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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
序章【過去の記憶】

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第3話 父王の血



 朝の光は、磨かれた床の上で白く伸びていた。


 王宮の東回廊は、いつもの戦場の匂いとは違っていた。焦げた草も、鉄錆も、濡れた革もない。代わりに、香炉から立ちのぼる薄い香の匂いと、磨き上げられた石床の冷たい匂いがある。高窓から落ちる光は、黒い大理石の床を滑り、銀糸の刺繍を細く照らした。


 イリアス・ノクスヴェルトは、その光の中でひどく不機嫌な顔をしていた。


 黒を基調にした儀式用の礼装は、王族の子息としては申し分ない出来だった。胸元から肩にかけて銀糸の刺繍が走り、襟の縁にはノクスヴェルト王家の古い紋様が縫い込まれている。袖口には小さな黒曜石の飾りが留められ、腰帯には短剣ではなく儀礼用の細い飾り剣が下げられていた。


 完璧に整えられた服。


 完璧に固められた襟。


 そして、完璧に息苦しい。


 イリアスは襟元へ指をかけた。


「触らない」


 背後から声がした。


 イリアスは振り返らずに舌打ちした。


「まだ何もしてない」


「今からする顔だった」


「顔で裁くな」


「君は襟元を緩める時、先に右眉が少し動く」


「観察が細かすぎる。敵将に向けろ、その才能」


「君にも向けている」


「今いらない」


 セラフィード・ルミナリアは、白と金の礼装をまとっていた。


 戦場で見る彼とは、まるで違っていた。白い上衣は朝の光を受けて淡く輝き、金糸の刺繍は聖王国の紋章を静かに描いている。腰に佩かれた儀礼剣の鞘には白金の飾りが施され、肩から流れる薄い外套は、歩くたびに水のように揺れた。


 王子だった。


 戦場で泥を踏み、血に濡れた手で治癒を施す男ではなく、聖堂の壇上に立つために生まれてきたような王子だった。


 それが、イリアスと目が合った瞬間だけ、少し柔らかくなる。


 その変化を知っているのが自分だけだと分かってしまうから、イリアスは余計に襟が苦しくなる。


 セラフィードは静かに近づき、イリアスの正面に立った。


「襟が曲がっていた」


「朝から王子様に着せ替えられる趣味はないんだけど」


「着せ替えてはいない。整えている」


「戦場なら誰も見ない」


「今日は戦場じゃない」


 セラフィードの指が、イリアスの襟元へ伸びた。


 昨日までなら、戦場で喉を癒す手だった。雨の礼拝堂跡で髪を整えた手だった。指先に白金の光を宿し、掠れた声を戻した手。傷口を避け、拒む余地を残しながら触れてくる手。


 その手が、今日は正装の襟を整えている。


 イリアスは、皮肉を言おうとして一瞬だけ黙った。


 布越しでも、セラフィードの指の温度が分かる気がした。触れ方は相変わらず丁寧で、戦場の手当てと同じだった。締めすぎない。乱さない。痛めない。けれど、目を逸らしても逃げ切れない近さがある。


「……そうだといいな」


 低く言うと、セラフィードの手が止まった。


「今日が戦場じゃないこと?」


「それ以外に何がある」


「君がそう言う時は、大抵、それ以外もある」


「うるさいな」


 セラフィードは、襟を整え終えてもすぐには手を離さなかった。ほんの一瞬、親指が襟の縁に残る。そこから首筋へ触れそうになって、けれど触れないまま離れた。


 イリアスは気づかないふりをした。


 互いの国が、正式に同盟を結ぶ。


 その知らせを受けた時、イリアスは真っ先に疑った。罠ではないか。誰かの打算ではないか。昨日まで殺し合っていた国が、都合よく握手などできるのか。考えることはいくらでもあった。


 それでも、セラフィードは静かに言った。


 結ばせる、と。


 その声が耳に残っている。


 今日が上手くいけば、国境で死ぬ兵が減る。魔王戦争の前線へ無意味に押し流される若い兵も減るかもしれない。各地の魔物災害へ、黒魔法と聖魔法の両方を送れるようになる。戦場跡に子供だけで墓を作る日も、いつか遠くなるかもしれない。


 あまりに都合のいい未来だった。


 だから、イリアスは信じきれなかった。


 信じきれないまま、少しだけ欲しかった。


「国境の南側、また墓が増えた」


 イリアスは言った。


 セラフィードの表情がわずかに沈んだ。


「聞いている」


「今度は兵じゃない。避難民だ。魔物に追われたのに、両軍が通行許可で揉めた」


「今日の同盟が成立すれば、そういうことを減らせる」


「成立すれば、な」


「成立させる」


「お前、そういう時だけ本当に王子様だな」


 イリアスは茶化した。


 セラフィードは否定しなかった。


「君と隠れず並べるなら、王子でいる意味もある」


「……またそういうことを儀式前に言う」


「言えるうちに言っておきたい」


「縁起でもない言い方するな」


 イリアスがそう言うと、セラフィードは少しだけ目を細めた。


 返事はなかった。


 沈黙が落ちる。


 遠くで鎧の音がした。控えの間の扉の向こうを、兵が通る。重い靴音。剣帯が揺れる音。王宮であるはずなのに、戦場の前線のような緊張が廊下を満たしていた。


 同盟の朝。


 それは祝福の朝のはずだった。


 けれど、長年敵対してきた二国の者たちが、同じ場所で簡単に笑い合えるはずもない。ノクスヴェルトの兵は、黒い甲冑の下で手を剣の柄に近づけている。ルミナリアの騎士も、白い外套の内側に緊張を隠している。貴族たちは笑みを作っているが、その声は薄く、目は互いの列を測っていた。


 屈辱。


 打算。


 警戒。


 疑念。


 それでも、平和という言葉だけが、祭壇の上に美しく置かれている。


 人間は器用だな、とイリアスは思った。殺し合いながら祈り、疑いながら杯を交わし、剣を握りながら未来を語る。面倒な生き物だ。自分もその一人なのが最悪だった。


 控えの間の扉が開いた。


 ノクスヴェルトの侍従が一礼する。


「イリアス殿下。陛下がお呼びです」


 イリアスは、セラフィードを一度見た。


 セラフィードは頷いた。いつもの穏やかな顔だった。だがその目は、ほんの少しだけ離れがたそうに見えた。


「あとで」


 セラフィードが言った。


「儀式場でな」


「うん」


「襟、また曲がってたら笑う」


「直すよ」


「笑えよ」


「君が望むなら」


「重い」


 そう言って、イリアスは歩き出した。


 廊下を進むと、香の匂いが強くなった。黒い石壁には銀の燭台が並び、炎は風もないのに小さく揺れている。奥の控えの間には、ノクスヴェルト王がいた。


 父王は黒い礼装をまとい、背筋を伸ばして立っていた。


 年齢を重ねた顔には、深い皺が刻まれている。戦場と政務と王座の重さが、そのまま顔に残ったような男だった。厳格で、言葉が少なく、父として笑うより王として命じる時間の方が長い。イリアスに対しても同じだった。


 愛されていない、とは思わない。


 ただ、どう愛されているのか分からない。


 父王の前に立つと、イリアスは自然に背筋を伸ばした。


「父上」


「来たか」


 父王の視線が、イリアスの礼装を上から下まで確認する。


「襟は整っているな」


「今しがた整えられましたので」


「ルミナリアの王子か」


 イリアスはわずかに沈黙した。


「……はい」


 父王は責めるでもなく、笑うでもなく、ただ頷いた。


「今日を無駄にするな」


 その声は硬かった。


 だが、軽くはなかった。


 イリアスは父王を見た。


「分かっています」


「お前たちが戦場で築いた名が、今日の席を作った」


 予想していなかった言葉だった。


 イリアスは返事を忘れた。


 父王は続ける。


「黒魔法と聖魔法が並ぶなど、かつては誰も信じなかった。敵国の王子同士が、同じ魔法陣を支えるなどなおさらだ。だが、お前たちはそれを戦場で示した。兵たちは見た。民も噂を聞いた。王たちは、その声を無視できなくなった」


 褒めているのか。


 認めているのか。


 王として利用価値を評価しているだけなのか。


 イリアスには、うまく分からなかった。


 ただ、胸の奥がわずかに熱を持った。


 その熱を、素直に見せることはできなかった。


「俺たちだけの力ではありません」


「当然だ」


「そこは否定しないんですね」


「事実だ」


 イリアスは小さく笑いかけた。


 父王の口元が、ほんのわずかに動いた。


 笑ったのかもしれない。


 それも分からないほど、小さかった。


「イリアス」


「はい」


「今日、王子として立て」


「……はい」


「相棒としてでも、英雄としてでもない。ノクスヴェルトの王子として、ルミナリアの王子と並べ」


 その言葉は、命令だった。


 同時に、どこか父の言葉にも聞こえた。


 イリアスは目を伏せた。


「承知しました」


 父王は頷いた。


 それ以上、優しい言葉はなかった。肩に手を置かれることもない。立派になったとも、誇りだとも言わない。


 それでも、イリアスはその控えの間を出る時、胸の奥に残った熱を持て余した。


 認められたのかもしれない。


 そう思いかけて、すぐに打ち消した。


 浮かれるな。


 今日は儀式だ。王も貴族も聖職者も、全員が言葉を武器にしている。少しの気の緩みで、何もかも崩れる。


 そう言い聞かせても、父王の声は残った。


 お前たちが戦場で築いた名が、今日の席を作った。


 その言葉は、イリアスの中でまだ消えなかった。


 儀式広間は、朝の光に満ちていた。


 高い天井には黒と白、銀と金の旗が交互に垂らされている。ノクスヴェルトの黒い紋章旗。ルミナリアの白金の紋章旗。二つの国の象徴は同じ空間に並べられていたが、まだ完全には重なっていない。中央には二つの大きな王印が置かれ、その間に同盟の魔法陣が刻まれていた。


 床は白い石で磨かれていた。


 その白さが、かえって冷たかった。


 広間の奥には祭壇があり、香炉から薄い煙が立ち上っている。香の匂いは甘く、清らかで、どこか息苦しい。左右には両国の貴族たちが並び、衣擦れと囁きが低く続いていた。兵たちは壁際に控え、いずれも儀礼用の姿勢を取っている。だが、手は剣の柄から遠くなかった。


 ルミナリア側の王族と高位聖職者たちは、白い衣に金の刺繍をまとっていた。表情は穏やかで、言葉は丁寧だった。だが、その視線の温度は冷たい。


 セラフィードがイリアスを見るたび、その冷たさが少しだけ強くなる。


 イリアスは気づいていた。


 セラフィードも気づいているだろう。


 それでも彼は、壇上へ向かう前に一度だけイリアスを見た。ほんの短い視線だった。けれど、朝の回廊で襟を整えた手の温度が、そこに残っているような気がした。


 イリアスは目だけで返した。


 気を抜くな。


 そう言ったつもりだった。


 セラフィードは、かすかに頷いた。


 儀式が始まった。


 聖職者の声が高い天井へ上がる。二国の歴史が読み上げられた。戦争の年月。失われた民。魔王戦争の拡大。魔物の脅威。互いの血で濡れた国境。そして、それでも結ばれるべき同盟。


 言葉は美しかった。


 美しすぎて、イリアスは少しだけ嫌になった。


 床に落ちた血は、そんなに綺麗な言葉にならない。焼けた村も、墓のない死者も、泣く暇のなかった子供も、こんな整った文章には収まらない。


 それでも、必要なのだろう。


 人は綺麗な言葉を置かなければ、醜い現実を運べない。厄介な生き物だ。本当に。


 同盟の誓約には、三つのものが必要だった。


 王印。


 王血。


 そして、黒魔法と聖魔法。


 ノクスヴェルトの王血が、黒い杯に落とされる。ルミナリアの王血が、白い杯に落とされる。その二つが中央の誓約杯へ注がれ、両国の王印が魔法陣の両端に置かれる。最後に、イリアスとセラフィードが魔法を流し、誓約を安定させる。


 黒魔法と聖魔法が反発せず重なること。


 それが、この同盟の証になる。


 イリアスは壇上へ進んだ。


 反対側から、セラフィードが歩いてくる。


 白い床の上で、黒の礼装と白の礼装が向かい合った。周囲の視線が集まる。貴族たちの囁きが消える。兵の鎧の音すら、遠くなった。


 イリアスは息を吸った。


 喉はもう掠れていない。


 朝、セラフィードの指が整えた襟が、首元で静かに留まっている。


 セラフィードが、ほんの少しだけ手を上げた。


 イリアスも右手をかざす。


 黒い霧が、指先から流れた。


 いつもの戦場の霧よりもずっと静かだった。黒い絹糸のように細く、魔法陣の溝へ沈んでいく。濁りを抱きながらも制御され、床に刻まれた古い文字の奥へ触れていく。


 同時に、白金の光が降りた。


 セラフィードの聖魔法は、薄い光の膜となって黒い霧の輪郭を支えた。黒は白を焼かない。白は黒を消さない。二つの魔力は同盟の魔法陣の中央で重なり、誓約杯の周囲に淡い円を作った。


 広間が、一瞬だけ息を呑んだ。


 美しかった。


 認めたくないほどに。


 黒い霧と白金の光が、同じ円の上で回る。王印が淡く輝き、誓約杯の血が赤ではなく深い金色を帯びて見えた。旗の影が床に落ち、その上を二つの魔力が越えていく。


 このままなら。


 その言葉が、イリアスの胸に浮かんだ。


 このままなら、本当に変わるかもしれない。


 顔を上げると、セラフィードと目が合った。


 彼も同じことを思ったのだと分かった。


 いつか、隠れず並べる。


 国境で殺し合う兵が減る。


 墓を作らずに済む朝が来る。


 その一瞬だけ、イリアスは信じた。


 信じてしまった。


 魔法陣が、赤く濁った。


 最初は小さな染みだった。


 誓約杯の下、床に刻まれた古い文字の一つが、赤く滲む。血の色に似ていた。だが、杯から溢れたものではない。魔法陣の内側から、何かが染み出している。


 イリアスは眉を寄せた。


 セラフィードも気づいた。


 白金の光が一瞬、揺れる。


 次の瞬間、広間の空気が裂けた。


 父王の胸元に、白金の刃が咲いた。


 音はなかった。


 叫びより先に、王冠が落ちた。


 床に当たった金属音が、やけにはっきり響いた。重い音ではない。小さく、高く、冷たい音。その音に遅れて、誓約杯が倒れる。杯の中身が白い床を走り、赤く濁った魔法陣へ流れ込んだ。


 父王の身体が傾いた。


 黒い礼装の胸元から、血が広がる。


 白い床に、赤が落ちた。


 広間が、遅れて悲鳴を上げた。


 誰かが叫んだ。兵が剣を抜いた。香炉が倒れ、甘い香の煙が床を這う。貴族たちが後ずさり、衣擦れと悲鳴が重なった。聖職者が魔法陣を止めようと手をかざすが、赤く濁った陣は黒い染みを広げていく。


 イリアスは動けなかった。


 息が止まっていた。


 目の前で、父王が倒れていく。


 ついさっき、自分に言った男。


 今日を無駄にするな、と。


 お前たちが戦場で築いた名が、今日の席を作った、と。


 その声がまだ耳に残っているのに。


 父王の身体が床に落ちた。


 王冠が、血の縁で止まっている。


 イリアスは走った。


「父上」


 声が、自分のものではないようだった。


 膝をつく。白い床が冷たい。礼装の膝が血で汚れる。そんなことはどうでもよかった。父王の肩を抱き起こそうとして、手が滑った。温かい血が、指の間に入る。


 温かかった。


 その温かさが、イリアスの中の何かを壊した。


 父王の唇がわずかに動いた。


 言葉にはならない。


 イリアスは顔を近づけた。


「父上、何を」


 父王の目は、イリアスを見ているようで、もう焦点が合っていなかった。王の目ではなかった。戦場で何度も見た、命が遠ざかる者の目だった。


 違う。


 これは違う。


 父王は王だ。倒れるなら戦場で倒れるべきだった。敵の刃を受けるなら、正面からであるべきだった。こんな白い床の上で、同盟の杯の前で、香の煙に巻かれて倒れるなど、そんな死に方をしていい人ではない。


 父王の手が少しだけ動いた。


 イリアスの袖を掴もうとしたのかもしれない。


 届かなかった。


 その手が床に落ちる。


 イリアスの呼吸が止まった。


 周囲の音が遠ざかる。


 広間の混乱も、剣の音も、叫びも、香炉の転がる音も、全部水の底のように遠い。


 ただ、手についた血だけが近かった。


 温かい。


 父王の血が、まだ温かい。


「イリアス」


 声が聞こえた。


 イリアスの背筋が冷えた。


 セラフィードの声だった。


 いつもの声。穏やかで、まっすぐで、何度も戦場で呼ばれた声。昨夜、低く名前を呼んだ声。朝、襟を整えながら傍にあった声。


 その声が、今は血の向こうから聞こえた。


「イリアス、聞いて」


 セラフィードが近づこうとしていた。


 白い礼装の裾が、血に濡れた魔法陣の縁へ近づく。


 イリアスは、顔を上げた。


「来るな」


 短い声だった。


 自分でも驚くほど低く、冷たかった。


 セラフィードの足が止まる。


「僕じゃない」


 イリアスは父王の血に濡れた手を見た。


 次に、父王の胸元に残る白金の魔法痕を見た。


 聖魔法に似ていた。


 ルミナリアの聖印に似た刻印が、崩れかけた光として残っている。白金の刃。聖王国の術式に近い波長。セラフィードの魔力に似た、けれどほんのわずかに冷たすぎる光。


 違う。


 どこか違う。


 そう思う余地はあった。


 だが、父王の血が熱かった。


 周囲の叫びが耳に刺さった。


「裏切りだ!」


「ルミナリアが王を討った!」


「王を守れ!」


「違う、陰謀だ!」


「剣を抜くな!」


「魔法陣を止めろ!」


 言葉が刃になって飛び交う。


 ノクスヴェルトの兵がルミナリア側へ剣を向ける。ルミナリアの騎士たちも剣を抜きかける。聖職者たちが叫ぶ。貴族たちは逃げ惑い、倒れた香炉から煙が這う。白い床に赤が広がり、黒い染みが魔法陣を侵していく。


 イリアスはセラフィードを見た。


 愛している。


 その事実は、消えなかった。


 消えなかったから、苦しかった。


 憎めたら楽だった。完全に憎めたら、剣を抜けばいい。黒魔法を叩き込めばいい。白い礼装ごと床に沈めればいい。


 けれど、セラフィードは自分の名を呼んでいる。


 違う、と言っている。


 その声を、信じたい自分がまだいた。


 だから、憎しみで塗り潰すしかなかった。


「お前の国だ」


 セラフィードの顔から、血の気が引いた。


「違う」


「証拠がある」


「違う。あの魔法は」


「黙れ」


「イリアス」


「呼ぶな」


 セラフィードの唇が止まった。


 イリアスは、父王の血に濡れた手を握った。


「俺の名前を、お前の声で呼ぶな」


 言った瞬間、胸の奥が裂けたような気がした。


 セラフィードは、何も言えなかった。


 広間の白い光の中で、彼だけが動けずに立っている。伸ばしかけた手が宙に残っていた。その手は、朝にイリアスの襟を整えた手だった。戦場で水を渡した手だった。喉を癒し、髪を整えた手だった。


 今は届かない。


 血の向こうにあった。


 イリアスは父王の身体を床へそっと戻した。


 それだけは丁寧にした。


 王冠は拾わなかった。拾えば何かが決定的になる気がした。父王が本当にもう立たないのだと認めることになる気がした。


 黒い霧が、イリアスの足元から漏れた。


 怒りに反応した。


 悲しみに反応した。


 血に反応した。


 白い床を這い、同盟魔法陣の赤黒い濁りへ混ざっていく。黒い霧は低く広がり、香の煙と絡み合った。床に落ちた血に触れた瞬間、霧の奥で小さな声のようなものが震える。


 まだ、制御はできた。


 だが、心の奥が軋んでいる。


 父王の死。ルミナリアに似た術式。血の温度。兵たちの叫び。長年積み重なった戦争の傷。墓。焼けた村。国境。裏切り。


 全部が、一つの黒い塊になって胸へ沈んでいく。


 セラフィードが手を伸ばした。


 白金の光が、その指先に灯る。


 反射的なものだったのだろう。イリアスの黒魔法が広がりすぎる前に抑えようとした。戦場で何度もそうしてきた。黒魔法の荒い輪郭を、セラフィードの聖魔法が支える。崩れそうな魔法陣を、白金の光が留める。


 いつもの形だった。


 だが、今は違った。


 父王を貫いた刃の白金が、目の裏に焼きついている。


 イリアスは、低く言った。


「触るな」


 セラフィードの光が止まった。


「君を止めたいだけだ」


「今さら、何を」


「君が傷つく」


「誰のせいだ」


 セラフィードは答えられなかった。


 答えがないのではない。届かないと分かってしまった顔だった。


 イリアスは立ち上がった。


 礼装の膝が血で重い。手袋は赤く濡れている。指の間にまだ温かさが残っている。喉がひどく乾いていた。けれど、セラフィードの水はいらない。今、あの手から何かを受け取れば、立っていられなくなる。


 ノクスヴェルトの兵が駆け寄ってくる。


「殿下!」


「陛下が」


「こちらへ!」


 誰かがイリアスを支えようとした。


 イリアスは振り払った。


「触るな」


 自分でも分からなかった。


 誰に言ったのか。


 兵にか。セラフィードにか。世界にか。父王の血に濡れた自分自身にか。


 広間の端で、ルミナリアの高位聖職者が何かを叫んでいる。ノクスヴェルトの貴族が怒号を上げる。剣が抜かれる音が連鎖する。聖職者の一人が同盟魔法陣へ手を伸ばした瞬間、陣の中央が黒く濁り、赤い光を弾いた。


 イリアスの視界の端に、小さなものが映った。


 祭壇下の石飾りの隙間。


 そこに、見慣れない紋章の欠片があった。


 三つの線が絡み、中央に目のような形がある。


 十年以上前、戦場跡の泥の中で見たものに似ていた。雨粒に沈んでいった、どちらの国のものでもない欠片。


 なぜ、ここに。


 そう思った。


 だが、考える余裕はなかった。


 父王の血が手にある。


 セラフィードがまだこちらを見ている。


 イリアスは視線を逸らした。


 見ていられなかった。


「イリアス」


 また声がした。


 痛かった。


 その声が、いちばん痛かった。


 イリアスは振り返らなかった。


 広間の外へ歩き出す。ノクスヴェルトの兵たちが道を開ける。誰も彼を止められなかった。血に濡れた王子が、父王の倒れた儀式場から出ていく。その背中へ、いくつもの視線が突き刺さる。


 セラフィードが追おうとした。


 だが、両国の兵が間に入った。黒い甲冑と白い外套がぶつかり、剣が半ば抜かれる。誰かが叫ぶ。誰かが止める。混乱は広がるばかりだった。


 イリアスは歩き続けた。


 回廊へ出ると、香の匂いが薄れた。


 代わりに、石の冷たい匂いが濃くなる。


 足音が響く。


 礼装の裾から血が落ち、黒い石床に点々と跡を残した。朝、セラフィードが整えた襟は、まだ形を保っていた。そこだけが妙に滑稽だった。整えられた正装。血に濡れた手。父王のいない広間。


 胸の奥で、黒い霧が膨らんでいる。


 どこへ行くべきか、考えるまでもなかった。


 王宮地下。


 ノクスヴェルトの封印庫。


 古代から封じられている黒魔導書グリモワール・アビス


 その名は、王族なら誰もが知っている。触れるな、と教えられる。近づくな、と命じられる。黒魔法の深淵に繋がる書。王家の血にのみ反応し、歴代の王たちが封じ続けてきた禁忌。


 今日まで、ただの危険物だった。


 今は、呼ばれている気がした。


 階段を下りる。


 上の混乱は遠ざかる。兵の叫びも、貴族の悲鳴も、剣の音も、分厚い石に遮られて鈍くなる。地下は冷たかった。壁には古い封印文字が刻まれ、黒い蝋燭が等間隔に灯っている。炎は赤ではなく、青黒い。


 イリアスの手から、血が滴った。


 石段に落ちる。


 一滴。


 また一滴。


 そのたびに、どこか奥で鎖が鳴るような音がした。


 最初は気のせいかと思った。


 だが、奥へ進むほど音は近くなる。


 ぎ、と。


 重い鉄が擦れる音。


 誰も触れていないはずの封印鎖が、わずかに震えている。


 イリアスは足を止めなかった。


 背後で、声が聞こえた気がした。


 イリアス。


 幻聴だ。


 そう思った。


 それでも、その声はあまりに鮮明だった。セラフィードの声。広間で届かなかった声。朝、襟を整えた時の近さをまだ持っている声。


 イリアス。


 聞いて。


 違う。


 僕じゃない。


 階段の途中で、イリアスは一度だけ目を閉じた。


 胸の奥が揺れた。


 信じたい。


 その感情がまだ残っていることが、憎かった。


 父王の血が、指の間で冷え始めている。温かかった血が、少しずつ冷たくなっていく。その変化が、父王の死を何度も突きつけた。


 イリアスは目を開けた。


 地下の最奥に、封印庫の扉があった。


 黒い鉄でできた扉には、銀の鎖が幾重にも巻かれている。封印文字が石壁から扉へ伸び、魔法陣の形を作っていた。扉の中央には、古い王印が刻まれている。ノクスヴェルト王家の印。父王の印。自分の血にも流れる印。


 その前に立った瞬間、鎖が鳴った。


 ぎい、と。


 誰も触れていない。


 イリアスは右手を見た。


 父王の血に濡れた手。


 その血へ、扉の奥の黒い魔力が反応している。冷たい。深い。地面の底よりもさらに下から、何かが目を覚ます気配がする。


 背後で、また声がした。


 イリアス。


 今度は、幻聴だと分かっていても近かった。


 イリアスは耳を塞がなかった。


 塞いだら、まだ聞きたいのだと認めることになる。


 彼はただ、血に濡れた手を下ろしたまま、低く言った。


「呼ぶな」


 封印の鎖が、もう一度鳴った。


 黒魔導書グリモワール・アビスが、扉の奥で静かに息をした。



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