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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
序章【過去の記憶】

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第2話 双星の伴侶



 黒い霧が、戦場を低く這った。


 夜明け前から降っていた雨は止み、空はまだ鉛色の雲を抱えていた。湿った風が草の焦げた匂いを運び、踏み荒らされた丘陵の上には、割れた魔法石と折れた槍が点々と散っている。遠くで、負傷した馬が短く鳴いた。甲冑の継ぎ目に入った泥が、兵たちの動きに合わせて鈍い音を立てる。


 イリアス・ノクスヴェルトは、その泥の中を走っていた。


 十八を過ぎた身体は、少年と呼ぶにはもう鋭すぎた。黒髪は雨と血煙に濡れ、赤黒い瞳は戦場の揺らぎを正確に捉えている。外套の裾は裂け、左腕には細い傷がいくつも走っていたが、彼の足取りは乱れない。


 前方から、魔物が来た。


 人の形を崩したような影だった。戦場に残った怨嗟と、割れた魔具から漏れ出した魔力が絡み合い、獣にも死者にもなりきれないものになっている。肉のない顎が開き、泥の中から拾った剣を振り回す。背中には折れた矢がいくつも刺さり、胸には、どこの国のものか分からない紋章布が貼りついていた。


 兵たちが怯んだ。


「下がれ」


 イリアスは短く言った。


 叫びではなかった。乾いた命令だった。彼の声は戦場の音に紛れず、泥と雨の匂いの中をまっすぐ通った。


 右手を振る。


 黒い霧が地面から立ち上がった。霧はただ広がるのではなく、細い文字列のように絡まり、魔法式を描きながら魔物の足元へ走る。泥の下から、骨の鎖が現れた。白い骨ではない。影が骨の形を取ったような、黒く濁った鎖だった。


 鎖は魔物の足首に絡み、膝を折らせる。


 魔物が声にならない声を上げた。泥が跳ねる。剣が空を裂いた。イリアスの頬の横を、錆びた刃が過ぎる。髪の一房が切れ、雨を含んだ黒が宙に散った。


 イリアスは瞬きもしなかった。


「セラ」


 名を呼ぶだけで、足りた。


 白金の光が、背後から走った。


 セラフィード・ルミナリアの結界は、雨上がりの空気を裂くように展開した。透明な膜が兵たちの前に立ち、飛び散った刃の欠片を受け止める。白金の魔法陣が彼の足元に咲き、そこから伸びる光の糸が、負傷兵たちの傷へ細く降りた。


 金髪は戦場の泥に濡れても、光を失わなかった。碧い目は穏やかで、整った横顔は、ここが王宮の回廊ではなく血と土の上だということを忘れさせるほど静かだった。けれど彼の白い手袋は血で汚れ、剣帯の下には乾ききらない傷が隠れている。優しいだけでこの場所に立てる者ではなかった。


 セラフィードは、イリアスの黒い鎖へ自分の聖魔法を重ねた。


 白金の光が、骨の鎖を焼かなかった。


 本来なら相反するはずの力だった。黒魔法は罪、死者の声、影、濁った記憶へ沈む。聖魔法は治癒、浄化、結界、魂の保護へ向かう。互いを拒み、弾き、片方が片方を消すと言われている。


 だが、二人の魔法は違った。


 イリアスの黒い鎖が魔物の足を縛る。セラフィードの白金の光が、その輪郭を支える。黒魔法が地面の奥へ沈むほど、聖魔法は上から形を与えた。聖魔法が届かない影には黒魔法が入り込み、黒魔法の荒い縁を白金の光が崩れないように留める。


 二つの力は、戦場の中心で一つの魔法式になった。


 魔物の胸元に、影の棺のような黒い紋様が開く。そこへ白金の結界がふたをするように降りた。魔物の輪郭が歪む。戦場に残った怨嗟が、空気の中へ散ろうと暴れた。だが黒い霧がそれを吸い込み、白金の光が静かに封じた。


 土が沈黙した。


 魔物は崩れた。


 泥の上に、錆びた剣だけが落ちる。


 兵たちは一瞬、言葉を失った。


 それから、誰かが息を吐くように言った。


「双星だ……」


 その声は、雨上がりの空気を震わせた。


「双星の英雄だ」


 別の兵が続ける。味方の兵だけではなかった。反対側で膝をついていた敵兵まで、剣を下ろしたまま二人を見ていた。恐怖と畏れと、救われたことへの呆然が入り混じった目だった。


 双星の英雄。


 その呼び名は、最近になって戦場で広がり始めたものだった。どちらの国にも属しきらない奇妙な噂として。黒魔法の王子と、聖魔法の王子。敵国同士でありながら、魔物の氾濫や制御不能の魔具災害が起きるたび、どこからともなく並び立つ二つの星。


 イリアスは、泥に沈んだ錆びた剣を靴先で避けながら顔をしかめた。


「双星だってさ。大げさすぎて肩が凝るな」


 セラフィードは魔法陣を閉じ、負傷兵の腕に最後の治癒光を流してから振り向いた。


「君と並ぶなら、悪くない」


 イリアスは一瞬だけ眉を上げた。


「そういうの、戦場でさらっと言うな。味方が死ぬほど気まずい」


「死なせないためにいるんだけど」


「言葉の問題だ、王子様」


「君も王子だ」


「俺は品行方正な王子様じゃないので」


 イリアスは軽く返しながら、周囲を見た。


 兵たちが動き出す。負傷者を運び、壊れた魔具を回収し、まだ動ける者を後方へ下げる。戦場は一度止まっただけで、終わったわけではない。霧の向こうに敵軍の旗が見えた。風に濡れ、重く垂れている。彼らの母国は、今も敵同士だった。


 それでも、イリアスとセラフィードは並んで立っていた。


 十年以上前、名も知らない亡骸を埋めた戦場跡から始まった関係は、いつの間にかこんな場所まで来ていた。


 最初は、偶然だった。


 雨上がりの戦場で、白い小石と黒い木片を置いた。それだけだったはずなのに、二人は何度も会った。戦場跡。国境近くの森。廃棄された見張り小屋。燃え残った砦。互いの名を知り、身分を知り、敵国同士の王族だと分かっても、会うのをやめなかった。


 剣を合わせた。魔法を比べた。互いの国の動きを少しずつ教え合った。罠にかかった民を助けた。暴走した魔具を壊した。敵兵に囲まれた時には背中を預け、魔物に追われた時には互いの襟を掴んで逃げた。


 背中を預ける、という言葉の重さを、イリアスはセラフィードで知った。


 味方にすら見せない傷を、彼には見られた。声の乱れを隠しても、彼には気づかれた。魔力が底をつきかけた時、誰より先に水を渡してくるのも彼だった。


 腹立たしいほど、よく見ている。


 そして、イリアスも同じくらい見ていた。


 セラフィードが穏やかな顔のまま怒っている時。治癒魔法を使いすぎて指先が冷えた時。誰かに理想の王子と呼ばれた直後、ほんの少しだけ目の奥が疲れる時。戦場でイリアスが傷つくと、笑顔のまま殺意だけが深くなる時。


 知っている。


 互いに、知りすぎている。


 イリアスは黒魔法を解き、胸の奥に残る鈍い熱を押し込めた。黒い霧は使いすぎると喉にくる。声帯を黒い糸で撫でられるような、ざらついた感覚が残る。まだ問題はない。そう判断して、彼は何食わぬ顔で歩き出した。


 数歩で、後ろから声が来た。


「イリアス」


「何」


「声が掠れている」


 早い。


 イリアスは舌打ちしたいのをこらえ、振り返らずに言った。


「気のせい」


「違う」


「戦場うるさかったから、お前の耳が変になったんだろ」


「君の声なら分かる」


 イリアスは足を止めた。


 雨に濡れた空気の中で、セラフィードの声は静かだった。大声ではない。誰かに聞かせるためでもない。ただ、イリアスの背中へまっすぐ届く温度があった。


 イリアスは肩越しに振り向く。


「……そういうのも、戦場で言うな」


「どこならいい?」


「聞くな」


 セラフィードは近づいてきた。腰の水筒を外し、栓を抜く。水は冷たかった。イリアスは受け取る気などない顔をしていたが、セラフィードは当然のように差し出す。


 イリアスはしばらく見つめてから、結局受け取った。


 水が喉を通る。


 冷たい。ざらついた喉にしみる。それでも、黒魔法の残滓で乾いていた内側が少しずつ戻ってくる。イリアスは一口飲んで、水筒を返そうとした。


「もっと」


「母親かよ」


「母親ではないけど、君がすぐ無茶をするのは知っている」


「介護かよ」


「必要ならする」


「必要じゃない」


「声が掠れている」


「しつこい」


 言いながらも、イリアスはもう一口飲んだ。


 セラフィードの指先が、イリアスの喉元に近づく。触れる寸前で止まった。昔からそうだった。セラフィードは、治癒が必要な時ですら、いきなり触れない。イリアスが嫌がるかどうか、ほんの一瞬だけ待つ。


 その一瞬が、ずるいと思う。


 イリアスは視線を逸らした。


「さっさとしろ。兵が見てる」


「見られたら困る?」


「気まずいだろ。お前、王子様のくせに距離感が戦場仕様なんだよ」


「君に合わせている」


「責任転嫁が上手い」


 セラフィードの指先が喉に触れた。


 白金の光が、皮膚の下へ細く流れ込む。温かく、薄い。傷を塞ぐほど強くはない。ただ、黒魔法でざらついた喉を撫で、呼吸の引っかかりを鎮める。イリアスは目を伏せた。戦場の匂い、泥、鉄錆、焦げた草。その中で、セラフィードの魔法だけが雨に洗われた石のように澄んでいた。


「君はすぐ無茶をする」


 セラフィードが言った。


「じゃあ一生無理だな」


「なら、一生見ている」


 イリアスは咳き込みかけた。


「重い。戦場明けに聞く台詞じゃない」


「戦場明けだから言っている」


「余計に重い」


「君が軽くしようとするから」


 イリアスは水筒を押し返した。セラフィードは受け取りながら、口元だけで少し笑う。


 その笑顔が、昔よりずっと近い。


 イリアスはそれに気づいていた。


 気づかないふりは、もう少しだけ続けていたかった。戦場で背中を預けること。傷を隠せないこと。声の掠れを聞き逃されないこと。水を受け取ること。喉に触れる指を拒まないこと。


 それらの意味を並べると、逃げ道がなくなる。


 逃げ道がなくなるのは困る。


 でも、セラフィードの隣なら困らないような気もしている。


 そういうところが、一番困る。


 遠くで角笛が鳴った。


 その音で、二人は同時に顔を上げた。


 戦場の向こう、森の縁が揺れている。敵の残党かと思ったが、動きが違った。獣に近い。雨で緩んだ地面から、黒ずんだ影がいくつも這い出してくる。先ほど倒した魔物と同じ種類ではない。もっと小さく、数が多い。魔具の破片から漏れた魔力が、戦死者の影を引きずって群れになったものだ。


 兵たちは疲弊していた。


 もう一度隊列を組むには時間が足りない。


 イリアスは息を吐いた。


「さっき終わったばかりだろ。労働環境が悪い」


「君が言うと妙に説得力があるね」


「王族にも休憩権を寄越せ」


「終わったら水をもう一度」


「それ目当てで頑張るほど安くない」


 言いながら、イリアスは前へ出た。


 セラフィードが隣に並ぶ。


 それだけでよかった。


 作戦を細かく言葉にする必要はなかった。イリアスが地面を取る。セラフィードが空間を支える。黒魔法が影を絡め取り、聖魔法が逃げ道を塞ぐ。死者の残響はイリアスが沈め、残った穢れはセラフィードが浄化する。


 十年以上かけて、そういう形になった。


 イリアスの足元に黒い魔法陣が開く。濁った円の内側に、骨のような線が走った。影の棺がいくつも口を開ける。そこへ白金の光が降り、棺の縁を結界として固定する。


 黒と白が、一つの陣で噛み合った。


 兵たちの間に、またざわめきが起きる。


「双星……」


 イリアスは聞こえないふりをした。


 セラフィードは聞こえている顔をしていた。


「本当に肩が凝る」


「君と並ぶ呼び名なら、僕は受け取る」


「お前、真面目すぎて疲れない?」


「君が隣にいる時は、あまり」


「返しが甘い。戦場だぞ」


「知っている」


 白金の光が強くなった。


 イリアスの黒い霧が、それに応えるように濃くなる。


 魔物の群れが、二人へ殺到した。


 戦いは長くは続かなかった。


 それでも、楽ではなかった。影の魔物は数が多く、倒しても泥の中から滲むようにまた形を取る。イリアスは地面の奥へ黒魔法を流し込み、残響の根を断った。セラフィードは結界を何重にも張り、負傷兵を後方へ押し出し、同時にイリアスの背後を守った。


 雨が再び降り始めた。


 細い雨だった。だが戦場では、それだけで体温を奪う。泥はさらに重くなり、靴底を引き剥がそうとする。イリアスは最後の魔法式を組み、影の棺を一気に閉じた。


 黒い霧が膨らむ。


 胸の奥が軋んだ。


 少し使いすぎた。


 分かっていた。けれど、引くわけにはいかなかった。背後には負傷兵がいる。隣にはセラフィードがいる。セラフィードが結界を支えている間に、根を断つのは自分の役目だ。


 イリアスは息を詰め、右手を握った。


 黒い棺が閉じる。


 魔物の群れが消えた。


 静寂が落ちた。


 その瞬間、足元の泥が崩れた。イリアスの膝が落ちかける。だが倒れる前に、横から腕を掴まれた。


 セラフィードだった。


 白金の光をまだ指先に残したまま、彼はイリアスの腕を支えていた。力は強い。けれど痛くはない。傷を避けるように、正確な位置を掴んでいる。


「大丈夫?」


「誰に言ってる」


「君に」


「じゃあ大丈夫」


「声がひどい」


「戦場だからな」


「魔法の使いすぎだ」


「仕事熱心と言え」


「無茶だよ」


「褒め言葉として受け取る」


 セラフィードは、今度は笑わなかった。


 その沈黙に、イリアスは少しだけ視線を横へ向けた。濡れた金髪の下で、碧い目が静かに彼を見ていた。責めているわけではない。怒っているわけでもない。けれど、その静けさの奥に、ひどく深いものが沈んでいる。


 イリアスは、冗談を重ねるのをやめた。


「……悪かった」


 小さく言うと、セラフィードの指がわずかに緩んだ。


「謝れるんだね」


「うるさいな。今のなし」


「聞いた」


「忘れろ」


「無理」


「お前、そういうところだけ融通きかないよな」


「君のことは、忘れない」


 イリアスは黙った。


 雨が二人の間に落ちている。戦場の声は遠ざかり、負傷兵を運ぶ足音が後方へ流れていた。残党の追撃を避けるため、部隊は移動を始めている。だが、イリアスとセラフィードは一時的に隊列から離れすぎていた。


 しかも、雨が強くなってきた。


 森の縁から、夜が近づいている。


 セラフィードが空を見た。


「このまま戻るには危ない」


「じゃあ、どこかで雨宿りか」


「北側に古い礼拝堂跡がある。監視塔よりは壁が残っているはずだ」


「敵国の王子様、うちの国境周りに詳しすぎないか?」


「君に会うために覚えた」


「……本当にさらっと言うな」


「隠す必要がある?」


「ある。俺の心臓に悪い」


「それは治す」


「そういう問題じゃない」


 イリアスは歩き出した。


 足元がふらつくのを、気づかれないようにする。しかし、セラフィードは当然のように隣へ来た。支えるでもなく、離れるでもなく、ちょうど倒れかけたら手が届く距離を保つ。


 腹立たしい。


 優秀すぎる。


 そして、安心する。


 イリアスは雨の中で息を吐いた。喉が少し痛んだ。声を出せばまた気づかれる。だから黙って歩いた。


 礼拝堂跡は、森の奥にあった。


 古い石造りの建物だった。屋根は半分落ち、窓に嵌まっていた色硝子は砕けている。聖像は首から上を失い、祭壇には苔と雨水が溜まっていた。かつて祈りの場だったはずのそこは、戦争の流れから取り残され、静かに朽ちている。


 それでも、壁は残っていた。


 雨を避けるには十分だった。


 イリアスは中へ入り、濡れた外套を脱いだ。水を吸った布が、石の床に重い音を立てて落ちる。肩から冷気が離れたはずなのに、肌寒さは消えなかった。


 セラフィードは、入り口近くに小さな結界を張った。外から見えにくく、魔物が近づけば分かる程度のもの。白金の光が石壁に沿って薄く伸び、すぐに雨の色へ溶ける。


 火は小さかった。


 乾いた木片などほとんどない。セラフィードが聖魔法で湿気を少しだけ飛ばし、イリアスが黒魔法で石の隙間から古い木片を引き寄せた。火は弱く、頼りない。それでも、濡れた指先を温めるには足りた。


 二人は祭壇の崩れた影に腰を下ろした。


 外では雨が強くなっていた。砕けた窓から、細い雨が斜めに吹き込む。石の床に落ちた水が、火の光を小さく揺らした。濡れた外套、ほどいた包帯、泥のついた剣帯。戦場の匂いは、ここまでついてきていた。


 セラフィードは、黙って手当ての道具を出した。


 イリアスは嫌な顔をした。


「また介護か」


「手当て」


「似たようなものだろ」


「君が自分でやると雑だから」


「信頼がない」


「信頼しているから、雑なところも知っている」


「言い方がずるい」


 セラフィードは返事の代わりに、イリアスの左腕を取った。


 傷は浅い。だが泥が入っている。セラフィードは水で汚れを流し、細い白金の光を傷口へ滑らせた。痛みが薄くなる。血が止まる。皮膚が引き寄せられる感覚は、何度経験しても慣れない。


 イリアスは火を見ていた。


 火の向こうに、昔の雨が重なった。


 十年以上前の戦場跡。焦げた草。黒い泥。名も知らない小さな亡骸。白い小石と黒い木片。泣きそうな青い目。


 ふと、声が出た。


「泣いたら、土が重くなる」


 セラフィードの手が止まった。


 雨の音が強くなる。礼拝堂の割れた窓から、冷たい風が入った。火が小さく揺れた。


 セラフィードは、イリアスの腕に包帯を巻きながら、静かに答えた。


「なら、僕が半分持つ」


 あまりに自然に返ってきたので、イリアスは少し笑った。


「まだ覚えてたのか」


「忘れると思った?」


「普通は忘れるだろ。子供の頃の戦場の会話なんて」


「君は忘れた?」


「……忘れてたら言わない」


「うん」


 セラフィードは包帯を結んだ。


 その指が、少しだけイリアスの手首に残った。離すには短く、触れ続けるには長い沈黙だった。イリアスは振り払わなかった。


 火が揺れる。


 雨が石を打つ。


 遠くの戦場はもう見えない。ここには二人しかいない。壊れた礼拝堂と、濡れた外套と、消えかけた火と、互いの呼吸だけがある。


 イリアスは喉の奥に残る痛みをごまかすように、低く言った。


「お前、ずっと半分持つ気か」


「君が持たせてくれるなら」


「重いって言ってるだろ」


「それも半分持つ」


「そういう返し、ずるい」


「君の軽口も、だいぶずるい」


 イリアスは言葉に詰まった。


 茶化す言葉ならいくらでもあるはずだった。王子様、真面目、重い、戦場明けに聞く台詞じゃない。いつもなら、それだけで逃げられた。


 でも、セラフィードの手がまだ近かった。


 白金の光が消えた指先。泥と血を拭った手。自分の傷を避けて触れる手。昔、冷えた指先を温めた手。


 逃げる気になれば、逃げられた。


 今までだって、ずっとそうだった。イリアスは茶化して距離を取る。セラフィードは深追いしない。背中を預け、傷を預け、名前を預けても、最後の一歩だけは曖昧にしてきた。


 それでよかった。


 よかったはずだった。


「イリアス」


 セラフィードが名を呼んだ。


 いつもの声だった。穏やかで、静かで、優しい。なのに、戦場で聞く時よりずっと近い。


 イリアスは顔を上げた。


 セラフィードの手が、傷を避けて髪に触れた。濡れて額に貼りついていた黒髪を、そっと払う。顔を上げさせるようで、強制ではない。逃げようと思えば逃げられる。だが、イリアスは動かなかった。


「君の魔法は、綺麗だ」


 イリアスは瞬きをした。


「……聖魔法の王子様が黒魔法を褒めるな。教会に怒られるぞ」


「怒られても変わらない」


「問題発言だな」


「君が使うなら、綺麗だ」


 火が小さく爆ぜた。


 イリアスは笑おうとした。いつものように、肩をすくめて、軽く流そうとした。なのに、喉がうまく動かなかった。黒魔法を使いすぎたせいだ。そういうことにした。


「お前、目ぇ大丈夫か」


「大丈夫」


「黒い霧だぞ。骨の鎖だぞ。影の棺まで出してるんだぞ」


「知っている」


「知ってて綺麗って言うの、だいぶ終わってる」


「それでも、綺麗だと思った」


 イリアスは黙った。


 雨音が、世界の外側を塞いでいく。


 セラフィードの指が、髪から離れない。強くはない。ただ、そこにある。逃げるなら今だと、イリアスの中のどこかが言う。逃げなくてもいいと、別の場所が答える。


 セラフィードが、低く名を呼んだ。


「イリアス」


 イリアスは返事をしなかった。


 代わりに、火の向こうへ視線を落とした。濡れた外套が石の床に落ちている。ほどけた包帯がその上に重なっている。白金の光の名残が、イリアスの手首に薄く残っていた。黒い霧が、火の影の中でごく細く揺れる。


 二つの魔力が、触れるほど近くにあった。


 反発しない。


 最初の墓穴の上で並んだ時と同じように。


 イリアスは、かすれた声で言った。


「……セラ」


 セラフィードの息が、わずかに止まった。


 その沈黙だけで、返事になった。


 イリアスは顔を上げた。茶化す言葉は、もう残っていなかった。いや、残っていたけれど、使う気になれなかった。


 セラフィードの手が、もう一度髪に触れる。


 外套が石の床へずり落ちる音がした。


 火が小さく揺れた。


 雨音が強くなる。


 イリアスが何かを言いかけて、言葉を失う。セラフィードが低く名を呼ぶ。黒い霧が、白金の光に触れる。互いの魔力が一瞬だけ重なり、礼拝堂の崩れた壁に淡い影を落とす。


 夜は、その先を静かに閉じた。


 朝は、冷たい光から始まった。


 砕けた窓の向こうで、雨はもう止んでいた。空は薄い青灰色に変わり、雲の端だけが朝日に染まりかけている。礼拝堂跡の石壁には、濡れた蔦が貼りつき、床には夜の雨水が細く流れていた。


 火はほとんど消えていた。


 灰の中に、小さな赤だけが残っている。焦げた木片の匂いと、湿った石の匂いが混じっていた。床に落ちた外套はまだ乾いていない。ほどけた包帯が、その近くに白く横たわっている。剣帯は壁際に置かれ、二人分の手袋が火のそばに並んでいた。


 イリアスは目を開けた。


 最初に感じたのは、喉の違和感だった。


 痛いというほどではない。ただ、昨夜よりずっと声が低く沈んでいる気がした。黒魔法を使いすぎた時のざらつきとは少し違う。息を吸うと、冷たい朝の空気が喉の奥を撫で、思わず眉を寄せた。


 隣で、衣擦れの音がした。


 セラフィードが起きていた。


 いつから起きていたのかは分からない。彼は壁際に置いていた水筒を取り、静かに栓を開ける。朝の光の中で、金髪はまだ少し湿っていた。顔は穏やかだった。だが、その穏やかさが昨夜より近い。


 近すぎる。


 イリアスは視線を逸らした。


「……声、変じゃないか」


 自分で言ってから、しまったと思った。


 思った通り、セラフィードはすぐにこちらを見た。


「少し掠れている」


「確認が早い。お前、俺の声好きすぎ」


「好きだよ」


「即答すんな。照れるだろ」


「照れている君も好きだ」


「朝からやめろ。剣より刺さる」


 イリアスは片手で顔を覆った。


 耳が熱い。


 戦場で魔物の群れに囲まれても平然としていられるのに、セラフィードのこういう言葉には弱い。理不尽だ。戦場より一人の王子の方が厄介だなんて、国防の観点から見ても問題がある。


 セラフィードは、水筒を差し出した。


 イリアスはそれを見た。


 昨日も見た。何度も見た。戦場明けに、喉が掠れた時、魔力を使いすぎた時、セラフィードはいつも水を渡してくる。


 けれど今朝のそれは、少し違って見えた。


 イリアスは受け取った。


 水は冷たかった。喉を通るたび、掠れた内側に染みる。ゆっくり飲むと、セラフィードの視線が喉元に落ちているのが分かった。


「見るな」


「見ていた」


「堂々と言うな」


「君の声が戻るか気になる」


「声だけか?」


 言ってから、今度こそ黙ればよかったと思った。


 セラフィードは静かに笑った。


「声だけじゃない」


 イリアスは水筒を押し返した。


「本当に朝からやめろ」


「君が聞いた」


「忘れろ」


「無理」


「またそれか」


 セラフィードの指先が、イリアスの喉元へ近づいた。


 昨夜と同じように、触れる前に止まる。イリアスは少しだけ目を伏せた。拒めば止まる。今のセラフィードなら、絶対に止まる。その確信があった。


 だからこそ、拒む理由が見つからなかった。


「……早くしろ」


 かすれた声で言うと、セラフィードの表情がほんの少し柔らかくなった。


 白金の光が、喉へ流れ込む。


 昨日よりも丁寧だった。戦場で急いで施す治癒ではない。朝の静けさの中で、声を戻すためだけに流される細い光。痛みを消すというより、声の通り道を一つひとつ確かめるような魔法だった。


 イリアスは息を吐いた。


 喉が楽になる。


 そのこと自体はありがたい。ありがたいが、セラフィードの指があまりにも自然に触れているので、落ち着かない。昨日までなら、傷の手当てと言い訳ができた。今朝は違う。違うことを、二人とも知っている。


 セラフィードは治癒を終えても、すぐには手を離さなかった。


「セラ」


「うん」


「そこまで丁寧にやらなくても、声は出る」


「綺麗に戻したい」


「俺の声に美観を求めるな」


「好きだから」


「だから即答するなって」


 イリアスは横を向いた。


 セラフィードは、今度は髪へ手を伸ばした。乱れた黒髪を指で梳く。乾ききらない髪が、指に引っかかる。イリアスは文句を言おうとしたが、喉が戻ったばかりでうまく言葉が出なかった。


 セラフィードの手は、傷を避ける時と同じように慎重だった。


 髪を整えるだけなのに、妙に大事なものに触れるみたいだった。


「自分でできる」


「知っている」


「じゃあ何でやる」


「したいから」


「王子様、欲望が素直すぎる」


「君には、なるべく」


「なるべくでこれかよ」


 イリアスは呆れたふりをした。


 けれど、手を払わなかった。


 朝の光が礼拝堂の床へ差し込む。濡れた外套の端が淡く光り、ほどけた包帯が白く浮かび上がる。昨夜の雨で湿った石の匂いが、まだ空気に残っていた。火の消えかけた灰が、わずかに赤を抱いている。


 イリアスはその光景を、やけにはっきり覚えてしまいそうだと思った。


 戦場の朝はいくつも見てきた。


 血の匂いの朝。焦げた草の朝。負傷兵のうめき声で始まる朝。勝ったのに誰も笑わない朝。負けて、生き残ったことに罪悪感を覚える朝。


 けれど、この朝は違った。


 静かだった。


 重かった。


 それでも、胸の奥がほんの少し温かかった。


 イリアスは、自分の膝に落ちていた包帯を拾い上げ、くしゃりと握った。


「なあ」


「うん」


「俺たち、戻ったらどういう顔するんだ」


「いつも通り」


「無理だろ」


「君は茶化せばいい」


「お前は?」


「いつも通り、君を見る」


「それが一番困るんだよ」


 セラフィードは笑った。


 その笑みは穏やかで、どこか満ちていた。イリアスは正面から見ていられず、火の残りを見た。灰の中の小さな赤は、今にも消えそうだった。


 けれど消えていなかった。


 外で、鳥が鳴いた。


 戦場跡にも朝は来る。


 そのことが、ひどく不思議だった。


 礼拝堂跡を出る頃には、空は少しずつ明るくなっていた。


 雨に濡れた森は静かで、葉の先から水滴が落ちている。遠くの丘陵には、まだ昨日の戦場の跡が見えた。煙が細く上がり、兵たちが散らばって動いている。負傷者を運ぶ列、壊れた魔具を囲む魔法士たち、折れた旗を立て直す者たち。


 イリアスとセラフィードは、並んで歩いた。


 昨日までと同じ距離のはずだった。


 けれど違った。


 肩が触れそうな距離。手を伸ばせばすぐに届く距離。今まで何度もそうだったのに、今朝はその意味が変わっていた。


 イリアスは、わざと雑に言った。


「昨日の魔法陣、悪くなかったな」


「君の黒魔法の輪郭が、いつもより安定していた」


「褒めてる?」


「褒めている」


「じゃあ素直に言え」


「君の魔法は綺麗だ」


「それはもう聞いた。別の褒め方にしろ」


「君と組むと、僕の聖魔法もよく届く」


 イリアスは少しだけ黙った。


 その言い方は、妙に胸に来た。


「……そうかよ」


「うん」


「俺も、お前と組むと楽だ」


 セラフィードが足を止めかけた。


 イリアスはすぐに顔を背ける。


「今のは戦術的な意味だ」


「分かっている」


「絶対分かってない顔だろ」


「分かっているよ」


「笑うな」


「嬉しい」


「だから笑うな」


 言い合いながら、二人は丘を上がった。


 朝焼けが、雲の隙間から戦場跡へ落ち始めていた。濡れた草が光る。割れた魔法石が淡く輝き、泥の上に細い光を返している。遠くでは、まだ敵国同士の旗が別々の場所で揺れていた。黒を基調としたノクスヴェルトの旗。白金を抱くルミナリアの旗。二つは同じ風を受けているのに、別の陣営に立っている。


 イリアスはそれを見た。


「本当に同盟なんか結べると思うか?」


 セラフィードは隣で、同じ旗を見ていた。


「結ばせる」


「お前、そういう時だけ王子様っぽいな」


「君と並ぶためなら、王子にも英雄にもなる」


 イリアスは返事をしなかった。


 言葉にすると、壊れそうだった。


 だから、笑った。


 小さく、息だけで。


 セラフィードはその笑みを見た。何か言いたそうにしたが、言わなかった。ただ、イリアスの隣に立ち続けた。


 丘の下で、兵たちがざわめいた。


 馬の蹄の音が近づいてくる。数騎。急いでいるが、敵襲の荒さではない。旗を掲げた使者だった。ノクスヴェルトの色と、ルミナリアの色。その両方が、同じ一団の中で揺れていた。


 イリアスは目を細めた。


「……珍しい組み合わせだな」


 セラフィードの表情がわずかに変わる。


 希望を見つけた顔だった。けれど、それを強く出しすぎないように抑えている。王子として。戦場に立つ者として。イリアスの隣にいる者として。


 使者は丘の下で馬を止めた。


 まだ声は届かない。


 けれど、掲げられた封書の蝋印は見えた。二つの王家の印が、並んでいる。正式なものだ。偶然ではない。噂でもない。


 同盟儀式の知らせ。


 イリアスの胸の奥で、何かが静かに鳴った。


 信じるな、と自分の声が言う。


 戦場で何度も見てきた。約束は破れる。旗は燃える。祈りは届かない。昨日まで殺し合っていた国が、簡単に手を取れるわけがない。


 それでも。


 隣にセラフィードがいた。


 セラフィードは、朝焼けの中でまっすぐ使者を見ている。彼の足元に、白金の光がごく薄く浮かんだ。イリアスの足元では、黒い霧が静かに揺れた。


 二つの魔力は、同じ場所で触れた。


 黒い霧が魔法陣の輪郭を描き、白金の光がその縁を支える。戦場の泥の上に、ひとつの円が淡く浮かぶ。強い魔法ではない。ただ、二人の魔力が近づきすぎて、自然に形を取っただけだった。


 反発はしなかった。


 黒と白は、朝の光の中で静かに重なっていた。


 遠くの旗は、まだ敵国同士の色で揺れている。


 それでも、丘の下から来る使者は、二つの蝋印を掲げていた。


 イリアスは、笑みを消さないまま言った。


「なあ、セラ」


「うん」


「これで失敗したら、お前のせいにするからな」


「いいよ」


「いいのかよ」


「半分持つって言っただろう」


 イリアスは言葉を失った。


 十年以上前、雨上がりの戦場跡で聞いた声が、朝焼けの丘に重なる。


 泣いたら、土が重くなる。


 なら、僕が半分持つ。


 あの時と同じ声。けれど、もう子供の声ではない。戦場を越え、傷を負い、夜を越えた男の声だった。


 イリアスは、ゆっくりと息を吐いた。


「……本当に重いな、お前」


「君ほどじゃない」


「俺は軽いだろ」


「どこが」


「性格とか」


「それはない」


「即答するな」


 セラフィードが笑った。


 イリアスも少しだけ笑った。


 使者の馬が、丘を上がってくる。


 朝焼けの光が、濡れた戦場跡を染めていく。黒い霧と白金の光は、二人の足元でひとつの魔法陣を描いたまま、静かに揺れていた。


 その上を、風が通り過ぎた。




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