が顔を出す。証拠の違和感を拾ってしまう。父王の胸を貫いた白金の刃が、セラフィードの魔力と似ていて、けれど違ったことを考えてしまう。どちらの国のものでもない紋章が祭壇の影にあったことを思い出してしまう。


 そんなものはいらなかった。


 今、憎しみを失えば、立っていられない。


 黒魔導書の頁が、また震えた。


 表紙に刻まれた封印文字の下から、別の文字が浮かび上がる。生きた虫のように這い、絡まり、ほどけ、また組み上がる。その中に、一瞬だけ三つの線が絡む形が見えた。中央に目のような歪みを持つ、見慣れない紋章。


 戦場跡の泥の中。


 儀式場の祭壇下。


 そして、ここ。


 イリアスは目を細めた。


 考えるな。


 父王の血に濡れた右手を、黒魔導書へ伸ばした。


 鎖が鳴った。


 部屋全体が軋む。封印布が震え、壁の赤黒い魔法陣が一斉に薄く光る。だが、その光はイリアスを止めなかった。むしろ道を開けるように、魔法陣の線が沈む。


 黒魔導書は、彼を待っていた。


 そう思った瞬間、指先が表紙に触れた。


 冷たくはなかった。


 熱くもなかった。


 深かった。


 触れた場所から、底のない穴へ落ちる感覚が走った。手の皮膚を抜け、血管を抜け、魔力回路を逆流し、胸の奥の魔力核へ黒い針が突き刺さる。イリアスは息を呑んだ。手を離そうとした。だが、指が動かない。


 頁が開いた。


 誰も触れていないのに、黒い頁が自らめくれる。


 文字が浮かび上がった。


 読めない。読めないはずなのに、意味だけが脳の奥へ流れ込んでくる。怒り。喪失。血。王。裏切り。黒い土。白い石。呼ぶ声。殺された父。届かなかった手。捨てられた墓。積み上がる死者。セラフィードの声。セラフィードの手。セラフィードの白金の光。


 全部が黒く塗り潰されていく。


 イリアスの影から、黒い霧が滲んだ。


 床ではなく、影から。


 霧は彼の足元へ広がり、封印庫の石を舐めるように這った。乾いた血のような魔法陣が、その霧に触れて震える。霧の中から、死者の声に似たざわめきが立ち上がった。


 胸が裂けるように痛んだ。


 魔力核が掴まれる。


 黒魔法は、本来自分のものだった。生まれた時から身体にあり、誰よりもうまく扱ってきた。深い場所に触れる力。死者の声を聞き、罪の影を辿り、濁った記憶の底へ降りる力。危うくても、自分の手綱にあった。


 だが、黒魔導書はそれを奪った。


 増幅ではない。


 侵食だった。


 イリアスの魔法回路が、一つずつ黒い文字に噛まれていく。魂の表面を爪で削られ、父王の死とセラフィードへの愛憎を同じ水へ溶かされる。怒りが膨らむ。悲しみが膨らむ。信じたい気持ちが引き裂かれ、憎めと囁かれる。


 膝が揺れた。


 声が出ない。


 喉の奥に黒い霧が詰まる。


 その時、封印庫の扉が激しく開いた。


 白金の光が、地下の闇を裂いた。


「イリアス!」


 セラフィードの声だった。


 イリアスは、振り返らなかった。


 振り返れば終わる。


 あの顔を見れば、まだ自分のどこかが戻ろうとする。


「イリアス、手を離せ」


 セラフィードの声は、まだ穏やかだった。


 だが、その穏やかさの奥に、明らかな恐怖があった。戦場でどんな魔物を前にしても崩れなかった声が、かすかに震えている。


 イリアスは笑った。


 笑ったつもりだった。


 口元がうまく動かなかった。


「遅い」


「まだ遅くない」


「そうやって、何でも救える顔をするな」


「救える顔なんてしていない」


「してる」


 イリアスはようやく振り向いた。


 セラフィードの顔から血の気が引いていた。白と金の礼装のまま、封印庫の入口に立っている。儀式場の混乱からそのまま走ってきたのだろう。袖には血がついていた。彼自身のものではない。誰かを止めた時についたものかもしれない。


 その姿を見た瞬間、胸の奥が揺れた。


 来た。


 来てしまった。


 信じてはいけないのに。憎まなければ立っていられないのに。来てほしくなかった。来てほしかった。矛盾が胸の内側で噛み合わず、黒魔導書の文字がそこへ入り込む。


 セラフィードは一歩近づいた。


「父王陛下を貫いた術式は、ルミナリアのものに似せられていた。けれど違う。波長が冷たすぎる。王家の聖印に見せかけているだけで、核が」


「聞かない」


「聞いて」


「聞かない」


「イリアス」


「お前の声で呼ぶなって言っただろ」


 セラフィードの足が止まった。


 封印庫の冷たい空気の中で、彼の喉がかすかに動く。


「なら、何と呼べばいい」


「何も呼ぶな」


 セラフィードは沈黙した。


 だが、引かなかった。


「何も呼ぶなと言われても、僕は君を呼ぶ」


 イリアスの指が、黒魔導書の表紙へさらに沈む。


 痛みが走った。


 黒い文字が手首から腕へ這い上がる。皮膚の上に浮かんだのではない。皮膚の下、血管と魔法回路の間を通っている。イリアスは奥歯を噛んだ。声を出すな。痛みを見せるな。縋るな。


 セラフィードが動いた。


 白金の魂糸が、彼の指先から伸びる。


 糸は細く、あまりに美しかった。戦場で負傷兵の魂をつなぎとめる時の光に似ている。だが、今は治癒ではない。黒魔導書へ伸びるイリアスの魔法回路へ絡みつき、強引に引き剥がそうとしてくる。


 イリアスの身体が跳ねた。


「っ、ぐ……!」


 魔力核に圧がかかった。


 白金の光が胸の奥へ沈み、黒い文字を押し返す。救うための光だと分かる。分かるからこそ、屈辱だった。身体の内側へ踏み込まれ、黒魔導書へ伸びる力を縛られる。逃げ場がない。


「やめろ」


「離せ」


「命令するな」


「手を離せ、イリアス」


「呼ぶな!」


 黒い霧が膨れ上がった。


 影の棺が床に開く。骨の鎖が封印庫の石壁から伸び、セラフィードへ向かった。だが白金の結界がそれを受け止める。黒と白が激突した瞬間、空気が悲鳴のように震えた。


 セラフィードは、なお近づいた。


「黒魔導書じゃなく、僕を見ろ」


「見るものか」


「イリアス」


「呼ぶな!」


「僕を見ろ!!」


 初めて、セラフィードの声が荒れた。


 イリアスの呼吸が止まった。


 封印庫の空気が揺れる。普段なら、セラフィードは声を荒げない。戦場で兵が倒れても、魔物が迫っても、国の使者が無礼な言葉を投げても、彼の声は穏やかだった。静かで、揺れず、誰よりも冷静だった。


 そのセラフィードが、叫んだ。


 イリアスを見て。


 イリアスだけを見て。


 髪を掴まれた。


 強くはない。傷つけるためではない。だが逃げようとする顔を、黒魔導書へ向かう視線を、無理に引き戻すだけの力があった。イリアスの顎が上がる。赤黒い瞳が、セラフィードの碧い目とぶつかる。


 近い。


 近すぎる。


 白金の魂糸が、イリアスの魔法回路を縛る。透明な檻が足元に広がり、膝を床へ押しつける。魔力核へかかる圧が強くなり、イリアスは石床に片膝をついた。


 屈辱で、喉が焼けた。


「お前……」


「助けてくれと言え!!」


 セラフィードの声が、封印庫に叩きつけられた。


「僕に縋れ!! 黒魔導書じゃなく、僕を見ろ!!」


 イリアスは息を吸おうとした。


 黒い文字が喉へ絡んだ。


 声が詰まる。


「今なら討伐なんてされなくて済むんだ!!」


 討伐。


 その言葉が、胸に刺さった。


 イリアスは笑おうとした。


 口元が歪む。


「……討伐?」


「お前を討伐するという声も、団も、でき始めている」


「早いな」


「笑うな」


「なら来ればいい」


「強がるな」


「強がりじゃない。もう戻れないだけだ」


「戻れる」


「どこに」


「僕のところへ」


 イリアスは、今度こそ笑った。


 甘い笑みではなかった。壊れかけた、乾いた笑みだった。父王の血の匂いと、黒魔導書の囁きと、セラフィードの声が混ざって、何もかも遠くなる。


「一番、無理だろ」


 セラフィードの手が震えた。


 その震えを見て、イリアスの中の何かが痛んだ。


 痛むな。


 まだ痛むな。


 セラフィードの魂糸が黒魔導書との接続を断とうとした。白金の光がイリアスの魔力核へ深く沈む。黒い文字が反発し、魔法回路の内側を食い破るように暴れた。


 イリアスの背筋が弓なりに跳ねた。


 喉が引き攣る。


 声が壊れた。


「が、あ゛……っ、あ゛あああああああッ!!」


 それは人の悲鳴ではなかった。


 獣が喉を裂かれたような、黒い霧に声帯を掴まれたような咆哮だった。叫びは途中で空気を失い、ひゅ、と細く引き攣って、また濁った音へ落ちる。イリアスの指先が硬直し、爪が石床を掻いた。膝が崩れ、肩が不規則に震える。


 赤黒い瞳の周囲に、細い血管が浮いた。


 瞳孔が開いたまま戻らない。焦点の合わない視線が、セラフィードの顔を見ているはずなのに、何も映していない。黒魔力が瞳の奥で濁り、赤と黒が混じった色が揺れた。


「イリアス!」


 セラフィードの顔が歪んだ。


 彼は魂糸を緩めなかった。緩めれば、黒魔導書がさらに深く食い込む。だが圧をかければ、イリアスの身体が壊れる。どちらを選んでも、痛みがあった。


 イリアスの喉が鳴った。


 叫びが吐き気で途切れる。黒い魔力を吐き出すように身体が大きく折れ、唇の端に泡混じりの息が滲んだ。声にしようとした言葉は形にならず、舌がうまく動かない。舌先が震え、収まりきらずに力なく出かけたまま、濁った息だけが漏れる。


 セラフィードは髪を離し、イリアスの肩を支えた。


 その手つきは乱れていた。


 けれど、落とさなかった。


「呼吸しろ。僕の声を聞いて。黒魔導書じゃない。僕を聞け」


「……いや、だ」


 かすれた声が漏れた。


 それはほとんど息だった。


 それでも、意思だった。


「助けてなんて、言うか」


 セラフィードの目が揺れた。


「どうして」


「お前にだけは……縋らない」


 黒い霧が、二人の足元でまた膨らんだ。


 その夜、セラフィードはイリアスを黒魔導書から引き剥がした。


 勝利ではなかった。


 封印は完全には戻らなかった。黒魔導書の頁は閉じたが、イリアスの魔力回路には黒い文字が残った。指先に、喉に、胸の奥に、目の底に。黒蝕は、すでに始まっていた。


 王城の一室に、イリアスは移された。


 かつて王族の客人を泊めるために使われた部屋だった。窓は高く、扉には封印が重ねられ、床にはセラフィードの白金の魔法陣が描かれている。絹の寝台も、厚い絨毯も、今のイリアスには檻の内側の飾りでしかなかった。


 最初の夜、イリアスは眠らなかった。


 壁の向こうから、黒魔導書の声がした。


 実際に聞こえるはずがない。封印庫は地下深く、扉も鎖も王印も閉じている。それでも、声は来た。頁が擦れる音。黒い文字が這う音。父王の血が乾いていく音。セラフィードの声を黒く塗り潰す囁き。


 イリアスは寝台の端に座っていた。


 礼装は脱がされ、黒い寝衣に替えられている。だが、首元にはまだ朝の襟の感覚が残っていた。あの手が整えた場所。あの手が今は魂糸で縛ってくる。


 扉が静かに開いた。


 セラフィードが入ってきた。


 白い礼装ではない。簡素な上衣に替えていたが、顔色は悪かった。目の下に疲れが落ちている。それでも手には水の入った杯を持っていた。


 イリアスは笑った。


「介護かよ」


 声は掠れていた。


 セラフィードは一瞬だけ目を伏せた。


「喉が傷んでいる」


「お前のせいだろ」


「黒蝕のせいだ」


「同じだ」


「違う」


「俺には同じだ」


 セラフィードは近づいた。


 イリアスは黒い霧を指先へ集めた。だが、床の魔法陣が白金に光る。魂糸が霧の根元を縛り、魔法回路へ軽い圧をかけた。イリアスの指が震える。屈辱が腹の底に落ちた。


「また縛るのか」


「黒魔導書へ戻らせないためだ」


「救った顔をするな」


「救えていない」


 セラフィードの声が低くなった。


「まだ、救えていない」


 イリアスは言葉を失った。


 その隙に、セラフィードは杯を差し出した。


「飲んで」


「いらない」


「飲んで」


「命令か」


「お願いだ」


「今さら?」


 セラフィードの指が、わずかに白くなるほど杯を握った。


「今だからだ」


 イリアスは杯を見た。


 水は透明だった。


 ただの水だ。戦場明けに何度も渡された水。礼拝堂跡の朝、掠れた喉に通した水。あの頃は受け取れた。今は、受け取るだけで負けるような気がする。


 けれど喉は焼けていた。


 声が戻らない。


 イリアスは、奪うように杯を取った。飲む。水が喉を通り、痛みにしみる。息がわずかに楽になる。そのことが腹立たしい。


 セラフィードの手が、喉へ伸びた。


 イリアスは反射的に払った。


「触るな」


 手の甲を打たれたセラフィードは、何も言わなかった。


 それでも、翌夜また来た。


 数日が過ぎた。


 昼も夜も、黒魔導書はイリアスを呼んだ。壁の奥から。床の下から。水の表面から。自分の影から。眠ろうとすれば、頁の擦れる音が耳の中で鳴る。目を閉じれば、父王の血と白金の刃が浮かぶ。目を開ければ、セラフィードの白金の魔法陣がある。


 どちらも苦しい。


 イリアスは食事を拒み、眠りを拒み、水さえ時々投げ捨てた。


 十日目の夜、彼は封印を破ろうとした。


 扉ではなく、床から。


 黒魔法で影の棺を開き、王城の地下へ抜けようとした。だが、セラフィードは来た。来ることを知っていたかのように、扉を開け、白金の魔法陣を床へ打ち込んだ。


 透明な檻が、イリアスを囲んだ。


 聖魔法の壁は美しかった。薄く、澄み、光の粒が雪のように落ちている。だが、触れれば魔力回路へ圧が返る。黒い霧が壁に触れた瞬間、弾かれた痛みが胸の奥へ落ちた。


 イリアスは膝をついた。


「また、これか」


「戻らせない」


「どこへ」


「黒魔導書へ」


「俺の勝手だ」


「違う」


「何が違う」


「君が君でなくなる」


「お前に何が分かる」


 セラフィードは檻の中へ入った。


 イリアスは顔を背けた。


 すると、白金の魂糸が顎の下へ伸びた。触れるか触れないかの力で、顔を上げさせる。強引ではない。だが逃がさない。


「僕を見ろ」


「嫌だ」


「見ろ」


「嫌だ」


「イリアス」


「呼ぶな」


 セラフィードの呼吸が乱れた。


 そして、再び声が荒れた。


「助けてくれと言え!!」


 イリアスは目を見開いた。


 セラフィードの碧い目は、怒りではなく恐怖で揺れていた。


「僕に縋れ!! 今ならまだ戻れる。今ならまだ、誰にも殺されずに済む。黒魔導書に喰われずに済む。僕のところへ戻れる」


「一番、戻れない場所だって言っただろ」


「どうして」


「お前がいるからだ」


「いる。いるから戻れ」


「だから無理だ」


 イリアスは笑った。


 弱い笑みだった。


「お前に助けてくれって言ったら、お前は何でも捨てる」


 セラフィードが沈黙した。


 その沈黙が答えだった。


 イリアスは、唇を歪めた。


「ほらな」


「違う」


「違わない」


「それでも、言え」


「嫌だ」


「イリアス」


「嫌だ」


 黒蝕が暴れた。


 拒絶に反応したのか、セラフィードの沈黙に反応したのか、あるいは黒魔導書が笑ったのか。イリアスの胸の奥で黒い文字が一斉に開いた。魔力核を内側から食い破るような痛みが走り、彼の身体が跳ねた。


 背筋が弓なりになる。


 指先が硬直し、爪がシーツを掻いた。肩が不規則に震え、膝が力を失う。白金の檻へ背中がぶつかり、光が弾ける。


「ぐ、ぁ、あ゛、あ゛ああああああッ、げ、ぇ……ッ!!」


 咆哮は途中で濁った。


 喉の奥が詰まり、吐き気が声を引き裂く。黒い魔力を吐き出すように身体が折れ、泡混じりの息が唇の端に滲んだ。舌がうまく収まらず、声を作ろうとしても濁った呼吸だけが漏れる。


 瞳孔が開いたまま、天井へ焦点の合わない視線が泳いだ。


 赤黒い瞳の縁に血管が浮き、黒魔力が奥で濁る。白目を剥きかけた瞬間、セラフィードが彼の顔を両手で支えた。


「僕を見ろ。戻ってこい。イリアス、聞こえるか」


 白金の光が喉へ流れた。


 強い治癒ではない。声を奪わないための、呼吸を繋ぎとめる細い光。セラフィードの手は震えていたが、魔法は正確だった。喉の引き攣りをほどき、泡混じりの息を落ち着かせ、魔力回路の乱れを少しずつ整える。


 イリアスは床に崩れた。


 身体が小刻みに震え続ける。黒蝕はまだ胸の奥で蠢いている。意識が薄れかける中で、下半身の制御が一瞬抜けた。自分の身体が、自分の意思から遠ざかる感覚があった。


 イリアスの顔から血の気が引いた。


 屈辱が遅れて来る。


 セラフィードの声の温度が変わった。


 驚きでも、嫌悪でもなかった。


 痛みだった。


「大丈夫」


「……見るな」


「見ている。君を見ている」


「見るな……俺を、見るな」


「見る。黒魔導書に渡さない」


 セラフィードは外套を取って、イリアスの身体が冷えないように覆った。指先から白金の光を流し、魔力回路を整え、呼吸を測る。水を取る。唇へ近づける。イリアスは顔を背けようとしたが、力が入らなかった。


「飲んで」


「……いや、だ」


「喉が焼けている」


「助けてなんて……言うか」


「今は水を飲んで」


「……お前にだけは」


 言葉は最後まで続かなかった。


 イリアスは意識を落とした。


 だが、眠りではなかった。


 黒い文字が夢の中まで追ってきた。


 二十日を過ぎる頃、セラフィードはさらに痩せた。


 眠っていないのが分かった。王子としての整った顔は保っている。だが、目の下に影が落ち、声にかすかな疲労が混じっていた。イリアスの部屋に来るたび、水を持ち、治癒の光を持ち、魂糸を結び直す。


 イリアスはそれを払いのけた。


 何度も。


 セラフィードが髪を整えようとすると、手を弾いた。喉に触れようとすると、顔を背けた。水を渡されれば受け取らず、しかし限界が来れば奪って飲んだ。身体が壊れていく。声が壊れていく。魔力核が黒蝕に食われ、夜ごとに咆哮が部屋を裂く。


 それでも、助けてとは言わなかった。


 セラフィードは毎晩言った。


「助けてくれと言え」


 イリアスは毎晩返した。


「言わない」


 ある夜、窓の外で雨が降っていた。


 昔の戦場跡を思い出す雨だった。


 イリアスは寝台の上で身体を起こし、窓を見ていた。魂糸は彼の手首から胸元へ細く伸び、床の白金の魔法陣へ繋がっている。黒魔導書の声は、今夜も壁の向こうから来ていた。


 セラフィードは椅子に座り、水の杯を両手で包んでいた。


「イリアス」


「呼ぶな」


「君は、いつまで一人で持つつもりだ」


「お前には関係ない」


「ある」


「ない」


「ある」


 セラフィードの声は静かだった。


 けれど、その静けさはもう以前のものではなかった。白い糸を強く握りすぎて、指先が切れかけているような静けさだった。


「僕は半分持つと言った」


 イリアスは笑った。


「昔の話だ」


「今もだ」


「今は違う」


「違わない」


「違うんだよ、セラ」


 言ってしまった。


 名を呼んでしまった。


 セラフィードの顔が、痛いほど揺れた。


 イリアス自身も、息を止めた。


 その一瞬、黒蝕が待っていたように暴れた。


 胸の奥から黒い文字が喉へ駆け上がる。セラフィードの名を、助けを求める形に変える前に潰すように。イリアスは喉を押さえた。だが遅かった。


「セラ、フィ……っ、ぐ、ぁああああああッ!!」


 名は咆哮に潰れた。


 セラフィードが杯を落とした。水が床へ広がる。彼は一瞬で立ち上がり、白金の魂糸を引いた。だが、黒蝕の勢いが強すぎた。イリアスの身体が寝台の上で跳ね、背筋が弓なりになる。指先が布を掴み、爪が裂けそうなほど握る。膝が跳ね、肩が不規則に震えた。


 瞳が白く裏返りかける。


 赤黒い瞳は焦点を失い、天井を泳いだ。瞳孔が開き、戻らない。唇の端から泡混じりの息が漏れ、喉が引き攣って声が途中で潰れる。


「あ゛、が、ああああああああッ!! ひゅ、っ、ぐ、ぁ……ッ!!」


 吐き気で身体が折れた。


 黒い魔力が唇から霧のように漏れ、声が濁る。イリアスは何かを言おうとした。舌がうまく動かず、力なく震えたまま、言葉にならない息だけが出た。


 セラフィードが彼を抱き起こした。


「イリアス。聞こえるか。僕を見ろ。黒魔導書じゃない。僕だ」


 イリアスの目はセラフィードを映していなかった。


 そのことが、セラフィードの顔を壊した。


 それでも彼は魔法を止めなかった。喉へ光を流し、魔力核を支え、暴れる黒い文字を押し返す。魂糸が軋む。白金の光の細い線が、今にも切れそうに震える。


「助けてくれと言え」


 セラフィードの声は、今度は荒れていなかった。


 荒れる余力が削られていた。


「僕に縋れ。頼む。イリアス、僕に」


 イリアスの指が、セラフィードの袖を掴んだ。


 ほんの一瞬だった。


 縋るように見えた。


 セラフィードの息が止まる。


 だが、次の瞬間、イリアスはその袖を押し返した。


 焦点の戻らない目で、それでも首を横に振った。


「……いや、だ」


 掠れた声だった。


 焼けた喉から削り出したような声だった。


「助けてなんて……言うか」


 セラフィードの顔が、泣きそうに歪んだ。


 泣かなかった。


 泣く暇など、二人にはいつもなかった。


 数十日目の夜、雪に似た灰が空を舞った。


 王城の上空に、黒い魔力の渦が現れ始めていた。各国からの使者は撤退し、ノクスヴェルトとルミナリアは再び剣を向け合い、同盟儀式の失敗は裏切りとして広がっていた。


 イリアスを討つべきだという声が、城外で大きくなっていた。


 黒魔導書に触れた王子。


 父王の死をきっかけに黒魔法を暴走させた英雄。


 危険な力を持つ、戻れない者。


 その声を、イリアスも知っていた。


 知っていて笑った。


 強がりではない。


 彼はもう、自分が戻る場所を見失っていた。


 その夜、セラフィードはいつもより早く来た。


 扉を開けた時、部屋は暗かった。


 魔法陣が壊れていた。


 白金の線が黒く焼け、魂糸が床に落ちている。窓は開いていた。雨も風もない夜なのに、薄い白いカーテンが揺れている。寝台は空だった。水の杯は机の上に置かれたまま、まだ満たされていた。


 セラフィードは動かなかった。


 ほんの数秒。


 それから、床に落ちた魂糸へ駆け寄った。


 切れかけている。


 完全には断たれていない。だが、黒魔導書の残響が絡みつき、白金の糸を焼いていた。糸の先は、遠くへ伸びている。王城の外。夜の向こう。黒い魔力が渦巻く方角へ。


 机の上の杯は、冷えていた。


 イリアスの喉を癒すために用意した水。


 渡す相手はいない。


 セラフィードは杯を見た。


 かつて戦場明けに、イリアスはそれを受け取った。礼拝堂跡の朝、掠れた声で茶化しながら飲んだ。声が変じゃないかと聞き、セラフィードが喉を癒し、髪を整えた。朝になれば、イリアスは隣にいた。


 今は、いない。


 寝台は空だった。


 枕元には、黒い霧の残り香だけがある。


 セラフィードは、切れかけた魂糸を握った。


 指が震えた。


 声は出なかった。


 何度も呼んだ名が、喉の奥に引っかかっている。呼べば戻ると思っていた。呼び続ければ、いつか振り返ると思っていた。助けてくれと言わせれば、救えると思っていた。


 けれど、届かなかった。


 窓の外、夜明けが近づいていた。


 普通なら、空の端が白くなる時間だった。


 だがその朝は、違った。


 東の空に伸びた光が、黒く濁っていた。朝焼けの色ではない。黒い霧が太陽の光を飲み込み、空の低いところでうねっている。遠く、王城の外で、巨大な黒い魔力が立ち上がった。


 セラフィードは窓辺へ歩いた。


 冷えた杯を、まだ片手に持っていた。


 唇が動く。


「……イリアス」


 返事はなかった。


 夜明けの光が、黒く濁った。




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